メルヒェン2 理想の国はきらぎらと
小腹が空いたので、駅前広場に出店していたパフェ屋さんで甘いものを補給する。
「おいしいね、アヤメ」
「確かに……このパフェを作った者も理想を抱いているのか」
アヤメは私の友達だけど、私の感覚を共有できる。
だからパフェの味も一緒に楽しめる。とても便利な設定なのです。
そのまま歩きながら食べて、アルカディアの街を北に進んでいく。
でも私の足は途中で何度か休憩を挟むことになった。
「何この急な坂……長いし……」
「だ、大丈夫かイリス」
全然大丈夫じゃなかった。
日頃からあまり運動してない私の肉体では、この坂道を越えることは叶わないのかもしれない。
ジリジリどころかゴリゴリと体力が削られているのが分かる。
服の中は沸騰したヤカンの中のようで、顔は活火山みたいに火照っているし、呼吸しても苦しさが消えてくれない。
でも後もう少しで、そう思って踏み出そうとした足が、もう言うことを聞いてくれなくなって。
……ついに力尽きた。
「馬車、使えばよかった……」
「い、イリスっ!?」
硬くて冷たいアスファルトにゆっくりと倒れこむと、全身が倦怠感に押しつぶされて、指先一つ動かすことが出来ない。
「私の理想もここまでか……」
「いや早すぎる! 坂上っただけで……誰か、どこかに人は……」
こんな急な上り坂を利用する人がそうそういるはずがない。
自分の呼吸がよく聞こえるほど、静かで無人の道、助けを請うことすら出来ない。
当然だ。私は人ごみを避けてこの道を選んだのだから。
「アヤメ、短い間だったけど、楽しかったよ……」
「いやいやいや、早過ぎるって言ってるだろうが。ってああ、まずい。妄想が消えかかってる。おい寝るな!」
アヤメが私の頬を叩く。
でも実際に叩いているわけではないので痛くも痒くも無い。
やがて妄想することもままならなくなり、私の意識は柔らかな闇へと沈み込んでいった。
私は見慣れた空間にいた。
上下左右が真っ白な壁で、唯一の小窓から青空が見えるものの、備え付けられた鉄格子は決して私を外に出しはしない。
その中で、私は白い壁をキャンバスにして絵を描いていた。
最初は血でかいていたけれど、いつの間にかクレヨンが部屋の中にあったから、それを使って白い部屋を絵で埋め尽くした。
今でも私は、壁を壊すような勢いでクレヨンを打ち、描いていた。
ここは私の部屋。私の妄想の部屋。私が描いた絵だけが真実の部屋。
誰が邪魔することも無い、私と妄想だけの部屋。
あらゆる色で描かれた絵は、冷たい白を虹に彩る。
そして、私は全てのキャンバスを使いきった。
終わらないと思っていた妄想は、ぐちゃぐちゃになった。
「……あれ?」
目覚めると、そこは白い部屋だった。
おぼろげな意識のまま身を起こすと、部屋には自分以外に一人だけ、少女の姿があった。
彼女はぺたんと座り込んで、私の方を見ていた。
「……おもしろい」
「えっ?」
「あなた、おもしろい」
少女は自分と同じくらいの年齢に見えた。
眠そうに瞼が半分下りていて、黒髪は長すぎて地面でとぐろを巻いている。
「あなたなら、たのんでもいいよね」
「あ、あの、私は……」
「イリスちゃん、私、あなたにおねがいするね」
「お願いって何を……」
「私の理想を……夢想を助けて」
「……あれ?」
目覚めると、そこは白い部屋。
やけにはっきりとした意識で周りを見渡す。ここは、保健室?
