第41話 空
しかし、勇者はその後三か月も逃げ延びた。
世界が一度、欲望に呑まれて崩れ、そして魔王の網の下で静かに組み替えられ始めてからも、アルベルトだけは、完全には沈まなかった。
ときおり、どこからともなく、あの読経が鳴る。
山の尾根で。
焼けた村の井戸端で。
廃修道院の石室で。
名もない街道の宿場で。
怪しげな、どこの国の言葉とも知れない響き。
魔術共鳴器は、術者が特定の共鳴器を指定して鳴らすものではない。
スピーカーの性質はもっと雑で、もっと厄介だ。術者を中心とした同心円状に広がり、その圏内の共鳴器へ順に届く。だから、音が鳴った場所だけ見ても、勇者そのものの位置はわからない。
だが旬には、わかった。
いまや世界中へ広がった網の上で、どの共鳴器が、どの順で、どのわずかな遅れをもって起動したか。
誰かの推測も、伝令の思惑も、報告の誤差も介在させず、その幾何だけを一度に把握できるのは、旬だけだった。
同心円がひとつ。
また別の土地で、少しずれた同心円がひとつ。
さらに三つ目。
四つ目。
三角測量だった。
人間がやれば、必ず途中に意思が混じる。
近いと思い込み、遠いと思い込み、怖いから少し保守的に読み、焦るから少し楽観的に読む。
だが旬にはそれがない。
あるのは、幾千幾万のノードから流れ込む、正確な位置と遅延だけだ。
だから追い詰められた。
最後の一点を。
潰さなければならない、と、魔王の網はもう静かに結論していた。
そして旬自身も、それを否定しきれなかった。
勇者アルベルトを放置すれば、あの読経はまたどこかで鳴る。
共鳴器がまた起きる。
欲望の網に、また空白と雑音が刺さる。
世界はすでに旬の中へ流れ込んでいる。
その世界を、最後まで均すには、あの一点を消すほかない。
そうして旬は、一人で山へ入った。
付き従う者はいない。
リーゼも、コンラートも、ハインツも連れてこなかった。
必要がないのではない。
必要なのは、最後の場所を、最後の誤差なしに把握できるものだけだった。
山道の先に、崩れかけた石堂があった。
かつては礼拝所だったのかもしれない。
だが十字も聖印もとうに砕け、屋根の半ばは落ちている。
風が抜けるたび、乾いた草が床石をこする音がした。
その石堂の真ん中に、アルベルトはいた。
剣を膝に置き、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。
逃げてきた男の姿ではなかった。
待っていた男の姿だった。
旬は入口で立ち止まる。
アルベルトが、静かに目を上げる。
「来たか」
「来るだろ」
旬は答えた。
「逃げ切れると思ってたのか」
「思っていない」
勇者はそう言って、わずかに口元をゆるめた。
「三か月もたせれば十分だと思っていた」
その言い方に、旬は少しだけ腹が立った。
まるで最初から、ここまで計算のうちだったみたいな言い方だったからだ。
「何の意味があった」
「お前が完成する前に、世界へ余白を残した」
旬は眉をひそめる。
アルベルトはそれ以上、説明しない。
説明しなくてもよかったのだろう。
互いに、半分はわかっている。
旬の背後で、世界の欲望がざわめいていた。
腹が減っている者。
愛されたい者。
復讐したい者。
許されたい者。
勝ちたい者。
帰りたい者。
選ばれたい者。
甘やかされたい者。
踏みにじりたい者。
踏みにじられたい者。
ありったけの煩悩。
それはもう、世界そのものだった。
旬はそれを、アルベルトへぶつけた。
一人分じゃない。
何万、何十万、何百万という人間の、最も深いところに沈んでいた「気持ちよくなりたい」の総量。
ざまぁも。
無双も。
承認も。
恋も。
帰還も。
勝利も。
赦しも。
所有も。
支配も。
全部まとめて、勇者一人へ叩きつける。
それで終わるはずだった。
どれほど欲を削った人間でも、これだけの総量へ抗えるはずがない。
もし崩れなくても、少なくとも一瞬は止まる。
その一瞬で十分だった。
けれど、アルベルトは別の呪文を唱え始めた。
最初は、またあの読経かと思った。
どこの国の言葉とも知れない、硬く乾いた響き。
意味のない音列。
享楽圏の網を荒らすためだけの、空虚な節回し。
だが、次の瞬間、その音が変わった。
いや、音は変わっていない。
旬の側で、突然、意味が開いたのだ。
異世界の音だった。
いや――元いた世界の音だ。
どこかで聞いたことがある。
昔、ほんの一時だけ、厨二心みたいなもので意味を調べようとしたことがある。
難しすぎて途中で投げた。
それでも、断片だけは覚えていた。
アルベルトの声が、はっきりと届く。
「色即是空、空即是色」
旬の中で、何かが止まった。
石堂の風が止んだわけではない。
世界の欲望が消えたわけでもない。
なのに、その一文だけが、すべての上へ静かに落ちた。
