メルヒェン54 朝焼けに翔る流星、朝もやの影。
夜が明ける。
暗がりを照らす大きな灯りが空に上がり始めると共に、私たちは飛行機に乗り込んだ。
出発時間を朝にしたのは、妖幻の力が弱まり始める時間だからだとドクは言った。
乗り込んだ飛行機はとても狭い。そのうえ負荷が強くて訓練もしてない人間が乗るのは大変無謀らしいので、離陸前から私の魔法で皆を守らないといけない。
私はその役割を受け入れた。ファンタちゃんは疲弊しきっていたし、そんな状態でも神無月さんのことを心配し続けていた。
早く会わせてあげたい。そのためなら、やるしかない。
そして私たちは海上の要塞を離れて、夜明けの空を北上する。
耳に悪そうな騒音に耐えながら、集中して魔法を維持していると、あっという間に目的地の上空だ。
飛行機の中で、コピードクの通信が入る。
「準備はいいかな? イリス君」
「はい!」
私は一層魔力を込めて、護りを堅くする。
傷一つ、一瞬の痛みもないように、強く。
「投下まであと5、4、3、2、1……ゼロ!」
私たちの乗っているガラス玉のようなポッドが落ちる。
落下の浮遊感も、震動もない。エレベーターが下っていくのと同じくらいの感覚に抑えられた。
そして……私の目の前には絶景が広がっていた。
「うわぁ……」
下は一面、深緑の森林。北側の向こうは果てしなく青く茂る山々が続いている。
そして私たちは、青い空の中に居た。
その大自然の姿が私の心を感動で満たす。
僅かな緊張すらほぐれてきて、落ちるポッドとは正反対に、魔法はさらに高みに至る。
「この調子なら、着地の衝撃もほぼなくせマス。アヤメの方は?」
アヤメには殺意や殺気を感じ取る力がある。
落下中、襲撃があるようならアヤメが事前に察知する、という役割分担だ。
でも、アヤメの様子がなんだかおかしい。
「……妙だな。殺意も殺気も、それどころか敵意の一つも感じない」
「こっちも同じです。というか、気配そのものが微塵も無い」
どういうことだろう。つまり、敵が一人も居ないってことなのかな。
アヤメの感覚と同調してみる。確かに、何も感じ取れない。
確かに明け方を狙ったとはいえ、何も無いというのは無用心すぎる気がする。
「不気味ですねぇ。とはいえ、やることは変わらない。このまま強襲しちゃいましょう」
そうして、私たちは地面へと辿り着いた。
地面にクレーターが出来ても誰かが来る気配は無かった。
森は不気味なほど静かだった。
「あー、どうするかな」
「とりあえず北に行けばいいのでは?」
まさか敵が一人も居ないなんて思わなかった。皆もそうだったみたいだ。
とりあえず、今は白兎さんの提案どおりに北に向かうしかないのかもしれない。
「あ、そうだ。ファンタちゃん、どう? ここに来れば分かるって……」
「……来た」
「え、来たって? 何が……」
瞬間、空気が一変した。
景色は何も変わらないはずなのに、無数の目に覗かれているような嫌悪感。
蟲が全身を這うような、嬲られるような惨い錯覚が全身に走る。
「ひっ……」
空は明るいのに、木漏れ日すら美しいのに、それがどうしてかとても怖い。
その木の裏に、草葉の影に、薄葉の一枚向こうには、得体の知れない異形が蠢いているのではないか。
そんな怖ろしい妄想が、私の意思とは関係なく溢れかえる。
「うあ、うぅ……! いや、嫌だ。嫌だ……」
「イリス!? くっ……」
「怖い、怖いよアヤメ。どうしよう……ねぇ、どうしたらいいの!?」
「そこを動くな」
「アヤっ……!」
アヤメが私の手を引いた。
身体ごと強い力に引き寄せられて、アヤメの腕が抱き止められる。
「あや、め?」
「お前の恐怖は私が殺す。落ち着いて、深く息を吐け。腹に力を入れて」
不思議だ。アヤメの体温が伝わってきて、私の奥からせり上がっていたものが徐々に落ちていく。
アヤメの匂いだ。いい匂いとか悪い匂いとかではない。
これがアヤメのだと感じさせてくれる匂い。嗅ぎ慣れた、落ち着く匂いだ。
「いいか、そのまま精神耐性の魔法をかけるんだ、全員に。出来るな?」
「う、うん。やってみる」
ゆらり、ゆれる揺り篭。浮いては沈む魚の心。潮の香り、深海の静寂は波立たぬ宇宙のように。
「ふぅ……もう大丈夫、ありがとうアヤメ」
でも危機的な状況は変わっていない。
いつの間にか、私たちの前に現れた、異様な雰囲気の女性。
(魔法はちゃんと効いているはずなのに、どうして……)
どうしてこんなに愛おしくて、切ない気持ちになるんだろう。
萌黄色の髪、ミスティッククオーツのように様々な色を放つ瞳。
そして全身が危険だと直感する、肌で感じ取れる強大さ。
なのに、それらを押し退けて胸を打つ、この感情は一体なんなの?