「気が付いたか」
ふと、白いカーテンの隙間からものすごく黒い衣装を着た人が出てきた。
それは医務室が白い分、怖いくらいに目立つ黒さで、黒髪は漆を塗ったように美しい。
「貧血で倒れたようだが、いかに理想の世界といえど、女の子が一人で道に倒れるのは良くないぞ。理想というのは、綺麗なものばかりではない」
「あ、あなたが助けてくれたんですか? ここは……」
「いかにも。ここは真に選ばれし、自らを超克の力を持つ徒と信ずる者が集う場所……の医務室」
なんだか難しいこと言葉を使う人みたいだけど、助けてくれたのはこの人みたい。
と、とにかくお礼を言わなきゃ。
「あ、ありがとうございます。助けてくれて…… そ、その、世界に来たばかりなので、ちょっと観光をして……」
「なるほど、この世界の新入りというわけか……私のことはクロウデルと呼ぶがいい。立てるか?」
「あ、はい。どうも」
クロウデルさんが差し出してくれた手を取って、私はベッドから降りる。
ふと見ると横顔は強かで、凜としていて、かっこいい女性って感じがする。
やっぱりこの人も理想を持っているんだろうか。
「ん? どうかしたか?」
「あっ、いえ!」
「これから食事会だが、良ければ食べていくか?」
「いいんですか!?」
助けてくれた上に食事までご馳走してくれるなんて。
この人は聖人か何かの理想の持ち主なのかな。
「構わないさ。この邂逅も大いなる暗黒星に引き寄せられた者の運命」
「あ、あんこ……なんかかっこいいですね」
「ふむ」
よく分からないけど、響きは好きだ。
なんだかメルヘンチックな匂いがするもの。
「では我らが食事会に誘ってやろう。来たれ」
クロウデルさんに連れられて、私は大広間へと誘われる。
大きな扉が開かれた向こうには、様々な服装の人々がバイキング形式の食事会に参加していた。
「人がたくさん……この人たちも全員が理想を持っているんですか?」
「当然だ。己の理想を遂げるために戦う屈強な者達だ。だが、ここに集うのはそれよりも一歩深淵に足を踏み入れた者たちだが」
「へぇ……」
それぞれが趣は違えど、只者ではない出で立ちをしている。
ストレートな言い方をすると、凄く強そうだ。
異能力バトルとかしそうな感じ。
見惚れていると、一人の黒衣の男性がクロウデルに歩み寄る。
「遅かったなクロウデル」
「ああ、彼女が目を醒ましたから、ついでに拾ってきた。この子、素質はあるようだぞ」
男の人はクロウデルと同じくらい黒い姿で、黒いジャケットをはためかせていた。
なんだかよく分からないけど、凄い感じがする。とにかく力強い存在感がある。
それはそうと素質って、いったい何の話だろう。
「俺の名はケイオス。もう倒れないように、ここでしっかり食べていくといい」
「あ、ありがとうございます」
キリッとした表情を崩さないケイオスさんは意外と優しい性格のようだ。
さて、では遠慮なく。
「いただきます!」
まずはお野菜から取って……あっ、フライドポテトだ。
「ぽ、ポテトも野菜だから……」
「イリス、あまり食べ過ぎないように」
「分かってるよアヤメ……って、いつの間に戻ってたの?」
「私はお前の妄想だからな。お前が意識を取り戻せば私も復活するさ」
それもそっか。でも食べる。育ち盛りだから!
「まったく……うん?」
「おいしい!」
程よい塩加減に、バイキングならではの食べるのに最適にまで放熱された後の温度。
んー……たまりませんなぁ。
「イリス、ちょっとイリス」
「どうしたのアヤメ、食べたいの?」
「いやそうじゃなくて、こいつら……」
見ると、黒服の二人がアヤメのほうを向いていた。
アヤメの背後には何も無く、間違いなくアヤメを見ている。
二人には、私の妄想が見えている。
「あ、あの、もしかして見えてますか?」
「……これはお前の能力か?」
ケイオスさんに問われて、動揺しながらもなんとか説明する。
「妄想だと……?」
「そうです、妄想」
ケイオスさんの表情は難しく、何を考えているのか私には分からなかった。
すると顔をこちらに向けて問われた。
「イリス。お前の理想は、メルヒェンを築く事だと言ったな。そしてお前はそれを妄想の中に納めている」
「えっと。はい、そうです」
「なら、大いなる力を身に付けることだ。立ちはだかる障害を滅ぼし尽す力が無ければ、お前の理想は異なる理想に潰されるだろう」
「理想比べってやつですか?」
理想比べ。この世界でスケールの大きな理想を叶える時に、必ず行われる競い合い。
敗北するだけなら命まで失われることは無いというけれど、全身全霊で理想を競い合った後に敗北すると大抵は理想が挫けるらしい。
この世界では、理想が無いと存在出来ない。だから理想を挫かれたらこの世界から消えることになる。
「この理想世界は、とある男が想い、望み、そして遂げた理想だ。このアルカディアと西のユートピアも、一人の超越王と一人のマッドサイエンティストが創り上げた理想の形だ」
「えっ……!」
国はともかく、世界そのものが理想によって創られた? となると、私もメルヒェンの世界を創れる?
