メルヒェン8 無想の眠り姫
疎ましかった、憎らしかった、全てが私にとっては死ぬしかないほど怖ろしかった。
私は彼女の獏になった。あの一瞬だけが私にとっての幸福だったのかもしれない。
でもそれは、もう過去のこと。私たちは、もう戻れない。
私の夢はなんだ? 私の理想はなんだ?
この理想の世界に来ても、そんなこと分かるはずがなかった。
だって私に叶えたい夢なんてなかったもの。成し遂げたい理想なんてなかったもの。
ただ現の人々は惨酷で、幻は諸共に虚空へと消える。
私にとって現実は、忌まわしい悪夢そのものだ。
それが二度と覚めない夢ならば、決して逃れられないというのなら。
いっそのこと、永遠に眠っていられればいいのに。
「そうだ。私は理想を叶えた……はずだった」
それを、まさか実の妹に邪魔されるなんて。
永遠だったはずの眠りから起こされて、気付けばそこは理想の世界、夢の国。
妹はその主だったなんて。
それを知ったときの心境を、妹は想像できるかしら。
きっと無理だろう、彼女には夢があるのだから。
私には夢が無い。
叶えるべき夢も、遂げるべき理想も。
でも、あのときの私はすべてが憎悪の対象だった。
昔から寝起きは良くなかったからか、そのときの私の理想は決まっていた。
「大切な妹ですら私を悪夢へと引き戻すのね」
私にとって現実は悪夢と同義だ。
ならこんな世界、すべて夢にして喰い散らかしてしまおう。
だからアリス・メアリアスから奪ったのは胡蝶の夢と夢喰いの獏のみ。
狂騒のジャバウォックは、私の安眠を妨害する騒音でしかない。
「でも……ええ、もういいわ」
胡蝶も獏も殺されて、目が覚めた。怒りも冷めた。
余分な狂騒が夢を散らし、現の喧騒が私の安眠を妨げる。
この狂騒はきっと、妹が抱いている現への嫌悪そのものだろう。
ジャバウォックはヴォーパルソードによって打倒される……そう見込んで、殺意の具現であるアヤメとその主であるイリスを引き込んだというのに。
思った以上にイリスが夢に敏感だったから、アリスの夢と共鳴してしまったのか。
私の理想は、最初から敵わなかったのだ。
なら最後に残ったこの理想で、私は最期を迎えるとしよう。
だからアリス、こんな私を許して頂戴。
きっと後悔はさせないから……
これは、アリスの姉であるこの私、眠り姫・無明眠り子が抱く夢無き理想。
奪われた理想を、もう一度取り戻す。
勝手に流れ込んできたアリスのお姉さん……いや、無明眠り子の理想と過去。
切り裂かれるような冬の冷気、地獄のような夏の熱気。
誰にも頼れず、雨の日も風の日も、雪の日でさえも生き続けてきたのだ、この人は。
「誰も、誰も助けてくれなかったっていうの……?」
「そうよ。誰も助けてはくれなかったわ。当然でしょ、私みたいな惰眠を貪るだけの人間を、誰が助けるというの」
無明さんが理想も夢も捨てたのは、それが希望ではなく重荷だったからなんだ。
誰の助けも期待できない現実で、希望に縋ることすら許されなかったからだったんだ。
「あなた、怒っているの?」
「だって……そんなの酷すぎる!」
その果てにある唯一の救いが、永遠の、夢も何も無い眠りなんて、そんな終わり方は惨酷すぎる。
ちっともハッピーエンドなんかじゃない!
