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政略結婚のはずが、氷の王太子に「君だけは手放さない」と溺愛されています ~捨て駒姫は敵国で幸せになる~

作者: uta
掲載日:2026/04/28

第一章 捨て駒姫の旅立ち


「お前のような出来損ないでも、死にに行く役には立つだろう」


継母——セレスティーヌ王妃の声が、玉座の間に冷たく響き渡った。


私は黙って頭を垂れる。


驚きはなかった。

悲しみも、もうない。


(ああ、やっぱり)


むしろ、ようやくか、という気持ちだった。


十八年間、この王宮で息を潜めて生きてきた。母を幼くして亡くし、父王からは忘れられ、継母からは疎まれ続けた日々。


私の居場所は、最初からどこにもなかったのだ。


「ヴェルディア王国への輿入れよ。あの野蛮な国の、氷の王太子とやらの元へね」


王妃の唇が、薄く弧を描く。


十年続いた戦争。その終結条件として差し出される「和平の証」。


しかし、誰もが知っている。


これは和平などではない。


人質だ。


「あら、よかったじゃない、アリシア」


王妃の隣で、異母姉のヴィクトリアがくすくすと笑う。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、扇で口元を隠しながら。


「あなたみたいな地味な子でも、お国のために役立てるのですもの」


(本当は、あなたが行くはずだったんでしょう?)


言わない。言っても無駄だから。


ヴェルディアの王太子は「氷の王太子」と呼ばれ、冷酷無慈悲と恐れられている。そんな相手の元へ嫁ぐなど、誰だって嫌に決まっている。


だから、私が選ばれた。


王族の中で最も価値のない、第五王女。


捨て駒として。


「……畏まりました、お義母様」


私の返事に、王妃は一瞬眉を顰めた。


泣き喚くか、命乞いでもすると思っていたのだろう。


「……あら、随分と聞き分けがいいこと。やはり出来損ないは出来損ないね。自分の価値も分からないのかしら」


「私の価値は、お義母様が一番よくご存知でいらっしゃいますもの」


皮肉ではない。本心だった。


私に価値などない。


母を亡くし、父王からは忘れられ、王宮の片隅でひっそりと生きてきた第五王女。刺繍と薬草学だけが友だった、地味で影の薄い姫君。


そんな私が、誰かの役に立てるなら。


(せめて、意味のある死を)


そう覚悟を決めた。



     ◇



三日後、私は祖国を発った。


見送りは、誰もいなかった。


——いや、一人だけ。


「姉上っ」


城門の影から、弟のエドワルドが駆け寄ってきた。


まだ十六歳の、幼さの残る顔。淡い金髪が風に揺れ、誠実な青い瞳が悲痛に歪んでいる。


「エド……どうしてここに」


「僕、止めたんです。母上に何度も。でも……っ」


継母の子でありながら、この子だけは私を姉と呼んでくれた。


幼い頃から、こっそり本を差し入れてくれた。庭で「偶然」出会って、話し相手になってくれた。


私にとって、唯一の家族だった。


「いいのよ、エド」


私は微笑んで、弟の頭を撫でた。


「よくないです! 姉上は何も悪くないのに……!」


「あなたは優しい王様になって。それだけで、私は幸せよ」


「姉上……っ、必ず……必ず迎えに行きますから……!」


弟の声が震えている。


私は何も言わず、ただ微笑んだ。


迎えになど来なくていい。この子には、この子の人生がある。私のために危険を冒す必要などない。


馬車が動き出す。


遠ざかる弟の姿。小さくなっていく、生まれ育った城。


(さようなら)


未練はない——はずだった。


なのに、頬を伝う一筋の涙を、私は拭えなかった。



     ◇



国境を越え、ヴェルディア王国へと入る。


景色が変わった。


祖国の華やかな緑とは違い、ヴェルディアは荒涼とした山岳地帯が多い。しかし、その厳しさの中に凛とした美しさがあった。


(野蛮な国、と言われていたけれど)


