3
国境を越えた。昼食を済ませた一時間後のことだった。これで、予定の半分の距離を進んだことになる。
車の外は、依然、荒野が続いていた。賊が身を隠す場所すらないため護衛としては有り難いのだろうが、姫様は退屈なのか、ぼんやりとした表情でカーテンの隙間から外を眺めていた。アルフィンと親衛隊長は昨日と変わらず姿勢良く座っているだけだ。二人とも、自分から口を開くことは滅多にない。アルフィンは目すら閉じている。当然、眠ってはいないだろうけど。
昼食を終えたあたりから眠くて仕方がなかった。眠れない理由は、姫様が手慰みに僕の右手を使っているからだった。マッサージみたいに揉んだり、五本の指先を自分の指先と合わせてみたりしている。何が面白いのかは分からない。面白さは求めていないのだろう。ただ少し、紛らわしていたいだけ。きっとそうだ。僕も少し、何かが紛れるような気がしているから。
そのまま眠っていたみたいだった。カーテンの隙間から差し込んだ夕陽で目が覚めた。
二の腕と肩のあたりに温かな重み。姫様がよりかかっていた。
眠っている。
無防備に。
気付けばキスをしていた。
喉元まで上がってきた何かは唾液と一緒に体内へ戻って、唇に背徳感だけが残った。
我に返る。もしかしたら、とっくに返っていたのかもしれない。自分の行動に対する言い訳が欲しいだけで。
視線を感じた。きっと感覚が鈍くなっていただけで、ずっと向けられていたのだろう。
親衛隊長は目を閉じていた。でも、きっと見ていた。
アルフィンは目を開いていた。子供の頃によく見た、哀れむような目をしていた。
「見なかったことにしてくれる? 姫様にも、言わないでほしい」
返事はなく、ただ、目を閉じた。了解と受け取り、お礼を言った。多分、アルフィンは望んでいなかったけど。
耳元で小さな声。目を閉じる。くっついていた身体が離れた。
「おはようございます」姫様の声。二つの声が向かい側から返ってきた。
「私、どのくらい寝ていましたか?」
「一時間ほど」アルフィンが答える。
「まだ眠っているのですね」
「もう四時間ほどになりますね」
これは僕のことだろうな、と考えていると、再び肩が重たくなった。更に腕に手を回してくる。これで起きないのは不自然かもしれない。
「彼を起こさなくていいのですか?」
その様子を見たからだろうか。珍しく、アルフィンから口を開いた。
「もっと彼と話したいことがあるのでは?」
姫様は小さく笑った。手には、少し力がこもったように感じた。
「話したいことですか。すぐには思い浮かびません。もうずっと一緒にいますから」
「しかし」
「こうして隣に、近くに感じられれば、それでいいのです。それ以上は、私の我が儘に過ぎません」
「そんなことは、ないと思います」
「いえ。分かってはいるのです。この人が、すでに私への興味を失っていることは。昔のような愛情が私に向けられなくなったことも。それでも、こうしていたい。そして、それ以上を望むことを、我が儘以外のなんと呼ぶでしょう」
「それもまた愛情、ではいけませんか」
「ならば、一方的な愛は我が儘と同義なのかもしれませんね。本当の愛をこの人に教えてもらった私がこう思うのなら、きっとこの人も同じでしょう」
アルフィンの困惑している顔が浮かぶ。本当にそんな顔をしていたのだろうか。姫様がくすりと笑った。手の力も、緩くなった。
「そんな顔をしないで。アルフィンが気に病むことじゃないの。イルマ、貴女もよ? 私は、今まで通り、お姫様権限で我が儘を言うだけ。それをこの人が拒むのなら、それは、仕方のないことです。それに、さっきも言ったように、こうしているだけでも十分なのです。いくら嫌われようと、彼と過ごした六年間の記憶だけで、生きていけます」
身体が震えそうになる。声が漏れそうになる。笑いを堪えるのが辛かった。彼女を我が儘というのなら、僕なんてとっくに傍若無人の域にいるだろう。
「姫様、あちらに珍しい動物が」
親衛隊長の声。熱が離れていった。薄く目を開くと、こちらに背を向けている姫様が見えた。
