* * 2 * *
気がついたらすっかり朝だった。
「……おなか減った」
自然と声に出ていた。イオリはまだ眠っているようだった。手を伸ばして頬に触れる。ちょいちょい、と軽く叩いてみたけど「うーん」と言ってくるっと寝返りを打ってしまった。反対側に廻り込んでちょいちょいしてみた。意外と起きない。ちょっと爪を立てた。ぴくっとイオリの瞼が震えて。そして。
「……あ。おはよう。早起きさんだねえ」
「おなか減った」
「そっか。ごめん」
イオリは身体を起こして伸びをして、ふう、と息をついてからベッドを出ようとして──振り返って僕を抱きかかえた。昨日のコンビニで調達した荷物は、袋に入れたままキッチンの脇に置きっぱなしになっていた。取り出したパックは二つ。見比べてからひとつの口を切って、手近にあったお皿に中身を絞り出した。
「どーぞ」
目の前のお皿に盛られたごはんにがっついていた。昨日のとは違う味。これはこれで美味しいけど昨日の方が好みだな。気がつくと脇にお水が入った器があって、舐めてみたら冷たくてそれ以上飲もうと思えなかった。
「しまった、昨日一緒に、猫砂買ってくればよかったなあ。それから首輪と……あと、何がいるっけ?」
ぶつぶつと独り言を続けながらイオリは、ベッドサイドからスマートフォンを持ち出して来て、誰かに連絡をした。ぴこん、と音が鳴る。イオリの手元を覗き込む。まだニンゲンの文字は読めない。
「ねえ、あなたの名前は?」
「オレ? 藤崎尹織」
「フジサキイオリ。イオリだね」
「うん」
イオリの指は素早く文字を打っていた。誰に連絡しているんだろう。
「アパートの管理会社と母。ペット可物件だけどまだペット礼金払ってなかったからね。母はもうずーっと猫飼いだから、必要なものを聞いておこうと思って。念のためね」
メッセージを送信し終わって、イオリはぴた、と動きを止めた。どうしたんだろ。不思議に思ってイオリを見つめていると、ぎぎぎ、と音がするんじゃないかという不自然な動きで、イオリが僕に顔を向けた。
「……あの、気のせいかな、」
「なに?」
「キミの言葉が──解るような?」
頷く。
「………………え、これ夢?」
今度は首を振る。
「違うよ、昨夜、イオリと仮契約、したから」
「仮契約……?」
「そ。本契約が完了したら、イオリは魔法使いだよ。おめでとう!」
「………………」
イオリが両腕で頭を抱え込んだ。
「えーと。昨夜コンビニでキミを拾って、連れてきて。黒猫。飼うの夢だったし、いつかは、って思ってて。で。えっと──うん? なに? ちょっと理解が追いつかない」
僕もイオリがなにを言ってるのか解らない。
「魔法使いになりたくない?」
今さら取り消せないけど──そう付け加えるとイオリは。
「確定なの、その、魔法使いってやつ」
「うん」
「ああ──そう。そっか。やっぱこれ夢か。アホだな、オレ」
ははは、と力なく笑ったイオリの指先を引っ掻いてみた。
「って!」
「夢じゃないよ。僕はイオリと出会った。僕の意思で、イオリとの契約を決めた。このひとだ、って思った」
イオリはじーっと僕を見つめている。もしもイオリが拒絶したらどうしようと、今になってはらはらしてきた。そうしたら──僕は。
「………………なんかよく解んないけど、要するに、オレはキミに、飼い主って認めてもらえたってことでいいのかな?」
飼い主──というのともちょっと違うんだけど。でも僕が天寿を全うするまでは一緒にいることになるから、ニンゲンにしてみたらそういうことになるだろう。
「そっか。それならまあ──いっか」
イオリがにこっと笑った。僕がちょっと不安になる。
「ほんとにいいの?」
「え、嫌だって言ってよかったの?」
いやそれはよくない。とっても困る。
「だったらいいじゃん。で。その本契約とやらって?」
イオリが僕に向かってちゃんと座り直した。さっきからスマートフォンがぴこぴこ鳴ってるけど、それは後回しにしてくれるらしい。僕は小さく咳ばらいをした。
「契約書を読んでもらって、僕に名前を付けて完了」
「名前──名前かあ」
イオリは腕組みをした。
「こういうのセンスなくてね。苦手なんだよね。どうしようかなあ」
本気で悩み始めたイオリ。おなかがいっぱいになったら眠くなってきたけど、その前におしっこしたい。
