リナ
「はぁ、はぁ」
息を切らしながら、わたしは草原を走っていた。もうここまで来れば大丈夫かな。
……いいや、まだダメ。馬はとっても早いから、すぐに追いつかれる。早歩きくらいまでペースを落としつつ、歩みは止めない。
わたしにできることはもう終わった。あの場に、あの人の近くにわたしはいてはいけない。帰ったらすぐに森を人払いの結界で覆って、見つからないようにしなくちゃ。
歩きながら、わたしはあの夜のことを思い出していた。セレーナさんの話を聞いた、あの夜のことを。
嘘だ、嘘だろう? なんで忘れていたんだ、わたしは。こんな大切なことを!
笑い声も右から左へ流れていく。あの人が、そんな。あの優しいセレーナさんが……。
「リナ?」
ビクッと、わたしは体を震わせてしまった。
「大丈夫?」
心配そうに、あの人はわたしの顔を覗き込む。なんて優しい人なんだろう。
醜い醜い、死んだ方が役に立つわたしなんかが近くにいてはいけない。
「う、うん。でも、ちょっとトイレに……」
「早く行ってきな! あ、でもここ草原だ」
「少し離れたところまで行ってくるね」
「そう。──ついていこっか?」
「一人で大丈夫です!」
なんとか一人になろうとした。それが精一杯の、わたしにできることだから。
遠くまで走って、やっと話し声も聞こえない場所に来た。
わたしは、緊張と後悔とでぐちゃまぜになった感情を、何度も何度も吐いた。自分のことが気持ち悪くて仕方がなかった。
わたしは、あんな風に笑っていい存在ではない。ダメなんだ、わたしはここにいちゃ。また死ななくてはいけない。だって、わたしは……わたしは!
前に一度、あの人を殺したことがある。
「まもなく、各駅停車川立行き、電車が参ります」
眠いな。今日は何もしたくない。
初めてきた駅のホームで、ママと手を繋ぎながら私は思った。
今日は私の、七五三の写真を撮りにきていた。
周りは人でいっぱいで、帰りも座れなさそうだ。もう嫌だ。なんで写真なんか撮らなくちゃいけないんだ。いっぱいお着替えして疲れただけだもん。
あーあ。もうどうだっていいや。早く寝たい。
「私に任せなさい 」
ん? 何か声が聞こえる。
「私に、任せなさい」
さっきよりも声が大きくなった。寝れるなら任せてもいいかな。もうめんどくさいし。
「分かった」
コツコツと靴音が聞こえてくる。チェックのスカートが視界に入った。
「危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください」
目の前を、スマホをいじる誰かが通り過ぎようとした、その瞬間。
ふわっと意識が軽くなった。
なんだろう? 真っ暗だ。でも、体が勝手に動いているような感じがする。何かを押したみたいだ。
……周りがうるさいな。叫んでいる人がいっぱいいる。おかしいの。駅では静かにしなさいって言われないのかな?
あ、でも。少しずつ体の感覚が戻ってきてる。
そーっと目を開けると、私はたくさんのおまわりさんに囲まれていた。
あれ? パパとママはどこ? あ、いたいた。
「ママー、パパー!」
駆け寄ろうとすると、おまわりさんたちに止められた。なんで?
「おまわりさん? なんで? ママ! なんでおまわりさんがこんなにいるの?」
そう言っただけなのに。
お化粧したお顔が涙で崩れたママは、お化けを見るような目をしたんだ。
ママ、どうしたんだろう? あんなにお化粧頑張ってたのに。
「パパ! ママが泣いてるよ! ママどうしたの?」
そう言っただけなのに。
パパはお風呂に入りなさいって言うときよりもずっと、怖い顔で私を睨んだんだ。そのままママに叫んでる。「お前のせいだ」って叫んでる。
すると、優しそうなおまわりさんが来て、私に言った。
「初めまして。今から、おまわりさんたちと一緒に警察署へ行きましょうか」
「……なんで? 警察署って悪いことした人が行く場所だよね? なんで私が行かなくちゃいけないの?」
おまわりさんは、とても困ったような顔をした。
「もしかして、覚えていないの?」
私はうなずいた。
「……あなたはね、女の人を線路に突き落としたんだよ」
「えっ──?」
そのあとのことは、頭がぐるぐるしちゃってよく覚えていない。
色んな人と会った。うさんくさそうなおばさんやおじさんと絵を描いたり、小さな砂場とおもちゃで遊んだりもした。
……でも、ママとパパには二度と会えなかった。
あれから十年。私は、十七歳になった。
あのときのことはよく覚えていない。ただ、大人が話し合った結果、私は児童養護施設ふれあいの郷に住んでいる。
大きくなってインターネットを使えるようになると、どうしても私が起こした事件のことが気になった。
駅名を入れると、サジェストに事件と出てくる。
女子高生突き落とし。犯人は七歳。
一番最初に出てきたサイトをタップした。
十一月十五日(日)崎川駅で女子高生が線路に突き落とされる事件が発生した。被害者の芹澤奈帆さん(17)はその場で死亡が確認された。
駆けつけた警察官によって七歳の少女が確保され、児童養護施設に一時保護された。
捜査関係者の話によると、被害者の奈帆さんは友人と遊んだ帰りに崎川駅を利用し、事件に巻き込まれたという。
これまでの調べで、奈帆さんと少女の間に接点はない。少女が「体がふわっとして、そのあとのことを何も覚えていない」と話していることから、警察は通り魔的事件の可能性も含めて捜査するとともに、少女の精神鑑定を進めていく方針だ。
記事はここで終わっていたが、コメントが何件かついていた。
奈帆さん可哀想。
小学生がこんなこと起こすって世も末だな。
なんでこんな極悪人を保護するんだ? 税金の無駄遣いすぎる
……全部、矛先が私に向いている。心はとても傷ついているのに、スクロールする手が止まらない。
こんな奴、死刑にするのが妥当。
突き落としたあと笑ってたらしいじゃん。サイコすぎるwww
同じように線路に突き落とさないと、子供は罪の重さを自覚しない
二度と笑えないようにしてやる
……そうだよね、そうだよね!
