メルヒェン45 使徒の大先輩
妖怪としての本性をむき出しにされた途端、私は自由を失っていた。
何度も修羅場は潜ってきたはずだった。
夢の中でも、魔窟の森でも、一歩間違えたら死んでいたかもしれないことはたくさんあったはずなのに。
どうして、心が怯えて、体が竦むのっ……!
「虎ならぬ、狐の尾を踏んだらしい、イリス。出し惜しむな」
「う、うん。だ、大丈夫だよ」
この感覚、まるで大津波や火砕流でも前にしたような絶望感。
きっと私たちの前にいるのは、災害みたいなものなのだ。私たちが束になって、太刀打ちできるかどうか……。
「また妙なのに絡まれてるのね」
ふと、冷たい声が聞こえた。
「いや、あなたが勝手に絡んだんでしょうね。避けて通れる道をわざわざ突き進むなんて、相変わらず難儀というか」
「その声……」
心の中から響いてくるのは、眠り子さんの声だった。
「気をしっかり持ちなさい。魔法にしろ理想にしろ、心がくじけた方が負けなのよ」
「う、うぅ……」
「気圧されるんじゃないの。あなたは私たちの土俵で私に勝った。力は確かにあるのだから、挑みなさい。何度だってやり直せる力があるんだから」
「大丈夫、大丈夫……」
緊張で肺の中に滞った空気を、深く吐き出す。
そして、ゆっくりと息を吸ってからもう一度深く。
胸にこみ上げた不安をお腹に落とし込んで据えた。
「お待たせ、アヤメ」
「冷や冷やさせてくれる。私はお前の殺意が無いと始められないんだからな」
「用意は済んだかの? それじゃあ……」
「なーに余裕ぶっこいてんのよ」
空気を切り裂く音が、狐金の背後に迫った。
甲高い音が響くルナちゃんの手腕はそれでも、俊敏な狐の尾に阻まれた。
鞭のごとく撓る金色の尾と何度か打ち合って、ルナちゃんは一本掴んで引っ張る。
「私を何だと思ってるの? 私はルナ・ロマンシア。一途に恋愛する月下の乙女よ!」
「随分と化け物じみた乙女がいたもんじゃな」
すかさずアヤメがいつものノリで隙を突く。
目にも止まらない瞬の間に、今一度アヤメは狐の喉元に刃を滑らせる。
そしてすかさず後退する。
それを三本の尾が追うけれど、目に見える尾を的確に見切り、足元を狙う一本目は跳び、二本目は叩いて弾き、三本目はナイフで受け止めて飛ばされるも、くるりと回転して私の目の前に着地する。
「見えているなら当たりはしない」
いつ見てもアヤメの身のこなしはかっこいい。
スタイリッシュだけど無駄がなくて、真剣な表情も凛々しくて素敵だ。
「アヤメ!」
「大丈夫だ。だが、妙だ。まるで手応えがない。まるで幻影を相手にしているような気分になる」
「幻影かぁ」
アヤメと感覚を共有しているから、なんとなく理解できる。
なんていうか私には届いてない印象だ。
アヤメの刃も、ルナちゃんの力や彩花さんの花魔法さえも。
目の前にいるはずの存在なのに、どんな攻撃も魔法も、ちゃんと届いていない感触は、確かに幻影みたいで……。
「ほれほれ、どうした。もたもたしているからアルカディアが見えてきてしまったぞ」
「えっ!?」
船の向かう先には、確かにアルカディアが見えていた。
この速度じゃ、もうすぐだ。
「さあさあ、もっと力を見せるがよい。せっかく出会ったこの縁、無駄にするには惜しすぎる」
「ぐぬぬ……」
通じない攻撃、稼がれている時間は取り戻せない。
攻略法が見出せないまま、それでもごり押しで危険を犯すなんて絶対に出来ない。
時間が無いのに、どうしたら……。
アヤメは私を嗜めながら、私より早い頭で一緒に考えてくれている。
「こういうのは大概からくりだ。魔法使いだって似たようなことをするだろう。いや、魔術師か? なんにせよ、私に出来るのは目の前にある者を殺すことだけだ」
「目の前にあるもの……妖怪、幻想、幻影、ラストフェアリー、もしかして……」
もしそうだとしたら、私たちが相手しているのは殺せない相手ってことになる。
アヤメが殺せるのは死ぬ相手だ。ルナちゃんだって不死とはいえ一時的には死ぬから殺せる。
というより、ここにいる全員が、生も死もない相手と戦える方法を持ってない。
ルナちゃんは夜じゃないと本気が出せないし、花魔法も決定打に欠ける。アヤメのナイフも届かない。
私の魔法は身を守るくらいしか出来ない。
……身を、守る?
