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ディメイション・ウォーカー

作者: koto

眼前には、どこまでも乾いた砂が広がっている。

 ぎらつく三つの太陽。空を舞う巨大な鳥の影。揺らめく陽炎。

 「……どこまでも血の色だ」

 滴る汗を拭きながら思わず言葉が漏れた。背負っている巨大なリュックは、空に浮かぶ三つの太陽熱を吸収し、燃え盛るような熱さとなっている。

 見渡す限り砂、砂、砂。灼熱の砂漠からは、何の物音も聞こえない。木の葉のそよぎも、川のせせらぎの音も、虫の鳴き声も、何ひとつない。地形だけがあって、その他の自然は死滅している。

 陽は傾き、夕陽が血のように砂上を赤く染める。

夕陽とはいえ三つの太陽が発する暑さは容赦なく、陽炎が立ち昇り、砂上の景色は全てがゆがんで見えた。

 肉体が限界にきているのか、鉛でも背負っているように全身が重かった。

 オレの胸では黄色い小鳥のペンダントが、金色の夕陽を浴びて神々しく輝いている。

 滝の如き汗を拭って隣を見た。灼熱の砂漠には似つかわしくない、学生服姿の女子高生がポテトチップスを食べながら砂上を歩いている。

 顔だけは天女のように美しく、行動は常識はずれの女子高生が先ほどからしきりに訴えてくる。

 「お水~。お水~。お水が飲みたいよ~」

 もちろん返事はしない。無視だ。砂漠で水を失うことは命を失うことに等しい。むやみに飲む事は出来ない。ましてやポテトチップスを貪っている輩に飲ます水などあるわけがない。

 沈みかけた三つの太陽が、こちらの覚悟を試すように一段と輝きを強める。

 前方から二足歩行の衣服を着たカバが二人歩いてくる。恐らく夫婦だろう。

二人はすれ違いざまに「今日も暑いですね」と声をかけてきた。まるで登山者同士のように親しみのある笑みを浮かべて。

ただそのカバの夫妻も、ポテトチップスを食べる天女には怪訝な顔を向けた。「なぜ、砂漠でポテトチップスを……」言葉に出さなかったが、顔には明らかにそう書いてあった。

カバの夫妻と挨拶を交わした後もオレたち若い歩行者に試練を与えるかのように太陽がギラギラと照りつける。

喉がカラカラに渇いた。これまでに味わったことのない、舌が上顎にくっつきそうな渇き方だ。

砂漠の歩行は坂道が多い。上がり、曲がり、また下がる。なんだかオレの人生みたいだなと思った。だとすると今は下り坂ってところだ。だが後に戻る事は出来ない。出来る事は、たとえ困難な道であっても歩み続けることだ。