「いいえ、私にとっては十分にハッピーエンドよ。もう私の心は死んでいるも同然だもの。もう何かに期待なんて出来ないの。救いようなんて無いのよ」
「くっ……」
反論が出来ない。だって理想は常に本人のものだから。
その理想を言葉で否定しても意味が無い。それを実力で証明するのがこの世界でのルールなんだから。
黒のアリス……無明眠り子の姿は、最初に出会ったときと同じ。
長い黒髪に真白な抱き枕を抱く姿。
あの真白で何も無い部屋こそ、彼女にとっての理想だったんだ。
いや、あそこが一切の闇に包まれた時こそ、無明さんは本当の意味で理想を遂げるんだ。
ただ、その理想はあのときのままじゃない。
「だから、早く貴方はここを去りなさい。夢の国はもうじきに崩れ去るわ」
「おいイリス、さっきから何の話だ? あいつの本名は無明眠り子でいいのか?」
「……アヤメ、無明さんはね、アリスちゃんと一緒に眠るつもりなんだよ」
アヤメはまったく理解できていないという顔で首を傾げた。
でも、私の心を読み取ったのか、すぐに戦慄したみたいだ。
「お前これ……心中じゃないか」
その通り。これは心中だ。
アリスちゃんが寂しがらないように、そしてもう二度と自分が起こされないように。
眠り子はアリスちゃんを道連れに、今度こそ永遠の睡眠を手に入れる。
でも、そこにはきっとアリスちゃんの幸福は無い。
「さあ、一緒に行きましょうアリス」
「お姉ちゃん、私は……私はそんなこと望んでないよ」
「どうして? だって私を呼んだのは貴方でしょう? 私は永遠の眠りにつけるし、貴方は私と一緒にいられる。とても理想的なのに」
「そんなの、幸せだって感じられないじゃない!」
幸せな夢を求めたアリスちゃんと、夢すらない完全な睡眠を求めた無明さん。
理想がかみ合わないのは当然だ。
「なら、選びなさい。私を諦めて夢の世界を守るか、夢の世界を捨てて私と共に眠るか。この世界の主は貴方なのだから」
「でも、それでも私は……」
そう、その気になれば、今の無明さんを夢から追い出すことは出来るんだ。
でもアリスちゃんはどちらも諦められない。
「このままだと、私も貴方も、貴方の夢も消え果てるわ。そんな最期で悔いはない?」
まるで悪魔のささやきみたいに、言葉の一つ一つが纏わりついてくる。
「私は、私、は……」
「アリスちゃん!」
「い、イリスさん……そうだ、イリスさんはもう逃げ、て……」
泣きそうな顔で、握った拳を震わせて、そんなことを言われても。
だから私も踏みとどまる。この子の理想と共に在れるように、誇り胸に、理想を掲げる。
「まだ終わってないよ。言ったよね、絶対にハッピーエンドにするって」
「でも、でもこのままじゃ……」
「どっちも諦めたらダメだよ!」
諦めたらダメだ。この世界は理想が全てなんだから。
理想への強い執着、夢想への強い執念。成すべき理と夢への想いの強さが希望になる法理の世界なんだから。
「アリスちゃんの理想は、お姉ちゃんと一緒に幸福な夢想を堪能することなら、お姉ちゃんも夢想も、どっちも諦めちゃダメ。絶対にダメっ!」
「でも、イリスさんがそこまでする必要は……」
「私は決めたよ。イリスちゃんも、無明さんも、この世界もハッピーエンドにして、私の理想と繋げてみせる。私の理想には、アリスちゃんの理想も必要だから」
そう、私にはこの夢想を救う必要が、理由がある。
だからここは譲らない。無明さんの理想は通せない。
「私は無明さんの理想を挫く。アリスちゃんも妹なんだから、お姉さんに我侭の一つでも聞いてもらえばいいよ!」
「イリスさん……分かりました。私も諦めません。私の理想でもって、お姉ちゃんの理想を挫きます」
「決まりだね! そういうわけだから、無明さん。貴方の理想はここで挫きます!」
なんだか不思議な気分だ。
体がほかほかで、頬まで火照って暑いくらいなのに、浮き足立つくらい軽やかで、無限に元気が沸いてくる。
迸るほどに高揚感、弾けんばかりの闘争心、溢れんばかりの万能感。
私の心が謳っている、ここで屈してはいけないと。この場に背を向けてはいけないと。
ハッピーエンドを、諦めてはいけないと。
「それでこそ、私の主、私の親友だ」
アヤメの手には黒い刃、埋め込まれたブラックオニキスが光る。
ナイフを切り払うように振るい、そして切っ先を向ける。
「では構えろ眠り姫。お前の理想は真正面から殺してやる」
「……分からないわ。貴方の言うハッピーエンドがまるで見えない。もしくは何も考えていないのかしら」
「あはは、まさかぁ! ……まあそうなんですけどね」
アヤメとアリスちゃんが驚いた顔でこっちを見る。
やめて、早まらないで。抑えて抑えて!
