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黎明と踊る  作者: 野良丸
朝の章
1/23

1

――まだ起きてる?

――うん。どうかした?

――眠くなるまでお話してもいい?

――いいよ。ただし、もう真夜中だ。小さな声でね。

――あの、昼間に噂話を聞いたの。

――噂話?

――うん。お姫様が、死んじゃったんだって。











 貧民街を抜けると雰囲気が一変した。街灯すら消えた夜の闇も、冷えた空気も、立ち込める霧も同じ。大した変化はない。しかし何故だろう。長く閉ざされていた部屋から出た時のような気分だった。原因として思い当たるのは匂いくらいだろうか。貧民街は人の匂いがそこら中に漂っている。

 灯りの消えた街灯の下で足を止めて、両の二の腕に鼻先を近付けてみた。自分の匂い。それから微かに、他人の、甘い匂いがした。嫌ではない。むしろ心地よかった。睫毛に付いた水滴を拭い、白い息を吐いてから再び歩き出す。手はコートのポケットの中。

 真夜中と早朝の間のような今の時間では大通りすらも静まり返っていた。人っ子一人見当たらない。コツコツという僕の足音だけが響いた。

 たまに食事を取ることがある定食屋やレストランの奥に灯りが見えた。下拵えというやつだろうか。料理にはまるで詳しくないから、何をしているのかすら想像がつかない。もしかしたら単に電気を消し忘れただけかもしれない。

 大通りに面しているにも関わらず、どこかひっそりとした雰囲気を醸し出している骨董屋、時計屋などは完全に消灯されて、ショーウィンドウはカーテンで遮断されている。ああいうものは、こういうひっそりとした暗闇の中で見た方が映える――というより、らしいと思うから、少し残念な気持ちになる。ただ、カーテンの向こうで時計は動き続けているらしく、硝子に近付いて息を潜めるとカチカチと小さな音が確かに聞こえた。そのあまりの心地よさにゆっくりと目を閉じた。

 そのうちに立っていることさえ億劫になって、ショーウィンドウに背を預け、両足を伸ばして座る。

 地面は空気の何倍も冷たかった。尻が冷たい。両の掌も冷たい。でも心地いい。睫毛に付いた水滴は、もう気にならなかった。

 意識が堕ちていく。霧の中で。


 何か聞こえて、目が覚めた。最初に見えたのは人の顔。壮年の男だった。後ろには三輪の自転車。前籠を見て、彼が新聞の配達員であることが分かった。

「大丈夫か?」

 彼に焦点を合わせて頷く。

「酔っ払って、寝ていたみたいだ」

「すっかり身体が冷えてる。早く家に帰って暖まった方がいい。立てるか?」

 頷き、立ち上がる。手足の先の感覚が曖昧だけど、口にするほどのことでもないだろう。

 そんな僕を見て安心したのか、男は目尻を軽く下げてから自転車へと戻っていく。跨って、再び僕を見た。

「つい飲み過ぎちまう気持ちは分かるけど、気ぃ付けろよ。この時期、運が悪けりゃ凍死しちまうぞ」

「助かったよ。ありがとう」

 礼と別れの意味で右手を顔の横まで上げると、彼は人差し指と中指を揃えて額に当てた。同僚の誰かが同じような仕草をしていた気がする。誰だったかは思い出せない。

 そこで、周囲が明るいことに気が付いた。霧もうっすら残っているだけでほとんど晴れている。太陽の位置を見るに、二時間程度寝ていたのだろうか。振り返ってみるけど、相変わらずカーテンが閉まっていた。

 出発は何時だったっけ、と歩き出しながら考える。ぼんやりとした頭でしばらく考えていると、AM九時という言葉が浮かび上がってきた。僕のスケジュールなんてそれぐらいだから間違いはないだろう。

