王女、真実を知る
どれくらい意識を失っていたのか。
フィリアは、強烈な吐き気で目覚めた。
「んぐっ…!」
「我慢しなくていい。この中に吐いて」
聞き慣れた声。
差し出された桶に胃の中身を吐き出す。
終わりのないような嘔吐。
(わたし、なんで……ここは……?)
「今は何も考えなくていい。とりあえず吐いて。全部吐き出せば毒が消える」
(毒……そうだ、わたし毒を飲んで……)
襲い来る嘔吐感に、言われたまま、ひたすら吐いた。
何時間もただ吐き続け、胃の中が空になって、胃液だけになっても嘔吐は止まらなかった。
時折、嘔吐の間を縫うように、口の中をすすぐ水が差し出された。
せっかく吐き気が治まっても、水を飲まされて、また吐いてしまう。
フィリアには、時間というものがわからない。
わかるのは、朝、昼、夕方、夜だけだ。
だから、どれくらい長い時間吐いていたのかわからなかったが、ようやく水を飲んでも吐かなくなるまでには、実に6時間以上かかっていた。
「これで身体の毒は抜けたよ。よく耐えたね。いい子。少し眠るといいよ」
頭を撫でられ、途轍もない疲労感から、すぐに眠気がやってくる。
『フィリア様』
(これは、マーサの声?)
『すみません、フィリア様。もう私は、ここを訪れることが出来なくなりました』
(そうだ、これは最後にマーサが来た夜)
『乳母でありながら、何もお助けできず、申し訳ありません』
『もう、あえないの?』
『はい。もう二度とお会いすることは叶いません。
こんなことなら、何としてでもあなたを外へお連れすれば良かった……』
『わたしの、せい?』
『いいえ、いいえ。フィリア様は何も悪くありません。これからは、お一人で生きていくのてす。辛いことも、苦しいことも多いでしょう。
出来るだけ、他の人には見つからないように。そうすれば、いつかあなたを助けだしてくれる方が現れるかもしれません。それまであなたが生きていけるかもしれません。
だから、それまではここで息を殺して、気配を消して、生きていくのです。出来ますね?』
フィリアはわけが分からないなりに頷いた。
分かっていたのは、もう自分の味方はここにはいないのだということ。
いつか、という希望にすがって、誰にも見つからないように生きていくのだということ。
『あなたの人生に、幸いが訪れますように』
その言葉を最後に、マーサの姿が消える。
真っ白な空間があたりを支配する。
鳥にも仲間がいるのに、フィリアだけが一人だった。
白い闇の中で、そっと頭を撫でられる。
髪を梳くように優しく。
ゴツゴツしたその指を、少し冷たいその手を、フィリアは知っている。
「イクス、さん……」
「お?目が覚めた?ここは、俺の隠れ家の一つだよ」
その声に導かれるように目を開けると、優しそうな、それでいて少し冷たい赤い瞳があった。
起き上がろうとして、身体に力が入らないことに気がつく。
「あー、残念だけど、起きる上がるのはまだ無理だ。トイレか?」
首を横に振ると、イクスは微笑んでまた頭を撫でた。
「ゆめを、見ていました」
「夢?」
「マーサと、最後に会ったゆめ。
マーサは、いつかわたしを助けだしてくれる人がいるかもしれないって、言ってました。それまでは、息を殺して生きろ、と。
マーサの言ったことは、本当だったんですね」
息を殺して生きても、誰かに見つかれば襲われた。
傷つけられた。
それでも、生き続けたら、本当に助け出された。
自分は生きていてはいけないはずなのに、こうして生かされている。
「わたしは、本当に生きていてもいいの?」
「……生きろ。君にはその権利がある」
「けんり……」
「なんで、君があんな目に遭っていたのか。なぜ毒杯を賜ることになったのか、知りたい?」
「知りたい」
誰も教えてくれなかった。
マーサですら、フィリアがなぜあんなところで、あんな生活をしなければいけないのかは、教えてくれなかった。
その事に、なんの疑問も持たなかったけれど、今は知りたい、と思う。
それから、イクスは本当の事を教えてくれた。
自分が、国王と王妃の間に生まれたにもかかわらず、二人に似ず、悪魔の使いとされる金の眼を持って生まれた為に、『なかったこと』にされたこと。
国王を始めとした王族は、国民に恨まれていたこと。
マリウス王国が、自分勝手に戦争を仕掛けて、負けたこと。
王族や多くの貴族が、処刑されたこと。
処刑というのは、首を切られることだと、イクスは教えてくれた。
フィリアも王族だから処刑されるはずだったけれど、『なかったこと』にされた人間だから、皇帝の温情…優しさで毒杯に変わったこと。
フィリアの存在を知る人は、もう、皇帝とダッタイト皇国の宰相っていう人しかいないこと。
二人とも、フィリアは死んだと信じたこと。
「マリウス王国はもうないし、君ももう王女じゃない。フィリアという女の子でもない」
フィリアが、フィリアではない。
それはよくわからないことだった。
「君はこれから、名前を変えて、瞳の色も変えて、全く新しい人間として生きていくんだよ。
俺は、その為に協力するし、その方法も考えてある」
名前と眼の色が変わる。
それだけで済むことにホッとした。
「ありがとう」
「君にとっては、険しい道かもしれないよ?」
「いいの、平気。ただ……」
「ただ?」
「イクスさんは、そばにいてくれますか?」
それだけが心配だった。
フィリアにはもう、隠れる場所もなければ、食べ物を得る手段もない。
イクスがいなければ、すぐにでも死んでしまうだろう。
たとえ、イクスが住む場所と食べ物を準備してくれているとしても、フィリアにはもう、イクスのいない生活は考えられなかった。
一度知ってしまった優しさは、手放せなかった。
「大丈夫。一度は離れることもあるけど、それはまだ先の話。君が、もう少し知識を得てから。
それに、一度離れても、また一緒に過ごせるようになるよ」
「良かった……」
それなら、頑張れそうだ。
「もう少し体調が落ち着いたら、普通の生活について勉強しようね。他にも覚えてほしいこともあるし」
フィリアが頷くのを見て、イクスは微笑んだ。
「じゃあまずは、君の新しい名前を考えよう。何か、希望はある?」
「わかりません」
「そっか。それなら……『リーア』はどうかな。本当の名前とそこまで離れてないし」
(リーア。すてきな名前)
フィリアの顔がフワッと綻ぶ。
「今日から君の名前はリーア。年齢は7歳。ダッタイト皇国で生まれた女の子だよ。両親は既に死んでいて、俺が引き取った。いい?」
「はい」
「今日はまだ毒抜きしたばかりだし、ここまでにしよう。
明日一日ゆっくり休んで、明後日には文字と数字や簡単な計算を教えてあげる。それが出来るようになったら、市場に買い物に行ってみよう」
イクスの提案に、フィリアは胸が踊った。
新しい名前。
新しい生活。
すべてが、キラキラしていた。
「きっとわたしは、イクスさんに会うために、今まで生きてきたんですね」
イクスが、地獄のような日々から助け出してくれた。
イクスが、生きていいと言ってくれた。
イクスが、リーアだけのものをくれた。
イクスは戸惑ったような顔で微笑んだあと、頭をクシャリと撫でてくれた。