 退路はとっくに絶たれている。どこもかしこも正念場だ。

 滝のような汗を拭うと、背後から砂上をはうような低い乾いた声が聞こえた。

 「お水~。お水~。お水~」

 眉毛が八の字になっている天女が、先ほどから呪文のように「お水、お水」と延々繰り返している。

その姿は生き人の魂を求める幽鬼のようだ。その幽鬼の手には空になったポテトチップスの袋がある。喉が渇く理由は簡単明瞭、砂漠であんなものを食べるからだ。

ここまで無視して歩き続けたが、いい加減、呪文のような囁きを止めたく返事をした。

 「さっきも飲んだろ。もう少し我慢しろ」

 「だったら、お腹すいた。お握り食べる」

 巫女がオレの背負っているリュックを指差す。

 「ダメだ、絶対ダメだぞ」

 「なんで、そんな意地悪言うのよ」

 「意地悪じゃない。食べるから喉が渇くんだ。ちょっとは根性みせろ」

 「みせてるじゃん!」

 巫女が気色ばんだ。

「女の子が、女子高生が砂漠を歩いてんだよ。これって根性でしょ」

 「もう一段回、上の根性だ。ランナーズハイになるまで歩け」

 「ムリよ。だって私等って歩行者でしょ。ランナーじゃないじゃん」

 「だったらウォーカーハイを目指せ」

 「聞いたことないし、そんなの」

 「新次元を切り開け。お前なら出来る」

 「出来ないよ! 車だってガス欠じゃ走らないでしょ!」

 「いいからつべこべ言わずに歩け。ぐだぐだ喋ってるから、よけいに喉が渇くんだ」

 砂上を歩む天女の足がピタッと止まった。

 振り返ると、哀しみの色を浮かべた天女が俯いたまま目尻を抑えていた。

 何気なく発した一言が乙女心を傷つけてしまったのか。脳裏にそうした不安がよぎった瞬間、震えるような声が聞こえた。

 「だって、私……怖いの。いつ襲われるかわからないって思うと……すっごく怖くて、胸がどきどきして、喉も渇いて……」

 両手で顔を覆った口からは嗚咽が漏れ、細い肩が小刻みに揺れている。

 その天女の姿を一秒、二秒と見つめ続けた。そして確信した。

 「けど……ごめんね。……ワガママ言ってごめんなさい。……ちゃんするね……けど、一口だけでいいから」

白くて細い腕を掴んで顔から引き離した。

「ふぇっ!?」

 「おい。……涙は?」

 ウソ泣きだった。何とか水を手に入れようと知恵を絞った天女はウソ泣きと言う下衆な手段を閃いたのだ。しかし、あまりにも演技がお粗末すぎた。

 「ちちち、違うの! 違うのよ! ここここれは、ウソ泣きとかかじゃなくて」

 「幼稚過ぎんだよ、発想が」

 「うっ……うぅぅぅぅぅぅぅう……」

 天女が顔色をなくして俯いた。

 握っていた手を離して歩み始めると背中からドンッと衝撃を受けた。やけになった天女がリュックに頭から突っ込んできたのだ。

今はそんな事を気にしている場合ではない。こうしている間にもどこから敵が迫ってくるか分からない、天女のことは相手にせず歩き続けた。

「正鷹のバカ。正鷹の意地悪。正鷹のケチ、正鷹の……ドケチ……」

 背負っているリュックに顔を埋めながら天女は壊れたテープレコーダーのように愚痴を言い続けた。


 親愛なる読者諸賢よ、ここで自己紹介をさせて頂こう。


 オレの名は魑魅正鷹。魑魅と書いて「チミ」、正しい鷹と書いて、「マサタカ」。

この名は自分が正しいと思ったことを行い、大空を翔る鷹のようにいくつもの次元を翔る男に育ちなさいと母がつけた名だ。

幼かったオレは訊ねた。「正しいってどういうこと?」母はオレの頭を優しく撫でながら答えた。

「それは一生をかけて考えなさい。その時、その時、必死に考え、正しいと思ったことを全力でやりなさい」

 オレは母の言葉をまっとうし、自分の意志でこの天女とこの次元にやってきた。

オレたちは、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉だ。


 ○


 ご理解頂けるよう、話を少し遡ろう。

 読者諸賢は「ほころび」と現世界〈ホット・ホーム〉という言葉をご存じだろうか?

 聡明なる読者も、この言葉は知らぬが常識と考慮し、説明させて頂く。

「ほころび」とは次元の捻じれのことだ。

 先日、オレは「ほころび」を通り、別次元から十年ぶりに現世界〈ホット・ホーム〉に舞い戻ってきた。現世界〈ホット・ホーム〉とは、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉が生まれた次元。故郷のことだ。

 次元から次元への移動は「ほころび」を通ることで移動ができる。但しこの移動には、注意することが二つある。

一つは「ほころび」は誰でも通れるわけではなく、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉しか通れない。

次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉とは生まれつきの能力者や、何年も修行を重ねて通れるようになった修行僧などがそうある。

 先日、オレはその「ほころび」を通り、十年ぶりに現世界〈ホット・ホーム〉に帰ってきた。

 その理由は、突如現れた父の使いから「至急戻れ」との呼び出しを受けたからだ。

呼び出された理由は分からない。しかし、父との再会を果たしたかったオレは二つ返事で了承した。


 ○


 現世界〈ホット・ホーム〉に帰ってきたときは言葉を失った。十年ぶりの帰郷だったが、世の中の様変わりに驚いた。様変わりというか、いったい誰がこんなものをつくったのかと……。

 父が住む街は、歩行者天国〈スウィング・タウン〉と呼ばれ、そこにいる十代と二十代のほとんどが次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉だった。

今日まで何百という次元を渡り歩いたが、これほど多くの次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉を目の当たりにしたのは初めてだ。しかもほぼ全員が自分と同年代。

その光景は驚きを通り越して不気味さを感じた。

 父のボディーガードを務めるリースという女性が案内役だった。歳は二十代前半でボディーガードとは信じがたいほど細身、そして警護には邪魔としか思えないほど大きな胸。何より金髪碧眼の彼女の顔はモデルのように美しい。ボディーガードの相場はどの次元も野獣系と決まっている。彼女はきっとボディーガードという名の愛人ではないかと邪な考えが脳裏に浮かんだ。

リースから、父は今この歩行者天国〈スウィング・タウン〉を運営する最高責任者と、学校の理事長を兼任していると聞いた。

その話を聞いて合点がいった。

異常なほどに多い次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉と、異常なほどに厳重な街の警備。非常識な街並みだが、その責任者が父なら納得できる。そして納得すると同時に、先ほどまで輝いて見えた近代都市が今は父が造り上げた堡塁としか思えなくなった。

父はこの次元で好き勝手にやっているのだろうなと思った。そして、歩くたびにぽよん、ぽよんと揺れるリースの胸を見ながら「絶対、愛人だな」と勝手に確信した。

「お父さんと一緒で背が高いわね」

リースが友好的な笑みを浮かべて流暢な日本語を話す。アクセントの訛りは一切なく、彼女は日本育ちなのかと思った。

「そうですか、父の方が高いでしょ」

オレの身長は百九十センチ、体重は九十キロほどある。現世界〈ホット・ホーム〉では偉丈夫だが、次元によっては小人並に扱われたこともある。

「その耳ってどうしたの?」

リースの吸い込まれるような蒼い瞳がオレの左耳を見る。

オレの耳を見つめるリースの顔は美しかった。肌は透き通るように白く、切れ長の眼、高く綺麗に整った鼻筋に、桜色の唇、金色の長髪は光を跳ね返し太陽のように輝いている。

「これは、いろいろあって……」

リースの視線に心を乱され、滑らかな答えが出てこない。

幾多の次元を渡り歩いてきたオレの顔には、左頬から耳にかけて切り傷がはしっている。その傷が原因で左耳は今も半分ほど真横に裂けている状態だ。

オレはこの傷を隠したくて髪を伸ばしている。天然パーマの長髪は一見すると上手く耳を覆い隠しているが、傷が大きすぎるため風が吹いたり、少し動いたりするとすぐに露見されてしまう。

