野人 Brutality Man
絵里と別れて早一年。俺も只じっと耐えていたばかりでは無い。この失策を繰り返さぬ為の算段を考えて考え抜いておった訳じゃ。一時はB山の言うように、プレゼント作戦やお洒落デートに想いをはせることも、正直あった。しかし他人の言うことを鵜呑みにして果たして上手く行くものだろうか。新たな恋人を得るには心機一転、基礎から作り直す必要がある。アプローチの仕方は生まれ育った江釣子を自己の立脚点とし、俺自身の体験が元となることは間違いあるまい。即ち幼少より培った野獣のようにワイルドな即断速攻作戦。これ以外の方法に手を出してはならぬ。感じたら直ぐに犯す。俺は常にこういう方法で女を征服してきた。もっと良い方法があるのではと、欲を掻いたのは間違いだった。是より野獣化作戦を実行する。和賀山稜深く潜入し、狐狸は勿論羆や狼、野猿、野鹿、羚羊等と共に山野を跋渉、獣道を辿り洞窟に居住し生肉を喰らって、真の野獣と化す所存である。その後は時に村に出没し是と見た婦女子を襲うのだ。
堀内沢マンダノ沢源流。和賀山塊中の人跡未踏の秘境。上部の斜面には長さ一米を超える巨大なシダ植物オオバショリマで埋め尽くされている。ゴルジェ状の狭間には雪解けで増水した冷たい奔流が飛沫を上げて流れ下っていた。私は新たに母親と決めた大羆の後ろに寄り添って、シダの茂みの中を四つんばいで走った。岩盤は沢の飛沫を浴びて濡れ、滑りやすいが、手足の伸ばした固い爪がしっかりと身体を支えてくれる。シダの葉先が鋭く尖り、以前の私だったら傷だらけになって、その痛さに悲鳴を上げていただろう。今は身体中剛毛に覆われ、皮膚も厚く強靭となって、むしろシダの尖りが心地よい。母熊は滝下の沢淵に迫り出した巨岩の上に出ると歩みを止め、頭を低くして水飛沫を浴び、じっと水流の深みに眼を凝らした。続く私もそれに習わざるを得ぬ。
「ぐっ、ぐわオっ」
いきなり雄叫びを上げ、右足を川面に入れ強烈に抉った。一尺五寸以上の大岩魚が岩場に弾き飛ばされて揚がった。即座に左足で押さえつけて齧る。私も母親に習って水面を叩くが上手くいかぬ。三度目に漸う一尺の岩魚を仕留めることができた。
「ぐわオ〜ん」
思わず声が出る。夢中で貪り付く。美味い。三日ぶりの食事に有り付けた。生肉の美味さが身体中に沁み渡る。四つんばいのまま脱糞する。気持ちがいい。鱈腹食ったあとは熊穴の塒に潜って惰眠を貪る。私は高揚していた。煩わしい人間関係も、天候を気にしての農作とも無縁だ。今は一日中餌を捜し求めて山間を駆け巡り、疲れれば寝るという人間本来の生き方を取り戻した。
齢六十五歳を迎えたB山鐡蔵は今日も長年研究している野生動物調査の為、和賀山中に分け入る。主峰の和賀岳や白岩岳・薬師岳には登山道があるが、他の膨大な山塊は道は無く、原始性に富んでいた。鐡蔵はマンダノ沢を登りつめて羽後朝日岳の登頂を目指す。主脈から北側に少し外れた山稜は踏み跡も定かでない和賀川源流域の険しい沢を幾つも越さねば、稜線には辿り付かぬ。マンダノ沢はその内で尤も険悪なルートで余程の物好きでないと近寄らぬ悪場だ。背丈を越す巨岩で埋まった荒沢のガレ場を鐡蔵は鍛え抜いた健脚で踏破してゆく。ぶなの森に近づくと樹上に群がって実を喰らう猿達の吠える声が喧しい。二段の滝を過ぎ蛇体淵だ。滑らぬように注意して巖苔のびっしり付いた岩の上に登る。食い散らかした岩魚の骨が三十本もある。
「熊が食ったナ。アレ、こっちの骨は人間が箸でつついて、しゃぶったように綺麗だ。うむ。こっちに糞をしている。なんじゃ、これは?」