少しだけ、少しだけ、気を緩めた。少し笑えば、それで収まると思ったからだ。
両の口角が上がる。
涙が頬を伝う。
世界で一番、我が儘な涙だと思った。
夕陽が沈む前に宿泊地に着いた。小さな村だった。姫様を出迎えたのはたくさんの村人と、王城から遣わされたという二人の女騎士だった。
昨日と同じように早々と宿を出て、明るいうちに村を回ってみた。店らしき店もほとんどない。そういう店にしろ、今晩泊まる宿にしろ、読める看板の方が珍しいくらいに古い。店名は殆ど分からなかったし、案内板は矢印が指す方向は分かっても、目的地が分からない。そんな案内に従う人間がどこにいるだろう。
少し村を外れると大きな畑があった。生まれも育ちも首都だから断言はできないけど、こういうところを農村というのかもしれない。
飲み屋は見当たらなかった。村の人に聞いてみると、宿の地下が酒場になっているらしい。灯台もと暗しという言葉が頭に浮かんだ。
宿のロビーには兵と親衛隊が二人ずついた。宿に入ると警戒の目を向けてきた。すぐに軽蔑の目に変わった。
ロビーを見回しても階段は見つからない。受付に立っていた宿の主人に訊くと、裏の扉が入り口になっていると言った。
また宿を出て、そのまま壁沿いを歩く。変な方を指している看板の意味がようやく分かった。
例のごとく文字の薄れた看板のかかったドアを開くと、いきなり階段があった。暗いわけではないけど、酔っ払いが足を踏み外して落下する事故が月に一件は起きていそうだ。階段を降りると、またドア。騒ぎ声が聞こえてくる。五月蠅いのは好きじゃない。飲むなら静かなところがいい。
ドアを開く。一瞬のうちに喧騒に包まれた。思っていたよりも広い店内にいるのは殆どが男。女は三人しかいなくて、その全員が店員のようだった。
カウンター席が空いている。小さな村だ。一人で飲みにくる客などいないのだろう。視線を感じながら一番隅のカウンター席に座る。
「あんた、護衛の兵士さんかい?」
向かいに立った店主らしき男を見上げる。
「やっぱり顔だけで村人じゃないって分かるんだ」
「そりゃあそうさ。いいのかい? 護衛が酒なんか飲んで。誰も来ないから、駄目なのかと思ってたんだがね」
「口止め料を払った方がいい?」
店主は笑う。
「いらんよ。酒をくれと言われれば出すのが酒場だ」
その酒場は意外と快適だった。騒がしいことは変わらなかったけど、そんな中だからか、店主とのゆったりとした会話が心地よかった。
店主はもともと首都に住んでいたらしい。もちろん、僕が住んでいる首都ではなく、こちらの国の首都だ。そこで今の奥さんと出会い、結婚を機に奥さんの故郷であるこの村へやってきたという。
「あれが家内だ」と言って、女店員の一人を指差す。なるほど、もっと若く見えたが、店主と同じくらいの歳に見えなくもない。
「ということは、他の二人はマスターの子供?」
「あぁそうだよ。もしかして狙ってたかい? そりゃあいくら兵士さんでも許せないな。二人ともまだ未成年だからね」
「それは残念。歳はいくつ?」
「四十三」
「マスターじゃなくて」
「あれが十七。もう一人が十六。下の子はお姫様と同じ歳じゃないかな」
「うん。でももうすぐ人妻だ」
「こっちの王子がもう三十近いとはいえ、やっぱり早いね」
「その前に色々あったからね。王子も年齢的に焦ってるんじゃないの?」
「それだけかね。実際にお姫様を見たら、本当の理由が分かった気がするよ」
「他の大国に目を付けられる前に、さっさと自分のものにしておきたいってこと?」
「あんたも男なら分かるだろう?」
「まぁね」
「しかし、そっちの王様もよく決断したものだね。国同士の色々はあるんだろうけど、十六の娘を嫁に出すなんて不安で仕方ないだろうに」
「そうかな」
「あぁそうさ。兵士さん、結婚は?」
「独身」
「なら子供が出来れば分かるよ。何をするにも心配なんだ。男親で女の子なら余計にね」
「それは、マスターがいい親だからだよ」
「おだてたって代金はまけないよ」
「それは残念」
おだてたってわけじゃあないけど。
