(1) クリストフ征服帝
「余は死ぬまで、戦争を愛し続けるであろう。この世に戦争ほど愉快なものはない」
こう豪語したのはムラーディス帝国皇帝の座にあるクリストフであった。
フルネームはクリストフ=フレドホルム=ムラーディス。
ムラーディス帝国はラグスレーム大陸最強の大国である。
この言葉は皇帝が四十七歳の時に発したものだった。
皇帝の軍才は同時代の誰よりも優れていた。
彼は三十二歳で即位し、六十五歳の現在に至るまでで、二つの大国、五つの小国を征服した。
ゆえに彼はクリストフ征服帝と、畏敬の念をこめて呼ばれている。
クリストフ征服帝の治世において、帝国の国土は約二.五倍に広がった。
六十五歳といえば、もはや老境である。
しかし、彼の燃え上がる野望の炎は未だに消えていない。
むしろ、業火のごとく燃え上がり、新たな標的を焼き尽くそうとしていた。
その不幸な標的とはムラーディス帝国の北に位置するセドリアン王国であった。
セドリアン王国も帝国ほどではないが、大陸有数の大国だ。
上から数えて、五本の指に入る規模である。
ルミール建国王がかつてこの地にあった小国、諸部族をまとめて打ち倒して建国したのがセドリアン王国だ。
現在の国王は四十七歳のオタカル二世。
彼は即位して十四年であり、クリストフ帝ほどではないにしても、立派な治世であった。
貧民をいたわり、悪徳官吏を罷免した。
不必要な華美を廃し、法律の不備を法改正でなくしていった。
凶作の年が二度あったが、餓死者をほとんど出すことなく、乗り越えることに成功している。
セドリアン王国の国庫は満たされていた。
だが、有能な国王の下で繁栄するセドリアン王国は危機に直面する。
ムラーディス帝国からの宣戦布告は、王都を激震に揺らした。
御前会議の結果、オタカル二世は自ら兵を率いて、帝国軍の迎撃に向かった。
ヴラーゲン平原。ラグスレーム大陸北方の大国であるセドリアン王国の南部にある平原だ。
交通の要地にして、地味豊かな穀倉地帯でもあり、大軍を動かしやすい地形である。
過去何度もこの地をめぐって、戦いが行われていた。
セドリアン暦二三六年、ムラーディス暦では三六五年の三月八日。
セドリアン軍十万とムラーディス軍十五万はヴラーゲン平原で激突することになる。
セドリアン軍は国王軍六万、諸侯軍四万の混成部隊であり、ムラーディス軍は全て皇帝直属の軍であった。
軍の構成でもある程度わかるように、セドリアン王国では、王家が直接支配する土地は約半分にすぎない。
しかし、ムラーディス帝国は皇帝が約八割の土地を支配している。
この差は非常に大きかった。
戦力を集中できるかどうかという観点において。
クリストフ征服帝の両手は血塗れであるが、付着しているのは外敵の血だけではない。
彼は先帝の実子ではなく、甥であった。
それが意味するのは、先帝死後、先帝実子の全てを処刑したということだ。
彼は後継者争いにおいて、先帝実子に与した貴族全てを取り潰している。
その過程において、皇帝が支配する土地は広がり、保持する権力は格段に強化された。
ムラーディス軍は皇帝近衛軍団四万五千が紫色に金をあしらった軍装で身を固めていた。
近衛軍団を後方に、前方には七色<黒、白、黄、青、緑、赤、銀>に彩られた師団が配置についていた。各師団の定員は一万五千。
全軍で帝国の紋章である紫の龍をかたどった軍旗がはためいている。
両軍の間は約一ノクト(約四キロ)であった。
帝国軍はこれから軽い食事をすませて、王国軍の方へと押し出していくことになる。
クリストフ征服帝率いる近衛本陣には、高級武官、魔術士官、護衛兵達が仕えていた。
厳粛な雰囲気が漂い、無駄口一つなかった。
皇帝はパン、スープといった簡単な食事をすませていく。
皇帝だからといって、特別な食事ではない。
帝国軍の食事は士官用と兵士用、二種類のみである。
