4.発芽
「君のランタンは不思議だな。コークスで炊いているようには見えないし、白熱球にしては光が青白すぎる」
道中、歩きながら前を歩くモミザの腰にぶら下がっているランタンを覗き込みながらスタビーが呟いた。
尚、俺は最後尾でそこそこの重さの荷物と、慣れない洞窟道に息を荒らげながら二人の後を追って歩いていた。一体何をこのバッグの中に詰めているのやら、問い詰めても知らん顔して教えようとはしてくれなかった。
「おいおい、クソ真面目さんは工学にも通じてやがんのかよ。お前さんは元とはいえ軍医だろう?」
「昔少し齧った事があってな。軍人たるもの自分で使う装置の仕組みくらい知っておかないといざという時困るだろう」
「へいへい、秀才エリート君の考えは立派ですこと」
ひょい、と肩を竦めるとスタビーは何も見なかったかのように視線をモミザの方へ戻した。スタビーは昔から、良い家の生まれであることや、その博識さを指摘されると言葉を詰まらせる癖がある。別に本人としても嫌がっている訳では無いのだろうが、自慢げにしてしまえば貧乏人の多い軍人の中で浮いてしまうのは目に見えるため、どうにも話を広げにくいのだろう。
こういう、人のコンプレックスのような部分をほじくるのは気が引けるが、彼も俺の獣人病についてグダグダ講釈を垂れることがあるので、お互い様だろう。
「あ、知らないんだ。これ、燃料は一切使ってないんだよ」
スタビーの問いかけに、モミザは珍しく反応を見せ、ランタンを持ち上げて見せた。
「これの光源はルミレソウ。苔の一種なんだけどね、紫外線を当てて育てて、乾燥させると、水でふやかした時に溜め込んでいた紫外線を元に光を放つんだよ」
彼女はポケットから、よく乾いた苔の塊を引っ張り出してスタビーに突き出した。彼は一瞬躊躇してそれを受け取り、しげしげとそれを観察した。
「……普通の苔にしか見えないが」
「ちぎってそこから垂れてる水に当ててみなよ」
スタビーはモミザに言われたままに数センチにちぎった苔を、洞窟の岩壁から滴っている水滴にそっとそれを擦り付けた。すると、瞬く間にその苔は原型が見えなくなる程に青白く発光を初め、新たな影が現れた。
「……これは、たまげたな。こんな苔、見たことも聞いたことも無い」
「そうだろうね、地上には出回って無いだろうから、知らないのも無理ないよ。……あれ、これって地下だけの秘密だっけ……。まあいっか」
スタビーの持つ少量の苔は、ものの十数秒程で光を失い、ただの湿った苔になってしまった。確かに明るく、更に光らせるのに必要なのが水だけというのは手軽だが、燃費というか効率はあまりよろしくないようだ。
「こうしてみると、地下の文化や技術は我々に負けず劣らずという所だな。全く交流が無い文明のことを知れるのは、中々興味深い」
「気に入ってくれて良かったよ。ちなみに今から向かうのは洞村だから、もっと色々と見れるかもね」
洞村。噂程度に聞いた話によると、地下で暮らし続けることを選んだ人々の、洞窟内の集落をそう呼ぶらしい。地下と地上の交流手段は限られており、その情報も殆ど無いことからそれ以上のことは分からないが、俺達地上人にとっては頭の硬い連中の住まう場所、という印象だ。
「洞村?地上に向かうんじゃねえのか?」
「君達、それなりに怪我してるし、延々と登り坂を上がるのは体に響くでしょ。それなら、洞村で体をしっかりと休めてから上に上がった方が確実でしょ」
「……地上に出るのは時間がかかるのか?」
スタビーは少し怪訝そうな顔で言った。逃亡者である俺はまだしも、生死不明の自分の部下達を地上に置いて来たスタビーにとっては、一刻も早く地上へ帰りたいのが本音だろう。