「あっ、あーっ!」
「どうしたイリス……ほう、考えたな。お前の目的を果たすには、今のところそれが一番確実だ」
「ルナちゃん!」
どうしてこんな簡単なことにも気付かなかったんだろう。
私たちの目的は、狐金を倒すことじゃない。この船を止めることだ。
「なんでもいいから、この船を上から叩き落して! 早く!」
驚いたような顔をして、それでも彼女は、にっと応えてくれた。
「愛してるわ、私の素敵なイリス!」
するとルナちゃんは、天使のような翼を生やして一気に空へと翔け上がる。
「いったいなにを……よもや、この船と心中する気か? 船員も不憫なことじゃが、妾的にはそれでもノルマクリアって感じじゃな」
「ふっ、その表情が引っくり返るのが楽しみだ、駄狐が」
「なんぞ知らんが、妾を挑発するとは煩わしいが面白そうじゃ。見せてみぃよッ!」
アヤメは迫る尾を俊敏な動きで回避していく。やっぱり見えてればアヤメも対応できるんだ。
私は、私の役目を果たす。
「凍て付かせる北風と純白の氷雪、すべてを飲み干す大地と灼熱の天日。それは一つの氷山、それは一つの岩盤。穿たれず、砕かれず、罅割れず。世界を底より支える土台」
それは手の平に収まるような宝石ではなく、私たちが生きる広大な地平のように。
幾度と星を落とされて、それでも受け止め続けた頑強なる地の星。
「絶対不壊、アーススター・エクスプロテクション」
船体が青く発光して、私たちも青い光を纏う。
「来てルナちゃん!」
「いっくよーイリス!」
「まさか……いやいや、いーやいやいやいや! そんな阿呆なことが!?」
高く飛翔したイリスは、キラキラと星の輝きを撒き散らしながら、流星みたいに急降下した。
「ムゥゥウウウンドロォォオオオップッ・メェエテオストラァァアアアアイクッッ!!」
<ムーンドロップ・メテオストライク>
青白い閃光が、鉄槌みたいに船に直撃した。狐金を諸共にして。
「気張れイリス!」
「ぐぅっ……! こ、これくらい、眠り子さんと競り合ったときに比べれば……!」
「す、すごいですね、どっちも……高度、下がってきてます」
ずるずると、船が落ちていく。
ごりごりと、魔法が削り取られていく。
底知れないほど高威力、えげつないほど破壊力。
まだ夜じゃないのに。いや、月が落ちるのに昼も夜もないからか。
万全の防御魔法だと思ってたのに、あまりに負荷が重過ぎる。
「うぅ、もう無理ぃ……っ!」
「無理なわけあるか。私のイリスが、これで限界なわけがない」
感覚が麻痺しそうなほどの衝撃と震動の中で、アヤメが背後から抱き締めるように支えてくれる。
「お前の理想、繋いだメルヒェン、受け容れた夢の数々、お前の支えは一つの世界に匹敵する」
「アヤメ、それなんだか……魔法の詠唱みたい」
「なんでもいいから堪えろ、後もう少しだ」
「うん、もう大丈夫」
船体の軋む音がする。
魔力をもっと引き締めて、ルナちゃんの落月を受け止める。
「まったく、無茶をする奴等じゃな」
「え、うぇ!?」
「はぁっ!?」
ルナちゃんの放つ月光に押しつぶされたはずの狐金の声が響く。
今もなおごりごりと鬩ぎ合っている境目から、九本の尾が金色の閃光みたく鋭くのたうつ。
光を突き破って、ルナちゃんの体を瞬く間に拘束した。
「うぐっ、離せババアこら! いまどき狐耳なんてウケないわよ!」
「このガキ……高度もかなり下がってしまったようじゃが、まあ外壁を突き破れば問題ないじゃろ。惜しかったなイリス。しかし見事じゃった」
「そんな……」
アヤメは良くがんばったって心の中で言ってくれている。
でもこのままじゃ、もう時間が……。
絶望が、私の肩を掴んだ気がした。
「そのままだ、決して緩めるな」
男の人の声がした次の瞬間、闇が天上を円く染めた。
それはゆっくりと蠢いて、むき出しになったのは巨大な眼。
おぞましさと威圧感は九尾より強い。
何が起きてるのか、まるで分からない。
でも、今は声の通りに魔法を解かないようにしたほうがいい気がする。
というか怖すぎて緩められないよこれ。
「神魔を降すは我が闇黒の極星、高き天より撃ち堕とす鮮血落涙を見るがいい」
眼の下に赤い光が灯る。
<墜して潰えろ、スカーレット・ブラッティアーフォールダウン>
眼から落ちた血涙は、もはや雫ではなく滝だ。
血涙の滝は月より遥かに重すぎる。いったいどんな理想でここまで火力が出るんだ。
船が落ちるのが先か、私の魔法が崩れるのが先かだ。
「うぉおおお重い!? 重すぎるぅっ……!」
でも、さっきよりも早く高度が下がってきてる。これなら、間に合う!
