1
声が聞こえた。ドアの向こう。私と話す時より少しだけ低め。でも間違いなく彼の声だった。
自然と腰が浮く。彼は店長と世間話をしているみたいだった。
「あの人?」
隣を見ないまま、エミリの問いに頷く。
「たまには私も指名してくれないかな」
エミリは一度だけ、私が体調を崩して休んだ時に彼の相手をしたことがある。それからというもの、たまにこんなことを言うようになった。気持ちは分かるし、私がいなければ彼はきっとエミリを指名するだろう。私と同い年なのは彼女だけだから。
腰を浮かせたまま、テーブルに置いていたグラスを取ってストローをくわえる。少しだけアルコールの混じったジュース。相手によっては酔ってしまった方が楽だけど、彼との場合は酔ってしまうのは勿体無い。
エミリは一ヶ月くらい前に入った新人の子と話をしていた。名前はリサ。歳は、私がこの仕事を始めた頃と一緒で、十一歳。小さく聞こえてきた会話によるともうすぐ十二歳になるらしい。
ようやくドアが開いた。店長の顔が覗く。普通なら名前を呼ぶんだけど、言わなくても分かっているだろうというように私を見た。そんな感じの表情をしているのかもしれないけど、火傷で潰れているからよく分からない。
グラスを置いて部屋を出た。彼がいた。二日ぶり。挨拶を交わして、一緒に奥に向かう。
彼は黙っている。貧民街には似合わない高そうな靴が廊下を踏む音。両手はずっとポケットの中だった。そういえば、今日は厚着をしている。夏の終わり。秋の初め。今の時期をどちらというのか知らないけど、日が沈む頃に出歩くには寒い時期になった。
そっと、彼のポケットに手を入れてみた。思ったより冷えてないみたいだけど、私の手の方が暖かかったから、そのままにしておいた。彼は驚いた様子もなく、少しだけポケットに目を向けて、また前を見た。
廊下はとても静かだった。あと三時間もすれば廊下の両側にあるドアの向こうから、薄い壁の向こうから、獣の声が聞こえるようになる。たまに泣き声が混ざることもある。一ヶ月前もそうだった。でも、今はもう聞こえない。獣に慣れれば、彼女ももう獣だ。
いつもいつも、決まってこの時間に来るのは彼くらい。私を指名してくれるのも、ずっと変わらない。
足音が止まる。部屋についた。鍵を開けてドアを開く。彼が部屋に入る。私も後から続いて、ドアと鍵を閉めた。
大きな家具はベッドくらいしか置かれていない。狭い部屋。灯りを点けようとすると、彼に止められた。薄いカーテンから差し込む月明かりで、少しだけ、本当に少しだけ、室内は照らされている。
彼はポケットの中で私の手を掴んで、ゆっくりと歩き出した。シャワールームを通り過ぎる。ベッドの横で止まった。
「身体冷えてない? 先にシャワーで暖まった方が」
「後でいいよ」
柔らかい声。でも、有無を言わせない響き。気が急いているみたいだった。時間がないのかもしれない。
頷き、彼の服に手を伸ばす。コート、シャツ、インナーを脱がしていく。目も暗闇に慣れてきた。白い肌。エミリや他の女の子に羨ましがられることもある私と同じくらいに白い。筋肉もほとんどついていない。彼は運動が苦手、というか、身体の所々をうまく動かせないらしい。彼から聞いた訳じゃないけど、何年も一緒にいたら流石に気付く。
お城の兵士らしくない、男らしくない身体に指先で触れ、這わせていく。指先に僅かに引っかかるような感覚。身体中の古傷。引っかからないだけで、暗くて見えないだけで、大きな痣や、火傷痕があることも知っている。
「どうかした?」
彼の胸の辺りを見たまま首を振る。指先を離し、一歩下がる。両の肩紐を外すと、身に纏っていたドレスはすとんと落ちた。
「何時?」
シャワールームから出てきた彼の問いに「七時」と答える。いつも通りなら、まだ帰る時間じゃない。そう思った通り、彼は「そう」と答えてから、私の隣に腰掛けた。石鹸の匂い。私の匂いが消えてしまったのが嫌で、後ろからのしかかるみたいに抱きついた。マーキングする犬みたいだ。彼といるときは人でいられる気がしていたんだけど。でも、飼い犬なだけマシか。
マシ? マシかな。飼い犬は。野生の犬と比べて。
そんなどうでもいい思考はすぐに打ち切って、口を開いた。初めての客やよく知らない人が相手だと考えないと話せないけど、彼ほどの常連さんだと自然に言葉が出てくる。
「お姫様、結婚するんだってね」
「うん」
「相手は隣の王子様でしょ? 式とかはどうなるの?」
「先の話になるけど、向こうの国で挙げるらしい。こっちの国民にはあんまり関係ないよ」
「ふぅん。ね、ね、今回の話、あっちの王子が急かしたって本当?」
「そういう噂は流れてるみたいだね。真偽は知らないけど」
「だって、お姫様って私と同い年でしょ? 普通じゃない早さだと思うけど」
「確かにね。でも、噂が本当だとしても、しょうがないと思うよ。本当なら、王子はとっくに結婚していたわけだし」
「それはそうだけど」
彼は私の手を解いて立ち上がった。壁に掛けていたコートを手に取る。
「あなたは? フラットは、結婚の予定とか、ないの?」
「ないよ」
「予定ができたら、ここには来ない?」
「さぁ、どうだろう」
彼はコートを羽織る。私もドレスを着た。一緒に廊下に出て、二時間くらい前に来た道を戻っていく。
「まだ借金はなくならない?」彼の問い。
「少なくともあと一年は頑張らないと駄目みたい」
「そっか」
