2.融解
「…………っはぁ!はぁっ!!」
暑い。周りはこんなにも雪に覆われていると言うのに、体から発せられる熱気がもうもうと湯気を立ち上げる。
痛い。数分前に銃で撃たれた脇腹と、背中に受けた切り傷が焼けるように痛みを放っている。だが、出血は既に止まっているし、痛みは良い気付けになる。致命傷になるような傷でも無いし、物事は良い方向に捉えなければ。
――だが、いつまで。あとどれだけ走り続ければいいんだ?雪に岩だらけのこの山道を、銃器を持った複数人に追われながら。
「止まれ!!この汚らわしい獣め!!」
背後で乾いた発砲音がしたと思えば、体のすぐ側を弾丸が通り越していく。外れた弾丸が雪の被った細木に命中し、木の粉が弾ける。
ダメだ。このままじゃ埒が明かない。いずれ体力が切れ、全身を蜂の巣にされて終わりだ。何とかして追っ手を撒かなければ――。
「ガッ……!?」
刹那、血が溜まって浮腫んでいた右足に焼け付くような痛みが走る。
――撃たれた。
認識するのが遅れたせいで、右足を踏み込んでしまった。痛みで力が抜け、ぐらりと体の重心が崩れる。
咄嗟に体を捻ってバランスを保とうにも、勢い付いた体は、積もった新雪を掻き分けながら地面に衝突する。
「クソッ……!!」
顔の毛にまとわりついた雪を手で払うと、開けた視界の奥からは十人程の黒い影が迫って来ているのが分かる。
ぐずぐずしていればすぐに追い付かれてしまう。急いで立ち上がろうと足に力を入れるも、不出来な椅子のようにガクガクと体が揺れ、再び体を雪に叩き付ける。
柔らかな雪のキャンバスの上には、色鮮やかな赤い絵の具が円を描くように散っている。
幸い、アドレナリンが脳を満たしているお陰で痛みはもう殆ど感じていないが、この足ではこれ以上の逃走は出来ないし、例え逃げれたとしてもこうも痕跡が目立ってしまえば追手を撒くのは至難の業だろう。
「そ、そこまでだ!!膝を地面に着いて、両手を頭の上に乗せろ!!」
伊達に長い時間走り続けていただけあって、追手の若い兵士も息を切らしている。口から吐き出された息が蒸気のように宙に昇っていく。
「クソっ……!ここまでかよ……」
「上官殺しめ。死刑では済まさんぞ」
単発式の小銃が額に押し付けられる。先程発砲したばかりの銃口はまだ熱を帯びていて、ジリジリと額の毛が焼ける匂いがする。
「……はあっ、はあっ。ヴォルテク、諦めろ。お前はもう逃げられない。……だが、何故だ?何故親父さんを手にかけた?……お互いにあれだけ慕っていただろう」
後から追い付いてきた十人程の兵士が横に列を組み、一斉にこちらへ銃を構える。その中から一人、顔馴染みが腰のホルスターから拳銃を取り出しながら、俺の元へと歩み寄ってくる。
「俺はやってねえ!……俺がおやっさんを殺すと思うか!?何かの間違えだ!!」
脳裏に、あの無惨な光景が広がる。部屋中に飛散した鮮血、部屋の中央に出来上がった血溜まり、恐怖に歪んだ顔の表皮が無惨に剥ぎ取られ、まるで剥製のように机の上に飾られていた。
用があって、おやっさんの執務室に入った時には既に殺されていたのだ。確かに、あの人の遺体には獣で引っかかれたような傷があり、俺の仕業にも見えるだろうが……。それにしても騒ぎを聞きつけてこいつらが俺を捕まえに来るまでが早すぎる。嵌められていたとしか思えない。
「だがあの傷跡はどう見たってお前のものだろう。……俺は、10年前のあの事件もお前がやったのでは無いかと心底不安で仕方が無い」
「どっちも俺じゃねえ!!10年前のは、お前が一番よく知ってるだろうが、スタビー!!……きっと、あの時にやった奴がまた俺に罪を擦り付けようとしておやっさんも!!」
白髪まみれの頭をガシガシと掻き毟りながら、肩を落として溜息を吐くスタビー。その左手に握られた拳銃の銃口が静かにこちらへ向けられ、人差し指が引き金にかかる。
