メルヒェン39 凍原峡フィムブルヴェト
翌朝、私たちは待ち合わせの広場に向かう途中だ。
気持ちいいくらいに清清しい空が天井の硝子窓から見える。
「ねー、本当にそれしないとダメなの? せっかくのハネムーンなのに」
「ハネムーンではないし、イリスは一度やるといったら聞かない。お前もそれで救われたのだから、諦めろ」
「むむむ……」
「ごめんねルナちゃん。私のワガママにつき合わせちゃって」
いやまあ、もともとハネムーンでもないんだけど。
でも楽しみにしていた旅行が別の用事に使われてしまうなんて、悲しいよね。
「まあ、王子様のそういうところが好きなわけだし? 別にいいよ」
「本当!? ありがとうルナちゃん!」
「ぐあー! 純白でキュートな笑顔が穢れた心に響くぅ……」
そうこうしているうちに広場に到着、夜風さんはもう来ていた。
「おはようございます、夜風さん」
「おはようございます。本当にご助力いただけるとは。私が言うのも難ですが、このような面倒ごとは極力避けて、自分の理想に専念したほうがいいと思いますが……」
「あはは……いや、なんだかんだいって、こういうことが自分の理想に繋がってたりするので」
「なるほど、そういうタイプなんですね……では案内します」
というわけで、私たちは内部へと続く階段を下りる。
「うわぁ、本当に館なんですねぇ」
「ええ。ただでさえ大きいこの館の内部には540の扉があり、異空間に繋がっています」
「なんでそんなに……?」
「540種類の世界、540種類の文化が広がっているようです。詳しいことは分かりませんが……カップルかぁ」
夜風さんは遠い目をしている。椿さんみたいに彼氏募集中とかなのだろうか。
ふとルナちゃんが問う。
「ねえ、夜風は彼氏とかいないの?」
「彼氏……はぁー」
椿さんもこういう死にそうな溜息をたまにしてるなぁ。
出会いが無いんだろうなぁ。こんなところにまで出張する仕事人間だから……。
「銀風、やっぱり私には荷が重すぎるよ……」
「銀風?」
「あ、いえ、すみません。なんでもないです。そろそろですよ」
気が付けば、幅の広い通路を歩いていた。
両端に甲冑の置物が並び、赤い絨毯が向こうまで続く。
そして、奥には両開きの扉。
ここまで見かけた扉と見比べて、圧倒的に装飾が華やかで、紋様も凝ってる。
入室前に、扉の前で立ち止まる。
「ヒルデ・Q・ピッチ。協力いただける理想人を連れてきた」
「そう……入って」
私たちは部屋に入る。
奥行き広い空間、両端には白い柱が並んでる。
そして、一番奥には大きな十字架……じゃない。あれは剣だ、大きな剣が突き刺さっている。
あまりにも大きくて、綺麗で、目を奪われてしまう。
呆気に取られていると、声が聞こえた。
「ようこそ私のヴァルハラへ。お気に召していただけましたか?」
「あっ、はい! とても……」
突き刺さる剣の前に、その人は立っていた。
紺色の服は、修道女の服に似ているけれど、スリットが入っていて脚運びが楽そうだ。
白いストッキングからはみ出たむっちり太腿がとても淫靡……じゃなくて、大人感がある。
細身の剣を腰に提げた、銀色の綺麗なショートヘア。
切れ長の瞳に、艶やかな唇。雪のような曇り一つ無い肌。
「それは良かった。初めまして、私はこの理想郷ヴァルハラの女主人、ヒルデ・Q・ピッチ」
「きゅー、ぴっち……」
「えっ? ビッチ?」
「ち、違うよルナちゃん! ピッチ! キューピット!」
「良いんです……よく、間違われますから」
間違われるんだ……。
ちょっと可哀想だけど、しょうがないような気もする。
「えっと、私に手伝えることがあれば、言ってください!」
「ありがとうございます。でも、急いては事を仕損じると申します」
「は、はぁ」
「まずは私と、この理想郷についてお話しする必要がありますから……お茶などいかがですか?」
「改めて自己紹介を、私はヒルデ・Q・ビッチ。恋愛守護する理想人にして、愛想守護するパーヴァートです」
「理想人……え、パーヴァート!? パーヴァートって、あの……」
「はい。恋愛を守護するには、そういったところを知る必要がありましたから」
恋愛はあんまり良く分からない。やっぱり私には力になれないか……いや、大丈夫。
