第一章8 『名前』
「名前が、ない……?」
「はい」
あまりの衝撃に歩く事さえ忘れると彼女は目を逸らしながらも頷いた。
名前がない。そんな事なんてあり得るのか。だって、まだ確認すらも出来てない架空の存在にも名前が存在するのに、付けられてないだなんて――――。
すると彼女は補足を付け加える。
「正確な事を言うと覚えてないんです。過去に主から付けられていた名前があったはずなのに、気が付けば忘れてしまっていて……」
「覚えてないって、じゃあ、頭を打ったとか?」
「違います。ずっと剣の中にいたのでそう言う訳じゃ……」
「じゃあ自然に忘れたって言うのか?」
「…………」
アルの言葉に頷く。
けどそんな事なんてあるのだろうか。ある日突然自分の名前を忘れるだなんて。そんなのどこの世界にだってある話じゃ――――。
この世界にある話だ。それは自分が一番よく知っているはずなのに。
「……アル?」
早速名前で呼んでくれたのだけど、それには反応せずにずっとそこで立ち尽くした。最初に会った時に言っていた様に、確かにアルと彼女はよく似ているから。
アルだって名前を忘れたじゃないか。それもとても大切だった名前を。
今度はアルが彼女を心配してあげる番だ。
「怖かった、よな。急に自分の名前がなくなるんだから」
「……はい。その時に過去の自分が死んだ気がして、怖くて怖くて仕方なかった。別人格の様になってしまいそうで」
「分かるよ。その気持ち」
「えっ?」
そう言うと不思議そうな視線でこっちをみつめる。そりゃそうだ。こっちは今さっき自分の名前を名乗ったばっかりなのだから。上辺だけの言葉だと受け取られたって仕方ない。
けど気持ちがわかる事だけは確かだから。
「今の自分は過去の自分じゃない。名前を失った事で過去の自分は死に新たな自分が生成される。……その気持ちは凄い分かる」
「アル……」
彼女は不思議そうな表情でアルの顔を見つめた。まあ彼女にとっては矛盾している様な物なのだから当たり前だけど。
でもあえて何も聞かずに言葉を聞いてくれた。
「君さえよければ、俺が名前を――――」
「それは遠慮します。……自分自身で思い出したいんです。過去の、大切な名前を」
「……そっか」
アルも最初はそんな事を思ったっけ。過去の自分を取り戻したいからって必死に名前を思い出す方法を探して、挙句の果てには頭を鉄にぶつけたりもしていた。そのせいでその時の記憶が飛んだ事はあったけど。
けれどそれはそれでまた色々と困ってしまう。
「じゃあ仮名として呼べばいい? 神霊様? 神器様?」
「えっと……」
だからそう問いかけたのだけど、彼女は雑な質問に戸惑った。そりゃ、名前がないからっていきなり名前が決めろと言われたって困る話だろう。だから彼女は手を顎に当てて深く考え始めた。でもそんなに早く名前は出て来ない訳で。
「とりあえず――――」
だけど彼女は仮名を言う前にある方向へ向いた。釣られてその方角を向くと一台の馬車がこっちへ走って来ているのを確認して手を振る。
「馬車だ! これで一先ず助かるはず……!!」
「みたいですね」
すると馬車を引いていた人も気づいたみたいで、アル達の真横に馬車を止めてくれる。やがて荷台の方から一人の男が顔を出すと二人を見た。
彼女は妙に警戒していた様だけど、アルは何も気にせず問いかけた。
「えっと、村に派遣された人ですか?」
「ああ、そうだけど……まさか生き残り!?」
「いえす! 生き残り!!」
服の汚れ具合で判断したのだろう。そう答えると荷台からもう一人の男も覗いては飛び出して来た。軽装の鎧を着ながらも近づいて来た彼はアルの手を握るなり大げさな動作で上下に振った。
少し涙ぐんでいる所を見るに心から心配していたのだろう。
「よかった! 近くの村が燃えてるって言うから凄い心配してたんだ! 生き残っていて本当に嬉しいよ!!」
