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ティーナやリサ、大多数の子みたいに、親がどうしようもない人間だったわけじゃない。少なくとも、私はそう思っている。ただ単に、どこまでも要領の悪い生き方しかできない人達だった。
店長と初めて会ったのは十一歳の頃だった。親に連れられて、今の店に行った。話の内容は覚えていない。最後に夫婦揃って頭を下げていたところだけ鮮明に覚えている。
初めは店長が怖くてしょうがなかった。火傷で潰れた顔。怪物みたいだと思った。実際、優しい言葉なんか一つも掛けてくれなかったけど、私を食べたりすることもない、普通の人だった。
自分がこれからするべきことを知った時は、店長なんか比じゃないくらいに怖かった。よく分からないっていうのは、一番怖い。私を宥めながら説明してくれたのは、当時最年長だった人。顔は覚えているけど名前は忘れてしまった。彼女は一年も経たないうちに店を出て行った。借金を返し終えたわけじゃなくて、他の店に移ることになったらしい。
翌日の夜には待機部屋にいた。店長からは、客に抵抗しないこと、間違っても暴力を振るわないことを念入りに何度も注意された。
待機は夕方からしていた。ガチガチと歯を鳴らす私を見て、他の人達が「そんなに怖がらなくても大丈夫だから」と言ってくれた。何が大丈夫なのか分からなくて余計に怖かった。
鈴が鳴った。他の人が顔を合わせた。こんな早い時間に客が来るのは少し珍しいらしい。
店長と男の声。随分と長い間話をしていたと思う。他の人も不思議そうだった。そんな状況もあって、少しだけ緊張と恐怖が薄れた頃に、ドアが開いた。
「アリス、指名だ」
火傷のせいか、もともとなのか、少し嗄れた声。
心臓が跳ねた。多分、身体も跳ねてた。涙が滲んで、身体は硬直する。そんな私を、店長は脇にかついで部屋から連れ出した。
「悪いな、この通り、臆病なやつなんだよ。やっぱ別の奴にするか? 十三の奴ならいるが――」
「いや、いいよ。歩けないようなら、僕が担いでいく」
「悪いな。ほら、立て」
床に落とされる。膝と手を着いたまま見上げる。彼と初めて会ったのは、この時だった。
外見は、今の彼と変わらない。もしかしたら身長が低かったかもしれないけど、私も小さかったから分からない。
「立てる?」
優しい声だった。びくっと身体が震えたのは、多分、恐怖でも驚きでもなくて、ただの反射だった。
頷き、立ち上がる。すごく緩慢な動きだったと思う。
「部屋は覚えてるな?」
店長の声。
部屋は事前に教えられていたけど、すぐには思い出せなかった。三秒。二桁の番号が浮かんできて、頷く。はい、と声を出したつもりだったけど、喉が擦れるような息が漏れただけだった。
歩き出す。彼が後ろに付いた気配に、また身体が震えた。
無言のまま部屋に着いた。彼はベッドに腰掛ける。私は彼の前に――少し距離を置いたところに立っていた。
「名前、アリスでいいんだよね」
頷いた。でも、心のどこかで否定した。それは、私の本当の名前じゃあないから。
「僕が怖い?」
否定する。感じている恐怖のうち一割くらいはあったかもしれないけど、嘘は吐いていないと思った。
「じゃあ何が怖い?」
「これから、すること」
「なんで?」
「よく分からないから」
彼は頷いた。その瞬間、口元が笑っていたように見えた。多分見間違いじゃないと、今なら言える。
「分からないことは怖い。当然だ。それを臆病だっていうなら、僕だって同じだよ」
手招き。せすじが固まった。ぎこちない動きで近付く。
両肩に手が置かれる。その手に自分の手を重ねたのは、きっと、無意識の抵抗だった。彼は、その手を気にすることなく、肩紐を落とした。曲げた肘の部分で止まる。でも、上半身はもう隠せていなかった。