彼はコートから財布を取り出すと、お札を一枚、私に差し出した。珍しいけど、今までなかったわけじゃない。
「ありがと。臨時収入でもあったの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあどうして?」
「なんとなくかな」
「なんとなく?」
「うん」
「ありがと」
「うん」
彼が帰ってから、チップをもらったことを店長に伝えた。取り上げられるわけじゃない。今日だって「よかったな」と言ってお終いだった。気前のいい客には相応の接客をする、ということらしい。
待機部屋に戻ってすぐ、店の入り口の鈴が鳴った。店長と複数の男の話し声。ドアが小さく開き、店長が顔を出す。リサ、エミリ、レジーナ、アイノの名前を呼び、最後に私を見た。
「いけるか?」
頷き、立ち上がる。
客との繋がりなんて、身体と金にしかない。心は必要ない。だから獣なんだ、私達は。あぁ、でも、もしかしたら違うかもしれない。だって、ペットショップに売られている獣達は、ここの料金より、ずっと高値が付いている。
獣以下の安物だ。私達は。
朝日の下を歩く。普通の人は出勤や登校の時間だ。大通りは特に活気があって、朝早くから客引きなどの声が飛び交っている。
彼に抱かれている時以外に自分を人と感じられるのは、こういう時だった。人に育てられた犬猫は自分のことを人間だと思っている、みたいなことを聞いたことがある。多分、それと似たような勘違いをしているだけだと思う。
実際、誰も私に声を掛けてきたりはしない。ここじゃあ獣じゃなくて幽霊になっているのかもしれない。せめて人型なら嬉しいんだけど。
化粧を落として、もう少し年相応の服装をすれば、幽霊でなくなることは知っている。でも、その時に向けられる目は凄くムカつくから、獣や幽霊の方がマシ。うん。これは間違いない。
もう、彼に会いたい。彼が来るのは週に三回。曜日も決まっていて、次に来るのは三日後。一番長い間隔が空く。それまでに完全な獣と化してしまわないだろうか。
大通りを脇に逸れて細い道を抜けると家に着いた。普通の一軒家。あの店の従業員は、みんなここで生活している。一人一部屋とはいかないけど、かなり恵まれた環境だ。なにより、貧民街の外に住めるのだから。もっとも、こういう環境に置くことで逃げる選択肢を消しているのかもしれない。そうだとしても、逃げる気がない人にとっては衣食住に困らない有り難い場所だ。
靴が散らばった玄関。三足。体調を崩して休んでいる子が一人。他の二人は私より早く仕事が終わったのだろう。リビングに行くと、一人はパンを食べていて、一人はソファで仰向けに寝ていた。ぐったりしていて顔色が悪い。
「アーシェ、どうしたの? ビビと同じ? でも、そんなに酷いタイプだったっけ」
コートを脱いで椅子に腰掛ける。
「当たった客が最悪だったんだって」
答えたのはアーシェじゃなくて、ティーナだった。パンを頬張っているから言葉が聞き取りづらい。
「最悪って? あ、そのパンちょうだい」
「いいよ。まぁ客っていうか、客の部屋らしいけど」
そういわれれば、アーシェを店で見なかった。外に出ていたのか。部屋で最悪といえば、もう限られている。
「ゴミ屋敷?」
「正解。話を聞く限りじゃあ、相当酷かったみたいだよ。さっきまでずっとシャワー浴びてたし」
「ちょっと聞いてみたいな」アーシェを見る。
「勘弁してあげて。もう話すのも嫌みたいだし」
「ティーナは聞いたの?」
「途中までね」
「じゃあ教えて」
「やめて」アーシェの声。涙混じり。
「もう聞くのも嫌。鼻の中に臭いが残ってる気がするし、もう最悪」
独り言なのか分からない程度の愚痴。
「災難だったね。早く寝て忘れちゃった方がいいよ」
それが仕事だからしょうがない、とは言わない。一応、ここじゃあエミリと並んで最年長だし、勤務歴は一番長い。年下の子のやる気を削ぐようなことは間違っても言わないようにしている。
アーシェはふらふらとリビングを出て行った。階段を上がる足音。
「人が来るって分かってるのに、なんで掃除もしないんだろうね。あ、でも私達は商品だからおかしくはないね」
ティーナが可笑しそうに言う。私の口元にも自然と笑みが浮かんだ。この子は話し方や見た目は天然っぽいけど、同年代の子より、冷めた目で現実を見ている。だから少しだけ話しやすい。
「私達を普通の人として扱ってくれる方がおかしいんだよね」
ティーナは俯き気味で言ってから、私を見た。
「アリスさんのお得意様のフラットさんって、どんな人?」
いきなり彼の名前が出たことに、少し心臓が跳ねた。
「どうして?」
「エミリさんが言ってた。他のお客さんと違うって。なんていうか、愛されてる感じがしたって。また指名してほしいって。恋する乙女みたいな目で」
「そうなんだ」
「私は、そんな客がいるなんて信じられないから信じてないけど。多分、エミリさんがそういう気分だっただけとか、現実逃避したくてそう思ってるだけじゃないかなって。アリスさんはどうなの?」
「どうって?」
「その人に抱かれて、愛情を感じたことある?」
「ティーナの中の愛情って、どういうもの?」
「知らない。アリスさんは知ってる?」
「正解は知らないけど、私は、我慢することだと思ってる」
「フラットさんの愛情を感じたことはある?」
「ないよ。一度も」
「他の客と一緒?」
「ううん」
「なんで?」
「なんでだろう」
少し考えるフリをした。
「あの人が、初めての客だったからかもね」