馬車の窓から見える村々は、質素だが整然としている。人々の顔には疲労の色が見えるものの、どこか誇り高さがあった。


十年の戦争で、この国も疲弊しているのだろう。


そして——私は、その戦争を起こした国の姫君として、ここに来る。


(憎まれて当然だ)


覚悟はできている。


殺されるか、幽閉されるか。どちらにせよ、穏やかな死ではないだろう。


でも、それでいい。


私の死で、少しでも両国の民が救われるなら。


馬車が、ヴェルディアの王城に到着した。


黒い石壁。重厚な鉄門。


祖国の華やかな宮殿とは何もかもが違う。威圧的で、厳めしい造り。


(ここが、私の死に場所)


深呼吸をして、馬車を降りる。


護衛の兵士たちの冷たい視線を感じながら、私は王城の中へと足を踏み入れた。




第二章 氷の王太子



謁見の間は、想像以上に広かった。


高い天井。磨き上げられた黒い大理石の床。両側に並ぶ騎士たち。


そして——


玉座に座る、一人の男。


息を呑んだ。


漆黒の髪。銀灰色の瞳。彫刻のように整った顔立ち。


美しい、と思った。


同時に、恐ろしいとも。


その顔には、一切の表情がなかった。まるで氷で作られた人形のように、冷たく、無機質で。


これが「氷の王太子」レオンハルト。


冷酷無慈悲と恐れられる、敵国の次期王。


私は作法通りに跪き、頭を垂れた。


沈黙が流れる。


重苦しい、針のような沈黙。


どれくらいの時間が経っただろう。


「……顔を上げろ」


低い声が響く。感情の読めない、平坦な声。


私は言われた通りに顔を上げた。


目が合う。


銀灰色の瞳が、値踏みするように私を見つめている。


(何を考えているのか、全く分からない)


背筋に冷たいものが走る。


しかし、私は目を逸らさなかった。


どうせ死ぬのだ。最後くらい、堂々としていたい。


「……それで?」


レオンハルト王太子が、唐突に口を開いた。


「は……?」


「命乞いはしないのか」


(命乞い)


ああ、そういうものなのか。


政略結婚の花嫁は、まず命乞いをするものなのか。


「……いたしません」


私は真っ直ぐに王太子を見つめ返した。


謁見の間がざわめく。


「私を殺すなり幽閉するなり、殿下のお好きになさってください」


「——無礼な!」


誰かが叫ぶ声がした。


しかし、私は続けた。


「ただ——民を巻き込む戦だけは、どうかお止めください。罪があるのは私の国の王族であり、両国の民ではありません」


最期の願いだった。


どうせ死ぬなら、これだけは言っておきたかった。


沈黙。


王太子の目が、一瞬だけ見開かれた。


(……怒らせた、かしら)


覚悟を決める。


しかし——


「……面白い」


低く、呟くような声。


「命乞いではなく、民の心配か」


王太子の口元が——ほんの僅かに、緩んだ。


「合格だ」


「……え?」


「お前を、俺の妃として迎える。——異論は認めない」


何が起きたのか、理解できなかった。


殺されるはずだった。

屈辱を与えられて、惨めに死ぬはずだった。


なのに。


「クラウス、この者に妃としてふさわしい部屋を用意しろ」


「はっ、かしこまりました」


栗色の髪の青年——側近らしき人物が、にこやかに私の前に立つ。


「ようこそヴェルディアへ、アリシア様。私はクラウス・ヴェルナー、殿下の側近を務めております」


「あ、あの……」


「さ、こちらへ。長旅でお疲れでしょう?」


半ば強引に促され、私は謁見の間を後にする。


振り返ると、王太子がまだこちらを見ていた。


相変わらず無表情で、冷たい目で。


でも、その目の奥に。


何か——温かいものが、見えた気がした。


(……気のせい、よね)


