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松代忠仁の長い1日

作者: 餡子

 松代が葉月のもとへ来て、1か月が経った。


 この間、松代は安藤の屋敷の敷地内に建てられている、以前葉月が住んでいたという戸建の住居で、失った10年を取り戻すように、情報収集に勤しんだ。ニュース番組を見て、新聞も毎日購読した。それも一紙だけではなく、名前をよく聞く新聞社のものは全て。それだけではなく、葉月の祖父が遺した文献を読み漁り、また安藤の屋敷周辺を歩き、土地を知り、自動車の免許証の再取得もした。

 地頭がいいこともあり、失った10年は意外に早く取り戻せた。だが、その間、葉月には一切会っていない。同じ敷地に住んでいるというのに、まるで住んでいないかのように、その存在は謎に包まれている。来た当初はこの生活に慣れること、今を知ることを優先的に考え過ごしてきたが、1か月が経ち、呼びもしなければ姿も見せない葉月に対し、こんなことを思うようになった。

自分はなぜここにいるのか? 本当に自分が必要なのか? と。


 そんな松代の考えを見透かしてでもいたのか、直接、葉月から、ではなかったが、声がかかったのは、その翌日の夜だった。


「ここの生活には慣れましたか?」

「ええ、まあ」


 松代の元を、白髪の老紳士が訪れた。

 見慣れぬ男……いいや、見たことがある。この男は、葉月の執事だ。今は葉月についているが、元々は先代の、が正解だ。姿はほとんど見せないが、いつでも葉月の傍に控えている。そんな影のような男がどうして? 松代は、歳を重ね、顔に皺が刻まれた男を見ながら思った。

 男は、開いているのか閉じているのか分からない目で室内を見回し、僅かに口角を上げた。


「ふむ、さすが先代が見込んだ方、この短期間で随分と多くを学ばれたようですな」

「それはどうも。ですが、あまりに時間がありすぎて、主の意図を計りかねていたところですよ」


 少しの皮肉を込めながら相手の出方をうかがえば、それも承知、と言わんがごとく、男は深く頷いた。


「明日、葉月様がお出かけになりますので、あなたには随行をお願いします。そこで、葉月様と、この家の仕事を知っていただきます。また明日の朝、お伺いいたしますので、それなりのご用意を」

「分かりました」

「ああ、1つだけ言っておきましょう。一旦外に出たら葉月様に対して、意見しないこと。これは厳守でお願いします。意見するのであれば、家を出る前にお済ませ下さい」

「その場で判断しなければならないこともあるかと思いますが……」

「それは葉月様がご判断されること。我々はただ従うのみです。それに、誰が見ているか分からないところで葉月様に意見するなど、あってはならないことです」


 この会話で、安藤の家にとって、葉月がどれほどのものなのか、僅かではあるが知ることができた。確かに、一使用人に意見される姿を誰かに見られるということは、安藤の印象にも繋がる。松代は納得し、大きく頷いた。それからも葉月への接し方など、時間にしては短かったが、執事から教えを受けた。


 翌朝、葉月はグレー地に桜の柄の入った着物に、黒地に三つ紋の羽織を羽織って現れた。初めて会った時の印象が深く残っていて、あの時は随分と幼く思えたものだが、着物を着た姿はまるで別人のように大人びていて、着物姿を見るのは初めてではないのに、これが同じ人物だろうかと疑いたくなるほど凛々しさを感じる姿だった。

 松代は、昨夜、執事から教えてもらった通りの挨拶をし、葉月を車に乗せて屋敷を出た。


「1か月お会いしない間に随分と印象が変わりましたね」


 静まり返った車内で、葉月がふふっと笑った。確かに変わったと言えば変わった。ぼさぼさだった髪は定期的に手入れをしているし、嫌味にならない程度にポマードをつけ、髪型にも気を遣う。髭も毎朝剃る。体調の悪そうなこけた頬もだいぶふっくらとしてきた。運動だって適度にしている。おまけに、スーツはイタリア製の生地を仕立てたオーダーメイドだ。

