第39話 魔王覚醒
戦場のただ中なのに、世界は妙に遠かった。
城下のあちこちで読経めいた呪文が鳴りつづけている。火が上がり、怒号が走り、どこかで鉄と鉄がぶつかる音がする。誰かが泣いている。誰かが叫んでいる。誰かが死んでいる。
それなのに旬の頭の中では、それら全部が一度ばらばらに砕けて、また別の順番で流れ込んできていた。
帰りたい。
勝ちたい。
助けてほしい。
ここにいたい。
眠りたい。
選ばれたい。
離れたくない。
享楽圏じゅうの欲望が、網の切れ目から逆巻いてくる。
一つ一つは苦しくない。苦は共有されない。けれど、快だけが、願いだけが、あまりに多すぎて、自分の輪郭を内側から削っていく。
いま、自分が何を望んでいるのか、旬にはもうよくわからなかった。
ただ、倒れたくない。
止まりたくない。
崩れたら、全部終わる。
その意志だけが、かろうじて残っている。
「旬!」
その声だけが、まっすぐ届いた。
振り向く。
リーゼがいた。
髪は乱れ、額には汗と煤がついている。息も上がっている。戦場を走ってきたのが一目でわかる。それでも、その目だけは少しも揺れていなかった。
旬は反射的に言った。
「来るな!」
「やだ」
即答だった。
「今それ聞いてる余裕ない」
その言い方が、あまりにもいつものリーゼで、旬は一瞬だけ現実へ引き戻される。
彼女はさらに近づいてきた。
呪文のノイズが濃い。共鳴器の読経が耳の奥を掻き回す。なのに、リーゼが一歩近づくたびに、そこだけ空気が変わる。
「ねえ」
リーゼが言う。
「もしかして、耳を閉じて、ぐっと近づけば通じるんじゃないかな」
旬は息を荒くしたまま、眉を寄せる。
「何言って」
「最初」
リーゼが遮る。
「最初のあの感動、覚えてる」
その一言で、麦畑の朝が戻ってくる。
納屋の天井。
まだ名前もよく知らなかった少女。
『麦風のミリア』が流れこんだ、あの最初のつながり。
リーゼの中で広がった憧れと、こっちへ逆流してきた胸のざわめき。
全部の始まりだった。
「また――」
リーゼがそこで言葉を切る。
切ったというより、もう言わなくてもいいと思ったのかもしれない。
また、つながれるかもしれない。
もっと深く。
もっと近く。
もっと、他の声なんか届かないくらいに。
リーゼは自分の両手で、旬の頬を包んだ。
熱い手だった。
冷えてもいないし、震えすぎてもいない。ただ、生きている手だった。ここまで走って、怖くても、それでも来た人の手だ。
旬は、その手の温度だけで、少し泣きそうになった。
「リーゼ」
呼んだ声が、情けないくらい弱い。
リーゼは答えなかった。
代わりに、そっと額を寄せた。
こつん、と、軽く触れる。
たったそれだけなのに、世界が変わった。
読経の雑音が、遠のく。
完全には消えない。けれど、幾重にも重なっていたノイズの向こうから、リーゼの感情だけがまっすぐ浮かび上がる。
放っておけない。
必要だ。
怖い。
それでも離れたくない。
どれだけ魔王に近づいても、それでも旬を旬として失いたくない。
その気持ちは、もう曖昧じゃなかった。
借り物みたいな薄い親愛じゃない。
誰かの型に沿った恋でもない。
リーゼ自身の、どうしようもなく真剣な感情だった。
その感情に触れた瞬間、旬の中でも何かが切り替わる。
童話が走った。
呪いは、真実の愛で溶ける。
眠り姫は、たった一人の口づけで目を覚ます。
凍った城は、名前を呼ぶ声で春を取り戻す。
怪物にされた誰かは、それでも一人の人間として抱きしめられる。
誰でも知っている話。
何度も繰り返され、使い古されて、それでも人が飽きずに求める話。
愛で呪いが溶ける。
つながることで、失われかけたものが戻る。
その類型が、走馬灯みたいに一気に駆け抜けた。
そうだ。
みんな、こういう瞬間を知っている。
知っているから求める。
信じたいから、何度でも同じ話に泣く。
その感動が、リーゼの側から旬の中へ流れ込む。
それに旬の中の何かが応える。
つながった。
今度は、はっきりと。
旬は思わずリーゼの身体を抱き寄せた。
自分でも驚くほど自然な動きだった。
リーゼのほうもためらわなかった。ぶつかるみたいに胸へ飛び込み、そのまま二人は足場を失った。崩れた石床に、絡み合うように倒れこむ。
次の瞬間には、唇が重なっていた。
熱かった。
最初はぶつかるように。
次は、確かめるように。
その次は、失いたくないものへすがるみたいに。
戦場の真ん中だった。
呪文がまだ響いている。
遠くで誰かが叫んでいる。
石の床は冷たい。
それでも、その口づけだけが、ひどく甘く、ひどく静かだった。
旬は、リーゼの唇の柔らかさより先に、そこから伝わる確信に打たれた。
これは借り物じゃない。
少なくとも、全部が全部、借り物ではない。
その瞬間だった。
自分の中で、何かが切れた。
理性ではなかったのかもしれない。
もっと手前の、ずっと細く張っていた最後の糸だ。
それが音もなく千切れた途端、全身を、どうしようもない衝動が撃ち抜いた。
欲しい。
その一語だけが、頭の中で雷みたいに何度も鳴った。
腕が勝手に動く。
抱き寄せるなんて生ぬるいものじゃない。逃がさないために引きずり込むみたいに、リーゼの身体を胸へ叩きつける。