クリストフは若いころ、食事も少しは楽しみにしていた。
しかし、今となっては、身体に必要なだけ摂取するのみである。
彼にとって、美食などもはや快楽ではない。
彼はもはや、戦争によって得られる快楽を喰らうことのみが生きる目的なのである。
戦争という快楽に彼の脳は灼かれていた。
もう、寝所に美姫をはべらせることもない。
老人となり、性機能が衰えたからではなく、節制しているのだ。
彼は女色に耽りすぎれば、寿命を縮めると考えていた。
彼は長生きしなければならない。
戦争という快楽を喰らうために。
だから、性欲も食欲も抑制している。
そのお陰か、彼はとても健康であった。
上級士官にはもっと贅沢な食事をとりたいと思う者もいた。
しかし、皇帝より豪華な食事をとっていたなどと知られては、とんでもないことだ。
だから、彼らも我慢して皇帝と同じ食事をとる。
もっとも、皇帝はそのようなことには寛容であり、食べたければ食べるがよい、と言ったであろう。
だが、臣下としては主君の言葉を真に受けてはならないのだ。
食事と食休みをすませ、帝国軍は進軍を開始した。
セドリアン王国軍に接近し、軍を再停止させる。
「我が軍の概況を投影せよ」
皇帝随従武官の声に従い、魔術士官達が投影魔術を用いて、戦場の様子を空中に描き出していく。
左翼、中央、右翼とそれぞれの帝国軍が詳細に映し出される。
クリストフ征服帝は、豪奢な椅子に座り、黙って見つめていた。
帝国兵は甲冑に身を固め、きびきびと行動し、活気に満ち溢れていた。
クリストフ征服帝が指揮をとった帝国軍は不敗である。
不敗の皇帝に対する信頼は極めて厚く、それもまた士気向上につながっているのだろう。
敗北すれば死ぬかもしれないが、勝利すれば手柄に応じて恩賞がもらえるのである。
その勝利が永続するのであれば、軍人ほどおいしい職業は他にない。
「問題ないようだな、敵軍を映せ」
「はっ!」
皇帝の下知に従い、魔術士官はセドリアン王国軍の様子を映し出す。
セドリアン軍は国王軍を中心に、諸侯軍は左右に陣取っていた。
距離があり、帝国軍ほど詳細に写すことはできない。
王国の紋章は黒地に金の鷹であり、国王軍にはその紋章をかたどった軍旗が風になびいている。
諸侯軍には、各諸侯の紋章を記した旗がめいめいに並んでいた。
混成軍であり、やや統制がとれてないように見える。
その様子を見た皇帝の眼光に笑みが浮かんだ。
皇帝は六十五歳だが、十歳以上若く見えるだろう。
身にまとう覇気が老いを遠ざけていた。
業績からして、威風堂々たる体躯と思われがちだが、背丈は小柄な方であった。
しかし、威厳漂う皇帝を見て、小柄だと思う者はほとんどいない。
ただ、畏怖するのみであった。
「スティーグ、何か気になる点はあるか」
皇帝は最も信頼する臣下にして、盟友でもあるアルヴェーン元帥に諮問した。
スティーグ=アルヴェーン元帥は、皇帝が即位する前から仕えていた武官である。
平民出身であったが、能力を愛した皇帝が次々と抜擢し、それにこたえていった。
帝国軍総司令官は皇帝である。
なので、彼は帝国軍副司令官兼近衛軍団司令官に任命されていた。
篤実な性格にして、能力を兼備した彼はまさに皇帝の腹心であった。
「いえ、特にございませぬ。後は敵軍を破砕するのみです」
皇帝の左斜め前に立っている老将は、軽く一礼し、こたえた。
沈毅さをただよわせた風情はまさに宿将といえるものだ。
「それではつまらぬな。セドリアン軍に隠れた名将でもおれば、楽しめるのだがな」
皇帝は少し目を細めるが、獰猛な虎が笑っているかのようであった。
「オタカル王をはじめ、主だった将帥にこれといった軍功はございませぬ。ただ、階級が低い者の詳細まではつかめておりませぬので、用心は怠っておりませぬ」
帝国は攻め込む前に、敵国の内情を調べ上げるのが常だ。