この耳のことはよく人に聞かれる。しかし、思い出すと強い憤怒の念が湧きあがるため、返事はいつも曖昧にしかしない。しかし今日は曖昧な返答も出来ず、ただ言葉に詰まってしまった。

 「あとね、歩行者天国〈スウィング・タウン〉の発案者と建設者も魑魅総統なのよ」

 オレの心中を察したのかリースが話題を変えた。

リースの話では、これからは積極的に別次元と交流すべきと考えた父が、日本中から「ほころび」を通れる能力者、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉を集められるだけ集め、この歩行者天国〈スウィング・タウン〉を築いたという。

世界初の歩行者天国〈スウィング・タウン〉が各国に与えた衝撃は強烈だったそうだ。このままでは世界の覇権を日本に握られると慌てた諸外国は、自国にも歩行者天国〈スウィング・タウン〉をつくったそうだが、現時点では父が辣腕を振るう日本が一歩も二歩も先を歩んでいると、リースが誇らしげに言った。

笑っては悪いと思ったが、思わずフンッと嘲笑するような息が漏れた。

リースの眉が不快そうにピクッと動いたが、謝る気はない。

本音を言うと、「何が世界だ」と思った。この無数の次元が存在すると分かった今、世界一なんかに何の価値がある。より広い視野で考えれば宇宙一にしても価値があるか分からない。なぜなら、今は星の数よりも次元の数が多いと唱える学者が各次元にごまんといるのだ。

現世界〈ホット・ホーム〉のように一般人を不安に陥れないため、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉の存在を隠している次元もあるが、今ではそちらのほうが希少だ。いまはどの次元も、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉の存在を知っている。

親愛なる読者諸賢にはお伝えしておこう。この世界で起こった不可解な事件、歴史に名を残した偉人などは、ほとんどが別次元からの訪問者、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉か、その子孫にあたる人物たちだ。偉業を達成した人物に向かい「あいつのレベルは次元が違う」とつぶやく輩もいるが、それもその通り。なぜなら彼らは皆、別次元からやってきたのだから。


 ○


 「ここよ」

 閉ざされた重厚な扉をリースが指差す。

「ここは?」

訪れた場所は高層ビルの一室だった。てっきり父との再会は、父が運営する学校とばかり思っていたので、不意打ちをくらった気分だった。

「ここは歩行者天国〈スウィング・タウン〉の運営施設みたいな所かな。今は緊急事態で魑魅総統もこっちに泊まり込んでいるの」

リースがにこやかな表情で答えた。父の役割は分からなかったが適当に頷いた。

この扉の向こうに父がいる。十年ぶりの再会だ。そう思うと、父の役割などはどうでもよく思えてきた。

重厚な扉は近づく者を跳ね返す荘重な雰囲気があったが、リースはノックもせずに扉を開いた。 

「失礼します!」

 リースが少し声を強めた。

室内に入った瞬間、ノックをしなかった理由が分かった。

 室内は広く、円卓のテーブルに座っている者や立ち上がって話をしている者と、大勢の人で溢れていた。机の上には資料が散らばり、スーツ姿の大人たちが荒々しく大声を上げている。議論というよりは口論に近い、よく見ると全員の顔には苛立ちや脱力感、焦り、不安、そんな様々な感情が入り乱れた表情が浮かび、震源地さながらのパニック状態に陥っていた。これではノックをしても聞こえる訳がない。

グルッと室内を見回すと、大型スクリーンに映っている制服姿の女の子が目に留まった。

静止画で映っている女の子は何が気に喰わないのか、かなりの仏頂面だ。だが一目見ただけで可愛さが伝わってくるほど、その顔立ちは妖艶で美しかった。

写真の隣には文字が書いてあるが、現世界〈ホット・ホーム〉の文字が読めないオレには何を書いているか分からない。

 「正鷹」

 名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出るほど高鳴った。すぐに分かった、父の声だ。

 目を向けると父はテーブル席ではなく大型スクリーンの脇に立っていた。この騒擾の中、一人笑みを浮かべ悠々と手を上げている。

 「こっち、こっち、正鷹!」

 父は屈託のない笑顔を浮かべている。その目は友達と再会した子どものようにキラキラとした輝きに満ちていた。

十年ぶりに見る父の姿だった。父の名は魑魅鉄心、鉄の心と書いて「テッシン」。名前は覚えているが、性格は記憶にない。かろうじて覚えていた風采は十年前と変わりなかった。短く整えられた髪に相変わらずの無精髭、背は二メートル近い巨躯で、敵意は感じないが眼光は炯々としている。なによりスーツの上からでもわかるほど体はいまも引き締まっていた。周囲の男たちが必死に何かを話しかけているが、父は歯牙にもかけずこちらを見ている。

