メルヒェン58(3) 兎角脱兎は玉兎を追った
白い兎は野山を走り続けた。
追いかけたのは月夜の晩、紺色の闇と満天の星、煌々と月明かりの下、森の奥で確かに……。
確かに声を聞いたのです。
どれほど高い山に登ろうとも、月に届くはずもない。
水面に映る月に触れようと、神秘に触れられるはずもない。
少年は現実に追われていた。
資産家の息子として生まれた彼に、娯楽に耽る暇は無く。
資産の運用、土地の運用、経営の技術……。
詰め込まれた全ては富裕のため、不自由なき力のための。
しかしそれがなんだというのか、少年がその価値観に重きを置くのは、俗世の強欲ではなかった。
少年が抱くは幻想への恋焦れ。
持ちうる資金力を使いきる勢いで、あるかもしれないという想いと創作の灯を頼りに探し続けた。
湧き満ちる、溢れ出る湯水の如く金を使いながら、なお富むばかり。しかして望む幻想には辿り着けない。
積み重ねた努力も、培った知力も、津波のような財力を駆使しても、幻想はなぜか遠のくばかり。
そして彼が地上における全てを暴いた瞬間、少年が追いかけていた幻想は、その虚像すら失われてしまった。
現実にそれは存在しない。たったそれだけの事実が彼に突きつけられ、こうして彼の人生は終わった。
彼の人生は終われども、その命は終わらない。
虚無のような現実が続く以上、無駄な足掻きと分かっていても、少年が一縷の望みをかけて目指したのは……月だった。
誰も足を踏み入れたことの無い本物の秘境。
有り余る財力を投入した執念。人でなしの人間と成り果てて、地球上のあらゆるものを犠牲にし、辿り着いた月面には……何も無かった。
それは兵どもの夢の跡が如く。
少年の生きる現実には、尽く何もないのだと。
少年はのた打ち回った。泣きじゃくる子供のように、泣き叫ぶ亡者のように、慟哭の無音が宇宙に響く。
彼は夢追い脱兎、されど現はそれを逃がさず。
そうして彼は身を投げた。無限の宙に彼一人、
遥か彼方、闇の果てに手を伸ばしながら、涙に溺れて死んでいった。
月が僕を呼んで居たんだ。確かに聞いたはずなんだ。
僕がまだ少年だった頃に、確かに聞こえたはずなんだ。
嘘じゃないんだ。僕は、僕は……嘘にしたくないんだ。
「それほどの悲劇を負って、特にこれといった力がないと言うのも不思議なものですが」
「幻想に拒絶されるのも慣れましたよ。それでも、諦めない」
一度折れたその心は、しかし諦めには至らない。
なぜなら少年……白兎は最後の最期まで悔しがっていたからだ。
心そのものが折れてはいても、抱いた幻を惜しみ、手放さなかった。
その往生際の悪さが、白兎の指を理想の世界へと届かせた。
「僕は必ず辿り着く。必ず……」
「武陵桃源というものがあります」
白兎の言葉を遮るように、花見月は語りだす。
「別名で桃源郷……とある男は一度だけその理想郷に足を踏み入れたことがありながら、再訪を望んだものの決して辿り着かなかったというお話です」
「……やめてください」
白兎は何かを察して言う。しかし花見月は構わず続ける。
「それは彼が桃源郷というものを現実に求めてしまったからだといわれています。そう、再訪を望んだから、再訪が叶わなかった。桃源郷とは己の心の中に存在するものだったのです」
「やめてくださいッ!」
白兎が吼える。
吼えるはずの無い兎が吼えた。その表情は苦虫を噛み潰しように苦しげに。
「僕は……」
「心の中にある幻影を、夜闇の幻想と勘違いしてしまったのが悲劇の始まりだったのでしょう」
「やめてください! やめろッ!! やめ、て……」
ふらりとよろけて、地面に手をつく。
息は荒く、胸元をくしゃくしゃに握り締める。
「やめてよ、どうして……そんなの、そんなのって!」
「金銭で手に入るはずもありません。なにせそれは現実にないのだから。無いものを買うことはできない」
「いや……やだ、やだよ! 僕は……」
「そこまでよッ!」
次の瞬間、怒声と共に爆裂したのは、ルナ・ロマンシア。
炎の海の中から、悠々と歩き出でて白兎の前に立って、大きく手を広げた。
「大丈夫よ兎、貴方の想いは間違ってなんかないわ!」
「っ、ルナさん……?」
「私も……同じだから。白馬の王子様がきっと迎えに来てくれるって、空想と約束して……だから、そう。心の中で満足できるなら、今頃この世界になんかいないんだからっ!」
