(4) ラドヴァン王子
セドリアン暦二三六年三月六日。ヴラーゲンの戦いが行われる二日前である。
一人の少年が木剣を手にして、少女を相手に剣の稽古を行っていた。
二人の姿を脇から別の少女が観戦していた。
稽古場には窓からやわらかな陽光が入り、三人を照らしている。
二人は数十手打ち合い、稽古をひとまず終え、観戦していた少女の下へ向かった。
「次は私が相手ですね、殿下!」
観戦していた少女がたんぽ槍をかかえて、少年に元気よく告げた。
ボブカットに切りそろえた金色の髪、くりっとした碧眼は美少女といっても通じるだろう。
しかし、彼女は美しさ、かわいさよりも快活さが印象的だった。
「それを決めるのはお前じゃない、殿下だ。それに殿下も休憩が必要でしょう」
先ほどまで少年の相手をしていた少女が口をはさんだ。
彼女は金髪を短く切りそろえ、切れ長の碧眼が印象的な美しい顔立ちをしていた。
だが、彼女を見る者には美しさよりも理知的な印象を与える。
「いや、ジャネッタ。俺はまだいける。カリーヌ、やろう」
「そうこなくっちゃっ!」
「いい加減、殿下への言葉遣いを改めろ、カリーヌ」
仏頂面でジャネッタがカリーヌに注意した。
ジャネッタとカリーヌは少年付きの武官だ。
彼女達は少年と共にこの地へ赴任した。
「カリーヌは今のままでいい」
少年が軽く笑って、ジャネッタをとどめた。
「そうそう! じゃあ!」
「ああ」
二人は連れ立って、少年が木剣、カリーヌがたんぽ槍で稽古をはじめた。
ジャネッタが軽く首をふり、自分の木剣を片付ける。
少年の名はラドヴァン=ルミール=ブレイハ=チェルノフという。
十七歳。父はセドリアン国王オタカル二世、母は騎士爵を持つブレイハ家出身のマリカ=ブレイハ。
彼の母であるマリカは側室としてオタカル二世に寵愛され、ラドヴァンが誕生した。
しかし、マリカはラドヴァンが三歳のときに急逝した。
国王が巡幸で王都を留守にしていた時であった。
それを知った国王の嘆き悲しみは尋常でなく、予定を変更して巡幸先から王都へできる限り急いだ。
帰還した国王はマリカの遺体を抱き、涙を流すが、その様子を見ていた王妃の冷顔は周りの人々にも明らかであった。
オタカル二世はクリスチーナ王妃と政略結婚で結ばれたが、仲睦まじい夫婦であった。
その証拠にクリスチーナ王妃は三人の息子を産んでいる。
だが、今では仲睦まじいとは言えなかった。
過去、マリカ以外にも側室が何人かいて、娘が二人産まれていたが、いずれも幼少で死んだ。
妊娠した側室達も産褥異常で亡くなっている。
オタカル二世にとって、ただの偶然ではすまされない出来事であった。
国王はマリカが妊娠した際、近侍、医者など念入りに吟味することになる。
マリカがラドヴァンを無事に産んだ際、国王は狂喜乱舞する。
しかし、その日からしばらく、王妃の視線は厳しい、冷たいなどという話ではなかった。
近侍の者に一日何回も当り散らしていた。
その様子を国王が知ることとなり、彼はマリカとラドヴァンを守るため、頭を悩ませることになる。
国王の心配りが王妃の魔手をしのいでいたのがラドヴァン誕生後の三年間であった。
しかし、ついに王妃の執念が上回った。
もしかしたら、マリカはただの病死かもしれない。
一見、毒殺などの証拠はなかったのだから。
だが少なくとも、オタカル二世はそう思わなかった。
いや、周辺のほとんどの人も。
国王は、マリカが残した遺児ラドヴァンを守るべく、これまで以上に知恵を絞ることになる。
守役、近侍、食事など、ありとあらゆることについて。
巡幸しなければならない時は、ラドヴァンを同行させるくらい、気を配った。
国王がそこまで慈しんだ理由には三つあった。
一つはマリカの遺児であること、一つはマリカを思い出させる整った顔立ちであったこと。
最後の一つは王妃が産んだ三人の息子よりも、英明に思えたこと。
だから、国王はラドヴァンを愛した。
だから、王妃はラドヴァンを憎んだ!
オタカル二世はラドヴァンが十六歳になった時、ドイェターン駐在を決めた。
国王はヨゼフを廃嫡して、ラドヴァンを王太子にするとまでは踏み切れなかった。
王妃を憎らしく思う気持ちもあるが、かつては仲が良い夫婦であった。
そもそも、王妃がそこまで狂ったのは国王への愛が原因だった。
その自覚は国王にもあり、昔の仲良きころの思い出もまた、胸の中にある。
ヨゼフは凡庸だが、性格が劣悪というわけではない。
補佐が賢明であれば、大過なく国王を務められるだろう。
愚かな自分ですら、国王を務めていられるのだから!