 「よっ! 久しぶり!」

 父の笑みがますます広がり、目尻の笑い皺が更に深まる。父の声はこんな声だったのか? 十年振りだ、親子ながら他人のような感想しか浮かばない。

 父の声が響くと室内は潮が引くようにサーッと静まった。テーブル席に座っている者、父の周囲に集まっている者、全ての人物がこちらに目を向けた。

「あれが、総統の息子?」

「ホントにきたんだ……」

「若いな……」

各々が口を開き、室内がどよめいた。

オレはどよめく大人たちを見てほくそ笑んだ。なぜなら、奴らがホントに驚くのはこれからだ。

 「お父さん!」

 オレは父に負けずと百万ドルの笑顔を輝かせた。十年振りの再開だ、少しは大袈裟な演出があってもいいだろう。

 「久しぶりです、元気でしたか! そして」

 ポケットから手を抜き出すと、大人たち全員の顔が引きつった。その理由は簡単、引き出されたオレの手には短剣が握られていた。

 「くたばれ! クソオヤジィ!」

 周囲から鼓膜を劈くような悲鳴をあがる。それと同時に、父目掛けて渾身の力で短剣を投げつけた。

 オレが現世界〈ホット・ホーム〉に戻ってきた理由は一つ、父への復讐だ!

 バリッ! と、何かが砕けるような音が響くと、父の前の虚空にヒビが入った。

防弾ガラスだった。我が子の第一人者である父は、オレからの熱烈なプレゼントを予期して防弾ガラスを仕込んでいたのだ。

 「リース」

 父は全く笑顔を崩すことなくリースの名を口にした。その瞬間、隣に立つリースが脇腹に何か棒のような物を押しあてた。ボディーガードとは嘘ではなかった。全く無駄のない俊敏な動きだった。

 「おやすみ、坊や」

 リースが口角をつり上げ、背筋がゾッとする不敵な笑みを浮かべた。その瞬間、一万匹のクラゲに刺されたような痺れが全身に走った。目の前の光景がねじ曲がると同時に脇腹に当てられたのがスタンガンだと分かった。

薄れゆく意識のなか父に目を向けた。父はまったく動じることなく、そして同情することもなく、顎髭を触りながら倒れるオレをジッと見ていた。


 ○


眼前は灰色一色の世界だった。

 目に映る灰色の世界はどこまでが空でどこまでが海か分からない。

 草、木、花は枯れ、地面には無数の屍と髑髏が散乱していた。

 その死地を一人の子どもが泣きながら歩いている。

 助けに行こうと思っても、その子に近づくことが出来ない。

 周囲に人の気配はない。人どころから生命のぬくもりが絶無だ。

 幽鬼の存在すら感じぬほど、そこは虚無的な空間だった。

 子どもが大きく息を吸い込み、あらんかぎりの力で叫んだ。

 「おかぁーさん!」

 その声を聞き、脳裏に記憶の断片が蘇った。

 その子は、まがうことなき幼少時代のオレだ。

 オレは母を探し走り始めた。疾走しながら、周囲の景色を見た。

空も海も山も道も、目に映るものすべてが灰色だ。

とりわけ空と海の深い灰色は果てが無かった。

 オレは色が見たかった。色なら何でもよかった。血の色でも涙でも何でもよかった。

 走り続けていると雨が降り始めた。

雨の色まで灰色だった。

どれだけ走り続けても眼前は灰色一色の世界だ。

その色は死滅の色彩だ。


 ○


 全神経が一気に活動し、もう一度電気ショックを浴びたかのように飛び起きた。

 寝起きとは思えないほど荒い息が口から漏れ、肩が大きく上下した。

 額から流れる滝のような汗を拭い、自分がいまどこにいるのかを想起すべく頭を働かせた。

 周囲を見回すと、四方を白い壁に囲まれた殺風景な室内にいた。室内にはオレが寝ているベッドがひとつと、そのほかは電球だけ。窓一つない寂しさだった。そしてオレの体には手枷、足枷が付けられている。その手枷、足枷を見た瞬間、全てを思い出した。我が父がオレに感動のプレゼントを与えたのだ。

 倒れるオレをただジッと見ていた父の顔を思い出した。

 現状を把握した以上、ここでグズグズしているつもりはない。

 力を調整しながら体を揺すり続けると手枷はあっという間に外れた。こっちも伊達に十年間、各次元を放浪していたわけではない。生きる術は身につけている。足枷も外すと、ベッドのシーツを手に取った。

 本来ならあまり使いたくないが、この状況で手段は選べない。

 目を閉じ呼吸を整え、意識をシーツに集中した。心音が高鳴り、全身の産毛が逆立つと、汗が拭き出すような感覚で自分の手から黒い闇が溢れ出てきた。

強すぎず、弱すぎず、呼吸を整えながら意識の集中度をあげる。手から溢れ出た黒い闇がシーツに伝わると、頼りなく垂れっぱなしだったシーツが、鋭利な刃物のようにビシッと天に向かい突き立った。

 「よし」

 黒い闇をまとったシーツを壁に突き立てると、ナイフでプリンを切るようにあっという間に壁を切り裂けた。刃物と化したシーツを見ながら自分の腕に惚れ惚れした。

 こうなれば次はどうする? 父への復讐を続行か?

