灯火の村
灯火の村
何度となく繰り返した光景がある。朝の窮屈な電車の空気、好き勝手に流れる人波、失敗を糾弾する声、滲んだ視界、床に散乱したビールの缶。それを毎晩夢にまで見るようになった頃、私は軽度の精神疾患の診断を受けた。
私は田舎でも都会でもない街で、公務員として働く両親のもとに次女として生まれ、何不自由ない暮らしを与えてもらい育った。得意なことも不得意なこともなく、大抵のことはそつなくこなした。
将来の進路を医療系に絞ったのは、自分がどちらかというと理系の科目が好きで、資格を取り安定した職業に就きたいと考えていたから。その中で薬学部に進学したのは、受験の結果ひっかかったからであった。
こうしてぼんやりと過ごし続け、大学生活も佳境を迎えた頃、いよいよ就職活動という一つの人間審査の機会と対峙した。その時一つ、大きく困ったことが生じた。履歴書の内容のうち、自己をPRすべく用意されたスペースが一向に埋まらなかったのだ。
思い返してみればこの人生において、一つのことに強く情熱を燃やしたこともなく、自分の根幹となるような信念もない。自分には一体なんの価値があるのだろうかと思い悩んだ。しかし、そうこうしていては就職もままならぬので、数回だけ経験したボランティアの記憶を材料にして、フィクションと本当が8対2ほどの話を完成させ、空欄を埋めた。
こうして上げ底で仕上げた人間性を以て狙ったのは、都会の就職先であった。生まれてこの方地方でしか過ごしたことのない自分には、都会の生活はとても魅力的に映り、そこでの出会いや経験でこのような自分を変えられるかもしれないと、淡い期待をしていたのである。
しかし、人の多い都会の生活や周りの人たちとの関係、日々大量に押し寄せる人たちを処理するだけの業務に魅力を感じられず、理想と現実の幅に苦しめられた。その結果が、この診断書に集約されていた。
季節は冬。寒さで外に出ることが億劫になっていた生活は、活力を失ったことにより一切外に出ない生活へと悪化した。両親に心配をかけたくないという思いから、医師の提案ももろもろ断り、故郷のほうにはこの状態を伝えることはしていなかった。
しかし、大学時代の友人とは続けて連絡を取っており、私のこの異変に気づき、何度も心配する言葉をかけてくれた。その友人の両親は薬剤師で、今は自分の故郷に戻り、家の薬局の一員として働いている。小さな村の薬局であるが、在宅など、業務の幅が広がってきた影響で慢性的に人が不足しているため、少しでも手伝える人を探しているという話を以前からしていた。
その言葉を思い出したことと、この都会から離れたいという思いから、私は友人に、雇ってほしい胸を伝えた。友人も察してくれたのか、とりあえず会って話を詳しく聞くことになり、私は友人の故郷へと足を運んだ。
ご両親はとても温和で優しい方々だった。私の病気の事情を知ったうえで、雇うことを承知して下さった。こうして私の田舎暮らしが始まった。
桜の蕾が膨らみ始めた頃、村での生活が始まった。薬局の日々の業務はゆったりとしたペースではあるが、たしかにこなさなければならないことは多かった。保険薬剤師の登録の終わらない私の業務はほぼ調剤や配達などだが、業務時間中はなにかと動き続ける状態になっていた。それでも都会での生活に比べればずいぶんと気持ちを落ち着けることができた。
ご両親は信頼される薬剤師のようで、一人ひとりの患者さんとじっくり向き合い、ずいぶんと長い間話を聞いていた。患者さんも来る人は皆それぞれ顔を知っているような関係で、待合室は談話室のような雰囲気になっていた。
新人である私のことも物珍しいのか、根掘り葉掘りいろいろなことを聞かれた。ここの人たちはみな、距離を詰めるのが早い、そして、近づいてくれたことがとても温かく、うれしく感じられた。私はずっとこういうことを望んでいたのかもしれないなと人ごとのように思った。
季節は流れ、村は夏を迎えていた。私は仕事を終え、暑さにうだりながら、のろのろとした歩みで家路をたどっていた。
その時、道の正面から歩いてきていた見たところ小学生ほどの少年が、私の顔を見てかけよってきた。
「あ!新しく来た科学者のお姉ちゃんだ!こんにちは!」
私は頭の中が?マークでいっぱいになった。一体なんのことだ。
しかし、少年の顔には見覚えがあった、薬局に何度か風邪をひいて母親とともに来ていたことがあったのだ。母親はいつも心臓関係の薬をもらいに来る人当たりの良く、少し目じりの垂れた優しい目の印象的な方だった。改めてみると少年の目元も、母親とよく似ていた。
「こんにちは、でも私は薬剤師だよ」
と答えると、しばらく目線を上にあげて考え込んでいたが、思い当たる言葉はなかったらしい。向かいなおって、きょとんとした顔を見せた。
「でも、いつも白衣着てるじゃん」
彼のイメージでは白衣=科学者、のようだった。まあ、もうそういうことでいいか。
「ふふふ、実はそう、私は科学者だ!」
と話を合わせたが、これがいけなかった。
「やっぱり! ねえ教えて、空はなんで青色なの? 電池って入れるとなんで動くようになるの? 夏ってどうしてこんなに暑いの?」
質問攻めだ。そういった答えは全部どこかの教科書にでも書いてあることだろう。最近はネットで調べればすぐに出てくることも多い。が、私はあまり考えたことのないことだった。すべて、経験だけして理由は深く考えず、そういうものなんだろうと片づけていた。
