メルヒェン76 西の理想郷
ぱちりと目が覚めた。
いつもなら、もう一度寝入ってしまうところ。私は隣のルナちゃんを起こさないように、そっとベッドから抜け出る。
まだ薄暗い外の景色を、大きな窓ガラスから覗く。
未だにビルの灯が付いているのは、この世界でも残業があるからなのだとしたら、どうかそれが理想の実りに繋がるものでありますようにと心の底から願う。
私は女の子だったので、そういうのはなかった。でもきっと大変なのだろうということは分かる。過労死とかよくニュースでやってた。
さすがに、理想郷でそんなことは無いと思うけど……無いよね。
「珍しい……というか初めてだな。私より早起きだなんて」
「あっ。アヤメ、おはよう」
「おはようイリス。どうやら雨の心配は要らないみたいだな」
雲ひとつ無い空。きっと鮮やかな青を見せてくれる。
私は期待に胸を膨らませながら、アヤメに頷いて応えた。
「出てみるか?」
「ルナちゃんを置いていけないよ」
「私が残る。一人で人気の無い早朝を歩くのもいいものだ。私もしたことがある」
「それって確か……」
「そら、さっさと行って来い。貴重な気分が萎えないうちにな」
そうやって、半ば強引に部屋を追い出された私は、仕方なく外を散歩することにした。
まだ空には星空の紺と、薄っすらとした青白い朝の境い目が残っている。
黒灰の車道と色とりどりの石タイルで出来た歩道は、やっぱり前世の都会を思い出す。
私の前世にはトラウマなんてない。私の人生に拭えない傷なんて無いし、過去が悲劇だったというわけでもない。
だからここまで、ほぼ負けることなく勝ち続けてきた自分が、実は不思議に思えてならなかった。
私なんかが、どうして眠り子さんやルナちゃんたちに負けなかったのか。
そういえば、たまに私の過去を見た人たちはどう思ったんだろう。
空っぽな理想だと思ったんだろうか。そう思っているに違いないと私は思う。
アレコレと考えていると、目の前のビルから一人の女性が出てきた。
こんな早朝からビルから出てくるなんて、もしかして……。
「んーっ! 終わった終わったぁ! あら、お疲れ様でーす」
「ふぇ!? あっ、お疲れ様です……」
「って、ここの人じゃないんですね。失礼」
「いえ……」
黒髪を後ろで束ねた、真白のワイシャツと黒いタイトスカートの女性。
噂で聞いたことのある、OLという職業の人だろうか。
「ここへはなにをしに? 観光?」
「えっと、はい。そんな感じです。ちょっとごたごたに巻き込まれたりもしましたけど」
「ははっ、ここはいつもこんな感じですよ」
いつもこんな感じ……物騒すぎる。アルカディアが恋しくなってしまう。
「まあ、楽しんでってくださいな。私は帰って寝る……ふわぁ」
「あ、あの、今までお仕事だったんですか?」
「え? ああ、そうですよ。向こうの人には珍しいのかしら、朝帰りなんていつものことよ?」
「えぇ……」
やっぱりこの世界でも過労死する人とか居そう。でも、理想がある限り死なないのか。過労が理想ごと掻っ攫ってしまうのか……。
「……わお、なんか見覚えがあると思ったら、昨日深夜のニュースで見た人じゃない!?」
「へっ、ニュース? 私が、ですか?」
「確かあれでしょ? 絶滅理想からユートピアを救ってくれた、今週の救世主」
今週のということは、一週間単位で似たようなことが毎度起こっているということなのかな。ユートピアは少し物騒すぎる気がする。
「そっかー。まさかとは思ったけど、本当にこんな女の子がねぇ……」
舐め回すように隅々まで観察されて、ちょっと途惑う。かなり押しの強い人みたいだ。
「なるほど、それなら私たちみたいな理想はちょっと理解しにくいかもね。よろしい、じゃあ恐れながらこの私めが、私たち庶民派の理想を教えてあげましょう!」
「庶民派って、ちょ、あの!」
「ほら、モタモタしないで付いてきて!」
なんだか面倒な人と関わってしまったような、そんな気がしつつも私は断りきれずに引きずられて行く。
そうして連れてこられたのは、大きな公園みたいだった。
階段の脇にある黒い坂を、さらさらと水が流れていく。