 いやいや、違う。やるべきことは既に分かっている。

 父と向かい合ったとき、直感的に自分が取るべき行動が分かった。それは「逃げろ」という本能からの指示だった。オレの本能は父との闘争より、父からの逃走を指示した。

両手に宿る黒い闇を見ながら「だけど、この力があれば……」と思ったが、すぐにその考えは打ち消した。完璧にコントロール出来ないこの力を解放する訳にはいかない。それに、オレが次元の放浪者〈デッド・パッカー〉として今日まで生き延びられたのは、無駄な意地を張らず、この本能に従ってきたからだ。

 そうなると今回もやるべきことはひとつ、三十六計逃げるが勝ちだ!

 父がオレをここへ呼んだのはオレに頼みごとがあるからに他ならない。

頼みごとといえば聞こえはいいが、実際は悪魔の如き奸計をめぐらせているに相違ない。ならばその奸計だけでも打ち破ってやる。それもオレの復讐だ!

 切り裂いた穴から自由を目指して駆け出した。


 ○


 人目を避けて海辺に辿り着くと、街中で一斉にサイレン音が鳴り始めた。

そのけたたましさから脱走がばれたと瞬時に分かった。父のことだ、どこに逃げようといずれまた見つけて連れ戻しに来るだろう。だが、それでいい。一瞬だけでも泡を吹かせてやりたい、そう思うのが本心だ。

 海の浅瀬に浮かぶ「ほころび」を目指した。父がいる限り、現世界〈ホット・ホーム〉に安全な場所はない。あるとすれば別次元だけだ。

五感で進むべき方向が分かり、進めば進むほど耳鳴りが強まる、いつもの感覚だ。「ほころび」が近くにあることが感じ取れる。

通常の次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉は「ほころび」を通る事は出来ても見つけることは出来ない。しかし、次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉のなかでも特異体質のオレは「ほころび」を感覚で見つけられる。

これが百以上の次元を渡り歩いてきたオレの強みだ。

 しばらく歩き続けると、海上にある「ほころび」を見つけた。海上といっても深さは膝より少し高いくらいで、歩いて辿りつける場所だ。

だが一つ問題もあった。「ほころび」は既に、父の組織の管理下にあったのだ。

「ほころび」から少し離れた場所には少数だが警備員たちがいる。「ほころび」の向こう側から、次元の侵入者〈パラストリアン〉がやってきた場合に備え、見張っているのだ。

手荒なことはしたくないが警備員は武装しているうえに、体つきも偉丈夫な手練れの集まりだ。情けをかければこちらが殺られる。

暗殺者の如く隙を見て近づくと、一人一人の警備員の首元に黒い闇を宿した手をあてた。触られた警備員たちは皆、糸が切れた操り人形のようにドサッとその場に倒れ込んだ。

命に別状はないが、二十分ほど目覚めることもない。

警備の目が皆無になったことを確信すると、両手に宿る闇の力を解放して、海水に足を踏み入れた。

夜の海は墨汁のように水が黒く、思ったより薄気味悪く感じた。そして海水の上では、さらに不気味な黒い渦がゆっくりと回転している。

「ほころび」だ。

 渦はそれほど強く回転してはいない、工場のベルトコンベアーのように、一定の早さを維持してゆっくりと回り続けている。「ほころび」の所有時間はこの渦の回転具合で判断できる。回転が弱まれば、それは「ほろこび」が消滅する寸前ということだ。

 「あばよ! クソオヤジィ!」

 踵を返し、歩行者天国〈スウィング・タウン〉に向かって叫んだ。

 胸がスッとした。一時的なことかもしれないが、父を出し抜けたことが痛快だった。

 しかし、「ほころび」に飛び込もうとした瞬間、魔法をかけられたかのようにオレの動きが止まった。

 「ほころび」の中から、白く細い体が飛び出てきたのだ。

その体は「ほころび」から出てくると、ゆっくりと宙を舞い、空からの落とし物のようにオレの両手の中におさまった。

舞い降りてきたのはオレと同年代の女の子だった。その女の子を受け止めた瞬間、オレの世界は彼女の存在ただ一点に収束され拍動した。彼女の第一印象は「可愛い」のひと言に尽きた。

両手の中の彼女は焦点の合ってない目をオレに向けた。

その目は憔悴していたが黒々と潤んだ瞳は宝石のように輝いている。全身は雪のように白く、風になびく髪は一本一本が艶やかに煌く。荒い息遣いの唇はぷっくらとして取れたての果実のように愛らしく膨らんでいる。その上にはスラッと形の整った美しい鼻がある。そして両耳についている赤いイヤリングが印象的だった。