「うーん、時間がかかるというか、殆ど未整備だからどうなるか分からないんだよ。影獣もごろごろいるだろうし、私達三人が今の状態で満足に上に上がるのは難しいだろうね」
モミザが小首を傾げながら言ったのを見て、スタビーはガックリと肩を落とした。未整備、というのはそれだけ地下から地上に上がる者が少ないということなのだろうか。彼女の言う通り、今の俺達のコンディションで影獣と交戦するのはなるべく避けたい。スタビーは骨が逝っているし、俺も撃たれた足が万全では無い。それに体力もそれなりに消費してしまっている。彼も、それを分かって妥協しているのだろう。
「……洞窟にも影獣が出るんだな」
俺の呟きに、モミザはまさか!とでも言いたげに振り向いて言った。
「そりゃ出るよ。……ハッキリしたことは分かってないけど、影獣は地下で生まれてるっていう説もあるくらい出るんだから。だから巡礼も、地上の比じゃない規模のが起きる」
彼女の表情は変わっていないが、その口調から苦い顔をしているのは何と無く分かった。地上の巡礼は、頻度が多くて月四回程だが、一国がキチンと装備も人員も用意すれば大抵は何とかなるものだ。それの比ではない巡礼とは一体どれ程のものなのか、ぼんやりとした想像が出来ない。
「と、いう話をしていたら何とやら、だね。……止まって」
先頭を歩くモミザが腕を横に伸ばしたのを見て、俺達は揃って足を止めた。そして人差し指をその唇に押し当てたのを見て、俺は喉の奥に固まった唾を無理矢理飲み込んだ。スタビーは、腰の拳銃に反射的に手を添えていた。
モミザは俺達に一度目配せしてから、その場の地面に手を当てて静止した。
「……四……いや、小さいのを含めて七か八かな。大きいのが三、か」
「……影獣がか?」
俺が声を潜めて問うと、彼女は小さく頷いてみせた。
「この先、四十メートルくらい先かな。小さな群れがいる。……しかももうこっちの存在に気が付いているみたい」
地面に手を当てただけで、何故そこまで分かるのか。問いたい気持ちはあるが、声を潜めている中でそれを聞く余裕は無い。
「どうする?……殺るか?」
「うん……、気付いてるから逃げても付かず離れずで追ってくるだろうね。それも別の群れを引き連れて。だったらここで始末した方が良いと思う」
「……分かった。俺がやろう」
俺はバッグをモミザに押し付け、軽く肩を回しながら洞窟の奥に目を凝らした。生憎、ランタンが照らすのはたかが数メートル先まで。ここからでは、影獣の気配は感じられない。ただ、ほんの少しだけ獣臭が空気に混じっている。それも、ごくごく僅かなものだが。
彼女の言う通り、本当にそれがいるのかすらも怪しい。
だが、ここは俺が先鋒兼大将として先んじるのが吉だろう。負傷しているスタビーは論外として、この小柄な少女が戦えるとは「到底戦えるはずもない」
「っ……!?」
ハスキーなモミザの声が耳元で囁かれ、背筋が震えた。それも、俺の思考を盗聴したかのように言うものだから、思わず叫び出しそうになってしまった。
「あ、やっぱりそう思ったでしょ」
「……お前はエスパーか何かかよ。……というかどう見たって、お前が戦えるとは思えねえな。そのか細い体に小せえ身長で戦うなんぞ、蝶がカマキリに挑むようなもんだろうが」
「……同感だ。モミザ、この男は粗雑で乱暴だが、戦いのセンスだけは秀でている。ここは彼に任せるのが懸命だ」
二人の視線を浴びるモミザは驚いたように幾度か目を瞬かせ、暫くして横目で俺達を睨み付けた。表情の変わらぬその顔は、どのような感情を抱いているのか分からない。しかし、俺には彼女が、不敵な笑みを浮かべているように見えた。