形あるものは空であり、空であることが形である。
アルベルトは続ける。
「受想行識、亦復如是」
受。
想。
行。
識。
感じること。
思うこと。
志すこと。
認識すること。
そのすべてが、また同じく空である。
旬は、その意味を、ただ知識としてではなく、いまこの瞬間の自分に向けられた刃として理解した。
他者の感動でしか自分を満たせなかった。
他者の欲望でしか自分を駆動できなかった。
他者の快を、自分の核の代わりにしてきた。
けれど、その感動自体が空だというのなら。
その欲望自体が空だというのなら。
快も、恋も、飢えも、勝利も、喪失も、承認も。
すべて「ある」と思って掴んでいたものが、最初から定まった実体を持たないというのなら。
では、自分はいったい、何を中心に立っていたのか。
旬の内側で、波のようにうごめいていた欲望の総量が、一斉に形を失い始める。
否定されたのではない。
もっと深い。
あると思っていたものが、掴もうとした手の内で、最初から掴めない性質だったと気づかされる。
「他化自在天」
アルベルトが、静かに言った。
旬は、顔を上げた。
「他人の作った歓びを、自らの歓びとする天がある」
その言葉が、石堂の冷えた空気に落ちる。
「仏法では、その最上に座す魔を波旬という」
波旬。
その音が、遅れて、自分の名前の内側へ落ちた。
波木旬。
はきしゅん。
波旬。
そうか、と旬は思った。
そうだったのかもしれない。
最初から。
他人の快を喰らって生きるもの。
悟りの手前で、人を欲へ引き戻すもの。
第六天の魔羅。
他化自在の最上に座す、欲界の王。
それが自分だったのだと、いまさらみたいに腑に落ちた。
けれどその腑に落ちる感覚さえ、次の瞬間には薄くなっていく。
色即是空。
受想行識亦復如是。
世界中から流れ込みつづけていた欲望が、網の中で次々と輪郭を失う。
腹が減った。
愛されたい。
勝ちたい。
帰りたい。
その一つ一つが、たしかに起きて、たしかに人を動かしてきた。
だが、どれも掴みどころのない波にすぎない。
生じては消え、結ばれてはほどける。
そして、それを束ねて「自分」だと思っていたものも、同じく空だった。
魔王。
旬。
供給者。
ノード。
結節点。
そのどれもが、名前にすぎない。
ありったけの煩悩をぶつけたはずなのに、ぶつけた側からそれが砂のように崩れていく。
「……あ」
旬の口から、情けない声が漏れた。
何もなくなっていく。
快楽が消えるのではない。
快楽にしがみつく意味が消える。
欲望が消えるのではない。
欲望を「自分のもの」として立てる柱が消える。
世界が白くなる。
石堂も。
風も。
アルベルトの顔も。
自分の手も。
全部が、ただの通過点になる。
旬は立っていられなくなった。
膝が折れる。
床石へ手をつく。
でも、その冷たささえ「冷たい」と掴んだそばからほどける。
何も持てない。
何も残せない。
何も欲しがれない。
魔王、いや、波木旬は、その瞬間、すべての欲を失った。
無に還る、というのは、たぶんこういうことなのだろうと、どこか他人事みたいに思った。
空だった。
最初から。
自分も、感動も、欲望も、快も、苦も、名前も。
それを知ってしまったら、もう何かになりつづける理由はない。
網が、静かにほどけていく。
世界じゅうへ張り巡らされていた欲望の回路が、無理やり断ち切られるのではなく、もう張っている意味を失って、一斉に光を落とす。
どこかの国で剣を振り上げていた男が、ふと手を止める。
誰かを奪い取ろうとしていた女が、そのまま泣き崩れる。
腹が裂けるまで食っていた子どもが、ようやく眠る。
歓呼を欲していた新しい王が、玉座の上でひどく疲れた顔になる。
世界はすぐには戻らない。
壊れたものは壊れたままだ。
死んだものは死んだままだ。
けれど、増殖していた煩悩のネットワークだけが、静かに力を失っていく。
アルベルトは、最後まで旬を見ていた。
勝った顔ではなかった。
哀れむ顔でもない。
ただ、ようやく届いた相手を見る目だった。
旬はその視線の意味を、もううまく考えられなかった。
考えることも、感じることも、認識することも、また同じく空だったからだ。
色即是空。
空即是色。
その言葉だけが、白い場所の奥で、ひどく静かに響いていた。
*
そして――地球で、新たな命が生まれる。
夜明け前の産院だった。
白い灯り。
消毒液の匂い。
窓の外には、まだ青みの残る街の空。
産声が、ひとつ上がる。
若い母親が泣きながら笑う。
助産師が「元気ですよ」と言う。
父親らしい男が、廊下で何度も頭を下げている。
生まれたばかりの赤子は、まだ何も知らない顔で、薄く目を開けた。
欲もない。
名前もない。
誰かの感動で自分を埋める必要もない。
ただ、息をする。
その小さな胸が、ひとつ、上下する。
それだけだった。