彼女を一目見て思った。遥か昔、母から「天女」という存在を聞いたことがあったが、彼女こそ、天女と呼ばれるに相応しい乙女ではないかと。

天女の衣服は学生服だった。その制服は千切れた箇所や焼け焦げた箇所がありズタボロの状態だった。それは天女の体も同じで全身に傷を負っていた。致命傷のような大きい傷がないのが幸いだった。荒い息遣いの天女は目を閉じると意識を失った。

その時、天女の首にかかっているネックレスが海に落ちたので、波にさらわれないよう拾いあげた。黄色い小鳥のペンダントが月明かりに照らされ美しく輝いていた。

「うわぁっ!」

次の瞬間、ひときわ大きな波が押し寄せてきて天女とオレは頭から海水を被った。

 「う……うぅ……」

海水を浴びた天女が強く目をつぶり、苦しそうに呻き声をあげる。傷だらけの体に海水が染みたのだろう、悪い事をした。そう思って目を向けると、思わず天女の体から手が離れそうになった。なぜなら、海水を浴びた天女の制服が透けてしまい、純白の下着姿が丸見えになっているのだ。

 落としかけた天女の体を慌てて抱き締めた。

 落ち着け! オレがやったわけじゃない! ただの偶然だ! 自分にそう言い聞かせ、呼吸を整えてからもう一度、目を向けた。

 一旦、心を落ち着けたものの、桃色の至宝を前に十五歳の思春期まっしぐらなオレが、平静を保てるわけがなかった。

 透けて見える天女の胸はまがうことなき神が創りし芸術品だった。

制服にまとわりついた海水を、今にもはじかんとばかりに瑞々しい弾力に溢れた大きな膨らみが二つある。この細い体には似つかわしくない大きな二つの膨らみは、天女が荒い息遣いをするたびに海水が滴り、透けた胸元が大きく上下する。その姿を見ていると、オレのジョニーが(ジョニーとは男性だけが右足と左足の間に備え付けている聖剣のことである。オレはこの身体の一部を愛着を込め“ジョニー”と呼んでいる)が制御不能に陥りかけた。

 その瞬間、ハッとした。バカかオレは! いまはこんなことをしている場合ではない。

 疾しき心を一掃して天女の体を仔細に確認した。傷の具合から見て、向こうの次元で何者かに襲われたに違いない。この「ほろこび」がどこに繋がっているのかはわからない。だが、向こう側が安全ではない事は確かだ。天女は追手の存在に怯えているのだろう。

 オレは傷だらけの天女を抱えたまま懊悩した。

天女の追手もそこまで来ているかもしれないが、父の追手もそこまできている、別次元に行かなければ捕まることは確実だ。だが、その場合この天女はどうする? この天女を連れて行くことは出来ない。そうなるとどこかに置いていくべきか。全身、傷だらけでスケスケの制服を着た意識不明の美少女を……。

我が身の保身か、天女の安全か、取れる道はふたつにひとつだ。

 母は言った。「必死に考えなさい。そして自分が正しいと思ったことを全力でやりなさい」

 満天の星空の下、オレは激しく懊悩した。


 ○


 「おい、お前。そう、お前だよお前。ちょっと! ちょっと助けてくれ!」

 懊悩の末、傷だらけの天女を抱えて街中へ引き返した。当然のことだが慈愛の精神に満ち溢れているオレが、傷ついた美少女を見捨てられるわけがなかったのだ。

 街中はサイレン音が鳴り響き、武装した警備員で溢れていた。

 考えた結果、人のよさそうな奴を見つけ、あとはそいつにこの子の保護をお願いしようと思った。

傷ついた女の子を抱えて夜の街を歩けば必ず警備員に声をかけられる。お尋ね者のオレがそのような愚行を犯すわけにはいかない。

 目の前を同い年くらいのカップルが歩いていたので声をかけた。

 しかも女の子の方は天女と同じ制服を着ている。つまり、天女と同じ学校の生徒だ。

天佑神助とはまさにこのこと。オレは天女を背負ったまま必死に頭を下げて哀願した。

 「助けってって、なにを?」

 男の方が怪訝な顔で訊ねてきた。

 「オレじゃなくて、この子なんだ。さっき気絶したまま、ほころびから出てきて」

 背負っている天女を顎で指した。

 「ほころびから?」

 「それって、大丈夫なの?」

 流石、歩行者天国〈スウィング・タウン〉。「ほころび」からの怪我人と言えば皆、我が身の事のように心配する。先ほどまで怪訝な顔をみせていたカップルもすぐに心配そうな表情で天女を見つめた。