そう思い込もうとして。


でも、心臓がうるさいほど鳴っていることには、気づかないふりをした。



     ◇



「こちらがアリシア様のお部屋でございます」


案内された部屋を見て、私は目を疑った。


広い。


豪華。


祖国で与えられていた、物置のような狭い部屋とは比べ物にならない。


天蓋付きの大きなベッド。暖炉。窓からは美しい庭園が見える。調度品の一つ一つが、品の良い上質なものだった。


「こ、こんな部屋……私には勿体ないのですが……」


「何をおっしゃいます。殿下の妃となられる方ですよ?」


側近のクラウスが、朗らかに笑う。


「ああ、ちなみに殿下、アリシア様がいらっしゃる前にものすごく情報収集してたんですよ」


「情報……?」


「ええ。好きな食べ物、好きな花、得意なこと、苦手なこと。侍女たちへの聞き込みまでさせたとか」


「……っ」


「『敵を知り己を知れば』とか言ってましたけどね。いやあ、あれは完全に——」


クラウスは意味深に笑う。


「——好きな子のことが気になって仕方ない思春期男子の行動ですよ」


「なっ……!」


「おっと、私はこれで。何かあれば何でもおっしゃってくださいね」


ひらひらと手を振って、クラウスは去っていった。


残された私は、呆然と部屋を見回す。


(どういう、こと……?)


殺されると思っていた。


惨めに扱われると思っていた。


なのに、この待遇は一体——


「失礼いたします」


ノックの後、一人の女性が入ってきた。


銀混じりの茶髪をきっちりまとめた、一見厳格そうな雰囲気の女性。


「私はマルガレーテ・ホルツと申します。アリシア様の専属侍女を仰せつかりました」


「専属……侍女……?」


祖国では、侍女など一人もいなかった。


自分で髪を梳き、自分で服を着て、自分で部屋を掃除していた。


「こちらのお部屋でございます。何かご不満がおありでしたら、遠慮なくおっしゃってください」


「いえ、あの……こんな立派な部屋、私には——」


「殿下の妃となられる方です。これが当然でございます」


マルガレーテの目には、まだ警戒の色があった。


当然だ。私は敵国の姫なのだから。


しかし——


「マルガレーテさん」


「……『さん』は不要でございます、アリシア様」


「では、マルガレーテ。私は、この国のことを何も知りません。色々と教えていただけますか?」


「……」


「ご迷惑でなければ、ですが」


マルガレーテの目が、少しだけ揺れた。


「……かしこまりました」


小さく頷いて、彼女は部屋を出ていった。


私は窓際に立ち、知らない国の空を見上げる。


(生き延びた……のかしら)


まだ、信じられなかった。


あの冷たい目をした王太子が、私を妃として迎えると言った。


その意図が、全く分からない。


政略結婚の道具として利用するつもりなのか。


それとも——


(考えても仕方ない)


今は、与えられた運命を受け入れるしかない。


私は小さくため息をついて、荷解きを始めた。




第三章 不器用な優しさ



ヴェルディアでの生活が始まって、三日が経った。


最初は警戒していたマルガレーテも、少しずつ態度が軟化してきた。


「アリシア様は、本当に不思議な方ですね」


朝食の準備をしながら、マルガレーテが呟く。


「不思議、ですか?」


「ええ。王女様なのに、私たちにも丁寧にお礼を言ってくださる。食事を残さず召し上がる。夜更かしもなさらない」


「普通のことですわ」


「それが普通ではないから、不思議なのです」


マルガレーテは小さく笑った。


初めて見せた、柔らかい表情だった。



     ◇



そんな穏やかな日々の中、奇妙なことが起き始めた。


「……また、殿下から?」


部屋に届けられた荷物を見て、私は困惑する。


上質な毛皮のショール。


珍しい薬草の詰め合わせ。


私の好きな花——と、なぜか知っている——スズランの鉢植え。


「はい。『夜は冷える。使え』とのことです」


マルガレーテが、微妙な表情で言う。


「昨日は『甘いものは嫌いか。嫌いなら言え』と焼き菓子を……」


「一昨日は『この国の歴史書だ。暇なら読め』と本を……」


毎日、毎日。


言葉は素っ気ないのに、贈り物だけは的確に私の好みを射抜いてくる。


(どうして、私の好きなものを知っているの……?)