ルナは今までにない強い意志をもって花見月と対峙する。
その理想とも願望ともつかない感情が、未知なる妖幻の力さえ振り払ったのだ。
「……なるほど、少し旗色が悪くなってきましたね。ならこうしましょう」
指先を弄ぶように向けた次の瞬間には、三人の足元には巨大な一筆の六芒星。
花見月の姿も、周囲の景色さえも歪んで見えるようになった。
「これは……」
「しばらくそこに居てください。こちらからも危害は加えませんので」
「ふんっ……なっ!?」
ルナが魔力で創った流れ星を投げつけると、歪んだ景色に吸い込まれかと思うと、真上からルナの目の前に落ちた。
飛び散る土がルナの体を汚し、口の中にも入る。
「うえっ……何よこれっ!」
「位相を組み替える結界です。空間を繋げて四次元ループにしてあります。自分の放った流れ弾に当たって死にたくないなら大人しくしていたほうがよろしいかと。では私は二人の到着を待っています」
「知ったこっちゃない。私は死なないって……あっ」
ルナだけならば、この空間にエネルギーを飽和させ、結界を破裂させることが出来たかもしれない。
しかし、今この結界内にはルナ以外に白兎とアイスが居る。
二人はルナのように不死でもないし不滅でもない。理想を諦めさえしなければ死にはしないといえど、物理的に消滅した後にどうなるのかなど知らないし、分からなかった。
「ああもう、イリスが居たら気兼ねなく暴れられるのに……!」
滾らせる魔力を引っ込めて、ルナは振り返る。
跪く白兎と、無数の手が消失して解放されたアイス。
「ウジウジしないの! 男の子でしょ!」
「……よく言われる。それでも、僕は頑張ったんだ……」
「ならまた頑張ればいいじゃない!」
「うぅ……」
ルナは白兎の気持ちが痛いほどに分かっていた。
抱いた夢は現実の前に粉々に砕け散って、それでも手放せないからこそ、夢の代わりに自分の心を犠牲にして、守り続けている。
その姿はあまりにも痛々しく、だからこそ素敵なのだ。
とはいえいつまでもこうして凹んでいるわけにはいかない。
ここは理想の世界。理想同士がぶつかり合う戦場。
ならばどうする。手も足も出ないこの状況で、自分たちはどうすればいい?。
しかし残念なことに、ルナ・ロマンシアは考えることが苦手だった。
「何か案は無いの、妖精さん?」
「……ワタシに出来るのは、せいぜい人を惑わす程度……大元がオリジナルな妖幻なんて存在には到底太刀打ちできない」
「ほんと、ふざけてるわ……うあーっ!」
髪をわしゃわしゃとしながら、ルナはイライラを募らせる。
「傭兵さんと、コピードクは!?」
「装備が貧弱すぎる。このままじゃ私は戦力外です。せいぜい囮が精一杯」
「困ったねぇ。ボクたちは今のところあの妖幻と戦う術が無い。ほぼ完敗だったからね。可能性があるとすれば……」
そう、可能性があるとすれば一つ。
心の致命傷を受けたばかりの白兎。
ルナの理想は空想に準じているからある程度抵抗出来たものの、アイスやコピードクは夢見がちな理想を持たない。
となれば、幻想という共通点を持つ白兎こそが唯一の可能性となる。
「まあ、やることもないし。ここで一度理想を語り合うのも悪くないんじゃないかな?」
それは暗に、ルナと白兎の理想のスリ合わせを促していた。
「私の理想はシンプルよ。王子様が迎えに来るのを信じて、檻を壊して、戦って、夜の空を飛んで、月を見上げながら墜ちた……まあ、今は素敵な王子様に出会えたけれどね」
空想月下の夜想劇。絶対生物・妄想少女よ。
彼女が墜ちる間際の感覚は、未だに心に残っている。
あの感覚だけは、死ぬまで拭えない染みとなっている。
「私もこの世界で、彼女に出会うまでずっと苦しんできた……気を紛らわせるのに、ドクの改造はある意味都合が良かったのかもね」
「オリジナルがやる改造かぁ。不死性を付与するとなるとやはり精神強度と痛覚耐性が必要だね。神経は薬物でどうとでもなるか」
絶え間ない激痛が、恐怖を紛らわせた。
いつか終わる痛みなら、その方が遥かに救いだったからだ。
「あなたもまたその最中なんでしょ? 立たなくていいの?」
理想は誰の物でもない、自分だけのもの。自らの意志で、足で立ち上がらなければ意味が無い。
だからルナは手も貸さない、肩も貸さない。ただ声をかけるだけだ。
イリスが帰ってくるまでの間に、彼の心が立ち直るのか否か。
全ては白兎の心次第……。