『安藤』と言えば、政財界では名前を知らない者がいないほどの家だ。そんな安藤家の当主に人生を買われたとは言え、新しく執事と名乗る以上はそれなりの格好をしなければならない。この1か月、失った時を取り戻しながら、松代は安藤家の執事として恥ずかしくない行動、言動、容姿を身につけたのだ。


「まだこういった環境に慣れませんが……」


 ほんの少し、恥ずかしそうに苦笑いしてハンドルを握る松代に、葉月も柔らかく笑う。「いいえ、とっても素敵です」と。


 車で屋敷を出て約30分で目的地に到着した。

 この日の仕事は現金の融資だ。出かけに執事から渡されたジュラルミンケースがトランクに入っているが、あれは相当な重量があった。おそらく、何千万という単位の現金が入っているのだろう。あの老体であれを運んでいたのか……そう思うと、簡単な気持ちでこの仕事ができないということに気がつく。それを葉月が捌く。あの年齢の娘にできることとは到底思えない。一体、どんな仕事をするのだろうか。気を引き締めつつも、葉月がどういう行動に出るか、それを見るのを楽しみに思う松代だった。



 都内にあるその会社は、やけにタバコの臭いが鼻についた。おまけに廊下の壁も、ところどころ黄ばんでいる。すれ違う社員もどこか胡散臭い。

 融資を受ける側の会社は、名前を聞いたことが無いような会社だが、この会社には親会社があり、その親会社の名は松代も知っている会社だった。裏で反社会的な組織と繋がっているというウワサまである会社だ。


「まいりましょうか」


 葉月は物怖じせず、すたすたと歩いていく。さらり、さらりと揺れる後ろ髪からは、時折、羽織に刺繍された紋が見えた。それが葉月が背負っているものなのだということを改めて感じた。

 やりとりは時間にしたら数分。トランクにあった重たいジュラルミンケースは相手に渡り、その代わりに角2サイズの茶封筒が1通。中には借用書が入っている。現金を持って行き、借用書を持ち帰る。それが今日の仕事だった。


「安藤様、いつもありがとうございます」

「いえ、こちらこそご贔屓にしていただき、ありがとうございます」


 社長らしき人物と葉月が一言二言、言葉を交わし、葉月が頭を下げるのに倣って、松代も会釈をして会社を出た。


 松代にとって、初めての仕事は終わった。これくらいなら何の問題もない。特別必要なスキルだってない。さて、帰ろうか。松代は停めてあった車の後部座席のドアを開けた。


「松代さん、ここからは私が運転してもよいですか?」

「葉月様が、ですか?」

「ええ。少し立ち寄りたい場所があります」

「ですが……」


 主に運転をさせるだなんて、できない。と言おうとしたが、その言葉を松代は飲み込んだ。執事から言われた言葉を思い出したからだ。

「一旦外に出たら葉月様に対して、意見しないこと」これが意見することになるのか、微妙であったが、主の言うことに従わないのはやはりいけないだろう。松代が何と答えようかと黙っていると、葉月がくすりと笑った。


「心配には及びません。こう見えて私、運転には自信がありますの」


 それを鵜呑みにしていいものか、やはり悩んでしまうが、葉月が嘘をつくとも思えず、松代は渋々ながら、葉月にハンドルを握らせることにした。

 葉月の運転する車が走り出してしばらくし、赤信号で止まったところで葉月が松代に言った。


「振り向かずに、ルームミラーで後ろを確認してください。何台いますか? おそらく、2台かと思いますが……」

「えっ?」


 間抜けな声を発してしまったが、反射的に振り向きそうになるのを堪え、確認をする。確かに、黒塗りが2台、後方にいた。嫌な予感がする……が、葉月は冷静に言った。


「小百合さんに電話をして下さい。音声はスピーカーに切り替えて」

「かしこまりました」


 松代は言われたとおりに電話をした。そして、そこで繰り広げられる会話に、ただただ、驚いた。


「今、出られそうな方はいらっしゃいますか?」

「ええと、いますよ。何人必要?」

「そうですね……3~4人くらいでしょうか」

「了解」

「今、環状線を南下しています。詳しい場所はGPSで補足して下さい。一旦、相手の出方を見ます。これ以降の連絡がなければ、今から30分後に港で合流いたしましょう」

「じゃあ、30分後に」


 葉月は何を言い出すのか。いくらなんでも今から30分で港に行くのは難しい。よほど運転技術のある者でないと難しい上に、道交法なんて法律もある。見つかれば免許停止となりかねない。