「あ、ああ……」
紺色の髪に軽装の鎧をした男が彼女へ視線を移すと、咄嗟にアルの後ろへ隠れては警戒する。その光景を見ると軽く微笑んで敵対心はないと両手を上げた。
今度は亜麻色の男が荷台から降りると事情を聞いて来る。
「二人でも生き残ってくれてよかった。えっと、他に生き残りは……」
「……いない」
「……ごめん。何があったか説明してもらえるか?」
――そうか。みんなにとっては彼女も生き残りって見えるのか。
今は飛ばずに足を地面に付けてるらしいから“まだ”人間と判断しているらしい。今は変な誤解は与えずに彼女も村の生き残りとしての態で話を進めた。その間、彼女は何故か怯えたような反応で彼らから目を逸らし続ける。
やっぱりまだ人間は苦手なのか。彼女の認識は中々に酷い物だったし。
「……黒装束の襲撃で村が燃やされ俺達以外の村人は全員焼かれた。黄金の輪が掛けられてた辺り、大罪教徒と見て問題ないはずだ」
「大罪教徒。またあいつらか……!」
「また?」
普通なら大罪教徒という名前は浸透してなかったはずだ。大図書館に行っても大罪教徒の事が記された本は二十冊にも満たなかったし。ただ噂として広まっているだけ。
だからそれだけでも彼らが大罪教徒について何かを知ってると確信した。
すると亜麻色髪の男は拳を強く握って言う。
「最近ここらの森にある村や立ち寄った旅人が襲撃されるって事件が多くなってるんだ。それらは一通して大罪教徒がやってる。俺達もこの目で確認した」
「あいつらそんな事もやってたのか……」
アルに対して何の躊躇もなく刃を振り下ろすあの動作。そしてなぶり殺しにしようと簡単に決められるあの異常さ。何も知らずに歩いている旅をしている人を急に襲ったってなにもおかしくないだろう。でも彼は顎に手を当てると続けて言った。
「でもそれがおかしいんだよ」
「おかしい?」
「絶対に金品は奪われてないんだ。食品でさえも。だからただの強奪じゃないんだ。意図も何もかもが一切不明なまま出所も目的も掴めてない」
「そう言えば剣や金も奪われてなかったな……」
思い返してみればそうだ。人を殺しただけで鍛冶屋にあった高価な鉱物等も全部残っていた。となると大罪教徒はただ人を殺したいだけなのか――――? そんな連中だったら「見付けたら殺せ」って言われてもおかしくないはずだ。
そう考えていると彼らは荷台に乗せる事を勧めてくれる。
「とりあえず疲れただろう。荷台に入ってゆっくりするといいよ」
「あ、ありがとう。お邪魔します」
妙に怯えたままの彼女の手を引きながらも荷台に乗り込んだ。
すると馬車は何故か引き返して街の方へと向かって行ってしまう。だからびっくりしたのだけど、どうやら何か手順がある様で。
「えっ。戻るのか?」
「ああ。俺達は人命救助担当。捜査担当は別の得意な冒険者に任せてあるんだ。……それに、君達にあの村へ向かわせるのは辛いだろう」
「……ありがとう」
確かにあそこへ戻るのは辛い。みんなが死んだっていう事実をようやく受け入れられそうなのに、またあの光景を見ると辛さでどうにかなってしまいそうだったから。
ふと荷物を見る。布や食料がある辺り、本当に人命救助に来ているのだろう。そして彼らの武装で今一度冒険者だと確信する。
過去に強く憧れた冒険者だって。
「……三人は冒険者なんだ――――ですよね」
「今更敬語じゃなくていいさ。そう、俺達は冒険者だ。まあ高ランクって訳でなければ有名って訳でもないんだけどな」
「僕達はのほほんと世界を巡ってるだけだよ」
「のほほんって……」
すると亜麻色髪の少年が眉を動かしながらも反応する。
床を少しだけ強く叩き注目を集めた後でこういった。……アルが心から反応する様な言葉を、はっきりと自信を持って。
「俺達は人助けをして英雄を目指すのが目標のギルドだろ」
「……!!」