クラウスの言葉が、脳裏に蘇る。


『好きな子のことが気になって仕方ない思春期男子の行動ですよ』


(まさか)


そんなはずはない。


あの冷たい目をした王太子が、私のことを——


「アリシア」


噂をすれば。


部屋の扉が開き、レオンハルト殿下が入ってきた。


「は、はい……!」


思わず背筋が伸びる。


「今日は冷える。体調は悪くないか」


「だ、大丈夫です……」


「そうか」


殿下は無表情のまま、私の肩にショールをかけた。


さっき届いた、あの毛皮のショールを。


「寒かったら言え。暖炉の薪を増やさせる」


「あ、あの……」


「なんだ」


「……ありがとう、ございます」


殿下の耳が、ほんのり赤くなった。


「……礼を言われることではない」


そう言って、足早に去っていく背中。


マルガレーテと顔を見合わせる。


「……殿下、分かりやすすぎませんか?」


「私もそう思いました……」


二人で呆れたようにため息をついた。



     ◇



「殿下がアリシア様を見る目、完全に恋する乙女ですよ」


数日後、庭園を散歩していると、クラウスが声をかけてきた。


「そんな……殿下は、私を政略の道具として——」


「いやいや、最初はそのつもりだったんでしょうけどね」


クラウスは苦笑する。


「謁見の間でのアリシア様の態度、殿下はかなり衝撃を受けてましたよ」


「私の……態度?」


「命乞いをしなかったでしょう? 自分より民を案じた」


「……それは、当然のことで」


「それが当然じゃないんですよ、普通は」


クラウスが、真面目な顔になる。


「殿下はね、幼い頃に母君を亡くしているんです」


「……」


「政争に巻き込まれて。殿下の目の前で」


息が詰まった。


「それ以来、殿下は感情を表に出さなくなった。感情を見せることは弱みになる、と学んでしまったんです」


「だから……『氷の王太子』と……」


「ええ。でも、本当は誰よりも民思いで、優しい方なんです。ただ、その優しさの伝え方を知らないだけで」


クラウスの言葉が、胸に響いた。


(そうだったの……)


無表情の裏に隠された、傷ついた心。


不器用すぎる優しさの正体。


「アリシア様」


クラウスが、私を真っ直ぐに見つめる。


「殿下を、よろしくお願いします」


「……私で、いいのでしょうか」


「アリシア様だから、いいんです」


クラウスは微笑んだ。


「殿下に人の心を取り戻させられるのは、きっとあなただけですよ」



     ◇



その日の夜。


私は、殿下から届いた薬草の詰め合わせを眺めていた。


どれも珍しいものばかり。


祖国では手に入らなかった、貴重な薬草たち。


(殿下は……私のことを、よく調べてくださったのね)


刺繍と薬草学が好きだということまで。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


(私は……)


死にに来たはずだった。


誰にも必要とされず、捨て駒として送り出されて。


なのに——


(生きていて、いいのかしら)