「松代さん、ちょっと誘いをかけてみようと思います♪ ええと、松代さんは口を閉じて何かに掴まっていて下さいな♪ 危ないですよ」


 まるでゲームでもするかのような言い方だった。まさか、とは思ったが、その瞬間はすぐにやってきた。

 葉月はシフトレバーをニュートラルに入れてアクセルを踏み、エンジンをふかした。回転数が上がったエンジンが大きく唸る。と、次の瞬間、葉月はシフトレバーをドライブに入れた。車は、キュルキュルという大きな音と白煙を上げ、まるで映画やドラマの一場面でも見ているかのように、弾かれたように飛び出した。


「ッ!!!!!!!!」


 松代は声にならない悲鳴を上げ、窓の上にあるアシストグリップをぎゅっと掴んだ。この急発進に驚いたのは松代だけではなかった。後ろにいた2台の車も後を追うように加速をした。


「……お金に呑まれた人間とは、なんて愚かなのでしょう。ほら、すぐに誘いに乗ってしまう」


 ルームミラーを見ながら葉月がぼそりと呟いたが、松代はそれどころではなかった。

 着物の袖から伸びる腕は白くか細い。声だって鈴のように愛らしい。それなのに、話す内容は物騒なことこの上なく、ハンドルさばきは、たおやかな娘ではなく、完全に漢だった。

 葉月の運転する車は、法定速度を遥かに超えるスピードで道を行く車の間を縫うように走り抜ける。無茶苦茶だ。だが、その運転技術は高く、とても若い女性の運転だなんて思えない。スピードが出ている時点で十分に危険ではあるが、運転が乱暴だということはなかった。だが、松代にとっては初めての、しかも体が震え上がるような体験だった。


「松代さん……、松代さん!」

「えっ、あっ、ハイ!」

「着きましたよ?」


 僅かな時間であったが、松代は意識を失っていた。

 初めての仕事で緊張している上に、葉月の驚くべき運転技術を目の当たりにした。ハンドルを誤れば死んでいたであろう状況だった。


「も、申し訳ございません……」

「いいえ。驚くのも当然でしょう。ですが松代さん、これで終わりではないのです。残念ながら」


 葉月は困ったように笑い、行きましょう。そう言って車から降りた。すると、後方から車をつけていた2台の車が猛スピードで走って来て、葉月の車の前後を塞いだ。降りてきたのは、案の定、先ほどの取引先で見かけた男たちだった。


「女のくせに、すげーな。手間かけさせやがって」


 1人の男が葉月に向かって言う。ぞろぞろと葉月に向かって立つ他の男たちも葉月を見てにやりと笑う。


「葉月様、危険です。どうか、お逃げください」


 先ほど葉月が電話をしていた日々谷警備保障の従業員はどこにもいない。今、葉月を守れるのは自分しかいない。

 相手は葉月を殺そうとしている。殺さないにしても、拉致されて乱暴される。身代金と言って多額の金額を要求する。それが目に見える。松代は葉月にそう伝えた。だが、葉月は逃げるどころか、笑みを浮かべて男たちに言うのだ。


「まあ、わざわざお見送りにここまで来て下さったのですね。ありがとうございます。あんな『はした金』のために♪」


 その言葉には皮肉がたっぷりと詰まっていた。けっして『はした金』なんて金額ではないのに、葉月はそう言って笑う。もちろん、相手が怒り出すのは当然だった。


「お嬢ちゃんだからって甘くみていたが、事情が変わった」


 男たちは懐から拳銃を抜き出し、その銃口を葉月へ向けた。


「死んでもらおうか」


 これは本当にマズい。松代は咄嗟に葉月の前に出て両手を広げた。来るであろう衝撃に目を閉じたその瞬間、


「はい、残念でした~」


 この場にはそぐわない暢気な声と、男たちのうめき声が聞こえた。

 松代が目を開けると、今の今まで銃を構えていた男たちは地面に跪き、その背後には見慣れぬ若者たちが立っていた。


「とりあえず、銃取り上げて拘束したけど、葉月さん、これでよかった?」

「ええ、いつも助かります」


ということは、この若者たちが……


「松代さんはお会いするの、初めてですよね。こちら、日々谷の皆さんです」


 腰が抜けそうになりながら、何とか立っている松代に、日々谷の社員たちは「ども」なんて軽く挨拶をする。命の危険にさらされて、それでも何とか立っているのは松代だけ。日々谷の社員も、葉月もまったくその顔に恐怖の文字はない。なんて人だ。こんな付け焼き刃の力を得た男たちよりも断然、怖い。