「でもほら、ハッピーエンドならシナリオなんてぶっちゃけどうでもいいんですよ。私にとっては」
「お粗末ね。それでどうするの? もう時間はないわよ?」
「ふふん、夢見ること、妄想することに関してだけは私は超一流ですからね。見ててくださいよ。あっ、と言わせて見せますとも!」
とはいえ、さてはてどうしよう。
ここまでで得られた情報をまとめると、アリスちゃんは夢想もお姉ちゃんのことも大好きで、お姉ちゃんも割とまんざらでもないってことだ。
寝起きがとんでもなく悪かっただけで、実際は妹のことを心底愛している。
でも、経験則からもう何にも期待できないし、希望を抱こうとも思えない。
……なんだ、とんでもなく簡単だった。というか、これもう解決寸前だよ。
となると、私がすべきことは一つだ。
「二人とも、私より後ろに。アリスちゃんは夢の世界を精一杯維持して。アヤメはいざと言うときのために準備してて」
「ああ、分かった」
「え、ええ。分かりました」
ここはまさに、私が踏ん張るところだ。
ゆっくりと呼吸を整え、意識を集中させる。
頭だけではなく、体全体でイメージする。
右手に掴む理想を、左手が描く空想を、腹の底に欲深い妄想を、心に優しい夢想を、頭に鮮やかな幻想を。
「素晴らしきモノを守るために、美しいものを輝かせるために。両の手にあるものを手放さないで、積み重ねた憧れを捨てないで、光り輝くものがあることを忘れないで、夢見ることを忘れないで」
「何をするつもり? 回復の魔法しかろくに扱えない、無力な貴方が」
挑発に乗ってはいけない。
私は私の想いを、言の葉に乗せる。
「パチパチ燃えてユラユラ灯火、心の篝火よせ集まって、感じる光の温かさ。さぁ、希望の世界を創りましょう、永遠の夢を守りましょう。子供心はネバーダイ、無限に続くワンダーを今、ここにっ!」
無力なんかじゃない。立派な回復力がここにある。
「ミラクレスト・ネバー、ネバー、ネバー!」
「この感じ……まさか、あなたはっ……!」
私が魔法をかけるのは、この世界そのものに。
最も素晴らしきモノよ。ずっと、ずっと、ずっと。
それはどこまでも純粋で、魔法と神秘と奇跡の在り方。
「貴方の理想と私の理想、どっちが本当に強いか、これで決着だよ!」
「こんな、無茶苦茶な方法で私の理想を挫こうっていうの?」
世界が軋む音がする。
遠くで木々が倒れる音、山の崩れる音。
地面に亀裂、空に稲妻が走って街がめらめらと燃え盛る音。
迫り来る世界の崩壊を、私の魔法で食い止める!
「そんなことで、止まるわけが……!?」
空間がねじれて景色まで歪み、凄まじい轟音が響いて崩壊していく世界。
その音が、今はピタリと止んでいた。
割れた大地はそれ以上亀裂が走ることはなく、雷光の瞬きも弱々しい。
それどころか、崩れかかっていた世界は、ふと見れば元の姿へと戻り始めていた。
「あ、ありえない。そんな無茶苦茶な!」
「この世界では理想が全て。なら、これくらいの無茶はさせてくれなきゃね」
「認めない、こんな終わり方、認めてたまるかッ……!」
「ううん、終わりだよ。無明さんの理想はここで終わる。そして、また新しく始めればいい」
「少し私の理想を覗き見たくらいで、少し調子に乗りすぎなんじゃないの?」
確かにそうかもしれない。でも、私は確信していた。
無明さんの中でまどろんでいる、もう一つの理想の根源を。彼女が微かに見ていたたった一つの夢を。
「無明さん、ここは理想の世界。私たちはもう戦う力を得ています。もう諦める必要はないんですよ?」
「なにを……」
「だって、そうじゃないですか。貴方が本当に永遠の睡眠を求めているなら、アリスちゃんでも目覚めさせられないくらい深い睡眠を目指せば良かったのに」
それをどうして、わざわざ胡蝶の夢や獏で世界を滅ぼそうとしたのか。
現実から逃れるための睡眠だったはずなのに、どうして武器にしたのか。
「貴方は諦めただけ。でもここに来たからには、たとえ一度諦めた理想だったとしても、それを叶えるために戦うことが許されていいと、私は思うんです」
「ちょっと私の理想を覗き見たくらいで、知ったような口をッ……私の気持ちが貴方に分かるって言うの?」
こ、怖い。かなり怒ってる……。
でも、私は譲らない、譲らないって決めたんだ。
「無明さんがあの時に抱いた理想は、後もう少しで叶うんだよ!? どうして手を伸ばさないのっ!」
「黙りなさい……黙って」
「私は、ううん、私たちは、もうあの頃とは違う。理想を追い求める力と自由があるんだよ。ここに!」
胸に手を当てる。
自慢するほどじゃない柔らかさの奥から、どくんどくんと鼓動が響いている。
ここに宿る理想が、この世界では確かに力の源だ。
「……貴方の理想も、私に見えたわ」
「え、うぇっ!?」
「恥ずかしがる必要は無いわ。良い理想だと思うもの。まあ私の妹より我侭すぎとは思うけど」
そうか、一方通行じゃないんだ。
で、でも、無明さんの言うとおり、恥ずかしがることなんて何も無い。
私の夢、私の理想は恥ずかしくなんか無いもん!