初めて、そんなことを思った。




第四章 王妃の資質



結婚から一ヶ月が経った頃。


私はすっかりヴェルディアの生活に馴染み始めていた。


マルガレーテは今や私の一番の味方となり、クラウスはいつも冗談を言って私を笑わせてくれる。


そして、殿下との関係も——少しずつ、変わりつつあった。


「アリシア、今日の茶は美味いな」


「殿下がお好きだとお聞きしたので、取り寄せてみたのです」


「……そうか」


殿下の耳が赤くなる。もう、見慣れた光景だった。


相変わらず無表情で、言葉は素っ気ない。


でも、私にはもう分かる。


この人は、不器用なだけなのだ。


優しさを言葉にする方法を、知らないだけなのだ。



     ◇



そんな穏やかな日々は、突然の知らせで破られた。


「殿下、大変です!」


クラウスが、血相を変えて執務室に飛び込んできた。


「城下の村で、疫病が流行しています。すでに死者も出ている状況で——」


「何だと」


殿下の顔が険しくなる。


「医師を派遣しているが、原因が分からず、対処が追いついていない状況です」


「……」


殿下は深く眉を寄せ、地図を睨みつける。


私は迷った末に、一歩前に出た。


「あの……殿下。私に、行かせていただけませんか」


「何?」


「私、薬草学を少し学んでおりまして。症状をお聞きする限り、対処法に心当たりがあります」


殿下の目が鋭くなる。


「危険だ。お前は俺の妃だぞ」


「だからこそ、です」


私は殿下の目を真っ直ぐに見つめた。


「殿下の妃である私が動けば、民は『王家に見捨てられていない』と希望を持てます。私は——私は、誰かの役に立ちたいのです」


長い沈黙。


殿下の銀灰色の瞳が、私を見つめている。


そして——殿下は深く息を吐いた。


「……俺も行く」


「え?」


「お前一人では行かせない。俺が護衛する」


「で、殿下自らですか……!?」


「文句あるか」


「い、いえ……!」


クラウスが呆れたような、嬉しそうな顔をしている。


「殿下、本当に分かりやすくなりましたね……」


「何か言ったか」


「いいえ、何も」



     ◇



村での日々は、壮絶だった。


私は知識の全てを注ぎ込んで薬を調合し、殿下は率先して物資を運び、病人の家を回った。


「氷の王太子」が、汗だくになって村人を助けている。


その姿に、村人たちは最初こそ驚いていたが、やがて涙を流して感謝した。


「殿下、この薬草をお願いします」


「ああ」


「こちらの患者さんには、この煎じ薬を」


「分かった」


殿下は文句一つ言わず、私の指示に従ってくれた。


普段は傲岸不遜な態度を取る王太子が、一介の姫君の言葉を素直に聞いている。


その姿を見て、村人たちの目が変わっていくのが分かった。



     ◇



一週間後、疫病は収束した。


「アリシア様のおかげです……!」


村人たちが、私の手を取って泣く。


「あなた様がいらっしゃらなければ、私の息子は死んでいました……!」


「いえ、私は当然のことを……」


「当然だと!?」


村長が声を張り上げる。


「敵国の姫君が、我らのために命を懸けてくださったのです! これが当然であってたまるものですか!」


村中から、歓声が上がった。


「アリシア様万歳!」

「王妃様万歳!」


私は戸惑いながらも、温かいものが胸に広がるのを感じていた。


(役に立てた。私でも——誰かの役に立てた)


「アリシア」


殿下の声。振り向くと、殿下がいつになく穏やかな目で私を見ていた。


「……見直した」


「え?」


「お前は——俺が思っていた以上に、強い女だ」


殿下の手が、そっと私の頭に乗せられる。


「よく、やった」


——その瞬間。


私は、生まれて初めて。


『認められた』喜びを、知った。


涙が、止まらなかった。


「……っ」


「おい、なぜ泣く」


「すみません……嬉しくて……」


「……馬鹿が」


殿下の声は呆れたようで、でも、どこか優しかった。


大きな手が、不器用に私の頭を撫でる。


「泣くな。お前が泣くと、俺は……」


「殿下……?」


「……何でもない」


殿下は顔を逸らした。


耳が、真っ赤だった。




第五章 祖国の密使



幸せな日々は、長くは続かなかった。


結婚から三ヶ月。


私はすっかりヴェルディアに馴染み、殿下との関係も確実に変わりつつあった。


毎日一緒にお茶を飲む。


時には政務の話を聞いてもらう。


殿下は相変わらず無表情だけれど、私にだけは穏やかな目を向けてくれるようになった。


そんな穏やかな午後——


「アリシア様、お客様です」


マルガレーテの声に、私は首を傾げた。


「お客様?」


部屋に通されたのは、見覚えのある顔だった。


祖国エルステッドの、王妃付きの侍従。


「お久しぶりでございます、アリシア様」


男は慇懃に頭を下げた。しかし、その目には嘲りの色が浮かんでいる。


「——いえ、『お義母様』からの伝言でございます」


差し出されたのは、継母の筆跡の密書。


封を開き、読み進めるうち、私の顔から血の気が引いていく。


『王太子を毒殺せよ。成功の暁には、エルステッドの正妃の座を与える。お前を見直してやってもよい』


(……っ!)


