メルヒェン83 エリスライト
次で最終回。ここまで来た方は本当にありがとう
素敵なメルヒェンに生まれたかった。楽しい世界に生きたかった。
私はエリス・バッデッド・エンドロール。メルヒェンを夢見る理想人。
魔法の代わりに科学があった。
奇跡の代わりに理不尽があった。
永遠の幸福がない代わりに、死期の救済があった。
私はこの残酷な弱肉強食の世界が嫌いだった。メルヒェンの世界こそを望んでいた。
なのに、現実に生きる私はメルヒェンを望んでいながら、現実に染まっていった。
架空に恋焦れ、手を伸ばしても届かない。この現実を生き続ける限り、決してそれに届きはしないと気付いている。
現実は私を底無し沼のように飲み込んで、私を犯し染め上げた。
愛するメルヒェンを抱きながら、現実に心も体も穢されていく屈辱を、毎日ずっと味わい続けていた。
気付けば私は最も嫌悪する醜悪なモノに成り果てていて、そんな私がメルヒェンに触れるなんて、手を伸ばすことさえおこがましいことのように思えて……。
それでも私は諦められなかった。
そんなに嫌なら、いっそこんな自分を殺してしまえばいい……そんな思考自体が理不尽で、そうさせた現実がひたすらに憎くて仕方が無くて。
醜悪な現実への殺意を募らせて、それに抗うためにはまた私自身が現実に染まらなければならなくて。
そうやってぐちゃぐちゃに成り果てた私にだって、抱いてきた妄想があった。
すべては彼らの元へ辿り着くためだった。
人々から搾取する悪党と呼ばれるようものになっても、罪のない人々から幸福を奪ってきたのも、私がこの現実を生き抜く為。
現実に殺されないことが、私のメルヒェンへの信仰の体現であり、祈りだった。
なんでもいい。ただより幸い生を。より強い生を。贅を贄として、沢を以って託とするために。
現実で勝ち組と呼ばれる存在になって、勝って、勝って、勝ち続けて、最後までメルヒェンへの信仰を現実との闘争という形で奉げてきた。
そして私は此処に居る。現実への憎悪と、妄想への執念を宝石魔法として手にして。
私の生き方が正しかったと証明するために、同じメルヒェンを目指すこの少女を打倒する。現実のように。
そんな、理想が見えた。
どうりで見えないはずだ。どうりで分からないはずだ。
この人の……エリスの理想は、私と見ているものがまったく一緒なのだから。
自分の見ているものと寸分違わないものを、区別できるはずが無い。
そして、そこまで正反対な道程や方針、理屈を理解できるはずがない。
私が平凡な日常という理想を理解できないのと同じだ。
彼女の胸の中で、私はそう想った。
「あなたは……あなたの理想は……」
「ああ、これでやっと……終わるん、ですね」
私は確かにエリスの理想を刺し貫いた。
イリスアゲートが刺し貫くのは、理想そのもの。
強固な結束が創り上げた理想の結晶を、刃に変えて相手の理想へと直接叩き付ける。
そこに理想の特性は関係なく、刃が通るか通らないか、二つに一つ。
エリスの理想は、もうすぐその鼓動を止める。
血の一滴も流れていないのに、その目は朦朧として虚ろだ。
倒れても居ないし、跪いても居ない。ただそこに佇んでいた。
私は、エリスを見上げて、耐え切れずに口に出した。そうせざるをえなかった。
「どうして……」
「今のあなたなら分かっているでしょう。私は最初から、あの頃からもうメルヒェンに相応しくなかった。それを何より私自身が認めてしまっていた」
「そんなことっ! だってあなたは、ずっと戦ってきたっ……」
認めたくない、こんな結末は。
どうにか、どうにかしてエリスをハッピーエンドに導きたい。
「いいえ、イリス。これが私にとってのハッピーエンドなのです」
「嘘だっ! そんなの嘘だよ!」
「嘘ではありません。私はあなたにこそ、メルヒェンの地を築いて、治めて、歩んで欲しいと思っているもの」
そんな悲しい笑顔を浮かべて、そんな悲しいことを言わないで。
お願いだから、私の手を掴んで……!