 眠る時間はなさそうだ。車の中で眠ってもいいだろうか。多分大丈夫だろう。嫌な顔はされるかもしれないけど、眠っていればそんなものは見えない。

 両手をポケットに入れてから、ふと思って、二の腕の辺りを嗅いでみた。湿った匂い。僕の匂いも、他人の匂いもしなかった。




 城に着くと、軽鎧を身に付けた兵士が一人、門前に立っていた。

「朝帰りか。羨ましいな」

 そう言いながら門の右下にある小さな扉を開けてくれた。

「お疲れ様」

 扉をくぐって、兵士の宿舎がある尖塔へ向かう。無臭の身体が、少し汗臭く、男臭くなりそうで気は進まなかった。

 尖塔の扉に手を掛けた時、背後から小さな足音が聞こえた。駆け足だ。

 振り返ると、そこにいたのはアルフィンだった。エプロンドレスにヘッドドレス。聞いたことはないけど、歳は僕と同じか少し下くらいだと思う。

「おはようございます」

 臍の辺りに両手を重ねて恭しくお辞儀。そういうのは王族の人達にとっておけばいいのに、と思った。

「おはよう。何か用?」

 彼女は僕をじっと見た。でも目は合わなかった。黒い瞳が見ていたのは、僕の顔だったから。

「失礼します」と言って、左手首を掴まれた。暖かなポケットから引きずり出され、そこでようやく指先の感覚が戻っていることに気付いた。

 しかしそれでも、まだまだ冷たかったらしい。包み込むようにして僕の手に触れた彼女の目が少し見開いた。

「もしよければ、食堂で朝食になされますか? 暖かいスープもありますが」

「いいの?」

「はい。今は使用人達が朝食をとっていますし、あと一時間もすれば兵士の方々もいらっしゃいますから」

 そう言われれば断る理由はなかった。宿舎に戻っても、ホールでストーブに当たるか、部屋でベッドに潜り込むしかないのだから。

「長い間、外に?」

 食堂に向かう途中、彼女は少しだけ振り返って訊いた。

「三、四時間くらいかな」

「体調は大丈夫ですか?」

「うん」

「一応、朝食後に診てもらってください。連絡はしておきますので」

 面倒だが、断っても無駄だと分かっているので頷いた。

 城の隅に位置する食堂には、聞いたとおり多くの使用人達がいた。エプロンドレスと燕尾服の比率は九と一。私服姿は僕だけだった。

 二十メートルはあるだろうテーブルが二脚。それを囲んで食事を取る姿は、遥か上空から見下ろしたらお菓子に群がる蟻の大群に見えそうだ。

「こちらへどうぞ。料理をお持ちします」

 アルフィンは比較的空いている場所を掌で示した。

「君は食べないの?」

 立ったまま問う。

「頂くつもりです。ご一緒しても?」

「もちろん」

 微笑んで見せる。笑みは返ってこなかった。一つ頭を下げ、背を向けて歩き出した彼女を見送ってから椅子に座る。これで僕も蟻の仲間入りだ。毛色は少し違うかもしれないけど。

 朝食後、アルフィンに言われた通り医師の元へ向かった。城を出て、庭にぽつんと立っている立派な小屋に向かう。まぁ、立派というのは馬小屋と比べればの話だけど。

 ノックをしても返事はなかった。連絡したと言っていたから、寝ているということはないと思う。引き戸に手を掛ける。鍵は閉まっていなかった。

 奥に入っても誰もいなかった。

 先生は基本的にひきこもり気質だから、簡単な診察ならここで済ませてしまえるよう器具や診察台が置かれている。人が住んでいる家というよりは、田舎の小さな診療所のような内装だ。掛け布団と毛布がくしゃくしゃになった診察台に腰掛ける。室内に立ち込めるつんとした匂いは薬品のものか、それとも先生の加齢臭か。ストーブのもわっとした熱が匂いを倍増させている気がする。

 しばらく待った。何もしないでいるのは嫌いじゃない。引き戸の開く音。続いて、先生が入ってきた。

「来てたのか」

 僕は頷いたけど、先生は帽子を取ったりコートを脱いだりしていて見ていなかった。長い白髪が露わになる。コートの下に白衣は着ていなかった。よれよれの服。多分寝間着だ。

「こんな時間から外にいるなんて珍しいね」

「花に水をやってきたんだ」

「あぁ、なるほど」

 立ち小便をしてきたらしい。前に使用人に見つかって怒られたのに、まるで懲りていない。

「で、どうした。えらく久しぶりだが、外傷か?」

 ゆっくりと椅子に座りながらの問いに首を横に振った。

「まさか。連絡はきてないの?」

「きたが、詳しいことは聞いとらん」

「朝帰りしたら、アルフィンに医者に行けって言われたんだ」

「性病の検査なら他を当たってくれ」

「違うよ。風邪をひいたんじゃないかって心配してるみたいだ」

「相変わらずお節介な嬢ちゃんだな」

 僕は肯定も否定もせずに先生の隣の椅子に座った。やせ細った指が顔に伸びてくる。この手に、何度命を助けられただろう。

 ぺたぺたと顔を触り、目を見て、喉を触られた。口の中を見たときに朝食のメニューを当てられた。

「今のところはなにもないな。薬は持って行くとして、今は予防薬でも飲んでおくか?」

「じゃあ、一応」

「少し待ってろ」

 先生は戸棚に向かい、数種類の薬草らしき名前をぶつぶつと呟いている。その背中を眺めていると、目当てのものが揃ったらしく、今度はそれらを器に入れて摺り潰しはじめた。

「ま、最後に風邪っ引きってのも格好つかねえか」

「風邪を引いていなかったら格好がつくかな」

 問うと、先生の手が一瞬だけ止まった。おかしな問いだっただろうか。何も考えずに口から出たものだから、何気ない問いといっていいと思う。でも、先生は何も答えなかった。

 薬をもらって小屋を出た。出発まで部屋にいようと宿舎に向かっていると、城の方へ歩く二人の男の姿が見えた。隊長と副隊長だ。二人とも当然ながら護衛に任命されている。最終的な話し合いとかがあるのかもしれない。二人は僕に気付かなかったのか、気付かないフリをしたのか、こちらに顔を向けることはなかった。なんとなくほっとしながら、再び歩き出す。