ふと、その瞳がこちらに向けられたかと、丁寧なお辞儀を見せる。
「初めまして、素敵な妄想の使途さん。アナタのことを待っていました」
まったく敵意のない笑みが私に向けられている。
思わず手を伸ばしたくなるほど、いつまでも眺めていたくなるほどに綺麗な女性だった。
「イリス、アレと喋っちゃイケナイ」
「妄想の使途……どうして私のことを?」
「それは、あなたが私の欠片を取り込んでいるから。いるのでしょう? 金毛の狐が」
ああ、そうか。あれが本体なんだ。
世界各地で突然発生した妖幻の、その本体。
「どうして……」
「アナタのことをずっと待っていました」
どうしてこんなことをするのか、と聞きたかったのに。
私のことを待っていた? 私なんかを、どうして……。
「誑かさないで、化物」
「ふふ、これでも本心なのよ? 最後の幻想さん。その子をここまで連れて来てくれてありがとう」
「アナタのためじゃない。ワタシは友達を助けるために来た」
「そう……でも、それをその子は望まないと思うわ」
なんだか私の分からないところで話が進んでいる気がする。
というか、私に何か関係があるみたいなことを言ってる?
「イリスちゃん、貴女はバッドエンドが嫌いなのでしょう?」
「え、あっ、はい。そうですけど……」
「やっぱり、私たち気が合うわ。私も悲しい物語は好きじゃないの。でも、貴女は今その悲しい物語を紡いでいるのよ」
「それはどういう……?」
「口で言うよりも、欠片から読み取った方が早いと思うわ。不束な欠片ですがどうぞお好きなように」
あまりにもフレンドリーで、自分でも驚くくらいに警戒心を解かれているのを感じる。
私はささやかな躊躇いを軽々と跳び越えて、中の狐金の記憶に触れる。
「っ!?」
これは、理想が通じ合ったときと同じ。
過去の記憶、理想を抱く心の感触。
相対する者が、どうして理想を抱くにいたって、そして果てたかの追体験。
そして、最後に残る彼女の思惑は……。
「イリス? どうしたイリス!?」
「……これ、本当なんですか」
「ええ、本当よ。私はこのままだとバッドエンドを迎えるでしょう。最愛の友人の手によってね」
それは、ダメだ。
もし本当なら、私はあの人の友人を止めないといけない。
それはつまり、ファンタちゃんの友人を止めるということになる。
「ダメ、イリス。アレに耳を貸してはいけない。アレは人ととは相容れないモノ」
「そんなことはないわ。幻想は人と共存できる。最後の幻想であるあなたがその子に頼ったのが何よりの証拠」
「アナタがそれを言うの? そのために最愛の友人を置き去りにして、人間すらやめてしまったアナタが」
知っている。私は二人が何を話しているのか分かってしまう。
もう全てを知ってしまったから。私はもう無関係ではいられない。
萌黄の髪の女性が何を考えているのかも、ファンタちゃんと神無月さんが何をしようとしているのかも知ってしまった。
私は、この物語の結末を選び取らないといけない。
この物語がハッピーエンドを迎えるための……。
「私は……私は、ファンタちゃんの力にはなれない」
「イリス……!?」
「ごめんなさい、ファンタちゃん」
私とアヤメはファンタちゃんの横を通り過ぎて、萌黄の少女の側に立った。
胸の奥にある罪悪感が苦しくて、吐き出しそうで、呼吸すら出来なくなるみたいな感覚。
「アヤメ、私……」
「まさか謝ろうとしているんじゃないだろうな」
アヤメは私を先読みしていた。そして、横目でふっと笑った。
「お前の切望は私の悲願だ。私が味方するのはいつだってお前だ」
「アヤメ……ありがとう」
凛々しい親友の珍しい朗らかな笑みに、胸を打たれる。
ああ、本当に綺麗で、素敵で、私の理想……。
「ダメよ王子様。それはダメ」
ふと気付いた。
ルナちゃんは、私についてきてなかった。
「見えたよ。イリスから貰った宝石を通じて、私も見た……だから、私はそっちにはいけない」
「ルナちゃん、どうして……」
「裏切は、ダメ。絶対に許せない」
「っ……!」
ルナちゃんは怒っていた。