でもそういやなんでだろうか。説明するためのわかりやすい絵を探すね、と言ってスマホを取り出し、検索、把握。ふむふむなるほどそういうことか。
「そうなんだ! すごーい、物知りなんだね!」
と笑顔を向けられたが、後ろめたさから直視はしづらかった。
「ぼくもお姉ちゃんみたいな科学者になれるかなー」
話を聞くと、少年は科学者にあこがれているそうだ。将来はロケットを作り、打ち上げて宇宙に行きたいのだと言う。どうやら漫画の影響らしい。宙飛行士という職業が科学者なのか、私にはよくわからなかったが、まあ人の夢をとやかく言うのもよくないと思い、口をつぐんだ。
それに、何にでも疑問を持ち、それを自分が納得できる形で理解しようとするその姿勢は、確かに科学者に向いているのではないかな、と思った。
その出会いからというもの、少年には、帰り道で時折会うたびに質問をなげかけられていた。子供の想像力は、一切の壁を感じないほど自由なものだと感心し、自分としても勉強させられるような思いだった。
そんなある日のこと、いつものように少年に出くわしたのはいいが、普段の元気がなかった。どうしたのかと聞いてみると、どうやら、母親が胸を押さえて苦しそうにしていることが最近多くなってきたので心配だということだった。
私は内心少し焦った。最近投薬に当たったのは自分だった。
いつも飲んでいる心臓の薬を思い浮かべる。心臓の薬は発作が多くなったということで一月前に違うもの変わっていたが、心臓の症状を抑えられていなかったのだろうか。話した時にはいつもと変わらない笑顔をたたえて、調子は安定していると言っていたはずだった。気丈にふるまい、症状を隠していたのだろうか。そういえばそもそもあの薬は飲み始めた後いつ頃から効き始めるのだったか、ほかに飲んでいる薬や食べ物との兼ね合いはどうだったのだろう、個人の代謝機能によって効き目が変わってきたりするのだろうか、こう考えが回り始めると、自分がいかに何も知らないかということが分かった。
薬剤師という職業は、薬のプロであるはずだ、どうして専門とすることについてこんなに何も知らないままで平気でいられたのだろう。
奥歯をかみしめる、自分の職業についての認識を誤っていた。
なあなあで選んできたとはいえ、この場に立ったのであれば果たすべき責務はあったはずだった。今回これを解決する方法はネットで調べたって出てきはしない、考えろ。冗談とはいえ目の前の少年に対し科学者を自称したのだ。こうすれば、こうなるという事実を集めて最終的に法則を見出すのが科学だ。ならば今するべきことは一つ。薬についてのデータを集めることだ。そうと決まれば即行動…の前に、何より先に目の前の少年を安心させなくては、ええと、こういう時にいい言葉は。とまで考えて
「大丈夫、任せて」
という言葉が口をついて出てきた。すこし大きく出すぎていただろうかと思ったが、少年は少し表情を緩めてくれた。出だしはまずまず成功だ、行動に移そう。
そして、色々な資料を集めて考えた結果を持ってドクターの元に行った。ドクターに意見するというのは緊張で胸が裂けそうな事ではあったけど、足が止まることは無かった。ドクターは私の話と別に提案した薬の話について最後まで聞き、いくつかの質問の後で、この話に沿って処方を考え直す旨を伝えてくれた。
それから数日が経って、母親は処方内容の変わった処方箋を持ってきてくれた、私の提案した薬だった。私は必要な事項を説明し、願いを込めて薬を受け渡した。いつもよりも強く、お大事にと口にしながら。
その後の様子を、また帰り道で出くわした少年から聞けば、近頃は症状を訴えることもなく、前よりも明るく過ごしているそうだ。
その話を聞いて、私は力が抜けたように地面に座り込んでしまった。大丈夫!?と狼狽える少年を他所に、私はようやく自分の行動を冷静に思い返した。
我ながら信じられないくらい行動的に動いたものだ。親子一緒に薬局に来ていた姿を思い浮かべ、この人達のためになりたい、と思うと身体と頭はとても真っ直ぐに働いてくれた。自分でも知らなかったが、もしかすると私にはそういった才能があるのかもしれない。
ようやく正気に戻った私が立ち上がると、少年も笑顔に戻ってくれた。うん、やはり人の笑顔はいい。もっとこういう顔を見られるようにこれからも頑張っていこう、と密かに胸に誓った。その時。
「おーい!」
という声と共に少年の後ろから少年と同い年ほどの女の子が駆けてきた。
おいおい、一緒に帰ってたのか? 案外すみに置けないねぇ。しかしまさかこの子を置いて先に歩いてきてたのか? 何を考えているんだ? と、思考が早まる。もう少しでいつも少年がそうするように質問攻めにしそうであった。
そうこうしている内に私と少年に追いついた女の子は、私の姿を見るとふいっと顔を背けてずんずん先に歩いていってしまった。おいおいまさかこれ、いつの間にか情事に巻き込まれているのでは?
「ねえお姉ちゃん、なんであいつ一人で歩いていっちゃったんだろ?」
「それは自分で考えなさい!」
よく事態を分かっていない様子の少年を急かし、少女の後を追わせる。ちゃんと自分で答えに気づけるといいのだけど。
その背中を見えなくなるまで見送ってから、夕に染まり始めた空に目をやった。日が落ちるのも少しずつ早くなり、肌寒さも感じるようになってきた夕暮れ時だった。
ふと去年部屋で閉じこもっていた冬の日を思い出す。今はもうその温度を思い出し、悩むことはない。初めて見つけられた自分の思いを大切に持って、これからも進んでいこう。私の胸に温かな火を灯してくれたこの村で。