だからといって、ラドヴァンをこのまま部屋住み状態で王都に留めておくわけにはいかなかった。
自分が庇護している間はよいが、もし自分が死ねば、力なきラドヴァンは即座に殺されるだろう。
ヨゼフにそこまでの気持ちがなくても、王妃が必ず殺す。
必ず、だ。
となれば、自分が庇護できる間にラドヴァンにある程度の力を持たせるしかなかった。
だから、ドイェターンに派遣し、わずかだが兵権と信頼できる士官を与えた。
それは、もしかしたら、後継者争いの火種になるかもしれない。
国王として考えるとその危険はあった。
しかし、彼はラドヴァンについては国王としてよりも、父親として行動した。
誰もが完璧に行動できれば、後継者争いなどないだろう。
こうして、ラドヴァンはドイェターン駐在となり、約一年が経過した。
ラドヴァンはカリーヌ相手に木剣をふるっている。
彼の目鼻立ちはよく見ると繊弱と言えるほどの美麗さであった。
金糸のような髪も陽光に照らされ、輝いている。
しかし、決め細やかな白い肌は軽く日焼けしており、優美さを少し損ねていた。
また、表情、仕草などを見ると、彼の印象は繊弱さよりも、陽気さが勝った。
一見、ラドヴァンはカリーヌ相手に、愉快そうな表情で稽古をしていた。
だが時折、彼のエメラルドブルーの瞳に憂いの光が射す。
それはほんの一瞬であり、彼はその光を消し去って、剣を振るう。
無心に。
ただ、無心に。
彼を愛してくれている父親オタカル二世はもうすぐ、帝国軍と激突するだろう。
おそらくは、ヴラーゲン平原で戦うことになる。
帝国軍は強大だ。
セドリアンは大国だが、ムラーディス帝国と比べると、劣るのは明らかだった。
ラドヴァンの頭脳は明晰であるがゆえに、戦いの先行きを楽観視できなかった。
彼は憂いをはらうべく、剣に集中する。
彼が相手しているのは、カリーヌではなかった。
彼の心だった。
しかし、彼の瞳には、心からあふれだした憂いの色がしきりにまとわりつく。
彼の相手をするカリーヌはどこまでも快活だ。
表情は明るく、槍先も鋭い。
まるで、彼女の快活さでラドヴァンの憂いを少しでも取り払うかのように。
そんな二人をジャネッタは脇から見つめている。
彼女の眼差しもまた、ラドヴァンと同じように、かすかな変化を見せる。
彼女の瞳が見せる色合いは、慈しみと憂いの二種類であった。
主従三人がそういった生活を過ごしていると、四日がすぎた。
セドリアン暦二三六年三月十日。
ヴラーゲンの戦いがあった日の二日後、ドイェターンに凶報が到来する。
執政官室で椅子に座って書類を読むラドヴァンの下に、ドイェターン駐留部隊指揮官のベネシュ連隊長が報告にあがった。
ベネシュは五十二歳。平民出身で連隊長はほぼ極官といっていい。
その上は将軍だが、建国王ルミールの時代をのぞいて、セドリアン王国で平民出身の将軍はいない。
彼は篤実さをオタカル二世に買われて、ドイェターンに赴任した。
国王が愛するラドヴァンを守らせるために。
「殿下、残念な報告をせねばなりませぬ」
頑健な体格を質実さでくるんだようなベネシュは、悲壮な顔つきでラドヴァンに告げた。
「そうか。報告してくれ」
ラドヴァンはドイェターン執政官の役職を父王から賜っている。
彼を守るために父王が与えたものだ。
彼は執政官の仕事である書類処理を中断して、ベネシュに向き直った。
「昨日、ヴラーゲン平原にて陛下率いる軍が帝国軍に敗北いたしました。陛下は戦死なされた模様です。ほぼ同時に別方面から情報が入りました。断腸の思いですが、確報のようです」
ベネシュは俯き、沈痛な表情であった。
「……そうか」
と言ったきり、ラドヴァンは瞑目し、思いを凝らすようであった。
ベネシュはラドヴァンの事情を把握している。
ラドヴァン最大の庇護者にして、この世で唯一愛してくれていた父王が亡くなったのだ。
ラドヴァンに同情すると共に、その立場を思い遣る優しさがベネシュにはあった。
しばらくラドヴァンを一人にすべきかとベネシュが考えていたころ、ラドヴァンが目を開け、声をかけた。
「ドイェターンにも帝国軍が進撃してくる可能性がある。警戒態勢をとると共に斥候を放って、周囲の情報をできる限り詳しく集めてくれ。王都の情報も必要だ。遠方で難しいだろうが。詳細は指揮官に任せる。他に何かすべきことはあるか?」
ラドヴァンは荒れ狂う感情をひとまず抑えて、自身で必要と思う事柄をベネシュに指示した。
感情を抑制しようとするあまり、彼の表情は人形のようになっていた。
だが、瞳まで完全にコントロールできていなかった。
「いえ、現在のところ、それで万全かと思います。ただちに手配いたします」
ベネシュは一礼して引き下がった。
彼はラドヴァンの様子に少し感嘆していた。
苦境のあまり、取り乱してもおかしくはなかった。
ラドヴァンはまだ十七歳だ。大人未満の少年が陥るには余りにも過酷な状況だった。
だが、自身を抑制してあのように振舞えたのは資質によるものだろう。
ベネシュは国王亡き今、主君となるであろう少年に衷心から仕えるつもりだ。
彼は内心、満足していた。
現況は極めて悪い。帝国軍相手に玉砕するかもしれない。
せめて、最期は自身が仕えるに足る主君の下で迎えたいものだからだ。
ベネシュが下がった後、ラドヴァンは再び、眼をつぶった。
幼少の頃も、ドイェターンに送り出す時も、常に父王の眼差しは暖かく優しいものだった。
彼は今、その父の眼差しを思い出していた。
眼の内側が温かく湿ってくるのを彼は自覚した。
その想いのままに泣こうかと思ったが、理性がそれを押し留めた。
理性が彼に告げる。
泣いている場合ではない、と。
ラドヴァンは立ち上がり、窓から外の景色を見る。
景色を見るのが目的ではない。
感情をひとまず追いやり、今後について考えるためだ。
無機質的な表情だったのが、徐々に気迫漂う顔つきになり、瞳には鋭い光が満ちてきた。
ラドヴァンは父王を失った喪失に耐え、頭脳の限りを尽くして、未来について考え抜こうとしていた。