「まあでも仕方ないかもしれないわね。自他ともに認める臆病者で、人見知りで怖がりで、大した能力がなければ運動も出来ない、何か光るセンスがあるわけでもない。自慢できるものなんて何にも無い」
「ちょ、ちょっと言い過ぎでは……」
理想がどうのというより、人格を貶められているような……。
「ごめんなさいね。これでおあいこにしましょう……確かにあなたは臆病だけど、その夢だけは決して手放さなかった」
「……そう。それだけが私に出来たことだから」
「イリス、私はね、それすら出来なかったのよ。どうしてか分かる?」
答えられなかった。見当も付かない。
好きだという思いは何よりも強いはずだ。追い求めることすら楽しくて、努力なんて言葉が要らないくらいに、ただひたすらにそうするはずだ。
そうしたいと思うから、そうせざるを得ないほどに。
「覚えておきなさいイリス。それは貴方の心が強いからじゃない。貴方がそういう性質だったからよ。そして私は、そうじゃなかったの」
「どういう、意味ですか」
「私も最初は好きだったわ。おとぎの話の夢の国。羨望も、憧憬もあった。でもね……疲れちゃったのよ」
疲れた、その言葉の意味がよくわからない。
「どんなにスポーツが得意な人も、永遠に運動し続けるわけじゃない。どんなに絵本が好きな子供も、いずれは疲れて眠ってしまう。私もそれと同じなのよ」
「そんな……でも、少し休めば良かったじゃないですか。そうしたらまた……」
「私の過去に、休める時間が少しでもあったかしら?」
私は、はっと声を漏らした。
無明さんは毎日、飢えのままにゴミを漁って、眠るために寝床を探し続けた。
絵本や小説の一冊も変えない彼女の救いは、飢えも退屈も、過酷な現実も忘れられる睡眠だけ。
心休まることなんて、一時もなかった。
「貴方の言うことは分かるわ。でも私は耐えることすら出来ず逃げ出して、ただありのままに在った結果が、あのザマだったの」
だからこそ、私は無明さんに救われて欲しいと思ったんだ。
でも、無明さんはもう……。
「勘違いしないでね。私に後悔なんて無いし、あなたが私に対して何か思いつめる必要は無いの。私の心は、最初から終わっていたのよ」
認めたくない、認めたくないのに、もうそれ以外に答えを見出せない。
救う術が思い当たらない。
そうか、椿さんが言っていたのは、こういうことだったんだ。
理想を諦めない限りは何があろうと大丈夫。
ただし、理想を諦めたり、失ったときは絶対に消え去る。
「だから、もういいのよ。あなたの理想がこの世界を救って、私は悪役として力尽き、でも永遠の安らぎを手に入れる。最高にハッピーエンドなのよ。だから……」
無明さんの瞼が落ちる。
その表情は、悲しいほどに穏やかで、まるで心の底から救われたような。
みごとハッピーエンドを迎えたかのような、清清しいほどの笑みで……
その声は、弱々しくて、か細くて、涙が混じった声で。
それでもその声は、確かに無明さんの心に微かに届いたみたいだった。
もうダメなのかな、本当に。
私には、これ以上あの理想を説得するための言葉が思い浮かばない。
本人が納得している以上、それが本人にとっての真実で、それがハッピーでなくとも納得できる分救いはある。
そんな意識の低い、受け身な態度でハッピーエンドを目指してはいない。
それでも、無明さんの物語は、もう手の付けようが無いほどに完成されていた。
前世で離れ離れになったから、せめて一目でも再会出来ただけで十分救われた、なんて、私は認めたくない。
その幸福はもっと長く続いて、もっと大きく膨らむべきなんだ。
どうしたらいいの?
どうすれば、無明さんを引き止めることが出来る?