リーゼも同じだった。ためらいも遠慮もなく、旬の首へ腕を回し、食い込むほど強くしがみついてくる。
熱い、と思うより先に、もう唇がぶつかっていた。
最初の一度は、確かめるためですらなかった。
飢えたみたいに、奪うための口づけだった。
ぶつかって、離れて、次の瞬間にはまた求める。
浅く触れる余裕なんかない。
息を奪い、熱を奪い、相手の中へ少しでも深く入り込みたいみたいに、夢中で唇を重ねる。
噛むように。
すがるように。
怒っているみたいに。
泣いているみたいに。
どちらからともなく、喉の奥で苦しい音が漏れた。
それでもやめられない。
離れたくない、では足りなかった。
もっと近く。
もっと深く。
もっと、境目がなくなるところまで。
いま抱いているこの熱ごと、相手を自分の中へ引きずり込みたかった。
逆に、自分も相手の中へ沈んでしまいたかった。
今まで抱いてきたどんな欲求より強いものが、そこにはあった。
食欲でもない。
眠気でもない。
承認でもない。
快楽ですら、たぶんまだ足りない。
それは、存在そのものを食い合うみたいな衝動だった。
好きだから、なんて言葉では弱すぎる。
愛しいから、でもまだ届かない。
失いたくない。
欲しい。
奪いたい。
溶けたい。
ひとつになりたい。
そんな、ひどく獣じみた、ひどく人間じみた衝動が、全身の血を沸かしていた。
全身の血管が沸騰するように、はらわたの底にあるものが跳ね回るように、それを欲していた。
――私?
今や私の体をすべて焦げ付かせてしまうほどの衝動が、頭の奥をゴングで打ち付けているようだった。
そう、私がいま抱き合い、猛烈な愛おしさと独占欲と一つになりたいという欲求と衝動をぶつけていたのは――
自分だった。
私はリーゼだった。
いや、私が私を抱いて、それによって私がさらに私を抱いた。
私が旬を抱いていた。
旬を欲しがっていた。
どれだけ魔王になろうと、どれだけ遠くへ行こうと、それでもこの男を旬として失いたくないと、喉が裂けるほど願っていた。
その感情が、そのままこちらへ流れ込む。
だが、ただ流れ込むだけでは終わらなかった。
私が抱きつき、私が抱き返す。
私が貪り、私が貪られる。
私が求め、私が応える。
誰がどちらの息を吸っているのか。
誰がどちらの心臓の音を聞いているのか。
誰の腕が、誰の背を掴んでいるのか。
そんなことすら、どうでもよくなっていく。
胸の奥から突き上げてくる、すさまじい情熱。
もう放したくないという衝動。
いや、放したくないでは足りない。
もうずっとそのまま、ひとつになってしまいたい。
その感情と衝動と欲求が、この世界に転生してから最も現実味のある、最も気心の知れた欲望と快楽と感情の底から湧いてくる。
借り物ではない。
少なくとも、もう借り物と区別する意味がない。
私の欲なのか。
リーゼの欲なのか。
旬の欲なのか。
そんな線引きは、熱の中で順番に焼き切れていった。
無限に続く、溶けあうループだった。
触れたところから境界が消えていく。
感情が重なる。
欲望が反射する。
快楽が快楽を呼び、その反響がさらに深く沈んでいく。
その欲望は、互いを求めるものだったはずなのに、重なり、反響し、融け合ううちに、やがて形を失っていった。
その白く眩い光の中で、私、いや、自分をつくる輪郭は、順番に剥がれていった。
自分は――
私は――
ない。
空白。
空虚。
空白にして、何にでもなれる。
何者でもない。
だからこそ、どこへでも接続できる。
もうどうなってもいいや。
この快楽さえあればいい。
空白になった、そのとたんだった。
ネットワークがひらく。
一気だった。
今までのように、誰か一人の欲望が流れ込むのではない。
享楽圏全体が、白い神経の束みたいに、一本の巨大な樹として視界の裏に立ち上がった。
私が消える。
リーゼが消える。
旬が消える。
名前が消える。
境界が消える。
欠けも、飢えも、恐れも、ついには「誰のものか」さえ消し去られていく。
私は民であり、
自分は民であり、
あらゆる欲が、あらゆる快が、あらゆる承認と安堵と歓喜が、結節点を探しながら走り回る。
その中心で、ノードとしての私が自己再生されていく。
壊れた端から、組み直される。
足りないところへ、誰かの欲望が流れ込む。
過剰なところは、別の誰かの安堵が受け持つ。
快は共有され、拡散され、増幅され、しかも苦痛を伴わない。
だから拒絶がない。
だから停止もない。
だから網は、ひたすら自己修復しながら広がっていく。
読経のジャミングが、世界のあちこちでほどけていった。
共鳴器の吐く不気味な節回しが、今度は逆にこちらへ読まれ、分解され、意味ではなく構造として剥がされる。
解呪が進む。
誰が命じたわけでもない。
だが、網の中ではもう処理が始まっていた。
壊れた箇所を塞ぐための迂回路。
ノイズを呑み込むための同期。
局所遮断を無効化するための感染式プロトコル。
そんなものを、私たちは誰にも教わらず、瞬く間に作っていた。
いや、“作った”というより、必要とされた瞬間にそこへ生えた。
ひとたび開いた欲望の網が、あたりすべてを、共有される快楽の渦へ巻き込んでいく。