そしてそのためには力が無いと駄目らしい。
「でも、力を付けるにはどうしたら……」
「趣向を凝らすのよ」
急にクロウデルの口調が変わった。格好付けた感じではなくなって、優しく諭してくれるお姉さんのような。
「趣向と嗜好を凝らして、理想をもっと具体的なものにするの。例えば、あなたのメルヒェンがどういう世界なのか。どういう法則で、どういう法理で、どんな現象があって、どんな存在があるか」
「具体的に……」
「あなたの妄想の存在意義とか、自分にとってどれほどの価値があるのか、どれだけかけがえの無い物なのか……そういうのを考えていくといいと思うわ」
うーん、いまいちイメージが湧いてこない。私の頭の回転はあまり早くない。
「すぐに全部の答えを出す必要はないわよ。時間をかけて、じっくりと煮詰めて、研ぎ澄ませていくものだから」
クロウデルさんはそう言うと、私の空いた皿を取り上げて、料理が山盛りになった自分の皿を突き出す。私は驚きながらも受け取ってしまった。
私に微笑みかけて、まるでお姉さんのような口調のままに。
「まずは今の自分に出来る最善のことをすればいいのよ。あなたの場合は栄養を取ること。でしょ?」
「は、はい!」
優しく微笑みかけてくれるクロウデルさんに、私は元気な返事で応えた。
ご馳走様でしたとお礼を言って、私はその場所を後にした。
外まで案内してくれたクロウデルさんにお別れを言って、私は急いでアルカディアを北上する。
日は暮れかけていた。
緩やかな坂になっている大きな街道を歩き、私は北部へと足を踏み入れる。
そこは他のところとは豪華さが格段に違った。
庭が広い、家も広い、道も綺麗。途中にあるオブジェも趣向が凝っている。
しかも最も高い土地らしく、城が遮る部分以外はアルカディアを一望できる。
夕焼けに染まる橙色の風景はとても綺麗だった。
東の住宅街、南の商業区、西の駅周辺。
どれもが異なる魅力を持っていて、そこで生活している一人ひとりが、自分だけの強い理想を持っている。この世界に理想を持ってない人は一人も居なくて、逆に言えばこの世界は理想で成り立っている。
この景色も、いくつもの理想が集まって出来た景色なんだ。
「凄いね、アヤメ」
「そうだな。凄まじいな」
この理想が叶う世界を創った人は、こんなにも綺麗な世界を望んだのかな。
こんなすごい世界を創れる、すごい理想を持っていたのかな。
此処で生活している全ての人が持つ理想。私がその中の一つだ、なんて実感が今更になって湧いてくる。
「私も、この世界みたいに……ううん、もっと素敵な世界を創りたい!」
「なら、創ればいい。いや、一緒に創ろう」
私とアヤメは顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
巨大なコロシアムのような建物の横を通り過ぎ、北部を抜けて東部に帰ってきた頃には、もう日は完全に沈んでしまっていた。
夜道と言っても街灯は多く、歩くのに苦労はしない。
似たような場所の多い住宅街はちょっと迷いやすく、実際に迷ってしまったものの、なんとかアパートの自室に辿り着くことができた。
「あーついたー!」
「お疲れ様だな」
あんまり光度の高くない照明を点けて、ベッドの上に飛び込む。
「おい、乙女ならシャワーくらい浴びろ」
「もう疲れたー、動けないー」
一日中歩き詰めだったので、もはや足は棒のようになっている。
夕飯も食べたいけど、もう無理だ。料理をする気力すらない。というか材料何も買ってないし、これから買いに行くのはもう流石に無理だよ。乙女だから。
なんて考えていると、誰かに扉をノックされる。
「イリスさん、いらっしゃいますか」
「あっ、山城さん!? ちょ、ちょっと待っててください!」
もう指一本動かせないと思っていたのに、飛び跳ねるように起きて玄関まで駆け足で移動していた。
アヤメの呆れた溜息が背後から聞こえてくるようだ。
「夕飯はもう済ませましたか? 良ければ一緒にと思ったのですが」
「い、一緒に……」
こ、これは噂に聞く食事のお誘いという奴では……
私は心の中ですぐさまアヤメにヘルプを求めた。
「あ、ああっ……アヤメー! アヤメー!」
「なんだどうした」
「しょく、食事のお誘いってどうやって受ければいいんだっけ!?」
アヤメは私の必死の問いに、あろうことか溜息で返した。
「ひ、ひどいよ。人が真剣に困っているというのに!」
「……普通に受ければいいだろ」
「普通って、食事のお誘いとか初めてされたし、どうすれば……」
「あの、イリスさん?」
まずい。このままじゃせっかくの新たな人生をまた台無しにしてしまう。
どうすれば、どう応えれば……
「都合が悪いようでしたら、また今度……」
「い、行きます! ぜひ行かせてください!」
「出来てるじゃないか」
転生しても、人との会話は慣れない。
常に緊張したままで、別れた後に襲ってくる疲労感はとてつもない。
会話の内容も、どうしてあんなつまらないことしか言えないのかと、思い返して自己嫌悪するばかり。
でも、せっかく理想を叶えられるチャンスを得られた二度目の人生、少しずつでも頑張ろう!