――クソッ、駄目だ。アイツはマジだ。マジで俺を殺す気だ。もうこうなっちまったらあのクソ真面目は俺が何を喚いたって聞く耳を持たないだろう。
――どうする?逃げるか?だがこの足では無理だろうし、無理矢理に逃げても蜂の巣にされるだけだ。
「……君、彼は私が処分する。下がりなさい」
「……はいっ」
俺の額に銃を突き付けていた兵士がその姿勢のまま、一歩後退る。が、その一瞬で俺はスタビーの発言に引っ掛かりを覚えた。それに賭けるしかない。
「一か八かだッ!」
「なっ……!?」
拳二つ分程距離の離れた小銃の銃口を、手で鷲掴みにする。あまりの馬鹿げた高度に、眼前の兵士も、スタビーすらも目を丸くして驚愕を隠せていない。
だが、銃を構える者が突然目の前の標的に抵抗を受けたらどうするか。言わずもがな、咄嗟に引き金を引くだろう。
「……!?」
カチッ、という音と同時に甲高い発砲音が――鳴らない。兵士は一瞬何が起こったのかすら分からない表情を浮かべた後、小銃のコッキングハンドルに目を向けて思わず息を飲んだ。
――賭けには勝った。ここから勝機に繋げる。
「新兵さんよ、さっき俺に弾当てて有頂天になって空薬莢の排莢を忘れてるんじゃねえか!?」
彼らが持つのは、俺達の所属する軍制式のボルトアクションライフル。火薬も鉄も限られる物資の枯渇している現代において、自動小銃なんて使えた物じゃない。故に旧式の、ボルトアクション式のライフルが好まれて採用されている訳だが、それは一発弾を発射する事に弾倉に残った空薬莢を手動で排莢しなければならない。本来、並の兵士なら排莢を忘れる事などそうそう起こりえない事であろうが……他の手馴れの兵士を差し置いて逃げ惑う俺に弾を命中させて舞い上がっていたのなら十二分に有り得る話だ。それが新兵なら尚更。
俺は動揺を隠せない兵士の銃身を握り締め、両手でぐい、と力を込めて引いた。小銃のボルトに手を伸ばしかけていた彼が、当然俺の力に抗う事など出来ず、よろよろとバランスを崩しながら俺の胸の内にその身体は収まった。
無理矢理に奪い取った小銃を遥か後方に投げ捨て、兵士の体を背後から羽交い締めにするようにして拘束し、その喉笛に己の鋭利な鉤爪を突き付けた。
「……ぐっ」
兵士は苦悶の声を上げながら身を捩るように、もがき脱出を試みる。しかし、普通の人間には俺の拘束を解いて脱出するなんて芸当はそうそう出来るものでは無い。
「……何故、彼が排莢をしていないと?」
スタビーは口を引き結び、動揺を出さぬように表情を作っている。だが、こちらに向けられている拳銃の銃口は小刻みに震えてしまっている。
「お前のお陰だよ、スタビー。お前がクソ真面目で自分の部下一人一人の名前を覚えている事は知っている。……だからこそ、この阿呆を後ろに下がらせる時に、こいつの名前じゃなくて君つったのが引っかかったのさ。まあ、お前がこの新兵の名前を把握出来ていないか、ただのお前の気まぐれかは賭けだがね」
つい得意になってペラペラと話してしまった。勝利を目前にした悪役が、主人公の前で自分の計画を洗いざらい吐いてしまう気持ちが何となく理解出来た気がする。
「……手を離せ、ヴォルテク。これ以上罪を重ねるな」
「だとしたらこれが初犯だな、俺はおやっさんを殺しちゃいねえ」
彼の拳銃がカタカタと震えている。
「それにいつも言ってるだろ、俺を殺してえならそんな鹿のクソみてえな弾の拳銃じゃ無理だって。それに、今の俺にゃ人質だっているんだぜ?」
「お、俺に構わず……ぐっ」
兵士を締め付ける腕に力が籠る。
ただでさえ冷えているというのに、更に空気が緊張する。意識が拳銃の引き金のみに絞られ、凝縮した時間の中では唾を飲み込む間に酸欠になってしまいそうな程だった。耳を流れる血液の音が嫌に気に障る。
拳銃の引き金の遊びが無くなり、間もなく弾丸が銃口から放たれる。
ーークソッ、マジでぶっ放しやがるつもりかこの野郎……!
