絶望
いつものような朝。僕は着替えて部屋を出た。
研究室からはもうゴポゴポという音と、禍々しい紫色の光が漏れ出ている。
「おはようリュシー。今日も朝早いね」
リュシーはまた、マスクなどで顔を覆っている。だけどその下は、実験結果へのワクワクとドキドキで、眩しいくらいにニコニコしているはずだ。
「おはようコランタン! この実験が終わったら朝ごはん作るから、ちょっと待ってて!」
「うん。ありがとう」
玄関を出ると、朝つゆに濡れた草原が一面に広がっていた。
透き通った空気を吸って、大きく伸びをしていたとき、僕は異変に気づいた。
嘘だ、そんな。なんで?
ショックで体が動かない。いや、何を言っているんだ。早く知らせなきゃ。リュシーが、リュシーが危ない!
急いで家に戻り、研究室のドアを勢いよく開けた。
「どうしたの? 」
試験管を何本も持ったリュシーが首を傾げている。
「東から──東の街の方から、大勢の人たちが向かってきている」
「えっ? 」
リュシーが驚いて何本か試験管を落とし、ガラスの破片が辺りに飛び散った。
「みんな武器を持ってる。馬に乗った人もたくさん。まっすぐこっちに──向かってきている」
「そんな。なんで! だってわたしたち、まだ街に行っていないのに! どうして、コランタン!」
「僕だってわからないよ!」
声を荒げてしまった。リュシーの体が固まる。だめだ、だめだ。落ち着け僕! まだ僕たちを狙っていると決まったわけじゃない。
ああ、そうさ! あんな大人数じゃなくても、僕らを捕まえられるはずだって! じゃあ、あいつらの目的は……?
「……西の街 」
「えっ? 」
「ここは島の真ん中にある。東から西に向かう最短経路。きっと、父さんは──西の街と戦争を始めるつもりだ」
なんてバカなんだ、僕は。こんなリスクも考えずに家を建てて!
僕らが街を出ていったときから、父さんは自分の神を信じさせるために街のみんなを騙してきた。悪いのは西の街にいる悪魔と黒髪だと。憎悪が向く方向を全て、西へとかき集めた。
だから遅かれ早かれ、西の街を滅ぼそうとする動きが出てくるのも当然だ。
「くそっ、あいつめ! なんで、なんで邪魔してくるんだよ! 」
腹が立ってしかたない。地面を踏みつけて、やり場のない怒りをつぶそうとした。
「コランタン、落ち着いて! ……とりあえず、早く隠れないと。わたし、ここの道具全部片付けちゃうから、コランタンは時間稼いでて! いい?」
リュシーは山ほどある実験道具を次々と魔法の袋に入れていく。
──そうだね。ここで悪態ついていても、現状が変わるわけない。さぁ、僕も働くんだ。
窓の外を見ると、鎧を身に纏い武装した兵士たちがすぐ近くまで迫ってきている。通り過ぎてくれるならそれに越したことはない。ただ、こんな何もないところに建っている家、怪しすぎて見逃すわけないだろう。
ここからが勝負だ。
ドンドンドンと、乱暴にドアがノックされた。たぶん軍隊は東の街の住人で構成されているから、知り合いがいるかもしれない。正体がバレないよう目深に帽子を被り、僕はドアを開けた。
「なんでしょうか?」
外には、屈強な男の人が何人も立っていた。皆、魔法の杖や剣を腰に下げている。
「おい。お前、親はいないのか?」
名も言わず、ぶっきらぼうに聞いてきた。こいつには見覚えがある。あの日、リュシーを突き飛ばしていた男だ。そうか、軍隊を率いるまでになったのか。
「両親ですか──はい。つい先日、亡くなりました。今は一人暮らしです」
「そうか。俺たちは、西に巣食う黒髪と悪魔討伐隊だ。唯一神リザーヌ様のことは知っているだろ?」
僕は頷いた。
「ならば話は早い。ここで出会えたのもリザーヌ様と先祖のご加護あってこそ。──ところで、なにか食い物はないか? 執行者様の代理人を任せられた我々に協力すれば、お前にも生涯に渡って幸福が約束されるだろうな」
そういうと、持っている剣を男はちらつかせた。神を楯に権威を振りかざしているのか。……最低だな。
けれどしょうがない。実際、食べ物だけで帰ってくれるなら御の字だ。僕はありったけの食料を集め、家の外へ運び出した。
「保存食も含め、これが我が家にある全てです。ご武運を」
「たしかに、これ以上はなさそうだな」
満足そうに男は頷いている。よかった。これで帰ってくれそうだ。
ドアを閉めかけたとき、兵士の一人が僕に言った。
「待て。客人に対して、顔も見せないのは無礼ではないか?」
その顔は、ニヤニヤと僕を嘲笑っていた。
「……それもそうだな」
そう言うと、男は僕の帽子をつかんできた。
「何をするのですか? やめてください!」
どっちが無礼なんだ、この盗人が。と言うのは我慢する。
「おいおい。見られたくないものでもあるのか? 髪の色を確認するだけだ。すぐに終わるさ。お前が黒髪じゃなかったらな!」
抵抗虚しく、無理やり帽子を引き剥がされた。
こうなったらもう、開き直るしかない。
僕は大人たちに、堂々と言い放った。
「これで満足しましたか。僕の髪は金色ですよ」
頼むから僕だと気づかないでくれ……。
「……コランタン様、生きておられたのですね!」
男は跪いた。
「先ほどまでのご無礼、なんとおわびすればよいのやら! あなたが失踪されてから五年。双子の弟君が生まれ、アマンディーヌ様は悪魔の力に一歩及ばず亡くなられて……。あなたが街を離れたのも、きっとあの魔女のせいなんでしょう。おかわいそうに。おい、誰か聖油を持ってこい!」
僕の手をつかみ、運ばれてきた壺の中身を、男は僕の手に塗り込んだ。
「これはドミニク伝言師様から頂いた聖油です。リザーヌ様の魔力が込められていて、悪魔や魔女からの攻撃も跳ね除けてくれます」
聖油のにおいを嗅いだが、至って普通の食用油だった。戦に向かう兵士たちに売りつけたんだな。父さん、この聖油でいくら儲けたんだ。
「これでもう大丈夫です。さぁ、我らと共に西へと向かい、悪魔を打ち滅ぼしましょう」
絶対に嫌だ。どうせ西の街で神の命を執行しろと騒がれるんだろう。それに、父さんはかつて、後継問題をなくすために子どもは二人までだと決めていた。既にその席が埋まっている今、東の街に帰ったら僕はどうなる。某アマンディーヌ伝言師様のように殺されるだけだ。
でも、ここで誘いを断ったら家の中を探されるかもしれない。それはだめだ。リュシーのために時間を稼ぐと、僕は決めたんだぞ。
──ごめん。リュシー。
僕は黙って、軍隊について行こうとした。そのとき。
「待って!」
家から、僕を引き留める声が聞こえてきた。




