* * 3 * *
「えと──佃煮?」
「なあに、イオリ?」
「佃煮」
言いながらイオリがくすくす笑う。
「なんだよ、イオリ」
僕もくすくす笑う。
「佃煮。つくだに。つくちゃん──つーちゃん? どれがいいかな」
くすぐったい。なんでもいいよ。
「用がないならそれ以上呼ばないでよね」
ごめん、とイオリが呟いて。
「いや、呼び続けてたらなんかいい名前な気がしてきた佃煮」
そうかな……? イオリが僕にすりすりする。とりあえず猫が大好きなイオリと出会えたことには感謝しかない。
「これでイオリも立派な魔法使いだね。イメージ次第でなんでも魔法でできるから。これからよろしくね、イオリ」
「こっちこそよろしくね、佃煮」
僕はイオリのおでこに自分のおでこをすりすりとこすりつけていた。
*
「……こういうことだったのか」
タケミヤが呟いた。見るとタケミヤは、眉間に皺を寄せて何かを考えるような表情をしていた。ほんとにちゃんと考えているのかどうかは知らない。
「他にも何か手伝う必要がある?」
イオリに聞かれてタケミヤは首を振った。
「いや……今んとこ大丈夫だ。まず戻って先輩に報告する」
「そ」
イオリはタケミヤの返事にはあまり興味がなさそうだ。イオリはまた手元の論文に集中し始めた。また来るな、と言い背を向けたタケミヤに、もう来なくてもいいのに、と心中でこっそりと呟く。出窓に転がってどれくらい経ったのか、次に気がついたらすでに夕方になっていた。イオリはまだ論文を読んでいるようで、気が引けたけど声をかけた。
「……イオリ、ちょっといい?」
「あ──うん、なに?」
「どうして研究には魔法を使わないの?」
イオリはきょとんとした。
「だってこれはオレの仕事だし、別に魔法を使ってやるべきことじゃないからさ」
真面目だ。知ってたけど。
「じゃあどうしてタケミヤの手伝いはするのさ?」
「めんどくさいから」
答えてイオリはにかっと笑った。
「魔法で事件の様子が解って、それで被告人の罪が殺人なのか過失致死なのか解るならいいじゃん。もしかしたら事故かもしれないし」
そういうものか。
「いやあ、正直、魔法ってなんなのか未だにオレにもよく解んないし、解んないなら使わない方がいいのかなって」
解んないなら試してみればいいのに。
「え、でも、なんか怖いじゃん?」
イオリは楽しそうな表情で答えた。
「でもほら、研究室まで移動するのに電車に乗らなくてもよくなったし、重たいものも運ばなくてもよくなったし、感謝してることはいっぱいあるよ」
「呑気だよね、イオリって」
「そうかねえ」
──でもたぶん、だから僕はイオリを気に入っている。
「んじゃ、そろそろ帰りますか」
イオリが論文を片付けて立ち上がった。ひょい、とその肩に飛び乗る。イオリがぶつぶつ呟くとその一瞬後には小さなアパートにいた。
「あ。ヤベっ、今日の晩ごはん、買い物に行くつもりだったのについ帰ってきちゃった」
また外に出るのめんどくさいなあ、そんなことをイオリが呟いて、それから僕を見た。
「……スーパー、行こうかな」
「どうする?」
「じゃあ──お願い」
イオリが指をぱちんと鳴らすと僕の体はしゅるしゅると縮んで、手のひらサイズのマスコットみたいになった。イオリは僕を胸ポケットに滑り込ませる。そのままイオリは移動魔法を使って、人目に付きにくい駐車場の隅に降り立った。店内で、イオリは思いつくままに食べたいものをカゴに放り込む。買い物をしているときのイオリはとても楽しそうだ。僕の缶詰やおやつも適当に見繕ってスーパーを出て、帰りも同じように人目に付きにくい駐車場から移動魔法を使った。
「それにしてもさあ」
キッチンに立って、レタスをばりばり千切りながらイオリが言った。
「便利なようで不便だよね」
それは使うひと次第なんだけど。魔法を便利に使いこなせていないイオリが不器用なニンゲンってことだと思うんだよね。そんなこと言わないけどさ。千切ったレタスを水に晒して、続けてイオリは鶏肉の皮に切り目を入れ始めた。
「ねえ、もしかして、オレの工夫次第で他のことも魔法でできたりする?」
「できるんじゃなかな。知らないけど」
