第八章 調味料
生活安全課の中の、一番入り口に近い席。廊下のよく見えるそこが、タケダの指定席だった。生活安全課生活安全係。猟銃や刀剣類の登録、管理、更新。パチンコ、飲食、風俗店の登録、管理、更新。それらが主な業務内容だった。警察官である必要性を露ほども感じない、完全なる事務仕事だ。それともう一つ、付け加えるなら……行方不明者届けの受理、もあったっけ。いつも投げやりに言うのがタケダ流だった。
「タケダ部長ぉー、わっぱとってもらえますか」
「んー」
部屋の奥にいる若手に声をかけられ、タケダは壁際にある棚をまさぐった。そこには、護送で使うための手錠が大量に置いてある。腰縄と呼ばれるロープがついたものだ。少なく見積もっても、十四、五はあるだろう。
「すんません、あざっす」
少年係のシマから顔を覗かせていた若手は、ニカッと笑って手錠を受け取った。少年係とは読んで字のごとく、少年犯罪を取り締まる係のことだ。生活安全課の中にあって、事件を担当する刑事だ。行政事務ばかりを扱うタケダと違い、警察官らしい仕事をしていると言える。
「引き当てか」
「えぇ、この前のチャリ盗のガキです」
「楽しそうだな、羨ましい」
恨み節をぶつけるタケダだったが、そこに仰々しい大名行列がやってくる。
籠にこそ入っていないが、周りをお付きの者で固め、裸の王様よろしくふんぞり返って歩いてきた。大きな腹を高級スーツでひた隠し、金色の腕時計で全身のバランスを取ったかのような、サンタクロースもどきだ。
「お前らは廊下で待っとれ」
「「「うす!」」」
薄汚いサンタクロースはお付きの者を下がらせ、我が物顔で入ってきた。タケダのはす向かいにあるパイプ椅子に、当然のように座った。
「やれやれ、白崎組の組長が、こんなところに何の用ですかぁ。二課はあっちですよ」
ヤクザの組長を目前にしても、タケダは臆することなく対応した。むしろ、若干失礼な態度だった。
「はっ!誰のせいでここに来るはめになったと思っとるんじゃ」
白崎のオヤジの髭は、感情の昂りにあわせて膨らむのか。タケダは余計なことを考えていた。
「お前のせいで若いもんは勤めにゃならん、心音は取り逃がす、忘れたとは言わさん」
取り逃す……?
タケダは一瞬考え込んでしまう。
また行方不明届けか?ついこの間とったばかりだが……そういえば、あの日、あの時、あの場所で、あの二人は一緒にいたような……いや、言うまい、思い出すまい。面倒ごとに顔を突っ込む気になれない。それに、いくらあの家出少年でも、白崎組の一人娘と一緒に行動するなんてバカなこと、するはずがない。
「取り逃がすって、それが娘に対する言葉ですか」
「また、お得意の正義感か。ええか、これ以上いらんことしたら、わかっとるんじゃろうの」
白崎のオヤジが机を静かに叩いている。
いったい、いつの話をしているのだろうか。タケダは眉間にシワを寄せる。
二人の視線が、奇妙に交錯する。
「わかったら心音の行方不明届けをさっさと取れ。嫌とは言わさん」
タケダは上唇をなめながら書類ケースをゴソゴソやった。
「おたくさん、一つだけ勘違いしてますよ」
行方不明届けを取り出し、無造作に長机に放り出した。
「あいにく、正義感なんてものは――あの日に置いてきましてね」
心音は暗闇の中をさまよっていた。
長いながいトンネルを、あてもなく歩いていたようだったと、後で教えてくれた。
そこを光で照らしてくれたのが、響だったとも教えてくれた。
『逃げるぞぉ!』
『えぇ!?ちょっと、君ぃ!』
あの日、響が腕を引っ張ってくれた。絶対に抜け出せないと諦めていたトンネルから、響が引っ張り出してくれたのだ。
大阪についたとき、世界にはこんなにもたくさんの人がいて、たくさんの音で溢れていて、たくさんの光で満ちていることを知った。
京都で朝を迎えたとき、チチチ、と鳥の鳴き声が聞こえた。いつも家の中で聞いていた鳴き声だった。心音は鳴き声の主を見られる日がくるなんて、夢にも思っていなかった。ホテルの窓の桟にやって来たそれは、スズメのように小さな鳥で、それにしては色がきれいで、白い胴体と灰色の羽、そして首筋が鮮やかな黄色に染まっていた。
ただの鳥を、一目見ただけ。ただそれだけ。
ただそれだけのことが、心音にとってどれほど大きな意味を持っていたことか。私には到底理解が及ばないし、彼女の最大の理解者である響ですら、真に理解することはかなわないだろう。
だが、心音にとってはまさにそれが人生の契機だった。宇宙誕生の瞬間より尊く、地球滅亡の危機よりも重大な、彼女の中で響を特別たらしめている理由だった。