「お姫様はどうなんだい? やっぱり不安がってはいるんだろう?」
一瞬考えて、首を横に振った。
「姫様の心までは分からないよ」
他人の内心なんて分かるわけがない。それこそ、本人から聞くしかないし、もしかしたら本人すら分かっていない可能性だってある。
夕方のことを思い出す。姫様の言葉が本心だと誰が証明できる? 結婚が嫌で、不安で、身近なものに依存して気を紛らわせているだけかもしれない。
だけど同じように。
誰が、あの言葉を本心でないと証明できるだろう。
本心でないと、得をするのは、楽になるのは誰だろう。
思考を止めて、酒を呷る。酔っても、周りの人みたいに気分がよくなることはない。どちらかというと気分が悪くなる。
でも、その寸前の、ぼんやりとした感覚が好きだ。夢か現かも分からない世界。全てが遠い。自分すらも。手を伸ばしたところで、何にも届かない。触れられない。何もなくて、とても優しい世界。
その世界は、いとも容易く壊れる。酔いが回るか、あるいは誰かに話し掛けられるだけで。
「大分酔っていますね」
ぼんやりしたまま斜めに振り向いて見上げる。アルフィンだ。エプロンドレスではなく私服姿だった。何も言わずに隣に座る。
「いらっしゃい。飲み物は?」
店主が近付いてきた。きっと、今までは様子を伺っていたのだろう。
「すみませんが、ノンアルコールのものを」
「紅茶でいいかい?」
「お願いします」
「はいよ」
その場を離れてから、近くにいた次女を呼び寄せる。こんなところに紅茶なんか置いてないだろうから、誰かが日常的に飲んでいるものなんだろう。
「何か用? まさか今日もお呼びってわけじゃあないよね」
「元々はその予定でしたが」
「だろうね」
姫様を迎えにきてくれた二人には感謝するべきだろう。あぁ、でも彼女達を遣わせたのは三十路近い王子様なのか。
「今日は飲むだけですか?」
「残念ながら。父親の前で口説く勇気はないよ」
「なるほど」
アルフィンは、次女が消えていった店の奥と、少し離れたところでグラスを磨いている店主を見た。
「それに、もう同乗することはもちろん、話をすることだって、きっとない。それを考えたら、必要はないよ」
「そうですか。もし必要なら、私がお相手しようかと考えていたのですが」
視界の隅で店主の手の動きが僅かな間止まった。話が聞こえていたらしい。娘さんを狙っているような発言も聞こえてしまっただろうか。
少し、隣を見た。アルフィンは僕を見ていなかった。だから、僕も、酒が少しだけ残っているグラスに視線を落とした。
「君は――――、その、僕の味方じゃあないと思っていた」
「一番ではないだけです」
「そっか。ちなみに何番くらい?」
「一・二くらいです」
「一・一じゃないんだ」
「マイナスポイントがあるので」
「どこ?」
「一時間ほどお時間をいただければ」
「やっぱり遠慮するよ」
カウンターの奥のドアが開いて次女が出てきた。手にはティーカップ。こっちに来ようとしたところを店主が呼び止めてカップを受け取った。
熊みたいな店主が花柄の小さなティーカップを持っている。不安になる光景だった。その気はなくとも、壊してしまいそうで。
「おまたせ」
アルフィンの前にカップが置かれる。次女を呼び止めたのは、やっぱりさっきの会話を聞かれていたからだろうか。カップから漂う湯気を見ながら、なんとなくそんなことを考えた。
店主はアルフィンに話しかけていた。話題は、仕事のこと、この村のこと。盛り上がりのない僕らのやりとりを見かねてか、それともさっきの会話で興味を持ったのか。ただ単にアルフィンが美人だからかもしれない。心なしか、僕の時より口調が優しい。
「えぇっと、二人は? ただの同僚には見えないがね」
「ただの同僚ですよ」
アルフィンが笑みを浮かべてからカップを口に運ぶ。いちいちが酒場に似付かわしくない仕草だった。
「美味しいです」
「そりゃあよかった」
店主を呼ぶ声。店主は返事をしてから、ごゆっくり、と言って背を向けた。
「ただの同僚に見えないらしいですよ」アルフィンが言う。