「ごめん! まだ我慢できる?」
「……なんとか」
それから慌ててイオリはスマートフォンに手を伸ばした。真剣な表情で何かを読んで、それから立ち上がると部屋の隅に置いてあった紙束と、昨夜コンビニでもらったびらびらつきの箱を持って来た。カッターで箱に細工をして、紙束は一枚ずつ手に取って細長く千切って、それを細工した箱に敷き詰めた。
「とりあえずこれで間に合わせて。ほんとごめん」
部屋の隅に置かれた箱で用を足した。やっと落ち着いた。じと、っとイオリを見る。
「あ。名前。名前ね。うーん……」
契約が無事に完了するまで、どうやら時間がかかりそうだ。
「何がいいかなあ。かわいいのがいいかな、かっこいいのがいいかな。黒猫だから、それっぽい名前がいいよね」
起きて待っていようと思ったけど、もう限界。イオリの太ももに擦り寄ると、そのままイオリは僕をその膝に乗せた。
「ほんとごめんね。いい名前考えるから、もうちょっと待って」
僕が見せた契約書を読んで、イオリは難しい顔をした。そんな難しい内容だったかな。
「……これ読むと、キミと一緒にいるときにしか魔法は使えないみたいだけど、そうなの?」
「そう」
「ってことは、キミとはいつも一緒にいることになるんだね、魔法を使いたかったら」
「まあ、そうなるね」
「そっか。じゃあお散歩紐も買わないと」
どういう思考の流れだ。見えない。
「え、だっていつも一緒にいるなら、出かけたときにキミが迷子にならないように気をつけておかないと」
思わず笑った。
「そんな心配いらないよ。僕は普通の猫じゃないんだから、勝手にあちこち行かないし逃げもしないし。そもそも移動魔法を使えば大した問題にもならないし」
「移動魔法? そっか、その手があったか」
イオリがうんうんと頷く。面白いなこのひと。なんか抜けてて。
「……で。名前」
催促した。イオリは。
「うん。あのさ──ひとつ思いついたんだけど、自分でもセンスないなって思うんだ。キミが決めることはできないの?」
「できない。ニンゲンが決めて口にした名前を使わないと本契約は完了しないんだ」
「完了しなかったらどうなるの?」
「イオリが魔法使いになれない」
「それだけ?」
それだけ──ではないんだけど、それはイオリには言えない。だから嘘をつく。
「そうだね。僕は名無しで、イオリは意志の疎通ができる、ちょっと変わった猫を飼うことになる──って感じかな」
「それでも別にいいけど」
僕はよくない。それに。
「名無しなのは嫌だな」
「……そうだよね」
イオリがしゅんとした。
「どんな名前でも、イオリがくれる名前なら僕は満足だよ。かっこいい名前じゃなくてもいいし、思いついた適当な名前でいいからさ。契約完了しようよ?」
しばらくイオリは何も答えず、すでに日は落ちていた。内心で僕は焦っていた。仮契約から二十四時間以内に本契約が完了しないと大変なことになる。
「よし。決めた。決めたよ。どうしたらいい?」
僕は大きく息を吸いこんだ。
「──ではこれから、本契約の儀式を進めるよ。イオリ、僕の瞳を見て」
「うん」
じっとイオリを見つめた。イオリも僕を見つめている。
「フジワライオリがこれより口にする名を以て契約完了の証とする。フジワライオリ、我に名を与えよ」
イオリの顔が強張っている。噛んだりしないでよね。
「佃煮」
──────はい?
「オレはキミの名前を佃煮にします」
直後に僕の身体が光った。それは僕の身体からしゅぱん、と抜け出してイオリの身体に吸い込まれる。しゅううう、と光が消えた。
『本契約はこれにて完了』
脳内に響いた声はイオリにも聞こえたらしい。えっ、えっ、と言いながらイオリがきょろきょろしている。
「今なんか声が聞こえた」
「うん。その声の通り。契約は完了したよ」
僕が答えるとイオリの両手が僕に伸びてきた。
「あの──変だよね、佃煮、なんてさ」
うん。変だ。とっても変だ。
「でもさ──黒から真っ先に連想したのが海苔の佃煮で。そう思ったら、もう他のが全然思いつかなくて」
申し訳なさそうに眉を下げるイオリを見ていたら、無性に笑えた。──佃煮。佃煮ね。まあいいんじゃないかな。イオリが僕のために一生懸命考えてくれた名前なんだし。