滋賀では初めて誰かと水をかけあったし、三重では初めての水族館へ行くこともできた。初めて入ったマクドナルド、初めてのネカフェで初めての雑魚寝……全部の初めてに、響がいた。
そんな響だったからこそ、黙ってお金を使われた時のショックは相当なものだった。
心音はお昼ご飯の代金をもらおうと、響を探していた。売店の入り口に差し掛かったとき、その姿を見つけた。
すぐに声をかけなかったのは、響がなにやら、深刻そうな顔をしていたからだ。爆発寸前の爆弾を、どうやって処理すればいいのか、真剣に悩んでいる映画の主人公のようだった。実際に手に握られているのがカピパラのぬいぐるみだというのがわかっていても、声をかけることができない雰囲気だった。
そのまま入り口の影に隠れるようにして見ていると、響が一人で頷き、レジの方へ歩いていった。そして、アディダスのリュックから財布を取り出し、ぬいぐるみの代金を支払ったのだ。
一瞬、何が起きたのかまったくわからなかった。目の前が真っ暗になった気がした。
気づいたときには、心音は売店から遠く離れたところで、激しく息をついていた。あれだけ無駄遣いを否定してきた響が、いったいなぜ?いつから?何度同じことを繰り返していたのだろうか?自分は、響のいいように利用されていただけなのだろうか?
果てのない疑念と、裏切られたという思いが、血中に溶ける毒のように体中を蝕む。重たいコートのようになって全身にまとわりつく。それらは絡み合い、混じり合い、冷たい孤独となって心音を震わせる。
頭が痛い、喉が痛い、顔は熱いし寒気がする。それ以上に胸が痛い。苦しい、苦しい、苦しい。ひとりぼっちだ。味方などいなかった。
言い訳をする響の声が、伸ばされる響の腕が、心音の苦しみを加速させる。
その苦しみから逃れるために、手をひっぱたいた。苦しみが増しただけだった。だから走って逃げた。逃げてにげて、今度こそ本当にひとりぼっちになった。降りしきる雨のなか、心音はひとりぼっちだった――
――どれほど眠っていたのだろうか、霞む視界をとらえ、ほとんどひっつきかけていたまぶたが、さらなる光を求めて動き出した。
「ん……」
心音の最後の記憶は、硬いアスファルトと、生臭いごみの臭い、冷たい雨の三つだった。
それなのに、緩やかな幸福感に包まれながら目覚めた。柔らかいマットレスと、春のような香りと、暖かい掛け布団の中だった。
「んぅ……」
重たい頭を少しだけあげると、そこはマンションの一室だった。ワンルームマンションというやつだろうか、ビジネスホテルと違い、キッチンスペースや冷蔵庫が見える。物は多くもなく少なくもなく、テレビ台とその上に乗った大きなテレビ、小物が入りそうな棚や、控えめな衣装ケース、あとは自分の寝ているベッド……生活するのに必要な、最低限度のものが置いてあるようだった。
ここはどこ?心音はまず、そう思った。そして、無意識に響の姿を探してしまった。ここ最近、ずっと同じ部屋で寝ていたので、それが当たり前のことになっていたのだ。相変わらず頭は重く、体を動かす気にもならなかったが、首を左右に振って探した。その途中で枕元の手紙に気付き、はて、と首をかしげた。
手紙は白い紙を二つに折り畳んだだけの、簡素なものだった。響が使っていたノートと同じ大きさの紙らしかったのだが、それよりも気になるのは、手紙の上に珍客がいたことだ。
でん!とテロップでも出てきそうな堂々たるたたずまいで、カピパラのぬいぐるみが手紙を守っている。黒いビーズの、つぶらな瞳が光っている。「正当な権利者でなければ、手紙を開示することはできません!」と、誇りに満ち溢れた声が聞こえてくるようだ。
心音は上半身を起こし、カピパラをそっと手に取った。そうすることが、義務のような気がした。
もう片方の手で手紙をとり、壁に背をつけ、カピパラを胸に抱きながら読んだ。
心音へ
買い物に行ってきます。すぐ戻るので、ゆっくり待っていてください。
喉が乾いたら、冷蔵庫の中にポカリが入ってます。
響
人間、手紙になるとなぜか丁寧な言葉遣いになることがある。やたら綺麗な字で書いてあるし、優等生ぶった響と会話しているような、むずがゆい錯覚に陥ってしまう。
収まりの悪さと物足りなさに悩まされる心音だったが、幸いなことに、手紙には続きがあった。こちらは走り書きされていたし、何度も迷ったのか、ペン先でつついた跡がいたるところに染み付いていた。懐かしいなげやり感に心をくすぐられ、安心しながら続きを読んだ。
追伸
勝手にカピパラ買ってごめん。
信じてもらえないかもしれないけど、これは心音のために買ったんだ。カピパラ、気に入ってたぽかったから……
違ったらごめん!あと、カピバラの分、昼飯食ってねえから!