「ねえイリス、どうか覚えておいて。永遠の幸福より、今の不幸を終わらせることのほうが、救いになる時があると」
「イヤだ! そんなの認めない! 私は……」
「理解しなくてもいい、認めなくてもいい。それがあなたの良さで、自由だもの。でもね、それは私みたいな者たちも同じ。現に、今の私に目指すべき理想はないわ。だって……」
その言葉に偽りなんてなかった。
今、私とエリスの理想は確かに繋がっている。だからこそ、紡がれる言葉に一切の嘘は無いって分かってしまう。
「私の理想を遥かに上回る、理想的なあなたがいてくれて、私の未練にトドメを刺してくれたのだから」
私のせいだ……私がもっとエリスのことを知ろうとしていれば、対話しようとしていれば、こんなことには……。
「違う。貴方に出会ったその瞬間から、私の理想はただの未練に成り果ててしまったんだもの」
「っ……」
「最後まで、敵であるはずの私を直接殺そうとしなかった。それがあなたのメルヒェンへの信仰よ。だから、そんなに泣かないで」
体が震えて、涙が溢れて止まらない。
本当に、これが、こんなのがハッピーエンドだなんて言えるのか。
認めたくない、認めたくないのに……それでも、私が彼女のハッピーエンドを妨げちゃいけないから。
「偉いわ。それでこそ……」
涙を拭いて、両足に力を入れる。
彼女に縋るのをやめて、自らの足で、しっかりと。
「なら……ならせめて、貴方の宝石を私にください」
「……なるほど、エリスライトね。どうぞ、あなたの方が似合うと思っていたわ」
戦っている最中はナイフだったエリスライトは、今は拳大の宝石になっていた。
受け取ると、ずしりと重量さが伝わってくる。
それが余計にこの人の理想の強さを、積み重ねた感情の重さを思い起こさせて、また涙が出そうになる。
「っ……」
「願わくば、あなたの……理想が素敵なものになりますように」
一瞬噤んだ口の中に、仕舞い込んだ言葉はきっと……。
でも、私は迷わない。答えは決まっている。あとは覚悟だけ。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をして、エリスを見る。
「私は行きます。どうか安らかに、おやすみなさい」
「ええ……長かったなぁ、ここまで……」
エリスの体が、足元から赤い光の塵になっていく。
私は少し下がって、それを最後まで見届けることにした。
ふと、眠り子さんと桜さんを思い出す。
眠り子さんも理想がなかった。桜さんも理想がなかった。
アリスちゃんの力で、夢の中に限ってその存在を繋ぎ止められた眠り子さん。
私が眠りを妨げて、理想の熱を取り戻させた桜さん。
似ているようで、やはりエリスさんは決定的に違った。
彼女にとってもはや、物語の完結そのものが真実だから。
私にそれを止めることは出来ない。
私に出来ることは、彼女のハッピーエンドを見届けて、この胸に焼き付けることだけだ。
エリスライトの輝きと一緒に。
「ボロ布のような理想を手放せないまま此処まで……私だけがメルヒェンを実現するしかないって思っていたのに」
静かな独り言が、今だけはよく響く。
それは紛れもなく、彼女の遺言、辞世の句に間違いなかった。
「私より素敵なメルヒェンを遂げてくれるのなら……もういい」
きっと、これは私の初めての理想比較なのかもしれない。
今までのは、きっとお遊びに過ぎなかったんだ。
本来の理想比較は、きっと、こういうものなんだ。
「私の理想を、他の誰かが継いでくれるなんて、こんなに素敵なことだったなんて。本当に、ありがとう」
比較した相手だから分かる。エリスの感覚がこちらにも感じ取れてしまう。
そこに不幸なんてカケラもなくて、まるで理想を遂げるよりも幸福かのように、世界が煌いて見えて。
エリスの理想は実は二つもっていた。
いや、正確には理想とは少し違う、祈りのようなもの。
それはメルヒェンに相応しくない自分を、打倒してもらうこと
エリスの生き方そのものが、もう既にメルヒェンでないならば、メルヒェンの地を踏むのは相応しい人であってほしいという願い。
そんな人の手に自分の理想が渡り、自分の理想を成し遂げられるなら、それこそが最も理想的な物語だと。
だから、私は見届ける。最後まで、赤い塵が、風に吹かれて消えるまで……。