そもそも私は心配性が過ぎるってよくアヤメが言ってたし。
「私がこの理想郷を創ったのは、あらゆるラブロマンスを成就させるため。それに対するいかなる障害を排除するためです」
「ラブロマンス……がお好きなんですか?」
「ラブロマンスというより、愛が好きなのです。私はそれを汚す者を許して置けない」
「なるほど」
確かに恋愛は素敵だ、私も嫌いじゃない。
愛する人がいることは幸せだし、愛を欲しあい、満たしあう間柄は尊い。
「私は最初、離れ離れになった恋人を探していました。愛しいあの人と再会することが、私の理想でした」
「恋人! やっぱり恋愛は女の子の原動力よね!」
ルナちゃんが恋愛と聞いてすごいテンション上がってる。
「ですが、私が彼を見つけたとき、彼はもう恋する相手に困らないほど女性に囲まれていました。つまり、モテモテのハーレム状態でした」
「はぁっ!? ハーレム状態ぃ!?」
ハーレムかぁ。よっぽどイケメンだったんだろうなぁ。
「最低っ! 信じられないっ! イリスはそんなことしないよね!」
「えっ、あっと、わ、私がハーレムなんて……」
「そうよね! さすが王子様!」
私がそんなモテモテになるなんてありえないし、ハーレムなんて無理に決まってる。
というか、そういう恋愛感情が私にはよく分からない。
どうして女の子は、男の人を好きになるんだろう……いや、ルナちゃんみたいな例外も居るけど。
「でも、私も人のことは言えませんでした。私もなぜか男性から良く好かれていたのです。それも女性が理想とする男性ばかりに」
「まあ、確かにビッ……じゃなくて、あーヒルデさん綺麗だもんねー」
「私は彼に会う前に、自らを磨くことにしました。前世では戦争から彼が帰ってくるのを待ち続けるだけだった私のままでは、今の彼に会う資格は無いのだと思い知りました……その間、数多くの男性を退けた」
ふと、彼女の顔に影が差す。
「中には、理想をかけて私を求める者も居ました。それさえも私は断り、彼に相応しい女性になって、彼と結ばれるために」
「どうして? もうハーレムなんて作った男のことを……」
「これが不思議なのですが、彼は未だに結婚していなかったんです。そして噂によれば、誰かを待っていると」
「それって、もしかして……」
ルナちゃんが期待のあまり身を乗り出して、表情が輝いている。
影が差していたヒルデさんの表情も明るくなる。
「彼も私と同じだったのです。私を待ち続け、男性が理想とするような女性に好かれながら、それに流されず、私を待ち続けてくれていたんです。私がこの世界に来れたのも、きっとあの人のおかげです」
「すっごいロマンスね!」
まさに理想的な相思相愛。前世で離れ離れになった二人の理想は同じで、同じ世界にたどり着いて、お互いに想いあって、愛し合っていた。
ああ、それは、その物語は愛が成し遂げた奇跡で、魔法みたいで、メルヘンチックな縁がとても素敵だ。
「それで、二人は結ばれてハッピーエンドってわけ?」
「はい、そのはずでした」
「そのはずって……」
「確かに一度は結ばれた私たちですが、そこに忍び寄る影があったのです。それは、理想とは異なる力……」
「それがパーヴァート……」
理想ではなく、妄想で戦う者たち。
理想でない力ながら、理想に及ぶ。
「ヒルデ・Q・ピッチとその彼氏は、一時期では理想世界で最も有名なカップルともなった。それを外道の者、胸糞の悪いアンダーアウトに目をつけられたわけです」
「……あれは怖ろしい方々でした。こちらに不信感を抱かせ、思考を乱し、情欲を掻き立てる不埒。彼らの魔手から救ってくださったのが、黒の夜風なのです」
その頃のヒルデさんは、まだパーヴァートではなかったってことだよね。
ということは夜風さんと出会ってからパーヴァートになった、と。
「パーヴァートと言う存在を知り、私は彼といろいろなことを学び、試し、極めようとしました。その結果、迫る魔手を払うことくらいは出来るようになりましたが……とても足りない」
「足りない?」
「この世界で、私と同じようにラブロマンスを成し遂げる方々の恋愛を護るには、何もかもが……だから、この理想郷を創り上げ、理想人としても、パーヴァートとしても護れるように護りを固めた……はずなんですが」