これはと思う者には、内応するよう工作まで行っている。
皇帝の征服事業が順調なのは、こういった工作の効果が大きいからでもある。
「有能な若者がいればよいのだがな。ぜひ、召抱えたいものだ」
皇帝は有能な者を愛した。能力さえあれば、旧敵国出身でも高位の役職につけている。
かつてある家臣が諌言した。
「内心、何を企んでいるかわかりませぬ。旧敵国の者どもを放逐するべきです」
皇帝はその諌言に対して、
「謀反を起こしたければ謀反を起こせばよい。余に勝てれば皇帝になるがいい。しかし、負ければ、ただではすまないこと覚悟の上でな」
即位してから五年後と七年後に、皇帝は謀反を起こされているが、いずれも即座に鎮圧した。
言葉通り、謀反を起こした者は極刑に処され、主だった親族も処刑されている。
この二度の謀反の後はもう、謀反は起きていない。
諌言した家臣は昇進した。皇帝は内実ある諌言を賞したのだ。
皇帝を熟知している老将は頷いた。
「御意にございます」
「では、各将に伝達せよ。余は全てを見ている。励め、と」
「かしこまりました」
通信魔術を用いて、皇帝の玉言が将軍、隊長クラスに伝達されていく。
皇帝はもはや、長々と語る必要はなかった。
皇帝の視野が全軍の中でもっとも広く、信賞必罰の公平さは誰もが知っていた。
戦功に応じた褒賞がもらえるのは理解していた。
皇帝に間違いはないのだから。
一方のセドリアン軍はムラーディス軍よりも明らかに劣っていた。
指揮官クラスの質、兵士の質、兵士の数、どれをとっても劣っていた。
だが、もっとも劣っていたのは軍の意思統一がなされていなかったことだ。
国王オタカル二世が手足のごとくと言わないまでも、己の意思で動かせるのは六万の国王軍のみでしかない。
残り四万の諸侯軍は諸侯達が指揮しており、彼の指揮下には入っていない。
しかも、数十の諸侯の寄り合い軍であり、諸侯軍内部の指揮すら統一されていないのだ。
オタカル二世と彼を補佐する将軍達はそれをよく知っていた。
だから、初めから諸侯軍には期待していない。
国王軍の攻撃にあわせて、諸侯軍もそれなりに攻撃してくれればよいとしか考えていなかった。
四万という数はかなり大きい。
側面を補ってくれるだけでも、助かるはずであった。
少なくとも、セドリアン軍首脳部はそう考えていた。
本当はオタカル二世は、持久戦に持ち込む腹であった。
地の利はもちろん、セドリアン王国にある。
ということは、兵站でもセドリアン王国が勝るということだ。
精鋭と名高い帝国軍と正面から戦う必要はなかった。
ましてや、自軍の弱点を熟知している以上。
しかし、数で勝る帝国軍がいくつも軍を割いて、王国各地の要衝を攻撃する構えを見せた。
各諸侯を狙い撃ちにするとも思えた。
ここで、オタカル二世は諸侯、軍部の突き上げをくらった。
彼は抵抗したが、国王とは諸侯の守護者という立場でもある。
ついに彼は持久戦を捨て、決戦へと挑むことになった。
彼は帝国軍が分断されていることに望みをつないだが、王国軍の動きをいち早くつかんだ帝国軍は結集に成功した。
かくして、ヴラーゲン平原における両軍の戦いが始まることになる。
皇帝は近衛本陣にて軽く水を飲む。
戦いが始まる前に彼は必ずそうしている。
それをよく知っている侍従は皇帝の機嫌を損ねないよう、万全の手配をしていた。
水一杯でも、だ。
皇帝は感情が昂ぶるのを自覚していた。
間もなく、二十万以上の人間がこの大地で命を賭けて戦うのだ。
そして、自分がこれらの人間全ての運命を左右することになる。
これほどの快感が他にあろうか!
いや、あるわけがない!
皇帝は楽しみであった。
敵軍が自分をどれだけ楽しませてくれるか、それが問題なのだ。
もっとも、皇帝は勝利するのを知っていた。
問題は、どのような形で勝利するかであった。