自分を抱き締めるようにして、その場にしゃがみこんだ。涙でぼやけた視界で、ずっと床を見ていた。でも、彼が見ているのはなんとなく分かった。
泣いている間、頭に浮かんだのは両親の顔だった。別の場所で、借金を返すために働いているという両親の顔。
涙が止まるまで、どれくらいかかっただろう。
涙を拭いながら立ち上がると、彼と目があった。両手を脱力させる。ワンピースのドレスが床に落ちた。
「ごめんなさい」
「ううん」
優しい声。本当に、第三者のように優しい声だった。
肩を掴んだ手に、ベッドへ誘うように押し倒された。彼の身体が光を遮る。表情も影になってよく見えない。それだけで、また恐怖心が湧いた。
顔が近付く。左足に硬い指先、掌の感触。身体を這い上がってくる。脇腹、腹部、胸、脇、首。頬に触れた時、キスをされた。
短いキス。
覚悟していた筈。でも、呆気にとられた。そのうちに、また唇が重なった。さっきよりも長かった。我にかえる。反射的に、彼の肩を押した。顔が、身体が離れていく。光が戻ってきた。
いつの間にか肩で息をしていた。毛布を手繰り寄せて、身体を包む。
彼は右肩を押さえていた。その姿を見て思い出したのは、息が詰まるような、微かな音。肩を押した瞬間だった。
「ごめんなさい」
蚊の鳴くような声だったと思う。でも、静かな部屋では十分な声量だった。
彼は首を横に振ってからシャツを脱いだ。右肩に包帯を巻いていた。僅かに血が滲んでいる。
「ごめんなさい」
さっきよりも、ちゃんと声が出た。血を見て驚いたというのもあったし、店長の注意を思い出したからでもあった。
「大丈夫。この血は、もともとだから。傷も開いてないみたいだ」
安心した。なによりも、彼が怒っていないことに。
彼は、傷口に触れたまま動かなかった。動く気配もなかった。
「その怪我、どうしたの?」気付けば、訊いていた。
「城に勤めてるんだ。兵士として」
お城の人がこんなところに来るんだ。まず驚いた。それから少し考えて、訓練で怪我をしたんだと理解した。どうして、そんな遠回りな答え方をしたのかは分からなかった。よく見ると、彼の身体はあちこちに傷が付いていた。周囲の皮膚が変色した、比較的新しいものから、薄くなってほとんど消えている古いものまで。
彼は少し長めの息を吐いた後、ベッドに腰を降ろして、少し立てた膝に手を置いた。諦めたというより、なんだか何もかもどうでもよくなったみたいに見えた。
私より、ずっと大きくて、力もある彼が、弱い存在に見えた。
毛布から出て、手と膝をつきながら彼に近付く。
恐怖は残っていたと思う。きっと、その大きさも、そのままに。でもそれ以上の何かが、私を動かした。恐怖を感じなくさせる、麻薬みたいな感情が。
両手を伸ばす。頬に触れる前に、彼の両腕が私の背中に回った。そのまま押し倒される。のし掛かるかたち。さっきよりも近い。麻薬は、まだ効いている。
「ごめんなさい」
彼の背中に手を回す。なんでそんな言葉が出たのかは分からない。
「君が謝ることなんかないよ」
そう答えた彼は、理由が分かっていたのだろうか。
愛されている感じがする、とエミリは言った。あの時の私も、それは同じだった。だからこそ、その後に待っていた、本当の客を相手にしたときは、飢えた獣と同じ檻に入れられたような気がしたけど。
彼にのめり込んだ。私もまた、飢えた獣のように彼を求めた。
気付けば二年が過ぎていた。十三歳。身体が成長すると、客の顔ぶれも変わった。よく相手をしていた客は、その頃に入ってきたばかりだったアーシェかティーナを指名するようになった。それは、全然構わない。同じような法則で、私にも客が回ってきていたから、ここを追い出される心配もなかった。
ただ、そんな客と同じように、彼が離れていくことだけが怖かった。そんな場面を何度も想像して、夢に見た。起きると汗をびっしょりかいていた。自分がどれだけ彼に依存しているのか分かって、笑えてくるくらいに。