それでもアンダーアウトの魔手はこちらに届いてしまった。
ラブロマンスの守護と成就、その理想が叶う日は遠そうだ。
「この理想郷には、運命の恋人同士、相愛同士を引き寄せる力があります。つまり、私たちのような出会うべき者同士の運命を紡ぎ合わせる。それがこの有様では……」
「早期決着が求められます。そのためにどうしたらいいか」
「あの、つまりアンダーアウトの人たちがこの理想郷に手を出せなければいいんですよね?」
だと、思ったんだけど。
私なら、そういう風に出来ると思う。私の魔法なら……。
理想というのは、基本的に自分の望みではあるが、自身による望みの方が強い。
顔も知らない誰かが幸せになるような世界……のような理想は余剰。基本的には自分の理想を叶えた者の抱くおせっかいのようなものだと、彩花さんが教えてくれた。
もちろん、例外はあって、彩花さん自身がその一人。
「そして、他人のバッドエンドを見逃せないお前もまた、その一人だ」
「えへへ、それほどでも」
「褒めて……いるな。それで本当にその作戦でいいのか? あんまりお前らしくないが」
「うん、これでいい。この理想は私のじゃないから。私は後押しをするだけ。パーヴァート? とかいうのにもなれないから」
この理想郷には、まだまだたくさんの理想人が訪れる。
その人たちを全員、私が直接魔法をかけて強化したり、耐性をつけたりすることは出来ない。私にも私の理想があるから、こちらばかりに力は割けない。
なら私が魔法を付与するべきは、この理想郷の主。
「よろしくお願いします、イリスさん」
「はい、じゃあ始めます」
私はヒルデさんと向かい合って立つ。
やることは簡単だ。
目を閉じて、ヒルデさんに手を翳し、魔力を束ねる。この人の持つ理想の力そのものを一時的に強める。私の魔法で。
「輝くのは星、煌くのは希望。瞬く魔法が光を放ち、愛に勇気を、想いに力を与える……恋慕のクピト、愛護のヴァルキリー」
キューピット。それは恋慕実らせる射手。
そしてこの国ではヴァルキリーは育まれた愛の守護者。
この魔法は護りたいという想いの増幅、想いは理想へと手を伸ばす力。それが理想郷のあり方を強くする。
魔法は大きな光となって、ヒルデさんを包み込む。
「恋愛守護……ラヴァーズ・ロマンス・ガーディアン」
それは深い愛と、天にも昇る恋を護る者。
ヒルデ・Q・ピッチは、恋に恋し、愛を愛する人だ。
素敵だと思う。逆に言えば、私みたいな人間じゃ素敵だと思うことくらいしか出来ない。
それを自分の手でなんとかしようとまでは、思わない。思えない。
きっと自分と、自分の大切な人を護るだけで手一杯だと思うから……。
魔法はイメージだ。彼女の想いを強めるには、私もそれに同調しないといけない。
恋に恋する乙女、愛を愛する淑女……。それを受け容れてくれる最愛の相手と結ばれる幸福。長い長い研鑽の果てに手に入れた大切なもの。
愛を愛するために……? じゃあ、彼女は何から愛を護ろうと……。
魔法の付与と同時に、ヒルデさんの理想が垣間見える。
「あっ……」
思わず声が漏れた。
脚に、力が入らない。
「イリス?」
「ぐっ、うぐぅ……」
「……イリス、引け」
アヤメにも見えているんだ。この光景が。
こんな、地獄絵図みたいなのが。
「イリスさん、一旦中止しましょう。あなたにこれは刺激が強すぎる。あなたの心を歪めてしまうかもしれない」
「だ、大丈夫です」
数々の残酷な物語がイメージとして浮かび上がってくる……。
「戦争になんて行かないでください! どうか、私と一緒に逃げてください」
「必ず帰ってくるよ、必ず……だから待っていてくれ」
死別によって離された二人の愛は、もう二度と治せないのか。
「どうか許してください。この人でなければ、もう私の体は満たされないの」
「許してくれ、もう彼女無しでは生きられないんだ」
攫われ、奪われ、離別した愛はもう取り戻せないのか。
悲恋と失恋は悲しい。
こんな酷いことが、許されていいはずはない。
何がいけないんだろう。何が悪いんだろう。
恋とは何か、愛とは何か。恋愛とはどうあるべきなのか。
考えて、考えて、考え抜いて、ようやく分かった。
護るべきは真の恋愛。何者にも犯されず、何事にも侵されない永劫不滅、永久不変の恋愛。
