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「そろそろ部屋に戻るよ」
「では私もそうします」
椅子を立つ。アルフィンも腰を上げた。それぞれ代金を払ってから、出入り口への階段をアルフィンの後ろについて上っていく。足を踏み外す心配はないくらいに、すっかり酔いは冷めていた。
ドアが開かれる。
冷たい風。
近くから聞こえる音。
両足が地面に着く音だ。
そう気付いたのと、どっちが早かっただろう。
驚愕の表情を浮かべたアルフィンの顔が後方へ弾け飛んだ。
銃声。
壁に背を当てて、銃を抜く。
一瞬、アルフィンを見た。額に空いた穴。血、脳漿。もうどうしようもない。
息を殺す。アルフィンを撃った何者かは僕の存在に気がついているのだろうか。
微かな声。逃げるよう指示する声は、少し高い位置から聞こえた。宿の見取り図を頭の中で展開する。この上の階にある部屋。姫様の部屋だ。
「おい! 今の音はなんだ!?」
階下から店主の声。
犯人らしき人影が駆け出す。人らしきものを抱えていた。影しか見えないが、間違いない。姫様だ。
追いかけようと飛び出す。足元に被弾。そちらを向くと同時に、人影が地面に降りた。
銃口を向ける。
「ま、待ってください!」
引き金を引く寸前。聞き慣れてはいないが、覚えのある声だった。
「も、申し訳ありません。敵の一味かと」
王子の遣いのうちの一人だった。手には銃。背後の壁には、姫様の部屋から垂れ下がったロープ。
「そ、それより一大事です! 姫様が賊に――――」
引き金を引く。正確に眉間を打ち抜いた。
階上で誰かが顔を出した。銃を向ける。しかし、声で隊長だと分かった。よく知らない僕のことを嫌っている、信頼に足る人物だ。
姫様がさらわれたことを伝える。何かを投げ渡された。車のキーだ。
宿の横に停めていた車に乗り、人影が逃げた方向へ急発進する。
あっという間に村を抜けた。広がる草原。遠くへ走り去っていく一台の車。
折れるほどにアクセルを踏み込む。車体が跳ねる。平地に見えて段差は多いようだ。相手の車もかなりのスピードで走っていたが、それでも徐々に距離は詰まってきた。
後部座席に人影が一つ。姫様なら有り難いけど、さっき見た感じではおそらく手足を縛られていた。あんな風にお行儀よく座らされているとも考えにくい。
案の定、後部座席から身を乗り出す人影。手に持っているものまでは見えないが、予測するまでもない。
頭を低くする。銃声。フロントガラスに小さな穴。そこから広がる無数のヒビ。
さらに数発。フロントガラスが真っ白になり、崩れるように割れた。俯いてガラス片を避ける。でもハンドルから手を離すわけにもいかず、両手の数カ所と頭頂部の辺りに熱を感じた。
大した間もおかずに銃声は続く。
銃の予備があるのだろうか。
右のタイヤがパンクした。
右手を伸ばし、助手席に放り投げていた銃を掴む。頭は低くしたまま、ハンドルを肘で挟んで固定し、両手で銃を構える。ハンドルの隙間から狙いを定める。両肘を動かして微調整。銃声は続いている。ライトは既に壊れている。助手席に穴が空く音。ハンドルを掠る。シートの頭を置く部分に穴が空く。
引き金を引く。
外れた。
再度撃つ。
当たった。ツイてる。
人影は、顔を仰け反らせて車内に崩れ落ちていく。
他の人影は見えない。いや、微かに人影が見えた。後部座席中央付近。動いている。不自然な動き方。姫様だ。
再びアクセルを踏み込む。
併走するかたちになる。
運転席にいたのは王子の遣いではなかった。見知らぬ男。助手席には誰もいない。
銃弾は三発残っている。でも撃ち殺すわけにはいかない。こんな足場の悪い場所で、このスピードの中でハンドルが自由になれば、事故になる可能性は決して低いものではない。
姫様が助手席にいれば、ハンドルの心配はなかったんだけど、そこまでうまくはいかない。
村からは大分離れてしまった。隊長達が追ってこれるかも怪しい。向かっている先は、こいつらの本拠地だろう。もたもたしていると、いつの間にか四面楚歌もありうる。
後部座席に、再び動く人影。さっきよりも、人の影に近くなっている気がした。そう。手だ。一瞬、自由な両手が見えた。姫様じゃないのか? それとも――――。
銃声。右肩を掠める。ハンドルから僅かな間だけ手を離して発砲したらしい。敵ながら見事な腕前だった。
肩を抑えながら睨む。
男は蛇のように笑っていた。
その笑顔が凍る。
後頭部に突きつけられた銃によって。
銃を持っているのは姫様だ。その手足は既に自由になっている。銃を突きつけたまま、男の銃を奪い、後部座席に放った。
両者の口が動く。車を止めるように言っているのだろう。
男の口に笑みが浮かんだ瞬間、銃声が響いた。左手が撃ち抜かれていた。
再び会話。
銃声。おそらく、左足だ。僕ならそうする。
車の速度が緩やかに落ちていく。
完全に停車。周囲を確認。大丈夫。人が隠れるような場所はない。
車から降りて、相手の車へ駆け寄る。男は、銃を突きつけられたまま開いた窓から顔を出している。顔全体から脂汗が噴き出していた。