その日、日が沈む前に店へいった。駄目元で、店長に彼のことを聞いてみよう。そう考えた。
店長と彼は昔からの知り合いらしい。いつもいつも指名前にちょっとした世間話をしているから、不思議に思って訊いたことがあった。店長が答えてくれないのは分かっていたから、彼に。
そう。きっと店長は答えてくれない。仕事に慣れたきた頃から言われるようになった言葉。客に深入りするな。その通りだと思う。ちょっと、言うのが遅かったけど。
多分、怒られてお終い。彼の担当を外される可能性だって考えなかったわけじゃない。ただ、もう耐えられなかった。彼の声を聞いて、怯えることに。
店に入る。受付に店長はいなかった。鍵が開いているからどこかにいるはず。
椅子に座った。少し待っていると、奥から店長がきた。煙草をくわえている。私に気付いて、片方の瞼が微かに開いた。多分だけど。
「早いな。殊勝じゃねぇか」
短く笑う。なんとなく、全部バレている気がした。
「店長とフラットさんって、昔からの知り合いなんですよね」
舌打ち。めんどくさそうな表情。やっぱりバレていた。
「何度も言った筈だ。客に深入りするな」
「他の客にはしません。でも、あの人だけは――」
「はっきり言っておくべきだったな。他の客はどうでもいい。あいつには深入りするな」
「なんでですか」
「誰の得にもならねぇからだ」
煙を吐く。
「あいつはコレと同じだ。身体に悪いって分かっていても、一度味を知るともう止められねえ。特に、お前らみたいなガキにとってはな。自分で最低限節制して付き合っていくしかねえんだ」
「でも、不安なんです。あの人がそのうち私以外の誰かを指名するんじゃないかって」
店長は目を細めた。受付に置いていた灰皿に煙草を押し付ける。
「それに答えてやることはできる。だがな、これだけは言っておく。あいつに恋愛感情は抱くな」
頷く。僅かに躊躇った理由は、今は考えないよう、頭のすみに追いやった。
「お前がいるときに、あいつが、お前以外を指名することは、絶対にない」
「どうしてですか」
「お前が、一番近いからだ」
「近い?」
「歳、背格好がな」
それだけいうと店長は受付に入って椅子に座った。話は終わりというように足を組んで新聞を広げる。
私は、どうしていただろう。ここの記憶は曖昧だ。他の子が来るまで座りっぱなしだったことは覚えている。
きっと、ずっと、言葉の意味を考えていた。もしかしたら、簡単な答えをどうにか否定したくて、無い頭を必死に動かしていたのかもしれない。
でも、無駄だったみたいだ。他の子と一緒に待機部屋へ行く頃には、一番簡単な答えを受け入れるしかなくなっていた。
彼は確かに、他の客と比較にならないくらいの愛情をもって接してくれた。ただ、その愛が本当に向けられるべきは私じゃなかったというだけ。でもそれは、もう、愛と呼んでいいものなのだろうか。私に向けられた感情の名はなんというのだろう。分からない。分かりたくなかったのかもしれない。
それでも結局、私は彼から離れることはできなかった。それでも、店長が言っていたみたいに、少しは節制できるようになった気がする。
一度、彼を大通りで見掛けたことがあった。女の人と一緒だった。
もしかして、あの人だろうか。そう思って後ろから近付いた。背格好は似ていた。でも歳はどうだろう。たまに見える横顔は少し年上に見える。
そのうちに、彼が振り向いた。目が合う。化粧をしていなかったけど、私だと気づいてくれたらしい。彼は軽く片手をあげた。嬉しくてにやけそうになるのを我慢しながら、同じように手を上げた。隣の女の人が、彼の様子に気付いて振り返った。目が合う。綺麗な人だった。軽く会釈を交わしただけで、住む世界が違うことが分かった。
二人はまた歩き出した。なにかを話している。私のことだろうか。誰? と聞かれたら、彼はなんて答えるのだろう。なんと答えても、別に構わない。またお店に来てくれれば、それでいい。