それでも伸びるアンダーアウトの手を、切って千切って断ち切って、切裂かれない愛護。
「……ふぅ。なんとか、終わりましたぁ」
「大丈夫なのか、イリス」
「うん、大丈夫。成功だよ」
「イリスさん、具体的にはどうなるのですか? 私には特に変わった感じはないんですけど」
ヒルデさんは自分の両手を見ながらにぎにぎしている。
「それはたぶんヒルデさん次第です。私はちょっとしたブーストをしただけで。でも、もうなんとか出来るくらいにはなってると思いますよ」
「なるほど……」
「あとはこちらの仕事、ということですねヒルデ。いや、<愛護の戦乙女・ラヴァズヒルド>」
「そうですね、<黒の夜風>。これは私たちパーヴァートの仕事であり、私自身の理想なのだから……」
表層には多くのカップルが行き交っている。
男女のみならず、男同士、女同士、年齢の差を初めとし、多種族、異なる種族でさえも、恋を堪能し、愛を分かち合っている。
そんな景色の中で不釣合いな、黒いフードを被る者たちが堂々と道の真ん中を歩いている。
いかにも不気味で放置などしておけない。すぐに通報して職務質問してもらうべきであろう者たちだが、誰も彼らに気を留める者はいない。
最愛の彼氏彼女を前にしているとはいえ、その異様な光景に気付かないのは不自然がすぎる。
そう、不自然。理にかなわず、道理に背き、倫理に唾を吐く徒党。
彼らこそはアンダーアウト。性的な嗜好と我欲のためならば、躊躇いなく下劣にまで堕ち、喜々として外道を歩む。
下劣アンダー外道アウト。性の自由を謳歌し、性による幸福を目指すパーヴァートの宿敵。
「キシッ、キシシッ……女、女ダァ」
「……どいつもこいつも、美味そうな身体してやがる。いや、人のものほど自分のモノにしたくなるもんだな」
「俺はあの女カップルを壊させてもらう。百合ップルなんざ胸糞悪い。肉壷の分際で慰めあうなど目障り極まる」
「だが女ではどうにもそそられんなぁ……あぁ、この前寝取った女の彼氏のような、惨めな姿を晒してくれるだろうか」
「では、各自協会の偽善者どもに注意し、存分に犯し存分に貪れ」
その会話の内容には良心の欠片も見られない。
果たすべき理想でもなく、かけがえの無い想いでもなく、ただ性欲と我欲の赴くままに。
「いいえ、あなたたちの汚らわしい欲望はここで潰えます。さようなら」
瞬間、景色が一変する。
温かな色の建物も、柔らかな日差しも既に無い。
灰色の空に、白色の雪壁。そして身動き一つ許さない、透明な氷結の棺桶。
貴様は、と誰もが思ったであろう。この国にいて、その顔を知らない者はいない。
「初めまして、愛を欲さず、愛を与えず、愛を軽んじ、愛を貶める者たち。ここはフィムブルヴェト。愛無き者が辿り着く凍原の峡谷です。有り体に言えば地獄です」
既に氷結の棺桶に詰め込まれた彼らには、反応を示す術が無い
「ここは私の理想の裏側にして妄想の顕現。愛も無く、理想も無いあなたたちは冷気に全てを奪われて消えうせる」
彼女の瞳は冷徹で、彼らの姿さえ映っていないようだった。
「凍えに攻められるうちに妄想すらままならず、思考さえ凍えから逃れたいという切望に埋め尽くされたとき、ようやくあなたたちはここから、そして理想の世界からも消え失せる」
パーヴァートから妄想を奪うこと。それは、まさしく生き地獄。
愛を奪い犯し続けた者たちへの、彼女なりの復讐だった。
「この極寒をもって、あなたがたの罪業への罰、散らされていった数多の恋愛への弔いとします」
すると、氷漬けにされた彼らは、凍りついた川のような青い地面にゆっくりと飲み込まれていく。
底無しの沼のように、少しずつ、少しずつ、そして沈んでいく。
パーヴァートは妄想があればこそ力を発揮できるが、その妄想は性欲から沸くもの。
しかし、この世界にそんなものは存在しない。誰も彼にそんなものを与えはしない。
愛を欠いた者たちは、誰からも愛されなかった彼らこそは、誰に知られることもなく消えていく。
それが愛想愛護ヴァルハラに、新しく備えられた力。凍原峡フィムブルヴェト。
沈みゆく彼らなど気にも留めないというふうに彼女は、ヒルデは曇りない青い空を見上げた。
「そして願わくば、潰えたはずの愛に、再び暖かな火が灯りますように」