それは心の底から、ただの感情や嫌悪感ではない。
彼女の構築したルールに反するという、冷静でいながら深い怒りだ。
「幻想に魅了されて、取り付かれて、虜にされて、親友の手を自分から離して……それでなんて、都合が良過ぎる。そんなの絶対許せない」
それはきっと、ずっと王子様を空想してきたルナちゃんにとって譲れないもの、なのかもしれない。
そうだ、ルナちゃんは最後まで空想に準じていた。それがたとえ偽りの妄想に等しいものであったとしても、信じ続けて、自身の心も体も投げ打って……。
「だから王子様、ごめんなさい。今この場でだけは、この事に関してだけは、私は貴方の味方になれません」
「……そっか。分かった。でも、終わったらまた一緒に居ようね」
それは私の望み。私の願い。
たとえこの物語がどんな終わりを迎えても、私たちの関係がバッドエンドになることはないと。
ルナちゃんは、軽く微笑んで頷いてくれた。
「もちろん。私は王子様のお嫁さんだもの。それは絶対に変わらない!」
清清しいほどに、遠く果てまで響く綺麗で大きな声で、そう言い切ってくれた。
もう迷いは無い。私は萌黄の髪のこの人を助ける。
「じゃあ僕も一つ、裏切ってみましょうか」
ファンタちゃんの横に、白兎さんが立った。
「アイスさんはどうします? 急な事態ですからここで契約解除しても、報酬は全額お支払いしますよ」
「金で雇われてる傭兵が、金にならないことをするとお思いですか、性悪商人」
アイスさんは銃口をこちらに向けながら白兎さんの前に立った。
それにしても、これはひどい。
ファンタちゃん側には不死身のルナちゃん、アイテムマスターの白兎さん、そしてアヤメを倒したことのある傭兵のアイスさん。全部で五人。
対してこっちは自分を含めて三人だ。
(いいえ、私たちもいます)
心の中で、アリスさんの声が響く。
でもどうして? わざわざ夢の中から加勢してくれるの?
(私たちはイリスさんを応援します。夢を求めるのも、ハッピーエンドを望むのも、素敵なことなんですから。それを間違いだなんて言わせておけません!)
(珍しく力が入ってるから、ついでで力を貸してあげる。でも所詮私たちは夢の住人。あまり期待はしないで頂戴)
ありがとうアリスちゃん、眠り子さん。
この勝負、絶対に勝ちます!
「……そういえば、これは何をどうすれば勝ちなんだろう」
「まずキョウを……神無月を探し出していただけますか?。この先をずっと行けば仙境の都です。そのどこかにいるはずですから」
「分かりました」
居場所が分かっているならどうして自分で迎えにいかないのか。
それは今のままではこの人は神無月さんに勝てないからだ。
だから私を求めた。回復と防御魔法に秀でた、妄想とハッピーエンド好きの私を。
その企みも、欠片に込められた理想から淀みなく伝わっていた。
「大丈夫、ですか?」
「ええ、幻想は死なないわ。貴方が求めてくれている限り……さ、お行きになって?」
私はアヤメと一緒に駆け出した。
背後から響く銃声と星の落ちるような音。
そんな怖ろしいほどの攻撃があってなお、私は傷一つ負わないで離れることが出来た。
アヤメと二人で、森の奥を進んでいく。
右も左も分からない、ちゃんと真っ直ぐ走れているのかも分からなくて不安だ。
それでも止まるわけにはいかない。あの人……花見月さんの期待を裏切らないように。
鬱蒼とした森が、不意に終わる。
その先にあったのは、城だった。
「これは……城下町?」
「城下都市、と言った方がしっくりくるな」
金色の龍が描かれた赤い壁が左右に伸びていて、中央の入り口がある建物は屋根が瓦屋根に似ているけれど、少し大げさなくらいに反りが入っている。
その背後には空を串刺しにしようとしているみたいに、幾重かも分からない高い塔が立ち並んでいる。
「行こう、アヤメ」
「へぇ、少しはへたれ癖が治ってきたみたいだな」
「アヤメはなんだか悪態が増えてきた気がするよ?」
「そ、そうか? ごめん……」
私はアヤメの手を取って、目の前の都市へと歩く。
この場所の名は不夜城境。仙境の一部らしい。