手が震えた。


怒りで。悲しみで。そして——呆れで。


(今更、こんなことを……)


「……お答えを、お聞かせ願えますか」


侍従が、にやにやと笑う。


私が従うと、疑っていないのだろう。「出来損ない」の私には、選択肢などないと。


「——お引き取りください」


「は?」


「お義母様には、こうお伝えください。『私の答えは、夫にお見せしました』と」


私は立ち上がり、密書を握りしめたまま部屋を出た。


「ま、待て! 貴様、何をする気だ!?」


侍従の叫び声を背に、私は殿下の執務室へと向かった。



     ◇



「アリシア? どうした、顔色が——」


執務室に飛び込んだ私を見て、殿下が立ち上がる。


「殿下。これを」


差し出した密書を、殿下は無言で受け取る。


読み進めるうち、銀灰色の瞳が冷たく凍りついていく。


「……なるほど」


「私の答えは、これです」


私は殿下の目を見つめた。


「私は、殿下を裏切りません。祖国が何を言おうと、私の居場所は——ここです」


沈黙。


殿下が、ゆっくりと立ち上がる。


そして——私を、強く抱きしめた。


「……っ、殿下……!?」


「馬鹿が」


殿下の声が、震えていた。


「お前は——お前は、いつも俺より先に覚悟を決める」


「殿下……」


「もう二度と、お前を一人にはしない」


腕の力が強くなる。


「アリシア。お前は——俺が守る」


その言葉が、私の凍っていた心の、最後の氷を溶かした。


「……殿下」


「レオンハルトと呼べ」


「え……」


「……いや、まだ早いか」


殿下は——いや、レオンハルト様は、照れくさそうに私から離れた。


耳が真っ赤だった。


「と、とにかくだ。使者は拘束する。そして——」


銀灰色の瞳が、鋭く光る。


「お前の継母には、相応の報いを受けさせる」




第六章 十年前の真実



継母の陰謀が明るみに出ると同時に、もう一つの真実が発覚した。


「十年前の戦争は——エルステッド側の陰謀で始まったものだった」


レオンハルト様が、重い声で告げる。


執務室のテーブルの上に、証拠の書類が広げられていた。


当時のエルステッド宰相——継母セレスティーヌの父——が仕組んだ、領土拡大のための策略。


ヴェルディアに濡れ衣を着せ、開戦の口実を作った。


「そんな……」


私は椅子にしがみつくようにして、なんとか立っていた。


十年の戦争。数えきれない死者。憎しみの連鎖。


全ては——私の国の、私の継母の一族が、起こしたこと。


「私……私は……」


言葉が出ない。涙が止まらない。


レオンハルト様に、ヴェルディアの民に、どんな顔を向ければいいのか分からない。


「私のことを、憎んでください……! 私は、あの国の——」


「アリシア」


レオンハルト様の手が、私の頬を包んだ。


涙を、親指で拭ってくれる。


「お前の罪ではない」


「でも……!」


「お前は、あの戦争が起きた時、八歳の子供だった。何ができた? 何を止められた?」


「……」


「お前は何も悪くない。お前は——俺を裏切らなかった。それだけで、十分だ」


レオンハルト様が、初めて自分から——私を抱きしめた。


「お前は俺のものだ。俺の妃だ。過去がどうあれ、それは変わらない」


「レオンハルト様……」


「だから——もう泣くな」


不器用な優しさが、胸に沁みた。


私は、レオンハルト様の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。


生まれて初めて——誰かに守られている、と感じながら。




第七章 刺客と、守りたい人々



祖国からの刺客は、三日後にやってきた。


「失敗した駒は処分する」——継母の言葉通りに。


深夜、寝室に忍び込んできた黒装束の男。


しかし——


「残念だったな」


闇の中から、レオンハルト様の剣が刺客の喉元を捉えていた。


「俺の妃に手を出すつもりか。命が惜しくないらしい」


「く……!」


「殿下……!」