証拠はねえけど……
最後は自信がなくなったのか、尻すぼみするかのように字が小さくなっていった。それでも、その言葉に嘘偽りがないと、心音は感じ取っていた。だから、驚いて胸元のカピパラを見下ろした。カピパラの方は、つぶらな瞳でこちらを見上げていた。
にっくき無駄遣いの象徴だったカピパラが、急に愛おしく思えてきた。雨のせいか、一部の毛が黒く汚れてしまっていたが、それすら可愛いと思えた。
穴が開くまでカピパラを見つめていたら、突然、部屋の外からガチャガチャと音が聞こえてきた。響が帰ってきたのだ。
心音は慌てふためいた。なにせ、あれだけ啖呵を切っておいて(その上、手まであげて!)、全部自分の勘違いだったのだ。しかも――手紙とはいえ――きちんと謝られたせいで、よけいに恥ずかしい。
急いで手紙をたたみ、もとあった位置に戻す――買い物袋の擦れる音、靴を脱ぎ散らかす音が聞こえてくる――慌てたせいで手元がぶれ、まっすぐ直すために余計な時間を食ってしまう――響の足跡が部屋のすぐ外まで近づいてくる。もはやカピパラを置いている暇はない――意を決してぬいぐるみを抱きしめ、身をひるがえして掛け布団の中にもぐり込む――それと同時に、部屋のドアが開かれる。
ガサッ。ビニール袋が急停止した音が聞こえた。
あぁ、寝たふりだなんて。我ながらなんて子供っぽい!響に背を向ける格好で、心音は激しく後悔していた。
「ん……?」
響の声が首筋にとまる。心音はぴりぴりとした緊張感に包まれ、まぶたがくっつくくらい強く目を閉じた。
しばらく沈黙が続いた。
どうか響が、疑惑の大海原を越えてきませんように。手紙を読んだとか、プレゼントを手に取ったとか、余計なことに気づきませんように。カピパラをちぎれるほど握りしめ、心音は祈った。
「心音……?起きたのか?」
よかった。心音は胸を撫で下ろした。響はカピパラの失踪原因を深く追及してこなかった。
しかし、喜んでばかりもいられない。寝たふりの次は起きるふりだ。心音は片目をぱちくりと開き、もぞもぞと動くふりをし(ながらカピバラを持ち替え)た。そして、閉じた方の目をくしくしとこすりながら、響の方へ顔を向けた。
「んー……ふ、ふわーぁ……あれ?響?」
あと、頑張ってあくびした。
「おぉ!よかった!目が覚めたんだな!」
こんなので騙されるから男はちょろい。私ならそう思うところだが、心音は別の感情で頭がいっぱいだった。まるで自分のことのように喜ぶ男の子に、頬がかぁっと熱くなったのだ。
「いやー、よかったよかった……あ、そういえばよ、ここに置いてたカピパラ、知らねえ?」
響は手紙を指さして言う。
「う、ううん……!知らない……!」
心音は反射的に否定してしまうが、言葉と裏腹に、掛布団の下でカピパラをきゅっと握りしめる。ごまかすように、逆に聞き返す。
「それ、なんなの?」
「あいつ、カピパラ持って帰りやがったな……え?いや、まぁ読んでねえなら……いっか」
響は手紙を手に取ると、何のためらいもなく握りつぶした。
「す、すてちゃうの!?」
「あん?たいしたこと書いてねえからよ。ただの伝言っつーか」
それが欲しい。永久保存版にしたい。口が裂けても言えない心音は、せめて目線で訴えかけた。しかしもちろん、女心に無頓着な響には無理な相談だった。手紙をくしゃくしゃに丸め込み、ゴミ箱に放り投げた。
光より速く悲鳴が飛び出してきて、どうにも止められなかった。心音は急いで喉を絞ったが、「ひっ」としゃっくりの様な音が残った。
「あん……?お、そうだ。なんか食うか。腹減ったろ」
なぜだか知らないが、響は他のこと全てを後回しにして、心音の心配を最優先事項としたようだった。手紙もカピバラもしゃっくりも、一切合切無視だ。調子が狂う。唇の端がぴくぴく動く。心臓がむずがゆい。
とは言え、響の指摘により、自分が空腹という名の山をとっくの昔に登りきっていることに気が付いた。この際だし、ちょっとくらいならわがまま、許してもらえるかもしれない。心音は掛布団で顔を隠しながら、小さい声でポツンと言ってみた。
「……ハンバーガー食べたい」
「ぶぁあか!そんなもんばっかり食べるから風邪ひくんだ!雑炊作ってやるから、寝てろ」
優しいのか優しくないのか、どっちなのだろうか。でも、懐かしい感じも残しながら、響はキッチンへ消えていった。
「むー!」