その言葉に心から反応する。彼の言葉に紺色髪の男は両手を上げて謝罪をすると彼を落ち着かせる。そんなやり取りを彼女は見ていたのだけど、アルは聞いている余裕なんか微塵も無くて。
「英雄を、目指す?」
「ん? ああ。俺は英雄譚に出て来る英雄に憧れてギルドを立ち上げたんだ。それからは世界の色んな所を回って人助けをしてる。……まぁ、旅が目的になってるみたいな事は否定できないけど」
「今までどんな所を回ったんだ!?」
「えっ? えっと……」
すると彼は人差し指をおでこに当てて考え始めた。急にアルが元気になったのを見てびっくりしたのだろう。彼女もアルの代わり様にびっくりしていた。もちろん紺色髪の男も。
冒険者の話に興味津々なアルを見て気が乗ったのだろう。彼は色んな事を話し始めた。
「最初は水の都で、次が森の都。その次がソルジア王国だったっけな」
「確かその頃に僕がギルドに入ったんだよね」
「そうそう。わざわざ騎士団を止めてまで入ったんだ」
「騎士団を止めてまで!?」
普通なら冒険者を止めてまで騎士団に入るの流れなのに、彼の場合だけ全く逆な事に驚愕した。アルが心から反応していると彼も気が乗ったみたいで、爽やかなイメージを崩して笑い始めた。
……のだけど、馬車を引いていた少女が問いかけた事で空気が入れ替わる。
「そろそろ付きますよ」
「ああ、分かった」
その言葉を合図に二人はすっかりと雰囲気を変え、気楽な雰囲気から一変何故か堅苦しいさのある雰囲気を解き放った。
だからどんな事を言われるのだろうと思っているとアルに選択を委ねて来て。
「で、君達には選択する権利があるんだけど……」
「選択?」
「これから町に戻ったとして、どうやって生きていくのかって選択だ」
「……!」
聞いた事がある。村や町を燃やされ行き場を失くした人達は保護された後、各々の生き方を選択する事が出来ると。その最悪な結末が奴隷になるなんてオチだけど、彼らはアルに選択権を与えてくれた。
つまりこの先どんな人生を歩むかはアル次第って事だ。静かに暮らすのも、冒険者になるのも、英雄になろうと騎士団に入り努力するのも、全てアルの自由。
「平穏に暮らす事も出来るし、俺達みたいに冒険者を営む事も出来る。君はどうする?」
「俺は……」
でも、その答えなら既に決まっている。
この世界に生まれる前からずっと憧れていた英雄。今こそその憧れにギリギリまで手を伸ばすチャンスなんだ。「届かなかったらもっと手を伸ばせ」って父にも言われたんじゃないのか。
だから瞳に光を灯らせて答えた。既に世界から「絶対に無理だ」と決めつけられた憧れを追いかける為に。
「――英雄になりたい」
「……そっか」
そう言うと亜麻色髪の少年は嬉しそうに口元に微笑みを浮かべた。紺色髪の少年も、黒髪の少女も、全員が期待の眼差しにアルを見て来る。
すると彼は手を伸ばして。
「なら、俺のギルドに来ないか?」
「えっ」
「俺は心から人を助けるって叫べる人を仲間にしたい。そして今、君がその仲間に相応しいって思った。だから、どうかな」
「……もちろん。よろしく頼む!」
そんな強気な彼にアルは手を振って互いに叩いた。
アルがたった今仲間に入った事に二人は嬉しがり、思いっきり手を上げる。……のだけど、一番最初の難関は既にここから待ち受けていて。
「俺はライゼ。この人がウルクスで、彼女がフィゼリア。君達は?」
「あっ。え~っと……」
しかし彼女の名前がない事を完全に忘れていたアルは一瞬にして動揺してしまう。だからと言って彼女もすぐに名乗れる訳がなく、咄嗟のひらめきでアルは彼女の仮名をあっさりと決めてしまった。それも咄嗟の事だからネーミングセンスの欠片も無くて。
「俺はアルフォードで、彼女がジン!!」
「……は?」
この日、アルは初めて女の子に男の子みたいな名前を付けたのだった。