そして、天から降り注ぐ血涙とは違う衝撃と震動が下から響いてきた。
ガリガリと地面と船底が削れ合って、速度も急激に落ちて来た。
倒れそうになる体を、アヤメが必死に押さえてくれるおかげで、なんとか倒れずに済んだ。
血涙が弱まり、徐々に止み始めるころ、ようやく船は止まった。
「と、止まった……よかったぁ」
全身の力みがふっと抜けて、アヤメに支えられる。
「よくやったイリス。さすがは私の相棒だ」
「もう無理、一年分は魔法使ったんじゃないかな……」
血の雨ならぬ滝のような血涙を受け止めた後に、船には多少は傷がついていた。
私の理想は、僅かながら及ばなかったということだ。
もしくは手加減されていたのかもしれない。
「深淵のように深い魔力の器、過剰回復魔の噂に違わぬ力だ。我が闇黒の血潮の片鱗を浴びてなお傷の一つや二つで済むとは」
かなり前に、どこかで聞いたような声だった。
大きな力と、それに見合う意思の強い声。
「ぜひ同胞にしたいな。あの時に、無理にでも」
そして次に聞こえたのは、もっと聞き覚えのある声だった。
自らを格好良く見せようと色とりどりに飾りながら、それでいて優しさを失わない素敵な黒の乙女。
天上に浮かぶ円の暗雲から、瞳がゆっくりと落ちて来た。
眼球は黒く染まり、漆黒の玉となったかと思えば、卵のように罅割れて、砕け散った。
「あぁ、やっぱり……」
記憶の中の二人と同じ。いや、かなり色濃くなっているけれど、間違いない。
一人は狼のようなトゲトゲとした長い黒髪、鋭い眼光に獣のように口元の歯を見せる。
「我が名はケイオス・エル・ハザード・アブソルート。混沌呑む闇黒を手繰る者」
「「我らは天地を覆し、神魔を諸共に降す闇黒の徒なり」」
もう一人は綺麗な黒の長髪に、切れ長の目。冷徹に見下ろす表情がセクシー。
「シン・クロウデル・ダークロード……ここに降臨せん。再び合えたなイリス」
「クロウデルさんにケイオスさん! 助けに来てくれたんですか!」
「気にするな、我らはお前達の意を汲み、僅かに後押ししたのみだ。それに……予兆は見えていた」
クロウデルさんは船頭の方を見る。
いつの間にか狐金はそこに居た。
「……居るのだろう、妖怪しの幻想。理想ならざる者よ」
「ほう、ほう、なるほど。お前達じゃな。理想を遂げた理想の徒は」
理想を遂げた、理想の徒。
それはつまり、ヒルデさんと同じなのだろうか。
ヒルデさんとかとは違って、理想郷を創るタイプの理想じゃないんだ。
「イリス、お前の力をいま少しだけ貸して貰いたい。我等が闇黒の力をもってすれば造作も無いが、周辺への被害は抑えたい」
「は、はい! 大丈夫です!」
「あー、残念じゃが妾はお暇させてもらう。予定も大分狂わされたしの」
「逃がすと思うか」
「いや、そうではなくじゃな……」
狐金の姿が、徐々に崩れてきた。
夜明けの影のように、薄れ往く蜃気楼のように、あやふやな存在になっていく。
「妾は所詮は幻想、空に浮かぶ虹の光、実体のない幻影にすぎん。だから最後の役目を終えて還るとしよ……う?」
崩れつつあった狐金の体が、映像が過去へと遡っていくように戻っていく。
狐の姿ではなく、金髪の美人さんの状態にだ。
「ど、どういうことじゃ、こりゃ。妾の姿が、崩れぬ……?」
「だ、ダメです……そんな悲しいことを言われたら、引き止めるしかないじゃないですかーっ!」
「い、イリス!? 無理するな!」
アヤメが止めようとするのも当然だ。このままだと私自身を削ってしまうかもしれない。