「松代さん、電話をお借りできますか?」

「え……あ、はい。どうぞ」


 未だバクバクとする脈を打つ心臓、そして現実が呑み込めていない松代は、スーツのポケットから電話を取り出し、葉月に渡した。それを受け取り、葉月は先ほどの取引先に電話をした。もちろん、音声はスピーカーで聞こえるようにした。


「社長さんでいらっしゃいますか? 安藤です。わざわざお見送りまでしていただいてありがとうございます。こちらのお見送りに来て下さった方々はどうしたらよいでしょう?」

「な、何のことですか……」


 電話の相手は明らかに動揺した口調だった。


「まあ、それでしたら、こちらのいいようにさせて頂いてもよいですね。……ですが、見ず知らずの方たちだとしても、返して欲しいということでしたら、ご融資したお金と交換にいたしましょう。今後、この方たちがあなたのお役に立つかは分かりませんが。ご連絡をお待ちしております。お返事いただくまで、この方たちとはゆっくりとおしゃべりをさせていただきますね♪ あと一つ、安藤の当主が代わっても、受け継がれるものは何も変わりません。そのことをお忘れなく」


 葉月はそう言って電話を切った。笑みを浮かべてはいたが、その目は全く笑っていなかった。


「後のことはお任せしますね♪ それから、お金は小百合さんにお渡し下さいまし」

「はーい。じゃあ、いろいろ聞いておきますね」


 葉月はにっこりと微笑み、日々谷の社員たちとそんな会話をし、ふぅと息をついて松代を見た。


「帰りましょう。運転、よろしくお願いしますね」



 その夜、執事が松代の下を訪ねた。


「仕事はいかがでしたか?」

「正直、怖かったです。葉月様はこんなことをしていたのですね……ただの娘さんかと思っていましたが、そうではなかった……それなのに、私は、ただ怯えていることしかできなかった……」

「今日のようなことがいつも起こるわけではありません。ですが、あれが葉月様、いえ、安藤の当主の仕事です」

「どうして、あんなに若いお嬢さんが……」

「葉月様がお選びになった。としか申し上げられません。ですが、そうは言っても年頃のお嬢様なのです。迷うこともあります」


 安藤の名は1人で背負うには重すぎる。それを今、1人で背負っている。あの羽織に刺繍された紋が余計に重さを感じさせる。いつか壊れてしまうかも知れない。そうならないよう、自分に何ができるか。


「葉月様は先代に引き取られてからというもの、ご友人との付き合いがございませんでした。今でこそ、小百合様やみどり様がいらっしゃいますが、孤独なお方です。ですので、傍で見守り、支えて差し上げて下さい」

「私のような男でも、それができるのでしょうか?」

「先代がお選びになった方です。安心してお願いできると思ったから、お伝えするのです」


 執事は皺の入った顔にさらに深く皺を作った。

 葉月は強い。「力になって下さい」そう言われたが、自分の想像のはるか上を行く強さを持っていた。それを今日、目の当たりにした。

 自分に何ができるのか。ただ傍にいるだけなら誰にでもできる。だが、先代は自分を選んだ。その訳が、いつか分かる時が来るのだろうか。いや、だがその前に、葉月ほどはなくても、動じない強い心は身に付けなければいけない。葉月の運転に白目を剥いた、だなんて、今さらながら、恥ずかしい。

 葉月よりも何年も生きているというのに、まだまだ課題は山積だ。葉月が頼りにしていた日々谷警備保障。それまでに到達できなくても、力強い存在でなければ。松代は改めてそう思うのだった。


「はぁ、疲れた……」


 こうして、松代忠仁の長い一日は終わった。


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