私、死んだ方がいいよね。
「まもなく、各駅停車、川立行きが参ります」
十回目の菜月さんの命日。私は崎川駅の、あのホームにいた。
「危険ですので、ホームドアから下がってお待ちください」
事件がきっかけになったのだろうか。この十年で全国のホームドア化が進み、約八割の駅に設置された。この駅もそうだ。
だけど私は今日、死ぬためにここにきた。
ホームドアを乗り越え、受け身も取らずに線路へ飛び降りる。石で全身を打った。痛い。
非常停止ボタンを押した人もいるみたいだけれど、もう遅い。電車はすぐ目の前に迫ってきている。
最後に奈帆さんは、この景色を見ていたんだ。
怖かっただろうな。辛かっただろうな。痛かっただろうな。
……ごめんなさい、奈帆さん。地獄で罪を償ってきます。
私は、目を閉じた。
目を開けると、わたしは狭い路地に座り込んでいた。
ここ、どこ? 地獄のようには見えない。わたしは崎川駅のホームで──。
あれ? 崎川駅ってなんだ? というか、わたしって、誰? 今まで何してたっけ。何を思い出そうとしていたんだっけ。
やらなくちゃいけないことがあった気がするけど、忘れちゃった。
いつからここにいたのだろうか。冷たい雨が体を濡らす。既に芯まで凍え切ったわたしを、黒いフードを被った女の人が見下ろしていた。
「あなた、捨てられたんだね。こんなところにいちゃ風邪を引くよ」
女の人はしゃがんで、わたしと目線を合わせた。
「名前は?」
「……忘れちゃった」
「家は?」
「……忘れちゃった」
「仕方がないね……。よし。うちにおいで。弟子になってもらうよ。何か思い出すかもしれない」
女の人は、手を差し伸べてくれた。
「わたしはリュシー。あなたはそうだね……リナだ。うん。今日からあなたはリナってことにしよう」
寒さで震える手を、わたしは伸ばした。
わたしは死ななくてはいけない。
明るく話すセレーナさんの話を聞いて記憶を取り戻したときから、タイミングを伺っていた。
でも、こんなわたしだから、せめてセレーナさんの役に立ってから去りたい。前々からぼんやりとこの人の助けになりたいと思っていたけれど、全て分かってからは立場が逆になった。
セレーナさんが笑っていることが、わたしの助けになっていた。楽しそうに旅をするセレーナさんに、救われていた。
けれど、奈帆さんにわたしがしたことは、一生かかっても償いきれない。本来わたしは笑う権利もないんだ。
セレーナさんが結界なしで生きていけるようになった以上、わたしの存在はただのノイズでしかない。深い森にあるあの家で、一人ぼっちで生きて、一人ぼっちで死ぬんだ。
早く行かなくちゃ。
もう周りは真っ暗で、頼りになるのは夜空に浮かぶ星だけ。あの動かない星を目指して歩き続けていたのに、急に持っていた袋が動き出した。
「……何?」
お師匠様の本を入れた袋だ。中身が勝手に暴れて、飛び出した。
「うわっ! ちょっと、どうして!」
暴れていたのは、他でもないあの本だったようだ。カタカタ動いて地面に落ちると、緑色に光る。
強烈な光だ。わたしが魔法のときに出せるものよりもよっぽど。見通しのいい草原だから、見つからないように灯りも出さなかったのに。眩しくて目がチカチカする。
光はどこか、懐かしくて。まばゆい緑色は、お母様がよく使っていた魔法だ。
「……お母様。もういいんです。セレーナさんはわたしがいなくても大丈夫ですし、そもそもわたしは、あの場にいたのが間違いだったんです。だから、お母様。止めてください……!」
しかし、光は止む気配を見せず、仕方がないから本を抱えて歩くことにした。
光を頼りに走る、馬の足音にも気づかずに。