ドアを開く。男は地面に倒れ込んだ。その背中に銃弾を撃ち込む。三発全て。
死んだことを確認してから、後部座席を覗く。王子の遣いの一人が倒れていた。銃弾は右目から後頭部へ貫通したらしい。座席には小型のナイフ。これで拘束を解いたのだろう。
二体の死体を地面に並べてから銃を取る。遣いの方は、他に三丁も隠し持っていた。
運転席を覗き込む。姫様はまだ銃を構えたままだった。その銃を掴み、取り上げる。
「救出が遅れて申し訳ありません。お怪我はありませんか」
頷きが返ってきた。
「追跡中に一人を射殺。車を止めることに成功したが、銃撃戦となる。途中、背中を見せて逃亡しようとしたところを射殺。報告はこのように行います。姫様は、何もしていません。縛られたまま後部座席にずっといました」
頷く。その時、頬に血が滲んでいることに気がついた。
「姫様、その頬は――」
「え?」頬に触れる。指先に僅かに血がついた。
「部屋の窓から地面へ降りる時かもしれません。何度か、顔が壁に当たっていたので」
「そうですか」
振り返り、取り上げた銃を構える。撃つ。四発残っていた。四度、遣いの死体が跳ねた。
空になった銃を捨てる。姫様に助手席に移動してもらってから、運転席に乗り込んだ。ところどころ血や体液が飛び散っていて異臭がするが、車体のダメージはこちらの方が低いだろう。
発進する。道は覚えていない。タイヤの跡を辿って走らせる。さっきの奴らの本拠地が近くにある可能性を考えると、あそこに留まるのは得策ではないだろう。
段差を考えて、ゆっくりと走らせる。さっきまでと比べると歩いているような感覚だった。
「貴方の手当てをしないと」
「心配ありません。血も収まってきています」
「アルフィンは?」
「おそらく、助かりません。即死だったと思います」
「そう、ですか」
悲しげな言葉。表情。笑みが浮かびそうになった。なんて不謹慎な人間だろう。
「連れ去られる時は、とても怖かった。アルフィンが撃たれてしまった時はとても悲しかった」
嬉しかった。彼女の成長を最後に見ることができて。
「その後も、ずっと悲しかった。もしかしたら、もう二度と貴方に会えないのかもしれないと思って」
笑みが、引いた。
「私が王子様と結婚した後も、すぐ隣の国ですし、一年に一回、半年に一回は会えますよね」
姫様は笑みを浮かべて言う。
胸が締め付けられる。鎖が引っ張られているんだ。姫様は気付いてしまった。お互いの心が繋がれていることに。だから、覚悟が、消えかかっている。駄目だ。誤魔化さないといけない。心など繋がっていない。その鎖の先には何もないと思わせるんだ。
「貴方が来てくれて、とても嬉しかった」
そっと身を寄せてくる。ハンドルを掴む右手に手を重ねる。肩に寄りかからないのは、傷を気にしているのだろう。彼女は、そんな気遣いも出来るようになったんだ。甘い匂いに気が狂いそうになる。僕は何故車を運転しているのだろう。村に帰るためか、この場を離れるためか、それとも、我を忘れないよう身体を制するためか。この両手は、ハンドルを離したらどこへ向かうだろう。何に触れるだろう。何を掴むだろう。
現実に。
現実に、戻ろう。
きっと僕は、適度に酒を飲んだ時みたいな、未来の話をする時みたいな、夢と現の間の世界にいる。アルフィンを殺された時から、ずっと。
熱を冷ます。少し、気分が悪くなった。
そうだ。アルフィンだ。彼女は言っていた。
――それなら、貴方の気持ちを伝えてください。彼女はまだ、愛というものを理解できていないんです。だから、貴方の態度や言動を、そのままの意味で受け取ってしまう。
アルフィンの最期の望みだ。叶えよう。
「姫様、手を、離してください」
「何故ですか?」
僕の想いを伝える。それが、姫様との、決別の言葉になるから。
「このままでは、僕は、貴女を殺してしまいます」
前だけを見た。姫様がどんな表情をしているか、分からないように。
手を掴む力が、一瞬だけ緩んだ。でもまた、さっきよりは弱い力で掴んだ。
「貴方は、そんなに、私のことが嫌いですか?」
答えない。答えられないのかもしれない。
「ではなぜ、私を助けたのですか?」
「貴女が姫様で、僕が兵だからです」
「本当に、それだけなのですか?」
答えない。
「どうしてこんなに貴方に嫌われてしまったのか、私には分かりません。いくら考えても、記憶を詳細に辿っても、思い当たらないのです」
「分かりませんか」
「そう。分からないのです。教えてください。出会った頃のように」
答えない。
「答えてくれないのなら、何故私に正しい愛など教えたのですか? 本当の愛を知れば知るほど貴方が愛おしくなる。でも貴方は、私が求めれば求めるほどに離れてしまう。こんなに苦しいのなら、私は、間違ったまま、貴方と生きていたかった」
「姫様」
「名前で呼んでください。昔のように。私も貴方のことをラナンと――」
左手で、姫様の手をそっと剥がす。
「僕は、ラナンじゃありませんよ、姫様」
甘い匂いが離れていった。代わりに、血と体液の匂いがした。
あと少しだけ、雨の匂いも。