独り言を漏らす鐡蔵は見たことも無い糞と綺麗にせせられた魚の骨を見つけ首を傾げた。ト、その時上方十米程のシダの生い茂る斜面から、猿とも熊とも見分けのつかぬ奇怪な鳴声が響いた。ゾっとする地獄の底からの雄叫びに聞こえる。シダの葉が激しく揺れ動いて一瞬、潜んでいる獣の背中が見える。
「な、な、何だ!」
細かな黒い剛毛に覆われているが、明らかに猿や熊とは異なった白い肌だ。猪でも鹿でもない、野獣らしい。野獣は身を翻してシダの茂みの中に没した。新種の珍獣かも知れぬ、そう思った鐡蔵は学問的好奇心で身動きが取れなくなった。何とかしてあの獣の正体を見極めたい。そう決心すると獣の現れたところに近い滝上の平場に野営をすることに決めた。
今年の冬は積雪が多く、寒気も厳しかったから、獣達は例年の餌を確保出来ず、里に下りて畑などを荒らしていると聞く。餌で誘えば、あの珍獣もひょっとすると現れる可能性もあるだろう。考えるより行動が先の鐡蔵は、滝脇の岩盤にハーケンを打ち込み、ザイルを使って攀じ登った。滝の上は下から覗いて想像していた以上のかなり広い平らな部分があり、野営にもってこいの場所だった。早速天幕を設営、枯れ枝を集め、火を焚いた。握り飯を鉄串に差し、練り味噌を塗って、焚き火に翳す。程なく味噌と飯のこげる美味そうな香りが漂いはじめる。鐡蔵は匂いがかなり遠くの距離まで広がっていくことを、経験上承知していた。
沢を吹き抜ける風にのって、匂いが拡散していく。暫くすると、期待した通り、対岸のシダの茂みの中に蠢く動物の存在が認められた。鐡蔵は焼いた握り飯を一つ掴んで、天幕前の岩場に転がした。獣は恐らくこの様子を見たに違いない。だが警戒心が強く、二度と姿を見せようとはしなかった。岩魚を釣り上げ、それも焼いて、夕食とした。
獣はまだシダの茂みの中でじっと潜んでいる気配があった。狭い沢の陽は早く陰り、暗くなってきた。鐡蔵は天幕の中に潜り込んで、月光に照らされる岩場に眼を凝らしていた。
十一時ごろ、シダの茂みが大きく揺れ、獣が姿を表した。巨大だ。月の光の中で朧に立ち上がった獣。恐らく六尺以上あるだろう。全身が真っ黒な剛毛で覆われている。窪んだ眼窩から猛々しい鋭い眼が覗く。半分開いた口からは鋭く発達した牙がはみ出ている。強烈な獣特有の臭いで鐡蔵は咳き込みそうになり、慌てて口を抑えた。唸っている。恐ろしい唸り声である。獣は立ち上がった態勢から低く身を屈め、地に胸をこすりつけ、尻を高くして伸ばした肢は時折苛立たしく岩面を掻いていたが、突如餌の握り飯に飛びついて武者振りついた。
「く、食った」
鐡蔵は天幕を飛び出ると、サーチライトの電光を獣に向けて浴びせ掛けた。突然の眩しい電光にたじろぐ獣。即座に鐡蔵は頑丈な鉄鎖で出来た投網の罠を被せた。
「ぐぁ、ぐあう」
「獲った!」
投網を引き絞る。獣は猛然と暴れ、必死に網を食い破って逃げようと試みる。しかし羆用の罠である。太い鎖は食いちぎれぬ。獣は吠え、鎖で出来た罠ごと転げ回ったり、飛び上がったりしていたが、一時間もすると力尽きて静かになった。サーチライトで照らす。獣は唸り声だけで最早暴れる力は残っていない。鐡蔵は持って来た麻酔注射を獣の尻あたりに差し込んで、注入した。三十分ほどですっかり大人しくなった獣。顔を覗き込んでし子細に調べる。猿にも熊にも見えるがそのどちらでもない。手足が長く、体毛が少ない。地肌は白い。
「げッ、コイツは野人じゃねえか?」
鐡蔵がもじゃもじゃに生えている顔面の髭を掻き分け、姿を確認しようとして腰を抜かした。五年前、故郷江釣子から、失恋のあまり出奔して行き方知れずとなった、一弥であったのだ・・・