それでも、ここは譲れない。
「幻想を所詮だなんて言わせたままで、その通りにさせるわけにはいかないよッ!」
「お前、こんなところで意地になってどうする!?」
「不思議なやつじゃな……しかし、そうさな。幻想やら妖怪なんてものは、人の心や思い込みに巣食うものじゃし、住処を提供してくれるというのならそっちに与するのもやぶさかではないんじゃけど?」
「本当ですか! ぜひお願いします!」
すると、踏ん張る私を焦らすように、狐金はゆっくりと歩み寄ってきた。
アヤメが心の中で私を止めようとするのを諦めて、私と狐金の間に割って入ってきた。
「それ以上近寄るな、駄狐」
「アヤメ!」
「心配するな黒猫。使い魔の契約をするだけじゃよ。そうしないとこの形を維持できんのじゃ」
「お願いだよアヤメ……」
アヤメは少し考えて、こちらを少し振り向いて、ジト目で脇見してくる。
「どうせお前、金髪狐耳に目移りしただけだろ、それと巨乳」
「っ!? ち、違うって。そんなんじゃないよ! なんていうか、捨て猫を放っておけないみたいな、そんな感じだって!」
そ、そりゃあ確かに金髪美女だしふかふかおっぱいに興味がまったくない、とは言えない。
でもほら、この人から情報を引き出せるかもしれないし、強いから仲間になってくれればすごく助かるし、ゲームで言う召喚獣みたいな、ペットみたいな……。
「どっちでもいいんじゃが、そろそろ限界なんじゃなかろうか?」
「……はぁ。分かった、お前がそう臨むなら、それが正しいに違いない」
「ありがとうアヤメ……! えっと、じゃあ狐金、さん? お願い、します?」
「主はお前じゃ、気軽に呼び捨てるが良いじゃろ。さて、では契約の方法じゃが、なぁに一瞬で済むから、とりあえず目を瞑っておけ」
「えっ? あっ、はい」
言われたとおりに目をぎゅっと瞑る。
なんだろう。あんまり痛いのはご勘弁です。
と思っていると、唇にふわっと柔らかい物が……なんか口の中に入ってきたんですけど!?
「むぐっ……」
「力を抜くんじゃ。噛んでくれるなよ?」
目を開けると、妖艶な笑みを浮かべる狐金が指を私の口に突っ込んでいた。
滑らかな指が舌の上をくるくると渦を描いたり、頬の内側や舌の裏に滑り込んだり、猫の顎を扱うように上顎をさわさわといじってくる。
なぜか全身が毛が逆立つような感覚に体が震えて、妙な快感が口腔から頭を貫くような。
「あ、あぁ? ほあがぁ……はぁえ?」
「んじゃ。ちょっと粘膜を交換するだけじゃ」
言うと、狐金は指を引き抜いた。
狐金の指に纏わり付くぬらりとした私の唾液が、妙にいやらしく艶めいて見える。
それを、いったいどうするんだろう。
「んじゃ、いただきまーす。あむっ」
「っ!?」
わ、私の唾液が、狐金に食べられて……えぇ!?
「ふむ、むぐ、むんむに……んくっ。っぷは。どうじゃった? 妾の契約は」
「き、気持ちよかった……じゃなくて、本当にこれ契約なんですか!?」
「そうじゃよ。私の唾液をお前が飲み、お前の唾液を妾が飲む。これにて契約成立じゃ。もう魔法を使ってもらわなくとも妾は崩れなくなってる」
信じられないまま魔法を止めると、本当に狐金の体は崩れなかった。
唾液交換が契約方法って……すごい。
「これから妾はイリスの使い魔、狐金じゃ。まあお手柔らかによろしくってとこじゃ」
「こ、こちらこそ……」
こうして私は、九尾の狐を使い魔にすることになった。