心音はその後姿に思いっきりふくれっ面をしてやった。
「……うふふ」
その後、布団の中でカピパラと笑いあったのは一生の秘密だ。
「起きれるか」
「う、うん……」
十四、五分後。心音は慌ててカピパラをお尻の下に押し込み、されるがまま起き上がっていた。背中に添えられた響の手が、焼きごてのように熱く感じられた。
ベッド脇のサイドテーブルには、お鍋とお玉とお椀とレンゲが置かれている。心音が見ている前で、鍋の蓋が開けられる。響が――なぜか、怖い顔で――中身をお椀につぎ始める。差し出されたそれを、おずおずと両手で受け取る。
レンゲも受け取り、お椀の中身に注目する。半透明な液体が、お米と細かく刻まれた野菜で満たされている。ニンジン、白菜、大根、ネギ……色とりどりに散りばめられた宝石のように光っている。そして、最後にとき卵を落としたのだろう、半熟の黄身と白身が、おいしそうにまとわりついている。
「ほら、食えって。味は……あんまり自信ないけど」
響の表情の理由はそれか。妙に納得しながら、心音はレンゲを雑炊にひたした。一口で食べられる量だけをすくい、小さな口の前に持ち上げた。
ふぅ、ふぅ、と息を吹きかけると、レンゲの上で湯気が揺れた。どうやら響は、湯気の行方まで見ているようだった。
少しの緊張を感じながら、心音は雑炊を口に含んだ。
「……おいしくない」
気の利いたことでも言おうと思ったが、そんな余地を残さぬおいしさだった。塩かめんつゆかわからないが、調味料の入れ過ぎでしょっぱい。おまけに野菜は半生、大根とニンジンは固いし、白菜とネギは噛むたびにもしゃもしゃと歯にはさまる。
でも、
「あー……おかしいな、ちゃんとレシピ見て……」
でも……、
「でも、おいしぃ……!」
自分の目から涙がこぼれ落ちるのを、心音は止められなかった。
調理実習のシチューも、父親が取り寄せる食事も、なんの味もしなかったのに。
はたまた、わかりやすく味付けされたジャンクフードでもないのに。
響の雑炊には、ちゃんと味があった。
一口食べるたびに涙が溢れ、飲み込むたびに胸が熱くなった。冷え切っていた心に、響の優しさがどんどん流れ込んできた。
「どっちなんだよ……っいぃ!?泣くほどマズかったのか……?む、無理して食わなくてもいいんだぞ」
「違うの……おいしくないけど……おいしくないけど……あったかくて……!」
心音は泣きじゃくりながら食べた。どんどんしょっぱくなっていく雑炊を、えんえん言いながらかきこんだ。
「こ、心音……?いや……マズいなら……」
「おいしぃ!の!」
「いや、さっきおいしくないって……」
「だっておいしくないもん!全然!」
「はぁ?何言ってんだよ、意味わか――」
「私だってわかんなぃい!おかわりぃ!」
オロオロするばかりの響に、空っぽになったお椀をつき返した。おかわりが返って来るまで、心音はわんわん泣いていた。
「響の言ってたのはこういうことだったんだね。ジャンクフードばっかり食べるな、って」
心音は鼻をすすりながらポツリと言った。響はキッチンに戻り、食器と泡と格闘している。
「あん?そうだよ。オレんち道場だからさ、小さい頃から厳しかったんだよ。おかげで風邪引いたことはほとんどねえ」
泡をまき散らしながら威張る響を見て、心音は微笑んだ。
「そっか……すごいね」
「え?なんて?」
泡を流す音に邪魔されて、声が届かなかったようだ。心音は静かに首を振り、蛇口が締められるまで待った。
「響……ごめんなさい」
「あん?」
タオルで手を拭きながら、響が怪訝そうな顔をしている。
「なんで心音が謝るんだよ」
心音はしまった、と口をつぐんだ。心音はカピパラの行方を知らないし、手紙も読んでいない。そういうことになっているのだった。
「あ……えと……その、急にいなくなって、迷惑かけちゃって……」
「あぁ……そんなことかよ。気にすんなって」
響はキッチンから出てきて、ベッドの端に腰掛けた。
「元を言えばオレのせいだ。オレが勝手に……ホントに悪かったと思ってる。絶対に約束守るって言ったのに……信用できねえよな。ごめん」
それは、四つのルールを決めた時に響が言った言葉だった。心音は響の背中を見つめていた。
「約束は守る男だって、ちゃんと、口だけじゃないってところを見せる。心音に黙って金使ったりしねえ。約束する」
口だけなもんか。響はいつだって。
「うん……知ってる」