第一章(2) ー 平凡な春の日
再びテーブルに突っ伏し、炬燵の天板が押し付けた額の体温がその表面にじわりと広がっていくのを感じながら迫原はいつも通りだった頃の日常に思いを馳せる。
それはほんの数日前の話。
迫原智也がまだ心身共に揃ってちゃんとした男で、あと数時間後には高校の入学式に出席しようかという日の話だ。
▽ ▼ ▽
携帯電話が鳴り響いている。と言っても、着信を知らせるものではなく、目覚まし時計としてのアラーム機能だ。不意の大きな音に窓のサッシにいた雀が驚いて飛び立ってしまう。
そんな自己主張の激しい携帯電話のすぐ傍らに巨大な肉まんが鎮座している。窓から降り注ぐ朝日を浴びたその姿はまるでたった今蓋を開けたばかりのせいろから覗く饅頭のようにきらきらと輝いて見えた。
皮は干したてふかふかの羽毛布団、中身の具はこの部屋の主。そんな肉まんが、アラームが鳴り響く中でのそのそと動き始めた。するとおもむろに中から手が生えてくる。巨大な饅頭から手が生えてもぞもぞと動く様は端から見たらかなり不気味だ。
その手は何かを探すように中空を彷徨い、何度か何もない空間をつかむような動作をした後、学習机の上で鳴り響くスマホを手に取った。アラーム機能が解除され、鳴り響いていた音がようやく止まる。
僅かな沈黙の後、手の生えたお化け饅頭の皮が剥げ、中からジャージを着た寝癖頭の人間が這いずり出てきた。
「痛っ」
ごつん、と鈍い音とともに床に落下する饅頭の餡は、ベッドから出てきた拍子にバランスを崩して頭から床に落ちて小さく呻いた。
饅頭から生まれたから饅頭太郎、略してマンタロウとでも呼ぶのだろうか。まるで正義超人みたいな名前で、光の国から来るなら六番目に地球に来そうな名前をしている。
そんな仮称マンタロウは億劫な動作で立ち上がると、スマホをベッドに投げ捨てて部屋を出た。
おっさんのような仕草でジャージからはみ出た背中をボリボリと掻きながら洗面所に向かい、顔を洗う。眠気を冷水と一緒に十分洗い流し、タオルで水気を拭き取って鏡を見ると、髪の毛が寝癖で乱れている自分の姿が写った。
迫原智也、十五歳。十月七日生まれのO型である。
そもそもの話、迫原智也は異状が起きる前からやや中性的な外見をしていた。
鏡に写るその姿、身長は百七十センチ程で高校生男子の平均ぐらいだが、顔立ちが中性的なせいで昔からよく周囲に弄られる。体つきも華奢で身体の線も細い上にお尻がやや大きめという体格をしており、かつ一般的な男性よりは幾分か長く伸びている髪や右目の泣き黒子も相まって中性っぽさがより際立っていた。おかげでいつも仏頂面だ。
せめて長髪を切れば良いのだが本人は切りたがらない。
そんな迫原は寝癖で乱れた髪を櫛で適当に撫で付けると、鏡の横に置いてあったヘアゴムを使ってうなじの辺りで一つに束ねた。
洗面所を出ると次は玄関へ。並べてある靴のうち、一番左側にあるサンダルを突っ掛けて玄関を開けると、清々しい春の朝日と爽やかな風が舞い込んできた。
何気ないいつもの朝なのだが、何となく感慨深いものを感じてしまう。春だからだろうか。家の向かいの側に立っている樹齢数十年のソメイヨシノが『どんなもんじゃい』と言わんばかりに淡い桃色の花を咲かせている。
彼は郵便受けに放り込まれていた新聞の朝刊を抜き取ると、折り込みチラシを取り除いて脇に挟むとその場で新聞を広げた。一面にざっと目を通し、社会面や経済面をすっ飛ばして目的のスポーツ欄を開く。
(……よしよし)
心の中で小さくガッツポーズ。
何のことはない、贔屓にしているプロ野球の球団が昨日の試合で勝っていることを確認しただけだ。しかも大きめの写真が出ていることを見ると、なかなかいい試合をしたと見える。
見出し文字にはルーキーの先発投手が完封勝ちを納めた旨が大きく書いてあった。迫原の贔屓球団は東京ドームや甲子園を本拠地にしている球団ほど人気がないので、あまりテレビで中継をしてくれない。なので試合のあった日の翌日は毎朝の新聞でスポーツ欄を確認するのが彼の日課のようなものなのだ。
「今年こそは優勝とまではいかないからせめてAクラスぐらいは……」
去年が散々だっただけに、今年には期待しているのである。
そのまま外で他のスポーツ欄を流し見し終えると、迫原は新聞を折り畳んで贔屓球団の応援歌を口笛で吹きながら家の中へと戻っていくのだった。
そう、本来の迫原智也の朝はこのような何気ないものだったはずなのである。朝起きて鏡の前に立ったら女の子になってました、みたいな展開はあり得るわけがないのだ。