ホッと安堵の息が漏れた。これで安心だ、あとはこのカップルに天女を病院まで送り届けてもらえばいい。

 「すぐ救急車呼ぶから」

 「あぁ、頼むよ」

 男が素早くポケットから携帯電話を取り出した。

 「待って……この人って……」

 天女の顔を見た女が、険しい表情を浮かべた。

 「なんだよ。……あっ!?」

 女の気持ちが憑依したかのように、男まで険しい顔をみせた。

 妙な沈黙が一秒、二秒と流れた後、カップルが後ずさりをして距離を取った。

 男はゴクリと生唾を飲むと、唐突に遠方を指差した。

「まっすぐ、ここをまっすぐ行けば、すぐに大きな病院があるから」

「え?」

「それじゃ!」

 「あっ!? おい! 待てよっ!」

 カップルは振り返ることなく去って行った。

 「……んだよ、あいつ等。薄情者め」


 それから暫く、同じようなことが続いた。

 薄情者はあのカップルだけではなかったのだ。道行く人は皆、同じだった。

「ほころび」からの怪我人と告げると、最初は親切に近づいてくるが、天女の顔を見るとすぐに表情が険しくなり慌てて去って行った。

 「なんなんだよ一体!?」

 この次元は美人に厳しくしろって法律でもあるのか? いや、ここはオレの現世界〈ホット・ホーム〉だ。そんな法律は聞いたことがない。

 背中の天女を一瞥する。……もしかして犯罪者なのか? そんな考えが頭に浮かんだ。皆の恐れようからするとそうなのかもしれない。だとしたら余計に“お仲間”は放っておけない。次元の犯罪者は二種類に分かれる。根っからの悪党と、オレのように心は清いが行いが悪いだけの悪党だ。もし彼女が犯罪者なら明らかに後者だろう。なぜなら、空から舞い降りてきた美少女に悪人などいるわけがない! 

これはオレの持論だ、異論は一切認めない!

 膝をグッと伸ばし、背負っている天女の体が密着するように整えた。この方が天女の柔らかな胸の感覚がしっかりとつたわって……ではなく! 歩くときに楽に歩けるからだ。もはやこうなれば道行く人に期待は出来ない。この子は責任をもってオレが送り届ける。

 途中で巡回中の警備員と鉢合わせしないよう五感を研ぎ澄まして夜道を歩いた。だが、大通りをまっすぐ進むと、病院には思いがけないほどあっけなく辿り着けた。

 正面玄関が開いていたので、そこから中に入ったが深夜の病院内に人の姿はなかった。

 「どうされたんですか?」

 総合受付に行くと年老いた看護婦が一人だけいた。

 「歩いていたら、ほころびから出てきて。この子、怪我してて」

 咄嗟のことだったので曖昧な言葉しか出てこなかった。しかし、意味は通じたらしく、看護婦は「まぁ大変」と言って立ち上がると、すぐに診察室に通すからそこの待合室で待っていろと指示をした。振り返ると待合室にも人影はなく、だだっ広いソファーに天女をポツンと横たわらせた。

 ようやく一息つくことができた。大きく息を吐くと緊張していた神経が弛緩していくのが分かった。父の追手も病院にオレがいるとは思わないだろう。

両手を上げて体を伸ばし、横たわっている天女に目を向けた。

 いったい何で怪我をしたのだろう? いったい誰に追われていたんだろう?

天女の寝顔を見ているとさまざまな疑問が脳裏に浮かんだ。次元の向こうは、いろいろと複雑だ。全く知らない常識に出会うこともあれば、命を懸けて闘わなければならない時もある。「ほころび」が閉じて現世界〈ホット・ホーム〉に帰れなくなると、それこそ犯罪のひとつやふたつは犯さなければ生き残れない。次元の放浪者〈デッド・パッカー〉であるオレにはその思いが痛いほど分かる。

「もう大丈夫だからな」

頭を撫でると天女の目が開き、黒々と濡れたような瞳が向けられた。天女はこちらに手を伸ばすと何かを囁いた。だが、声が小さすぎて聞こえない。

膝を折り、横たわっている天女と目線を合わせた。

「なにって?」

天女は震えるようなか細い声で答えた。

「う……しろ……」

後ろ? 首だけを後ろに捻った瞬間、全身の血の気が引いた。そこには金髪碧眼の美人ボディーガード、リースが立っていた。

「ダメでしょ坊や、無断外出は」

リースが口角を持ち上げて不敵な笑みを浮かべた。

「あはは、久しぶり」

笑って答えたがダメだった。オレの慈愛の心もリースには届かなかった。

リースが流れるような無駄のない動きで首筋に何かを突きつけた。この感触は確かさっきも……。

そう思った瞬間、今度は三万匹のクラゲに刺されたような痺れが全身を駆け巡った。最初の電圧では弱すぎると判断したのか、電圧が強まっていることが分かった。

薄れゆく意識の中で天女に目を向けると、彼女は黒く大きな瞳から涙を流し「ゴメン」と口だけを動かした。

それを最後に意識が途絶えた。


 ○


 手足に痺れが残ったまま目を覚ました。この感覚は二度目だ。今度はすぐに痺れの原因も分かった。手足の痺れとは逆に、頭は目が覚めた瞬間から冴えていたからだ。

 目覚めた場所は最初の監禁部屋ではなかった。天井には明るい蛍光灯が輝き、足元には一級品の絨毯がひいてある広々とした室内だった。その部屋には大型の机がひとつ置いてあり、そこには腕組みをして座っている男がいた。その男は、父だ。

 「オヤジ!」

 慌てて立ち上がろうとしたが膝が伸びなかった。自分の体に目を向けると、ゴム製の紐で全身を椅子に縛り付けられていた。

 「外してやれ、鉄心」

 声の方に目を向けると、父の隣に立つ男の顔が見えた。父よりも年輩で目尻に深い皺が刻まれているが老人の印象はない。白髪の頭は綺麗に整えられ、背筋はしゃんと伸び、壮年の香りさえ漂わせている。