私は驚きで声を上げた。


レオンハルト様は、私を守るために——ずっと、この部屋の近くにいたのだ。


「怪我はないか」


「は、はい……」


「そうか」


レオンハルト様は刺客を兵士たちに引き渡すと、私の元へ歩み寄った。


「……怖かったか」


「少し、だけ……」


「そうか」


レオンハルト様の腕が、私を包み込む。


「もう大丈夫だ。俺がいる」


「……はい」


震える体が、少しずつ温まっていく。


この人の腕の中にいると、不思議と安心できた。



     ◇



翌朝、城の前に人だかりができていた。


「アリシア様……!」


村人たち。疫病の時に助けた人々。


「アリシア様を守るために来ました……!」


「私の息子を救ってくださった恩人を、殺させはしません……!」


「アリシア様は、我らヴェルディアの誇りです……!」


マルガレーテも、涙を浮かべてそこにいた。


「私も、アリシア様のおかげで息子が助かりました。命を懸けてお守りします」


「皆さん……」


私は、言葉を失った。


こんなにも多くの人が、私のために。


「出来損ない」と呼ばれ、誰にも必要とされなかった私のために。


「見ろ、アリシア」


レオンハルト様が、私の肩を抱いた。


「これが、お前が築いた絆だ。お前が守り、お前に守られた人々だ」


「レオンハルト様……」


「お前は——もう、一人じゃない」


涙が、また溢れた。


でも今度は、悲しみの涙ではなかった。




第八章 因果応報



全ての陰謀が白日の下に晒されたのは、それから一ヶ月後のことだった。


「セレスティーヌ王妃、並びにヴィクトリア王女。反逆罪により、その地位を剥奪する」


エルステッドの玉座の間。


新たに王位に就いたのは、私の異母弟エドワルドだった。


「な、何を言っているの!? 私が王妃よ!? この国の——」


「黙れ、母上」


エドワルドの声は、冷たかった。


「あなた方が十年前の戦争を仕組んだ証拠は、全て揃っている。そして姉上を殺そうとした証拠も」


「あんな出来損ないのために——!」


「姉上を侮辱するな!」


エドワルドが、初めて声を荒げた。


「姉上は、敵国で民に慕われ、王太子殿下に愛されている。あなた方が『出来損ない』と呼んだ姉上は——誰よりも立派な王妃だ!」


継母の顔が、蒼白に染まる。


「そんな……そんなはずは……」


「姉上」


エドワルドが、私に向き直る。


「遅くなりました。——ようやく、正義を果たせます」


「エド……」


「これからは、両国が手を取り合える時代を作ります。姉上が繋いでくださった絆を、僕は決して無駄にしません」


私は弟を、静かに抱きしめた。


「ありがとう。立派になったわね」


「……姉上こそ。本当に、綺麗になりました」


「エド……!」


連行されていく継母と異母姉の姿。


最後に、ヴィクトリアが振り返った。


「なぜ……なぜあなたなの……! 私の方が美しいのに……私の方が優秀なのに……!」


私は、静かに答えた。


「私は——愛されることを、諦めなかっただけよ」


ヴィクトリアの悲鳴が、玉座の間に響いた。




第九章 氷が溶ける時



真の和平が結ばれた夜。


城の中庭で、私とレオンハルト様は二人きりだった。


「終わったな」


「はい……」


月明かりが、レオンハルト様の横顔を照らしている。


相変わらず無表情で——でも、その瞳には確かに温かい光があった。


「アリシア」


「はい」


「最初に言っておく。俺は言葉が下手だ」


「……存じております」


「うるさい」


レオンハルト様が、むすっとした顔で私を見る。でも、耳は真っ赤だ。


「……政略で始まった結婚だった」


「はい」


「お前は人質同然で送られてきた。俺もお前を利用するつもりだった」


「……」


「だが——今は違う」


レオンハルト様の手が、私の手を取った。


「アリシア。俺は——お前を愛している」


その言葉を聞いた瞬間。


世界が、変わった気がした。


「レオンハルト様……」