「その蝶は、熊をも殺す蛾かも知れないよ」
声色が変わった。今までの淡々とした口調では無く、明らかに負の感情を孕んだものへと変化したのが分かる。
――俺が、ビビってるのか?このクソガキに。
まるで鷹に睨まれた兎のように。熊の縄張りに踏み込んだ鹿のように。
心では否定しても、体は正直なもので、額から冷や汗が滲み出てくる。横目で確認すると、スタビーも同じようなものを感じとったらしく、顔が強ばっている。
「大丈夫。それに、影獣と戦った痕跡はなるべく残さない方が都合がいいから。……私にはそれが出来る」
そう言うと、彼女は再び俺に荷物を押し付け、シルクのような髪の毛を耳にかける。先程は少ししか見ることが出来なかった獣人病の証である角が、今度はその近さ故にありありと目に映る。
その、鹿のもののようにも見える角を彼女が指先でそっと撫でると、奇妙なことに、それは幾つにも枝分かれしながら伸びていった。ものの数秒で、ほんの数センチにも満たなかった角は、メキメキと成長を遂げ、やがて後頭部を超える程の長さまでになった。
全身が熊である俺が見ても驚くその異様な光景に、スタビーは開いた口が塞がらなくなっていた。
それなりの大きさになったその角を見て、俺はハと気が付いた。鹿か何かの角だと思っていたそれは、大きくなって本当の正体を表したのだ。幾つにも枝分かれし、筋の入った表皮、先端はほんのりと若緑がかっているその角は、今や植物のものにしか見えなかった。
「……お、お前……、その、角は……」
もはや声を潜めることなど忘れていた。前方に影獣の群れがいる、そんなことを忘れてしまう程には、この状況は異様なものだった。
「着いてきて。すぐに終わらせる」
気が付けば、足音も無く歩く彼女の、絹糸のように滑らかで細い、光を弾く白色だった髪の毛は、初春に枝に実る若葉のように鮮やかで透明感のある若芽色に染まっていた。
一体何がどうなっているのか、そんなことを考える間もなく、俺達は何の言葉も発さずに彼女の後を追っていた。
どれくらい時間がたったのか、ほんの数秒が数時間か。狂う時間感覚の中で、視界に入るのはモミザのみ。やがて彼女が足を止め、ようやく思考が停止していたのを自覚した。
「来たね」
そう彼女が呟いたのと、ランタンが照らす範囲の中へ影獣が飛び込んで来たのは、殆ど同時だった。あれは、狼型の影獣だ。素早く、そして賢い、影獣の中で先鋒の役割を担う。
俺は咄嗟に手を伸ばした。届くはずのない手を。
彼女はまだ動かない。光が届くのはほんの数メートル、狼にとってその数メートルは目と鼻ほどの距離と変わらない。これから一度瞬きをする間に、あの可憐な少女は血に塗れた肉塊になってしまうだろう。
肉が裂ける生々しい音が洞窟の中を木霊する。俺は反射的に目を瞑ってしまった。その凄惨な場面を目にするのが恐ろしくて。
「一匹」
しかし、彼女の声は血肉の音をかき消して耳に届いた。痛みや苦しみに喘ぐような声では無い、無情で淡々とした声色。
俺が恐る恐る目を開くと、瞼の裏に残った残像と、モミザの位置や体勢は寸分違っていなかった。唯一変わったのは、彼女に飛びかかっていた狼の姿。それは血反吐を吐きながら彼女の眼前で空中に佇み、体を痙攣させて藻掻いていた。
一体何が起こったのか、全く理解出来なかった。しかし、二匹目の、狼型の影獣が光の範囲内に飛び込んで来た辺りで、俺の脳はようやく状況を把握した。
根だ。
硬い洞窟の岩壁から伸びる三本の木の根が、鋭利な槍のように伸びて三方向から狼を串刺しにしていたのだ。
