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あの頃のことを今でも時々思い返す。いつの間にか懐かしいという感情が、苦い熱情に勝っていることに時間の経過を感じる。



姉に手を出せないまま日が過ぎて、しだいに俺は苛立っていた。


姉が高校の時も、大学の時も姉に近寄るヤツはいた。

俺が姉に特別な感情を抱いていると解らせると、そいつらはすぐに退いた。

面倒な弟がいる女なんて軽い気持ちでは付き合えるものじゃない。


だが。

その男は。


20代後半の大人の男は里歩ちゃんのバイト先の社員。

姉は笑っていた。

男も。


奇しくもジェシーに教えられた通りの光景をその時俺は見ていた。

里歩ちゃんの手を握る男。

赤らめる姉は男にぎこちない笑顔を返している。二人は駅前で別れると男は駅へ入って行き、里歩ちゃんはマンションのある通りへと戻ってゆく。


男を送ったってか。


わざわざ。


胸が悪い。ムカムカする。これが嫉妬というヤツか。

そんな自分に飽きれるが、未練が姉にしかない俺にとって、姉が誰かのものになるかもしれない…

それはあるまじき悪夢だ。

そして、姉が男と歩いているのを見てしまった。


取るべき行動は二つか。


あの男を姉から離す。


姉を俺のものにする。


たいして好きな男でなくても、何か言われればその気になって付き合うだろうか…恋愛体験が極端に少ない女だ。今回のように大人の男が相手ではやっかいか。

まったくつまらない女だよ。


里歩ちゃん。


こんなに身近に自分に夢中の「血の繋がらない」男がいるのに、なんでそっちいくかな。


顔も身体も綺麗で頭もそこそこ、性格は多少難アリだがあんたを裏切らない…そこは外せない好条件だろ。

男は普通は浮気するもんだ。さっきのヤツも、あんたより自分を大事にしてくれるもっと可愛い明るい女が出てきたらそっちいくよ、たぶんね。


そして泣いてボロボロになる里歩ちゃん。


耐えられないな、それは。


自分の思考に沈む俺に、ためらいがちに声が触れてきた。


「葛城くん?」


俺はああ、と生返事をしながら彼女を見下ろす。


駅前の通りは混雑はしているが時間が遅いぶん人通りは途切れがちだ。

足早に家路につく人たちに混じって俺は歩きだした。

「葛城くん?」


驚いて、彼女は小走りに追ってきた。


「送ってくよ」


「え?」


「家、歩いても行けるんだろう?」


カラオケにジェシーに付き合わされ、トマと黒髪の女が消えた後、残った俺と佐恵はジェシーのマンションにいたのだ。

いつものように酔っ払って眠ったジェシーをその弟に託して、俺は帰るつもりだった。


佐恵は自分も帰ると言い出してついて来た。たいして知らない男のマンションに泊まるほどの度胸はないってことか。


そうだ。黒髪の美女の付き人のような少女は、佐恵という名前だった。


「葛城くん、いいの?」


「なにが?」


「わたしの家、駅からは遠いよ?」


「いいよ。なんか散歩したい気分だから」


佐恵は不思議そうに瞬きをしながら小さく礼を言ってきた。


昼間は賑わう通りも夜はクルマのライトに霞んで水の底にいるみたいだった。

高級ブランドの並ぶ暗いウインドウを過ぎ、まだ明るいビルが建つ通りを歩いた。


俺たちのような学生はほとんど見かけない。


「さっきの人、葛城くんのお姉さん?優しそうな人だね」

「それしか話題ないかな」

「あ…ごめん」


佐恵は気まずそうに俯いた。

ふと思いつく。


「どんな風にみえた?」


「どんなって…?」


「俺は姉をどんな風にみていた?」


佐恵は瞬きを繰り返す。


その手首を引き、俺は質問を続けた。


「葛城くん」


「どんなだった?やっぱり嫉妬に狂ってたかな、俺でも」


怯えた表情の佐恵は、どこか里歩ちゃんに似ている。姉はこんなにも他人にびくついたりはしないが、俺といる時、いつも何かに怯えたところがあった。


絶対に表に出さない姉。

しかし間違いなく彼女は感じ取っている。


俺の劣情と欲求を、本能は姉に教えているが彼女が認めないだけだ。


認めたくないのか…じゃあ…


「里歩ちゃん」


それを俺が、認めさせてやるのか。




佐恵は黙ったまま立ち止まっていた。


深い水の底にいれば里歩ちゃんも一緒に溺れてしまうしかないのだろうか。

理性も何もかもどろどろにして。

自分が求めるものが解らないあの女を俺で満たしてしまえばいい。


やがて、佐恵がぽつりと言った。


「葛城くんはお姉さんのことホントに好きなんだね」


どこか憐れむような響きだった。俺に掴まれていた手首に佐恵の手が重なってきた。


「わたし、似てる?」


「なにが」


「お姉さんに」


静かに佐恵は笑った。


この時の微笑は覚えている。佐恵はきれいに笑っていた。


「じゃあね、わたしで練習してみる?」


「練習?」


「うん」


真っ直ぐに見上げてくる透明な顔付きは真剣だったと思う。


「練習だよ…」


彼女は明るく笑うと俺をぐいぐい引っ張ってゆく。

急に態度が変わった佐恵に押し切られ街を縫うように早く歩いた。

俺にとっては知らない路地を佐恵は魚が岩場を縫うように自在に進んで行く。


佐恵のひんやりとした細い手。

それだけで俺たちは繋がっていた。

暗い海の底から導くには頼りなさすぎる小さな手。

俺は難破した貨物船が小型船に曳かれてゆく様をなんとなく想像してなされるままついていった。


どこだかわからない小さなビルがひしめき合う通りにいつの間にか紛れ込んでいた。


「ここはね、ウチの事務所があるところ」


階段しかないビルの3階に入る。保安用の緑の明かりが寒々しい。

中は意外と片付いている。応接室と社長室っぽいドアがある。フロアには事務机が幾つか並んでいるが小さな事務所だというのは見ればすぐわかった。


「こんなとこに来てどうすんだ」


まさか、そういうプレイが好きだとか言うなよ。


「葛城くんに抱いて欲しいの」


「はあ?ここでか」


「ダメかな」


「ていうかさ…なんで?」


自分の親か何かの事務所でヤってくれとは変態か、異常か。


「大丈夫…変なカメラとかで撮影して脅迫とかしないから」


「おい」


「冗談だよ、ふふっ」


笑えない冗談に顔をしかめる俺の唇に細い指が触れてきた。


「どんな表情をしても素敵な顔だよね」


なまめかしくなぞるひんやりとした動き。


ゾクッと、した。


「…こっち、こない?」


応接室のソファーへその目的で導かれる。


佐恵は俺を静かにみていた。

そのときの表情を思い出そうとしてもはっきりしない。

ただ静かだった。


窓から差し込む街灯が夜を蝕む。

月の光のように沈んで揺らめかせていた―――

佐恵の滑らかな肌が闇に照り返す。


静かだった。

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