「お前は俺に人の心を教えてくれた。お前がいなければ、俺は一生『氷の王太子』のままだった」


レオンハルト様が、私の額にそっと唇を落とす。


「お前を手放すつもりはない。お前は俺のものだ。——俺の、たった一人の」


涙が、溢れた。


「私も……私も、レオンハルト様を愛しています」


「レオンハルトと呼べ」


「え……」


「お前は俺の妻だ。名前で呼べ」


「……レオンハルト、様」


「『様』はいらない」


「れ、レオンハルト……」


「……もう一度」


「レオンハルト」


レオンハルトが、満足げに微笑んだ。


初めて見る、満面の笑み。


「ああ——やっとだ」


そう言って、レオンハルトは私を強く抱きしめた。


月明かりの下で、二つの影が一つになる。


捨て駒だった姫と、氷の王太子。


二人の物語は、ここから本当に始まるのだ。




最終章 二つの王国を繋ぐ絆



——戴冠式の日。


ヴェルディア王国の大聖堂は、両国の民で埋め尽くされていた。


「レオンハルト・ヴァン・ヴェルディアを、新国王として戴冠する」


厳かな儀式が進む中、私は王の隣に立っていた。


かつて「出来損ない」と呼ばれた、第五王女。


敵国への「捨て駒」として送り出された、誰にも必要とされなかった姫君。


今、私は——ヴェルディア王国の王妃として、ここにいる。


「アリシア」


レオンハルトが、私の手を取った。


満場の民の前で。


「俺の妃を、紹介する」


ざわめきが起こる。


敵国の姫を妃にするなど、前例がない。


しかし——


「この女性は、俺に人の心を教えてくれた」


レオンハルトの声が、大聖堂に響き渡る。


「疫病に苦しむ民を救い、刺客から俺を守り、そして——二つの王国を繋いでくれた」


「陛下……」


「アリシアがいなければ、俺は今も『氷の王太子』と呼ばれていただろう。この女性こそ——俺の太陽だ」


レオンハルトが、私の額に口づけを落とした。


満場の民から、歓声が上がる。


「王妃陛下万歳!」

「アリシア様万歳!」

「両国の架け橋に、栄光あれ!」


涙が、止まらなかった。


(ああ——私は、ここにいていいんだ)


必要とされなかった。

愛されなかった。

「出来損ない」と呼ばれ、捨てられた。


でも——


「アリシア」


レオンハルトの声。


振り向くと、彼は優しく微笑んでいた。


「お前は、俺の誇りだ」


「レオンハルト……」


「これからも、ずっと——俺の隣にいてくれ」


私は、涙を拭いて微笑んだ。


「はい。どこまでも、あなたと共に」



     ◇



——捨て駒だった姫は、二つの王国を繋ぐ架け橋となった。


誰よりも愛される王妃となった。


これは、そんな奇跡の物語。


政略で始まった結婚は——真実の愛に、変わったのだ。



「アリシア、また庭にいたのか」


「ええ。今日は天気がいいから」


「風邪を引くぞ。ほら」


レオンハルトが、いつものようにショールを私の肩にかける。


相変わらず、言葉は素っ気ない。


でも、その行動は誰よりも優しい。


「ありがとう、レオンハルト」


「……礼はいらん」


耳が赤くなっている。


私はくすりと笑った。


「ふふ、相変わらずね」


「何がだ」


「何でもないわ」


私はレオンハルトの腕に身を寄せた。


この温かさが、この不器用な優しさが、何よりも愛おしい。


「レオンハルト」


「何だ」


「愛してる」


「……っ」


レオンハルトの体が固まる。耳どころか、首まで真っ赤だ。


「……急に何を言う」


「言いたくなったの」


「……」


「駄目だった?」


「……駄目なわけ、ないだろう」


レオンハルトが、私を強く抱きしめた。


「俺も——愛してる。アリシア」


月明かりの下、二人の影が重なる。


捨て駒姫と氷の王太子。


二人が紡ぐ物語は、これからも——永遠に続いていく。



【完】

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