次の瞬間、その根は串刺しにしていた狼の体を外側に引き裂くと、迫る二匹目の狼を、顔から尾にかけて直線上に貫いた。
余る二本の根がうねったかと思うと、続く牡鹿型の影獣の、脳天と腹部をそれぞれ一本ずつが突き刺し抜けた。血肉を撒き散らしながら散る牡鹿の影獣、その残骸は見るに堪えないもので、頭と胴が粉砕し、残る首と背、四本の足が鈍い音を立てて地面に着地した。
「三匹」
モミザが、顔に付着した狼の血液を拭った。
そして迫る四匹目の鹿、五匹目の猪、そして最も体格のでかい六匹目の豹。単体では敵わぬと踏んで、数的有利を取ろうとしているのだろう。俺の知っている巡礼の影獣は、個々の意思が強く、獲物を独り占めすることを目的としているように見えていた。だから、こうやって影獣同士で連携を取っているということは、それだけ知性が高いか、そうでもしない限り、モミザには敵わないと悟ったのだろう。
三匹は、縦に一列に並んで突進してくる。地中から伸びて来た根に先頭の鹿が貫かれたのを皮切りに、残りの二匹が左右に展開する。
すかさず根が攻撃をしかけ、猪の体は粉砕される。しかし、豹は間一髪の所で根の攻撃を躱し、その鋭い牙を光らせながらモミザへと飛びかかる――
「六匹目」
刹那、前に伸ばしたモミザの手首から二本の若いツルが伸び、豹の全身をがんじがらめに拘束する。
動けない、そう豹自身が自覚するよりも早く、三本の根がその体を貫いた。
「最後。ほら、来るの、来ないの?」
ランタンの明かりの範囲外、俺達には何も見えないが、彼女には何か見えているのだろうか。彼女はその何かに向かって小さく子招きしている。
「……。はい、終わったよ」
明かりの奥で何が起きたのかは分からない。だが、彼女が踵を返してこちらへ戻って来たということは、そういうことなのだろう。
モミザは、頬にこびり付き、固まっている血を剥がし落とし、きょとんとした顔でこちらを見上げた。
「終わったよ?」
「……ん、ああ……」
彼女のツタが俺の額を小突く。そこでやっと、凝縮されていた時間の流れが正常に戻り、俺は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
「モミザ……。君は……、君のその力は、一体……」
スタビーが目元を解しながら問う。
彼女は小さく首を傾げ、視線を天に向けてしばし考えている様子だった。
「言ったでしょ。……熊ちゃん、君と同じって。私もただの獣人病だよ。少し特殊なだけでね」
「待て待て待て待て。……っすう、お前、俺と一緒だと!?何を抜かしやがる、俺にゃ根を伸ばして影獣を串刺しにする力もツタを伸ばす力もねえんだぞ!?」
モミザが小さく息を吐くと、髪の色は徐々に元の白髪に戻り、伸びていた角は長い髪の毛の元へと収まった。ただ、元より変わらないのはその翠玉色の瞳と、きめ細やかで色白な肌のみ。
「君には熊由来の鋭い爪や歯、獲物の匂いを嗅ぎつける嗅覚、強靭な筋肉や骨が備わっているだろう。……それと同じことだよ。私は少し、植物の力を扱えるだけ」
「なっ……なっ…………なっ……」
思わずどもってしまう。
硬い洞窟の岩壁を貫ける程の力を少し、だと?冗談じゃない。
獣人病の苦しみは、体の変化以上に、その精神面にある。徐々に人と解離していく思考、意識。俺に同類の友人はいないが、獣人病を発症した者は、皆が心が侵食されていく苦しみを感じるだろう。
だが、彼女はそれが植物だという
植物に、肉を食らう欲はあるか?無性に腹が減って、周りを歩く人間が、肉塊のように見えることがあるか?戦場で散る仲間を見て、床に落とした飯のように、まだ食えるかな、と思うことはあるか?