「同じ年頃の男と女が一緒にいたら、そうなんじゃない?」
「それだけですか?」
「多分ね」
「本当にただの同僚ではないからでは?」
「きっと関係ないよ。僕らが兄妹でも、友人でも、恋人だったとしても、同じ風に訊かれたと思う」
「そうでしょうか」
「うん。それに僕らは、ただの同僚だよ」
「そうですね」
少し、気分が悪くなってきた。酒が回ってきたのだろう。手に持っていたグラスを置く。氷が小さく鳴った。
「このままでいいんですか?」
小さな声。でも、氷の音よりは大きかった。どうせなら、掻き消してくれればよかったのに。
「なにが?」
「このまま、もう二度と会えなくてもいいんですか?」
「誰と?」
質問の応酬。答えは、どちらも口にしない。僕もアルフィンも、答えを求めての問いではないことは分かっていたから。
アルフィンはまた紅茶を口に運んだ。優雅で上品。でも、いつもと比べて少し動きが早いように思えた。
「怒ってる?」
今度は、答えを求めた問い。返事はなかった。でも、それも一つの答えになっていた。蛇が出ると分かっていて藪をつつく必要はない。グラスを手にとって、軽く振る。小さくなった氷が、さっきよりも小さな音を立てた。グラスに入っている半分は水になっただろう。それでも飲む気にはならない。まだ気分は悪い。近くにきた長女に水を頼むと、すぐに持ってきた。一口だけ含んで、ゆっくりと喉を通す。随分と冷えた水だった。頭の熱が引いていく感覚。いつの間にか、頭に血が上っていたらしい。気分も、少しマシになった。言葉を選びながら口を開く。
「前から決まっていたことだよ」
「もう覚悟はできているということですか? 貴方はそうかもしれませんが――――」
「あるべきものが、あるべき場所に還るだけなんじゃないかな」
アルフィンは口を噤む。
「いや、もともと、傍にあるって僕が勘違いしていただけなのかもしれない。自分を天才だと思っている凡人、大金を手に入れて貴族になった気でいる平民みたいに」
何も残らないという末路まで同じだ。
「その言葉、私以外には、絶対に言わないでください。そんな、あの方の気持ちどころか、これまでの日々すらも否定するような言葉は。貴方という存在が、貴方との日々が、彼女にとってどれだけ支えになっているか、分かりませんか」
「分からないよ。僕は、人の心を理解できるような人間じゃない」
「それなら、貴方の気持ちを伝えてください。彼女はまだ、愛というものを理解できていないんです。だから、貴方の態度や言動を、そのままの意味で受け取ってしまう」
「それでいいんじゃないかな」
運命の赤い糸という話を聞いたことがある。結ばれる運命にある二人の小指は赤い糸で繋がっている、という話だった。糸程度なら、簡単に引きちぎることができる。でも、いつからか、それは鎖に変わる。それも、小指ではなくて、心臓に巻きついた鎖だ。離れようとしても離れられない。それこそ、心を置いていかないかぎりは。
しばらく黙っていた。僕もアルフィンも、飲み物に口を付けることすらせずに。
「お二人さん、夕飯は食べたのかい?」
カウンターに戻ってきた店主の問いに否定で返す。アルフィンもまだらしい。
「うちで食べてくかい? お姫様が来るってんで宿じゃあ良い食材を仕入れたみたいだが、料理の腕ならうちの店が上だよ」
「それなら何か食べようかな」
「メニュー見るかい? 要望があれば、こっちで適当に作るよ」
「脂っこくなくて、あっさりしたものがいいな」
「はいよ。お嬢さんはどうする?」
「同じものを」
「二人とも、嫌いなものは?」
「ありません」
「僕も」
「はいよ」
背を向けて店の奥に入っていく。
「戻らなくてもいいの?」
「構いません。今日の担当は別の方ですので」
「でもさ、アルフィンにいてほしいんじゃないの?」
視線を感じた。隣を見ると、無表情と目があった。
「まぁ、僕が言えたことじゃないけどさ」
「分かってるなら言わないでください。こんなところで声を荒げるような真似はしたくありません」
「なら、違う話をしよう。他愛もない話を」