「ア、アノ、オサソイ、イタダイテ、マコトニ、アリガトウ、ゴザイマス」
「そんなに硬くならなくてもいいですよ。私は理想の結婚願望を持つだけの、ただの女性公務員です」
そんなこんなで、私は山城さんに連れられて喫茶店で夕飯を食べることになった。
椿さんと一緒に訪れたのは、いたるところに猫がいる喫茶店だった。
「この辺りでは有名な猫カフェなんですよ」
「猫カフェ……」
店はコテージで内装も良い雰囲気。テーブルの中央では猫が丸まっている。
理想世界にも猫はいるんだ……。
「にゃっにゃー! ご注文はお決まりですにゃー?」
「っ!?」
急に活気に満ち溢れた元気ハツラツな声。
思わず体が飛び跳ねてしまった。
「にゃはは! お客さんびっくりしすぎにゃー。死角にきゅうり置かれたみたいなんにゃ」
「え、えと……なっ!?」
恐る恐る彼女の方を見て、また驚いた。
それは彼女が自分とほとんど変わらない年齢っぽいのに自分より発育がいいとか、根暗な自分とは比較にならないほど可愛い女の子だったからとかそういうのではなく。
彼女のお尻から伸びて、ゆらゆらと揺れている紐状の物と、頭にピクピクと動く三角形が二つ。
ただのコスプレにしては精巧に過ぎて、金色の猫目は私の心に火を灯した。
「ね、猫!? 猫人間だ!?」
「うにゃ? ケットシーを見るのは初めてにゃ?」
私は興奮のあまり声が上手く出せなくなったので、大きく首を上下に振って応える。
「にゃはー、じゃあ私と同じでこの世界に入りたてほやほやの人かにゃ?」
「そ、そうですね。昨日からです」
「きのう!? はにゃー。じゃあ私の方が先輩にゃんな。これからよろしくにゃー」
「あ、こちらこそ」
ところで獣人と言っても、獣と人の割合で印象がかなり変わってくるよね。
このケットシーはほとんどが人で、獣っぽさは目と耳と尻尾にしかない。
人によっては全身が毛に覆われていたり、顔が獣っぽく尖っていたりする。
「それで注文はどうするんにゃ?」
「あわっ、す、すいません! えと、えと……」
と、とりあえず無難にナポリタンと紅茶にしておこう。
「かしこまったにゃ。少々お待ちー。シェフ、シェフー! ナポリタンと猫缶一つ頼むにゃー」
注文をとり終えたキャットシーは、尻尾を揺らしながら奥へと引っ込んだ。
「メルヘンだなぁ……」
あ、名前聞いてない。
会話が苦手な私は、せっかく山城さんが食事に誘ってくれたにもかかわらず、楽しい話題の一つも提供できずにいた。
すると痺れを切らした山城さんが気を使ってくれたのか、私に話しかける。
「どうでしたか。アルカディアは」
「えっと、すごかったです。この世界が全部、人の理想で出来ているなんて、すごいメルヘンチックな気がします」
「メルヘンチック……久々に聞きましたね」
ああ、山城さんが愛想笑いを浮かべている。私なんかのつまらない話にあわせてくれている。
きっととても優しい人なのだろう。私なんかには勿体無い人だ。はやくいい男性を見つけて欲しい。
「私もこんな素敵な世界を創りたいなと、そう思いました」
「イリスさんは自分のオリジナルの世界を創りたいんですね」
世界を創造するなんて神様みたいで、私なんかに出来るかは分からないけど、それでもこの世界で見た輝きが理想と呼ばれるもので、それを私が持っているなら、きっと……
「きっと叶う。いや、叶えたい。叶えようって思うんです」
「そうですね。諦めなければ必ず叶う。前世がどうあれこの世界ではそうです。最後まで抗った人にだけが受け取れる最後の希望です」
私の持つ理想には、未だに戦う力はない。ましてや一国を築くような壮大な、そして綿密に練られた理想像があるわけでもない。
それでも私は、私の理想だけは譲らないように生きてきた。それだけは譲らない。
食事を終えてお茶を啜る頃には、山城さんとのコミュニケーションに緊張することもなくなってきた。