獣人病は、人間が獣に変化していくから獣人病と呼ばれているというのに。植物の獣人病なんて、聞いたことは無いし、そもそもその定義に当てはまってすらいない。俺は、そんなもの、認められない。
「……」
「おい、クソ真面目!お前も何か言ってやれ!こんなインチキ紛いの…………なんて!俺は認めねえからな!」
スタビーは神妙な面構えで何も話さない。それが嫌に癇に障って、胸の内でフツフツと鍋が煮えたぎっている。
そもそも、俺は何故、彼女に対してこのやり切れない気持ちを抱いているのだろうか。俺は熊の獣人病、彼女は植物の獣人病。それだけのことではないか、それなのに、何故、俺はこうも疎外感のようなものを感じているのだろう。
「落ち着け、ヴォルテク。……彼女が特異な獣人病で、どんな力を有していたとして。彼女が……その力を望んで手に入れたとでも思っているのか?」
「……ぬ、ぐ……」
「……それは。……お前が一番良く分かっているだろう」
やめろ。
そんな哀れみのような目で俺を見るな。
心の臓が体から抜け落ちていくような気がする。息が浅くなり、視界が段々と狭まっていく。
「……うるせえ」
「何!?」
脳から零れた言葉を口が拾って吐き捨てた。意図せず零れた悪態に、スタビーが怪訝そうな声をあげる。
「……うるせえ!と、言ってんだ!!分かったような口利きやがって!!五体満足人間ボディフルセットのお前に、分かってたまるか!!」
俺の中の、何かが決壊した。理性で言葉を押し止められない。壊れた蛇口のように、頭に浮かんだ言葉が、全て口から流れ落ちていく。
「今はそういう話ではないだろう!私が言いたいのは、彼女の力に特別な感情があるのは分かるが、それは彼女が望んで手にした訳ではない!」
「うるせえうるせえうるせえ!!いつも俺の親みてえに講釈垂れやがって!誰も、俺の気持ちなんざ理解出来ねえんだよ!」
思わず、手を振りかぶった。長く伸びた爪と、巨大な掌の影が、スタビーの顔へと落ちる。
腕が止まらない。重力に逆らえない。もう、頭からの静止信号は間に合わない。
違う。俺は、こんなことしたい訳じゃ――。
「はい。ストップ」
刹那、俺とスタビーの足元から茶褐色の木の根が地面を突き破って伸び、二人の体を、蛇がとぐろを巻くように縛り付けた。
「うおっ、なっ……なっんだ……」
「が……っ、なぜ……私……まで……」
万力のような力で根が締め付けられ、身動きが取れない。スタビーも、苦悶の表情で根の拘束を解こうと藻掻いている。
モミザは再び髪を若芽色に染め上げながら、俺達二人の前に立ちはだかった。
「あのさあ。……何で論争の種の私を放って、君達二人で争いが始まるのさ。君達、仲が良いのか悪いのか……私には分からないよ」
わざとらしくため息を吐きながら、彼女は己の足元からも同様に根を伸ばし、それを椅子のように整形して座った。
「スタビーさんの言ってることは正論。私は望んでこの力を持ってる訳じゃないし、獣人病と名乗っていいのかは分からないけど、君と同様に肩身がそれなりに狭いのは一緒」
モミザは椅子の高さを変え、俺の鼻先を指で小突いた。
「君が熊に変化するにつれて、人間らしさが消えて獣に成り下がっていく恐怖を持っていることは分かる。でも、それは植物だって同じなんだよ。……君が人間を肉の塊としか見れなくなるのと同じように。……私は、逆に感情も、意識も、何もかもが消えて無くなるんだから」
その言葉に、思わずハッとした。
彼女の一切変わらぬ表情が、まるで剪定をされても、悲鳴どころか文句すら言わない観葉植物のように見えたからだ。
「お互いの苦しみは、自分自身しか分からないものなんだよ。私も、君の苦しみを完全に理解出来てる訳じゃないから、大きなことは言えないけど。……それでも、出来るだけ理解しようと頑張ってみる」
俺を拘束していた木の根が、するりと解かれる。よたよたと地面に着地する俺に、モミザは片手で己の頬を持ち上げていった。
それを見て、俺は思った。
獣人病とは、この儚げな華からも、笑顔を奪ってしまうのか、と。