水源は上にある広場の噴水で、まるでお城と町のミニチュアみたいに出来ていて、とても素敵だった。
「まるでデートみたいねー」
「あの……」
「あら、ごめんなさい。こういう冗談はお嫌いだったかしら?」
「あ、いえ……」
「と、言ってる間に到着よ」
そう言って、彼女はベンチに座った。
大胆に腕を背もたれへと回して、ワイシャツの胸の部分がくっきりと浮き出て、ちょっと目のやり場に困る。
「ほら、綺麗でしょ?」
「き、綺麗って、そんな……」
道中、自販機で買った缶コーヒーを開けて、ぐいっと口に流し込んでから、一息。
「ここから見える景色がね、最高なのよ」
ふと、自分の勘違いに気付いて、慌てて彼女と同じ方向を見た。
その瞬間、私は呼吸を忘れた。
朝日に照らされた白と灰の摩天楼……窓ガラスが光を反射して、街は眩しいくらいに輝いていた。
それはまるで宝石をちりばめたみたいで……。
「すごい……」
「この世界に来るまで私は、主婦として生きてきた」
「主婦……」
「親から強引にお見合いさせられての結婚だった。相手はお金持ちで、誠実な人だった。生活も何不自由ない、私なんかには勿体無いくらい」
「なるほど……」
それなのに、どうして? そう言い掛けて、気付いた。
昔を振り返る彼女の表情は、哀愁とは程遠かった。
「でもね、気付いたの。この人生にはまるで歯ごたえがないって」
「歯ごたえ、ですか?」
「なにからなにまで夫の力で解決していく。私は夫の三歩後ろからついていくだけ。そんな誰もが羨む、人によっては理想的な環境が、どうしようもなく歯痒かったの」
確かに、理想的な環境だと思う。
なんとなく、ルナちゃんの理想に似ているような。白馬の王子様が、お金持ちの美男子だというくらい。
ルナちゃんの理想は、もっと非現実への憧れだから、ちょっとちがうけど。
「私は、私にも力があることを示したかった。認められたかった。自分の力で食い扶持を稼いで、生きていけるってね……でまあこの世界に来て、なんとか会社立ち上げて、事業も上手いこと行ってるわけだけど」
「それ、もしかして社長……」
「いやぁ、大変ねぇ生きるのって。今日も徹夜だったし。でも楽しいわ」
「あの、大丈夫なんですか? その、過労死とか」
そう聞くと、彼女はニヤっと意地悪そうに笑う。
「ここが庶民派の理想の怖いところでね、世の中広いのよ。これほどの世界に来てもなお、エリートであることに固執する人間がいるのよ。つまり過労死する人間は望んでその戦場に飛び込んで、競争に負けて心挫けて逝くのよ」
「それはまたなんとも……」
「まだまだバリエーションあるわ。晴耕雨読な生活がしたい人々、ニート生活を夢見た男、玉の輿を狙った女、中にはごく普通の生活がしたかったという理想まであるのよ」
「ごく普通の、生活……」
「過激な非日常なんて要らない。ただ毎日を穏便に過ごせればいいっていうね」
胸が、少しざわついた。
ごく普通の生活。それは、それは……。
「隣の芝は青いとか、無いもの強請りみたいな言葉もあるけれど、やっぱり理想はそれぞれなのよね。自分にとって悪夢みたいなことでも、他の誰かにとっては理想だったりするものよ。壮大な理想の主には少し分かりかねるかもしれないけれど」
「いえ……分かります。理想に貴賎なんてないと思ってます。ただ、ちょっと……」
胸の中をかき乱されるような、頭の中をかき回されるような、不快感が湧いてくる。
ああ、きっと、これが私にとって最後の……。
彼女は何かを察して、私に頭を下げた。
「ごめんなさい。知らない間に踏み込みすぎてたみたいね」
「い、いえ! 全然大丈夫です! 色々と教えてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ、清清しい朝を救世主と過ごせたことを光栄に思うわ」
私は彼女と別れて、アヤメとルナちゃんが待つホテルに戻ることにした。
空はとっくに明るくなっていて、人通りも増えてきた。
「私は……」
こんな気持ち、初めてだ。
ぐつぐつと煮立つ心、どろどろとこびり付く思考。
私のあの平凡な現実が、誰かの理想かもしれないだなんて……そんなの、やるせない。