訪れるであろう痛みに備え、グッと全身の筋肉を強張らせた。
刹那。乾いた空気を高々とした獣の咆哮が突き抜け震わせる。ここにいる全員がハッと首を持ち上げ、せわしなく周辺を警戒し始める。
「巡礼、巡礼だ!」
「あの群声は……間違いない」
「クソッ、こんな何もない場所で……ついてねえ」
決してこの場にいる人数は多くはない。しかし、それぞれがそれぞれの反応を見せる。パニックを起こす者、冷静な者、悪態を吐く者、様々であったが、全員の顔に恐怖の色が浮き出ていることは間違いなかった。
「ヴォルテク……お前、お仲間を呼んだか?」
「……っ、馬鹿野郎。こんな状況で冗談言うような性格じゃねえだろ、お前は」
スタビ―は、拳銃の銃口を俺から外し、不敵な笑みを浮かべた。それを見て、こちらも締め上げていた新兵を腕こ拘束から離すと、勢い余って顔面から雪に突き刺さっていた。
「一時休戦ってことでいいのか?」
「どさくさ紛れて逃げないでくれよ」
「何、巡礼が終わったら上手く逃げうせてやるさ」
ふ、とスタビーは笑うと、何処からともなく取り出した医療セットで、俺の撃たれた足の応急処置をし始めた。流石は元軍医というだけあって、その腕は衰えていない。しかし、俺の足が人よりも太く、傷の周りも大量の毛に覆われていることから、少々難儀しているようにも見えた。
――
『巡礼』。
その名を聞くと、神聖な物を感じてしまうかも知れないが、実際はそうでは無い。
「固まれ!孤立するな!」
「奴らは浮いた奴から囲って狙いに来るぞ!」
肉食、草食関係なく、血に飢えた鹿や狼、熊などの獣―どの個体も影のように黒い毛皮を纏っていることから『影獣』と呼ばれている―が大群を成して人間に襲いかかって来る。その徒党を組んで、人間という聖地に向かって迫り来る様から、皮肉を込めて巡礼と呼ばれている。
「クソッたれ!一体どれだけいるんだ!」
「弾が切れた、誰か分けてくれ」
「受け取れ!……だがそれで終わりだ。後はその腰のナイフで何とか粘れ!」
しんしんと雪の積もる林の中で、幾重にも銃声が重なる。
「何なんだこの量は!一個小隊でどうにかなる量じゃ……がっ!」
人の物か獣の物か分からない血が、辺り一面の雪を赤一色に染め上げる。徐々に頻度の減る銃声に対して、兵士の悲鳴の頻度は逆に増えていった。
「このっ……!犬野郎!」
幸い、俺にはこの鋭い爪が伸びている為、弾切れに悩まされる事は無い。しかしこの寒さだ、否応がなしに体力は削れていくし、加えて撃たれた足がジクジクと傷んで上手く力を入れることが出来ない。俺の足を撃ち抜きやがったあの新兵は――既に顔の皮をひっぺがされてくたばってやがる。ざまあみやがれってんだ。
「っ、どうやらここが、お前の処刑場らしいな」
「馬鹿言え、冤罪で死刑になってたまるかってんだ。何としてでも生き残るぞ」
知らず知らずの内に背中合わせになっていた俺とスタビー。他の兵士は逃げたのかそれとも全滅したのか、周りにその姿は見えない。逆に、血に塗れた獣達がこちらを囲い込むようにして、じわりじわりと距離を詰めんとしている。無数の茜色の双眸が、ギラリと俺たちを睨んで離さない。その影のような体毛が逆立ち、今か今かとこちらへ飛び掛かる機会を伺っている。
「……どうする?逃げるか?」
視線を逸らさず、正面の狼を睨み付けながら背後のスタビーに問いかける。
「生死不明の部下達を置いて上官が逃げる訳にはいかないだろう。生き残るならここで、死ぬならここで、だ」
「へいへい、死に際までクソ真面目ときた。……そう言うだろうとは思っていたけど、よっ!」
長く鋭く伸びた角を振り上げ、先鋒として迫る鹿の影獣の脇腹に蹴りを入れ、突進の方向を逸らす。体勢を崩した所で角を取っ手に体を持ち上げ、その臓物の詰まった腹部に鋭利な爪を突き立てる。