そして、私はアヤメの胸で泣いた。転んだ子供みたいに、大切な誰かと別れたみたいに。大声で、格好悪く泣いた。
静まり返った夜。
やるべきことを全て終わらせて、次のことを考えないといけないのかもしれない。
でも、今は少し時間が欲しかった。
この塩辛いハッピーエンドを噛み締めて、飲み込む時間を。
「王子様……その、あの、なんていうか……」
「愛しのイリス、私が此処に居るのも限界のようで、申し訳ないけれどお先に失礼しますわね」
「あ、はい。ありがとうございました」
「お礼を言うのはこちらの方。こんなにおめでたい場面に立ち会えたんですもの。それでは、またいずれ」
ヤグラさんは、ふとした瞬間に消えてしまった。神無月さんの刀もいつの間にか無い。
夜のそよ風が、闇のキャンバスに心の虚像を映していたみたいだった。
「では僕もこの辺りで、お代はご祝儀と差し引き0ということにしておきます。またのご利用をお待ちしております」
白卯は白い羽を摘んで振り払うと、突風が吹いて彼の体を押し上げた。
夜の空を飛んで帰るのは少し危険な気がする。
「それじゃあ私も、お疲れ様でした。こちらの理想も楽しみにしていただけると幸いです」
「はい、今夜はありがとうございました」
彩花さんも花の香りを残して歩き去っていく。
青い薔薇ができたと言うことは、彩花さんの花の都はそろそろ出来るのかもしれない。
「イリスさんが勝ててよかったです。ふわぁ……起きてがんばるのは久々だったので……」
「ごめんね、ありがとうアリスちゃん。眠り子さんにもありがとうって伝えてくれると嬉しいな」
「もちろんです。では、おやすみなさい……」
夢の世界との接続が切れたのを、なんとなく感じた。
あっちの住人にとってはある意味こっちが夢みたいなもので、いろいろと難しいらしい。
「さて……ネオン・エメラルダはやはり役立たずだったか」
「そ、そんなことないよ! ネオンも大事な友達だよ! イリスアゲートだってネオンが仲間になってくれたからで……」
「この端末でどうやって手伝えと? 別に直接手伝いするつもりはなかったけど」
自分の身を犠牲にしてでも自由、身の危険に晒しても空気を読まない強かな姿勢は少し見習いたい。
「さて、これで私たちが戦う敵は居なくなったということでいいのか?」
「どうなんだろう……」
「ああ、その通りだとも。君は見事に理想の試練を乗り越えた」
ふとかけられた声に、夜空を見上げる。
コロシアムの特等席から、黄金の剣を携えた青年が……アルカ王が階段を下りてくる。
かなり距離があるはずなのに、声はすぐ目の前に居るかのように聞こえる。
近づいてくるにつれて、隣に黒スーツで身を包んだ椿さんも居るのに気が付いた。
夜だと暗くて見分けがしづらい。
「幾多もの障害と困難を切り開き、崩すのではなく、仲間に引き入れる。孤高の頂ではなく、繋ぎ止め、紡ぎ結ぶ理想の体現、見事だった」
「あ、ありがとうございます」
「とはいえ、今の君が立つその場所こそ理想の頂。この世界において、比類する友はなく、匹敵する仇もない。君には理想郷を築く権利がある」
理想郷を築く権利……土地の権利書みたいなものかな。
でも、改めて考えると理想郷はどうやって創るものなんだろう。
「あの、理想郷って……」
「自由にすればいい。この大陸にアルカディアとユートピア、無何有やヴァルハラのように刻むか、遥か水平線の先、幻の南国の島でも創るか、夢の中に新たな国を築くか、この世界とは隔たれた異世界を創るか……勝手はそれぞれ変わってくるだろうが、もはや君に不可能なことなどそうはない」
「自由……」
「それを伝えに来た。君ならば良き理想を遂げられるだろう。それではごきげんよう」
そう言って、アルカ王は普通に歩いて去っていく。
わざわざ私にこれからのことを伝えるために、こんな夜中に。
「イリス、今日はもう休んだ方がいい」
「……うん、そうだね」
真っ赤な薔薇の燃え盛る情熱に似た、エリスライトの輝き。
熱いくらいの光と一緒に、胸の奥にしまいこむ。
夜に浮かぶ光は、街の灯だけだ。
「行こう、アヤメ、ルナちゃん」
名残惜しさを振りほどいて、私たちは帰る。
私にとって、これこそが最大の試練なのかもしれなかった。