アルフィンは答えなかった。結局、夕食の間も黙ったままで、ようやく口を開いたのは、デザートのアイスクリームが運ばれてきた後だった。
「この任務の後は、どうされるんですか?」
スプーンを掴もうとしていた手を止めて、テーブルの上に置いた。アルフィンの両手は膝の上に置かれたままだ。室内は暖かいし、早く食べないと溶けてしまうだろう。
「考えてないよ。前隊長には、城に居場所はなくなるって言われたけど」
「ノイエス隊長が」
「うん。一昨日の朝にね。君はどう思う?」
「そうなる可能性は高いと思います」
「まぁ、そっか。だからこそ、さっきの質問なわけだ」
スプーンを手にとって、早くも表面が溶け始めたアイスをすくって口に運ぶ。甘いものは好きだ。
「まだ何も考えてないよ。ただ、前隊長に、自分の田舎に来ないかって誘われてる」
「そうなんですか?」
少し驚いたように僕を見た。
「うん。家も仕事も用意してくれるって」
「そうですか」
もう質問はないようだった。もう一口食べて、僕から問う。
「なんでそんなことを?」
アルフィンはまた答えなかった。さっきの短いやりとりで、また怒らせてしまったのだろうか。
アイスを食べ終えた。空になった皿を、アルフィンが横目に見た。
「私の分も食べますか?」
「いいの?」
「はい」
アルフィンは小皿を僕の前に移動させる。既にかなり溶けていたから、少し早めのペースで食べる。
「私に出来ることは、もう、なにもないんです」
呟くような声。俯き気味。口元には笑みらしきものが浮かんでいるように見えた。
「本当なら、今日は無理矢理にでも、それこそイルマさんにお願いしてでも、貴方を捕らえるつもりでした。明日だって、首都に着く前に、二人きりの時間をつくる予定でした。それが、お二人のためになると。でも、それも、もう、かないません」
アルフィンは、ゆっくりと、はっきりと話す。
「迎えだって、事前に、不要と言っていました。相手方も納得されて、遣いは送らないと約束されたんです。まさか、こうも簡単に反故にされるとは思いませんでした」
そんなことをいう権利がないのは、彼女も分かっているだろう。僕らは、恋人、夫婦間の決めごとで、もっともしてはいけないことをしようとしていたのだから。だからこうして、当事者同士で愚痴をこぼすしかない。
「少しだけ酒でも飲んだら?」
考えるような沈黙の後、アルフィンは首を横に振った。彼女は真面目だ。しかも堅物ではない。僕や姫様が、彼女に何度助けられたことか。それを考えると、お礼を言いたくなった。でも言わなかった。きっと彼女は聞きたくないだろうなと思ったから。
「この任務が終わったら、僕は前隊長にお世話になるよ」
気付けば、そんなことを口にしていた。アルフィンは驚いた顔をした。僕も、内心驚いていた。口から出た言葉が、まったくのでまかせではないことに。
いつの間にこんなことを、そんな先のことを考えていたのだろう。記憶を探る。多分、昼間。車の中でぼんやりしていた時だ。何故だろう。今まで考えもしなかった未来のことを、なんであの場面で考えていたのだろう。
「そうですか。確かに、それが一番いいと思います」
「君は? この先、どうする?」
「私は、変わりません。これ以外の生き方も知りませんから」
「そっか」
それからは、何を話しただろう。前隊長が紹介してくれる仕事はなんだろう、とか、田舎ってどんな場所だろう、とか、未来の話――今考えても、何の意味もない話ばっかりしていた気がする。でも、退屈ではなかった。むしろ新鮮だった。未来の話をするのがこんなに楽しいことを、僕は知らなかったんだ。
話は弾み、夜が更けた。家庭がある人が殆どだったんだろう。騒がしかった店内は、すっかり静まり返っていた。僕とアルフィンも、久し振りに口を閉じた。
あぁ、そうか。僕らは、今を見たくないんだ。
不意に気付いて、自嘲した。アルフィンも同じように笑った。彼女も気付いたのだろうか。それとも、最初から分かっていたのだろうか。
なんて滑稽な存在だろうか。僕らは。