けれど、その後に襲い掛かってきたのは強烈な睡魔だった。
「今日はもうお疲れみたいですね」
「……あっ、いえ、すみません、その」
「いいんですよ、一日中歩き続けていたんでしょうから疲れるのも当然です。そろそろ帰りましょう」
うつらうつらとしている私に、底なしの優しさをかけてくれる山城さんにちょっとくらっとしながら頷いた。
「すいません……」
外に出ると、当然ながら完全に夜で、街灯もあるとはいえ女性が歩くには心細い。
でも随分と星がよく見える。この世界にも宇宙ってあるのかな。
「いかに理想郷といえど、夜道は物騒です。一人で歩くのは避けたほうがいいですよ」
「そ、そうですね」
ブロックで出来た地面を歩き、住宅街の道を進む。
東部は基本的に集合住宅しかなく、一戸建てはかなり少ない。
南部は一階が商売スペース、二階が居住スペースで1セット、北部は大きすぎるほどの豪邸が並んでいた。
普通の一戸建ては西部に密集しており、それ以外の場所ではたまににちらっと見かける程度。
街灯はなくはないけど、やっぱり暗い夜道は怖い。
気のせいだけど、背後から誰かが付いて来ているような気がする。
「イリスさん」
「えっ?」
突如、強張った声で呼ばれると共に、手首を強い力で握られる。
「あっ、あの、あのその、わっ、私何か失礼なことを……」
「慌てないで、落ち着いて前から目を逸らさないで」
この反応がどうやら私に対してでないことが分かり、私はほっと胸を撫で下ろす。
じゃあ山城さんは何に、と思って山城さんの視線の先を追うと、そこには人影が一つ、ぽつんと夜道の真ん中に佇んでいた。
「……えっ」
ヤバイ。普段からない語彙力が余計になくなるくらいに。
不気味さが尋常じゃない。完全に完璧に不審者だ。それも即通報モノのとびきり危険な人物に違いない。
女の勘……なんてちょっと私にはないけど。
それでもあれはおかしい。やばい。私の疎い本能でも分かる。アレやばい。
「イリスさん、隙を見て逃げてください。私が時間を稼ぎます」
「えっ、いや、えっ?」
このまま一緒に逃げればいいんじゃ……そう思って後ろを見て、一瞬で現実逃避しそうになった。
後ろに二人いた。
この勢いで前を見たら次は三人になってるんじゃないかと思ったけどそんなことはなかった。
とはいえ三人の人影はどれもこれもが危険な雰囲気を発している。
「あの一人だけなら私が足止めできます。その間に横を走り抜けて。出来れば大声で助けを呼んでください」
「で、でも……」
「大丈夫です。こう見えても私はこの世界でもそこそこ古株なんですよ。それに、伊達に公務員勤めていません」
分からない。椿さんが何を言いたいのか、私には分からない。
分からないけど、私には何も出来ない。
椿さんの言うとおり、私が助けを呼びに行ったほうが、なんとかなりそうな気はする。
そう、椿さんが少しの間、犠牲になってくれれば……?
「大丈夫です。騒ぎになればすぐに専門の人が駆けつけますから」
「でもっ、でも……」
「大丈夫です、気をしっかり持って。動揺を出来るだけ見せないように歩いて」
促されるままに、私と椿さんは努めて冷静を装って歩き出す。
足を前に出すごとに近づく影。
夜道で女性を囲むような存在が、この後何をしようとしているのかなんて、簡単に想像がついてしまう。
私はともかく、山城さんはまだ結婚だってまだなのに……こんなところで悪漢に穢されちゃだめだ。
いや、もしかして、これが理想の強さを試されるということ?
己の理想を守りきるには、こんな逆境でも乗り越えなきゃいけないの?。
考えているうちに、影とすれ違う……瞬間、影が僅かに動いた気がした。
「走ってッ!」
強い力で背中を押された瞬間、私の頭の中には、ひたすら逃げることしか残っていなかった。
臆病な脱兎のように、私は夜の道を駆けた。