「なんだよ無責任だなあ」
イオリが笑う。僕も笑った。
僕と本契約を完了させたイオリが真っ先に使えるようになったのは移動魔法だ。というか、たぶん魔法の中では初歩中の初歩、これを使えない魔法使いはきっといないというくらいメジャーで下級の魔法が移動魔法だ。
魔法を使うときにかっこつけて呪文を唱えたり、魔法陣を使ったりするひともいるけれど、イオリの場合は脳内でイメージをすることが必要なようだった。イオリは脳内のイメージを補完するためにぶつぶつ呟く。たとえば、研究室へ移動するときには「研究室に移動研究室に移動研究室に……」って繰り返す。部屋に帰る時には「お家に帰るお家に帰るお家に……」って感じ。これはちょっとかわいい。
魔法を使うためには僕と一緒にいることが前提だから、イオリはどこに行くにも僕を連れて行く。初めて研究室に一緒に行った日、所用で顔を見せた主任さんに叱られる前に咄嗟にイオリが「佃煮はオレの研究室に出入りしても許される猫である」という魔法? をかけたので、事なきを得た。かなり強力にかかったその魔法は、研究室に出入りするニンゲン全員にすぐに有効になったようだ。誰も僕を邪険に扱うことはなかった。
研究室に出入りするニンゲンの中に、例のタケミヤも含まれていた。タケミヤは何かというと姿を見せるので、主任さんやそのほかの研究員とも顔なじみだった。
「尹織ー。助けてー」
初めてタケミヤがやってきた日、僕はめちゃくちゃタケミヤを警戒した。うるさいニンゲンって嫌いだ。タケミヤの足音は最初からどたどたうるさくて、無駄に大きい声にはいちいちびっくりした。
「声がうるさい」
イオリが言うと、タケミヤは「ごめん」と謝った。
「あれ、猫なんて飼ってたっけ?」
「うん。半月くらい前から」
「ってことはあれか、俺はもう半月もここに来てなかったんだ……」
「だからうるさいよ」
イオリの指摘にめげた様子もなくタケミヤは続けた。
「俺はもうだめだ。弁護士なんてやっぱり俺には無理だったんだ」
「あーはいはい。またいつものやつね。愚痴を聞けばいいのかな?」
イオリは仕方がない、という顔をして立ち上がると、ふたり分のコーヒーを手に戻って来た。僕はタケミヤの声がうるさいので、イオリが用意してくれているベッドにもぐりこんで丸くなった。
「聞いてくれるか尹織~」
「てか勝手に愚痴るでしょいつも」
どうやらタケミヤは仕事に行き詰るたびにイオリの研究室に顔を出しているようだ。聞くともなくタケミヤの話を聞いていた。だって声が大きいから。タケミヤは先輩が構える事務所のイソ弁というやつで、まだ実績もなく国選弁護を引き受けることが多いらしい。今回の事件の被告人は確かにひとを殺してしまったけれど、なぜか事件の背景について語りたがらず困っているそうだ。情状酌量の余地が絶対にあるはずなんだ。興奮したタケミヤの声はますます大きくなって辟易した。
「俺ってそんなに頼りないかな。被告人はほんとのことしゃべってくれないし先輩にはどやされるし。辞めたい」
「ほんとはそんなこと思ってもいないくせに」
イオリが口を挟む。
「そうだよ辞めたくないよ! でも! しんどい!!」
「知らんし」
そこで、部屋の空気が変わるのを感じた。頭を上げた。イオリ、なにするつもり? ベッドから出てイオリに駆け寄るとその足に擦り寄った。それに気がついて、イオリが僕を抱き上げた。
「どうしたのイオリ」
「なんか解りそう」
解る? 何が? そう思っている間にもイオリはぶつぶつ呟く。
「五百円──が、見えた。なんだろうな? しゅーし、なんか聞いたことある?」
タケミヤはぽかんと口を開けてイオリを見ていた。
「何? 五百円?」
イオリが真面目に頷いた。
「この事件には五百円が絡んでる──きっと」
どういうことなんだろう。言ったイオリも腑に落ちないような顔をしている。
「どうしちゃったの、イオリ?」
イオリが薄く笑った。
「いや──もしかして魔法でなにか解るかな、って思ってたんだけどねえ、ちょっとうまくいかなかった……みたい。五百円が頭から離れなくなっちゃった」
「魔法?!」
タケミヤが叫んだ。きーんと耳鳴りがする。
「あ。うん」