声に鳴らない悲鳴を上げた後、痛みにのたうち回ってその鹿は木々の中へと姿を消す。
体色や目の色、全てがこぞって肉食であるということを除けば影獣も所詮は動物であることに変わりは無い。あれだけ深く内蔵に傷を負えば、その出血量からも長くは持たないだろう。
「全く、お前は武器がなくとも戦えるんだから羨ましいもんだ!」
そう言ってスタビーは拳銃とナイフを片手それぞれに握り締め、何とか影獣を捌いている、という状態であった。そもそも、スタビーを含む兵士達は、殺人の容疑をかけられている俺を捕まえる目的でここへ来ているのであって、決して影獣と戦う為にいるのではない。影獣用の装備なぞ用意してきていないだろうし、満足のいく弾薬も所持していないだろう。そんな中でこれだけ粘っているスタビーの戦闘能力は人間の中でもかなり上澄みなのだ。
「……ぐっ!?」
「なっ、お前!」
だが、この過酷な環境下での長期戦は生身の人間には限界がある。一瞬視線を逸らした内に、スタビーは死角から突進してきた猪に突き飛ばされ、体を宙に浮かせて大きく吹き飛ばされてしまった。幸い、着地面も雪に覆われている為、全身を硬い地面に殴打する事は無かったようだ。しかし、いくら上澄みの戦闘能力を有していたとはいえ、ただの人間が猪の突進を受けて無傷なんてことはあるはずも無い。
「おい!平気か!?」
飛びかかる兎を叩き落として数メートル後方のスタビーへ声をかける。空中で爆裂四散した肉塊が降り注ぎ、視界が朱色に染まる。
「……が、あ……」
「……、くそっ」
どうやらいい所に入ったようで、目が大きく見開かれ、呼吸すらままなっていない。あの様子からすると、脇腹の骨が数本逝ってそうだ。
俺は既に固まりつつある血と体液の混じった粘液を引き剥がしながら、周りの影獣との距離感に気を配ってスタビーの元へ駆け寄った。
「……ぐ、……ぁ……」
「おい、大丈夫かクソ真面目!立てるか!?」
スタビーは苦悶に満ちた表情で手を伸ばして何かを訴えている。が、今はそんな事に構っている余裕は無い。血に飢えた獣の前の動けない人間など、あまりにも格好の餌だ。放っておけば真っ先に食われてしまうだろう。
スタビーの負傷していない側の腕に手を回し、その体を無理矢理に起こす。相当痛むはずだが、ここは耐えてもらわねば。
「ちが……ぅ、……く、……バス、……」
「あ!?何だって!?」
「こ、こは……れ……バス、だ」
掠れ掠れに聞こえるスタビーの声に耳を潜めると、今最も聞きたく無い単語が組み合わさった。は、として周りを見回すと、先程まで攻撃をして来ていた影獣共はある線を挟んで俺達に近付いて来ない。
――しまった。
ゾクゾクと背筋が凍るような感覚に襲われた。血の目潰しで視界が狭まっていたせいで、影獣が迫って来ていないことに全く気付かなかった。
「おいおい……マジか、よ」
恐怖のあまり一歩足を後ろに動かしてしまった。
――これがいけなかった。
氷世界の大地の裂け目、クレバス。こんな平地には無いとタカをくくっていたが、クレバスの上に雪が降り積って蓋のように固まっていたら、どう見たって分からない。
俺が足を動かしたのを起点として、一瞬で足元の雪が崩れ、全身を浮遊感が襲う。その時には既に、黒々とした大地の裂け目の中に飲み込まれており、咄嗟に何かに掴まろうと伸ばした手は非情にも空を切った。
「おわ、あ!ああぁぁぁぁ!!」
クレバスの隙間から覗く曇天が、次々と遠くなっていく。穴の下から吹き荒れる冷気で、皮膚が剥がれ落ちそうになる。
何かしなくては、何かに掴まらなくては。そうやって落下しながら必死に藻掻いている中、頭に強い衝撃が走る。狭まっていた岩の壁に後頭部を打ち付け、ツンと鼻の奥に痺れを感じながら俺の意識は闇の奥底へと沈んでいった。
――