「……っ。すまねえ、取り乱した。……お前のことなんぞ何も分かっちゃいねえのに、分からないまま通り過ぎようとした」
「謝罪はいらないよ。……これから、これから分かり合っていけばそれでいいんだから」
突き出された小さな拳に、一瞬躊躇いを感じながら拳を合わせる。
「……すまない……私の言うことが正論なら……何故私も彼と同様に拘束されているんだい?」
声のする方向へ目を向けると、そこにはモミザの力によって根で雁字搦めにされたスタビーが、体を空中に浮かせ、ぐったりとした様子でこちらに目を落としていた。その顔は未だに自分が拘束を解かれていないことに不満気であり、怪訝な目付きでモミザと俺を睨み付けていた。
モミザは彼を一瞥した途端、あ、と小さく声を上げ目を逸らした。が、逸らした視線の先には俺があり、ゆらゆらと揺れるその瞳孔を俺は見逃さなかった。
「……」
「お前、ちょっと忘れかけてただろ」
「……さ、さあ?」
彼女がおどけたように肩を竦めると、静かにスタビーの拘束が解かれ、彼の怪我を考慮してかゆっくりと地面に降ろされていた。
「……ごめん、無意識だった。……多分ムカついたんだと思う」
モミザは気まずそうに視線を逸らしながら、耳の背後を幾度か叩いた。すると、彼女の髪と角は見る見る内に元の色と長さに戻っており、伸びていた木の根も、彼女が腰掛けていた木の椅子も消滅していた。
彼女が無意識の内にムカついたのは、何となくだが理解できる。その無表情さ故に思考まではまだ読み切れていないが、おおよそ俺がカッとなった理由と同じだろう。
彼は今の地位に着くまでは軍医として、前線に立ちつつ医療行為にも深く通じていた。だから、獣人病に対してもある程度の理解はあるし、彼が俺を熊の体をしているからという理由で差別したことは殆ど無い。
だが、そのなまじの知識があろうとも、獣人病の苦しみを完璧に理解することは出来ない。むしろ、その半端な姿勢があるせいで、相手の感情を逆撫でしてしまう可能性もある。戦争で片腕を欠損した兵士が、両腕の残っている別の兵士に片腕の不便さの講釈を垂れられたら、きっと腹が立つだろう。理解は必要だ、だが、当事者本人の感情を汲み取りきれていなかった場合、その理解は途端に偽善に変貌してしまう。
「ごめん、ね?スタビーさん。傷に障ってない?」
スタビーは軍服に着いた土埃を手で軽く払うと、すぐに口元を緩め、モミザに向き直った。
俺は知っている。あれは納得がいっていない顔だ。直接戦場に出ることのない上官に、軍備縮小を迫られた時に見せていた顔と全く一緒だ。だが、彼の中にはまだ、彼女に命を救われたという大きすぎる借りがある。その借りを彼女に返済しきるまでは、その怒りの矛先が彼女に向けられることはないのだろう。
「いや、あそこで君が引っ張り上げてくれなかったら私の顔の皮は奴に剥がされていただろう。結果的に助かったよ、ありがとう。傷も大丈夫だ」
「そう。……傷んだらちゃんと言ってよ?」
「大丈夫。元とは言え私は軍医だったのだから、自分の怪我くらい面倒は見れるさ」
モミザのその表情の無さや、淡々とした喋りから、冷静沈着、冷酷無比な性格の印象を受けるが、案外内面の感情は豊かで愉快なのかもしれない。まるでツボミのまま朽ちてしまう花のようだ。こんな病気を患っていなければ、そのツボミが花弁を開かせる様を目にすることが出来たのだろうか。
「さ、とんだ足止めをしちゃったね。……先を急ごう、他の影獣が来ると面倒だから」
そう言って彼女はツカツカと洞窟の奥へと歩みを進め始めた。俺達も、彼女のランタンの光を追って洞窟を駆ける。
後で気が付いたことだが、モミザが影獣と戦った場所には、壁面から根が飛び出た痕跡も、影獣が撒き散らした血肉も、その全てが元からそんなもの無かったかのように綺麗さっぱり消えてしまっていて、代わりに手向けのように所々に小さな菊色の花が咲いていた。それが、彼女の獣人病故の能力なのか、はたまた本当は影獣の襲撃など無かったのか。それは謎のままだった。
ただ、俺達がこの洞窟で学んだのは、彼女は花弁では無く、その枝にびっしりと生え並ぶ、茨の棘のような性格であるということだった。