 宿舎のホールのソファや椅子は全部埋まっていて、朝から賑やかだった。そしてやはり、どこか汗臭かった。

 壁に沿って歩く。挨拶してくる変わり者が数人いたけど、大多数は気付かないフリをして顔を逸らす。露骨に顔をしかめる奴もいる。今朝の門番みたいに、一対一なら一言二言交わすこともあるけど、人の数が増えるとこうなる。みんな、縛られている。人を縛って、人に縛られて、がんじがらめになって何も出来なくなる。

 部屋に入って、小首を傾げた。誰もいないはずの部屋に人がいたからだ。窓の外を見ている。こちらに背を向けているから顔は見えない。老人と思ったのは白髪頭だけが理由で、身体つきはがっしりしていて、僕よりも背が高くて逞しい。その背中には見覚えがあった。

「隊長?」

「元、隊長だな」

 そう言って、彼は振り返った。

 老けた、と真っ先に思った。彼が退役してから三年くらいしか経っていないのに、不思議だ。サンタクロースみたいな髭のせいかもしれない。

「久し振りだね」

「はい」

 一脚しかない椅子を彼に勧めてから、ベッドに腰掛ける。椅子に座っても、やっぱり彼は大きかった。

 しばらく、彼に合わせて他愛のない話をした。僕や姫様の様子、隊長や副隊長の仕事ぶりなどを話した。宿舎でこんなに口を開いたのは、随分と久し振りだった。それこそ三年ぶりかもしれない。

 話が一段落した時を見計らって訊く。

「今日はどうされたんですか? 王に会いに?」

 十中八九そうだろうと思っていた。彼と王は友人だと聞いたことがあったからだ。でも、彼は首を横に振った。

「今回は、君に会いに来た」

「僕に? 何故?」

「これからのことについてだ」

「これから」

 復唱する。そうして、彼がしたいのは、今から先の話、未来の話なのだと理解した。

「今回の任務が終わったら、君はどうするつもりだ?」

 今回の任務が終わったら。

「特に考えていません」

 正直に答えた。嘘を吐く理由も、必要もない。

「今のまま兵を続けることは、おそらく難しいだろう。君の役目は、もう終わる。君を守る者もいなくなる」

 誰かに守られていたなんて初耳だ。利用されているだけだと思っていた。

「君がよければ、私の田舎にこないか? 田舎といってもそこまで不便な場所ではないし、とりあえずの家や、仕事だってなんとかしてやれると思う」

 彼の話を聞きながら、僕は少し混乱していた。

「何故、僕にそんなことを?」

「君には幸せになってほしい」

 彼は真っ直ぐに僕を見ていった。

「自分のことを考えてほしい。自分の幸せを掴んでほしいんだ。君は十分過ぎるほど、人に尽くした」

「今を不幸だと思ったことはありません。恵まれているとすら思います」

「それは、姫様がいたからではないのか?」

「どういうことでしょうか」

「姫様がいなくなった後のことを、想像できるか?」

「あなたが言ったとおりになると思います」

「君の心のことだ。きっと、大きく深い穴が空く」

「穴」

「そうだ。今は分からないかもしれない。だが、その穴はきっと君を苛ませ、少しずつ飲み込んでいくだろう。そこから立ち直るのに、環境は重要なファクターになる」

 そういえば、隊長は熱心な教徒だったなと思い出す。これも、その教えなのだろうか。

 そんなことを考えていたための沈黙をどう受け取ったのか、彼は両膝に手をついて立ち上がった。

「大事な任務の前にこんな話をして済まなかった。急かしはしないから、ゆっくり考えてくれ。ただ、君にはここ以外にも居場所があるということを忘れないでほしい」

 優しくて真剣な表情だった。僕が頷くと、彼は部屋を出て行った。

 すごく有り難いことを言ってくれたんだと思う。貧民街で野垂れ死ぬ者、山賊などの輩に身を落とす者がいる時勢、家と仕事を与えてくれるというのだから。

 でも、今はまだ考えられない。多分これは昔の癖で、少し先――明日くらいのことを考えるならまだしも、もっと先のことなんて考えるだけ無駄だと思ってしまう。生きるか死ぬかの状況で、未来を夢想する人間がいるだろうか。それは生きていることが当然な人間にのみ許されることだ。

 彼の田舎へ行けば、僕もそういうことが出来るようになるのだろうか。未来を考え、想像することが。




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