それでもこの時の迫原は数日後のほぼ同時刻にとんでもないスチャラカ展開が待っていることなど知る由もないので、新聞を読んだ後の気分のいい状態のまま家に戻って居間へ向かった。
居間には誰もいない。それと言うのも当然で、迫原の両親は共働きである。父親はしがないサラリーマン、母親は商店街のクリニックで看護助手をしている。
とはいえ父親はこの日、朝から会議があるとのことで早朝から出勤しており、母親は早番だったので二人とも迫原が起きる頃には既に家にはいなかったのだ。
ちなみに迫原は本来四人家族で、両親の他に三つ違いの姉がいる。その姉は、この春から大学生と言うことで一人暮らしを始めたので家にはいない。とはいえ住んでいるのは隣の市なので、隔週ぐらいのペースでは帰ってくるのではあるが。
もし、これが王道のラブコメだった場合、両親共働きの自分のために幼馴染の美少女が毎朝甲斐甲斐しく世話を焼きに来てくれてたりするんだろう。朝起こしてくれたり、起きたら起きたで朝食が準備してあったり……。
マンガやアニメ、ギャルゲーに興味のある男なら一度は夢見るシチュエーションだ。迫原もそれなりに二次元文化を嗜むので、特に中学二年生頃はそんな具合の妄想をしたこともある。
しかし現実は非情である。
隣に住んでいる幼馴染はいるが、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるような性格はしていない。所謂くされえんと言うやつだ。
家事は基本的に迫原と母親の交代制でこなし、母親が休みや遅番の時以外は朝食を食べるのは飼い猫の『仰木さん(五歳・♂)』と一緒。
ちなみに仰木さんはもらいものの雑種であり、名前は迫原が尊敬する、一昔前の某球団の黄金時代を築いた名監督に由来する。どうも最近いい人が出来たのか、餌の時間になっても家にいなかったりするのだが基本的に家の中をゴロゴロしている普通の猫だ。今はおそらく、電源の入っていない炬燵の中で丸くなっているだろう。
そんな猫も、漫画やアニメに置き換えれば主人の命令に絶対服従みたいなネコミミメイド娘に変身することもあるのだろうが、生憎仰木さんは牡である。
迫原にそういったケモノ的な趣味はないし、そもそも今も炬燵の隙間から顔を出して「フッ」と鼻で笑ったようなそこはかとなく腹立つ顔をしている猫に擬人化なんぞしてほしくない。もし仮に人間の姿に変身したとしても
「メシまだか、メシ。美味いモンじゃねーと食わねーからな」
とか言い出すウザい奴になること請け合いである。
そんなくだらないことを想像しつつ、迫原は今日も淡々と家事をこなしていくのだった。
▽ ▼ ▽
昨日の夕飯の残りで作った朝食を食べ終え、洗濯や掃除などの家事も一段落したので、迫原は居間で湯飲みを傾けながら朝の情報番組を垂れ流しつつ新聞を読んでいた。はっきり言ってその様子は健全な高校生男子の姿としてはふさわしくないというか、どこかじじむさい。
テレビの音以外は迫原が新聞をめくる音と、仰木さんがキャットフードを噛むポリポリという音だけが居間に響いている。
入学式は午後からなので、確かに午前中にやることはもうほとんど残っていないのは確かなのだが。
そんな風に、まるで専業主婦のような朝を過ごしていた迫原の耳に、自転車の錆び付いたブレーキ音が響いた。かと思うと今度は砂利を踏む音と共に人影が迫原家の庭に現れた。
「オッス!オラ……」
「帰れーィ」
元気よく庭先の窓を開けて侵入してきたのは一人の少年だった。しかし、迫原はそちらを見向きもせずに一蹴する。
「まぁまぁ、そう邪見にしなさんな」
しかしやってきた少年は、迫原の冷たい一瞥を受けてもどこ吹く風で、靴を脱ぎ捨て庭のガラス戸から家にあがってきた。
「お前……清々しいくらい図々しいな」
「そう言わんで。な?心の友よ」
「キモッ」
「んもぅ、イ・ケ・ズねぇ」
「フグの肝食って死ね!」
どれだけ辛辣な言葉を投げられても少年は柳に風と受け流す。なぜならいつものことだからだ。
彼の名前は芥川諒平と言い、迫原と同級生で小学校時分からの古い友人でもある。
閲覧ありがとうございます。
投稿は仕事が休みのときにモチベーションがあるかぎりやってみようかと思っています。
今日中にあと一本ぐらいいけるかしら・・・。
それではノシ
H31.3.27 加筆修正しました
R1.6.10 微修正