胸が苦しい。あの人生が理想的だなんてことはないって叫びだしたくなる。
理想が間違っているなんてことはないって、頭では理解しているのに、心からそう思っているはずなのに。
でも、もしかしたら、これが意地なのかもしれない。
理想とは似て非なる、譲れない感情。エアさんが言っていた、誇りと意地。
私が私であるための意思と意地……そう思うと、不思議とドロドロは体中を巡って指先まで火照っていくみたい。
新鮮な感覚を胸の内に秘めながら、私はホテルへの足取りを速めた。
朝練中のアヤメと、未だに眠たげなルナちゃんと再会して、私たちはこの理想郷ユートピアの探検を開始する。
「予定は決まってるのか?」
「うん、パンフレットいっぱい読んだ。とりあえずまずはね……」
「ちょっと待った!」
ルナちゃんが唐突にストップをかけたせいで、危うくパンフレットを落すところだった。
「ど、どうしたのルナちゃん、急に大声出して……いつものことだった」
「あの、罪滅ぼしを、させてください」
「罪……?」
「異能者との戦いで、一緒に戦えなかったことの、罪滅ぼしを!」
あれは別に、というかルナちゃんが一緒に戦わないといけない理由は別になくて。
「私は王子様のお姫様なのに、どんな時だって傍に居ないといけないのに……ごめんなさい!」
「だ、大丈夫だよ! 私が負けたのは私のせいだし……」
「違う。違うのよ王子様。あの時の私は、まだダメだったの……歯止めがきかなくなりそうで」
ルナちゃんがここで過ごした時間は知ってる。
人体改造と七転八倒の激痛を引き換えに、手に入れた不死性と規格外の魔力量。
それはおそらくこの世界で圧倒的。最高傑作と呼ばれるのも頷けてしまうほど。
「でも、王子様が、イリスが変えてくれた私を信じたくて、イリスに報いたくて、私……私ね……っ!」
「謝るのは私の方だった! ごめんなさい!」
「って、えぇっ!?」
ルナちゃんが盛大に驚くけれど、なんの不思議も無い。
私がルナちゃんの気持ちに気付かないまま、ルナちゃんを置いてけぼりにしたことにすら気付けなかった。
個人を尊重しようみたいに思って、一人ぼっちにするなんて、私の望むメルヒェンじゃない。
断られたわけでもない。悩めるなら一緒に悩めばよかった。失うくらいなら手を伸ばせばよかった。
そんなことも出来ないのに、理想と理想を繋ぐだなんて……。
「なんて、怠惰で傲慢なんだろう、とコイツは考えているわけだが」
「駄々漏れ!?」
「思考が共有できるっていうのも考え物みたいね……」
「まあ、お前の恋した王子様はこれくらい面倒くさくて奥手なんだ。相手を慮りすぎて二の足を踏むようなお人好しだ。救難信号は遠慮なく出してくれて構わない。いや、そうしてもらえると私も助かる」
少し間が空いて、ルナちゃんがくすりと吹きだして笑った。
「そういえば、そうだったわ。私の王子様はライオンみたいに強いくせに、子猫みたいに無邪気で、兎のみたく臆病なんだった。忘れてた」
「す、すみません……」
「褒めてるのよ?」
「えへへ」
どうやら褒められているみたい。嬉しい。
「じゃなくて! それで、ルナちゃんは酷服できたってこと?」
「たぶんね?」
「たぶん……」
「一人じゃ無理。でもイリスが居てくれるなら、きっと大丈夫。あの宝石も貰ってるしね。なんだっけ。アン……アンポンタン?」
「アンデシン?」
「そう、それ!」
懐かしいなぁ。そういえば渡してた。
種が芽吹いて蕾を作って花を咲かせるような、素敵な変化を願って送った暗めで深い赤の宝石。
「ねえ王子様、私はちゃんと変われたかしら……?」
「もちろん!」
魔窟の森で大暴れしてた頃とは比べるべくもないというか、今もこうやって変化している。
思えば、これが私にとって一番最初の宝石魔法だったのかもしれない。
「お楽しみのところ悪いが、そろそろ出たほうがいいんじゃないか? このままだとろくに回れずまた夜になるぞ」
「あっ」
「そうだった! そういうわけで、今回のユートピア旅行は私がご案内するから、箱舟に乗ったつもりでいてね!」
「それは頑丈そうですごい頼り甲斐があるね……」
こうしてルナちゃんプレゼンツ、ユートピア観光がスタートしたのであった。