 「私は、鉄心と同じ組織で参謀長をやっている隠密だ」

 「オレの参謀ね。参謀総長の隠密平八」

 こちらの視線に気づいた隠密参謀長が手短に自己紹介をし、父がそれに付け足した。

 「鉄心」

 「うん? あぁ、はいはい」

 隠密参謀長に促された父が顎で合図を出す。すると、近くに立っていたリースがオレの全身を縛り付けている紐を解き始めた。

 「今度は必ず、ぶっ飛ばす!」

 自由になった手を組み合わせ指の関節を鳴らした。覚悟は決まっている、男には負けると分かっていても退けないときがある。

 「やってみなさい。あんたの人生、終わらせきゃぁっ!」

 リースが射ぬるような目でこちらを睨んだ瞬間、豊満な胸を鷲掴みにしてやった。二度も失神をさせられたお返しだ。

 マシュマロのように柔らかく弾みのある胸を揉んだ瞬間、凄みをきかせてきたリースが短く悲鳴を上げた。一瞬の隙を突かれた今、リースの目に映っているのは明らかに狼狽の色だった。

 「女の悲鳴だったな」

 「……殺す。絶対殺す!」

 抱え込むように胸を隠す姿を嘲笑すると、リースが眼底に怒りを揺らめかせた。

 父はオレたち二人を見て手を叩きながら笑い、隠密参謀長は嘆息を漏らした。

 「まぁまぁまぁ、落ち着いて二人とも。で正鷹、話の続きだけど」

 リースと睨み合っていると、隠密参謀長に促された父がひときわ明るい声をかけてきた。

短剣を投げつけたことにも脱走したことにも一言も触れず、世間話でもするようにサラッと話しかけてきた。

 「正鷹。お前の任務、ボックスの護衛ね」

 「はぁ?」

 「だから、お前の任務。ボックスの護衛」

 闘争モードに切り替わっていた頭に、父の言葉はワンテンポ遅れて染みこんできた。

 「ボ、ボックス!?」

 その意味を理解した瞬間、槍で突かれたようにのけぞり狼狽した。

 父はそのオレを見て「そう、ボックス」と一言だけ答えた。

 「ボックス……」

 言葉を失った。現実感が希薄で夢を見ているかと思った。

 ボックスとは全次元の中でもほんの一握り、いや現代では全滅したと言われている幻の存在である。幻の存在といっても外見は普通の人間だ。だが、持って生まれた能力がちがう。

「次元世界」ではどこかの次元で「ほころび」が出来ると、その反動で別の次元に、束ねられた神の光〈オーラス〉が表れる。「ほころび」を修復するためには、その束ねられた神の光〈オーラス〉を別次元から別次元に運び込み、「ほころび」に向けて放出する必要がある。その作業自体は単純だ。別の次元から持ってきた束ねられた神の光〈オーラス〉を、「ほころび」に放出するだけだ。ただ、束ねられた神の光〈オーラス〉の持ち運びができるのは、ボックスと呼ばれる特殊能力者だけである。

その能力者は全次元でも全滅したときいていた。しかし、父は今はっきりとボックスと言った。

 「だからさ、ボックスを連れて、束ねられた神の光〈オーラス〉を持って帰ってきて」

 「嫌だ、絶対やらねー」

 即座に断った。父がめぐらす奸計が、いまハッキリと分かった。

 「ボックスを別次元に飛ばすなんてまともな考えじゃないだろ!」

 吐き捨てるように言ったが、父は淡々と答えた。

 「違う違う。ボックスだから飛ばすんだ」

 「攫われたらどうすんだよ!」

 ボックスは全次元において最も尊崇され最も価値ある存在といわれている。しかしその反面、ボックスの能力を欲しがる者は後を絶たず、誘拐など手段を選ばない者もごまんといる。ましてや昨今では絶滅したといわれているボックスが存在するとなれば、その価格は青天井。全次元における人身売買史上最高値は間違いない。

 「そのためにぃ! そのためにぃぃ! お前が必要なんだ!」

 父が大袈裟に両手をこちらに突き出す。安い三文芝居に激しく腹が立った。

「それにオレたちに迷っている時間はない。今こうしている間にも、メキシコでひずみが生まれかけている」

 「ひずみ……」

 「ひずみ」とは永久的にできる次元のねじれだ。「ほころび」と違い、いったん「ひずみ」が生まれると自然に消えることはない、最悪の場合はそこから次元の侵入者〈パラストリアン〉がやってきて、人攫いや、犯罪を犯し、世界の崩壊につながることもある。太古からボックスは、そうした望まれぬ「ひずみ」を修復する、神の使いとして崇められてきた存在だ。

 「護衛の数は?」

 「一人。お前だけ」

 「ふぇ?」

 自分の声とは思えない素っ頓狂な声が漏れた。

 「お前一人だ。そしてボックスはお前と同年代の女の子。つまり、年頃の女の子と二人旅だ。どうだ、胸が高鳴るだろ?」

 父がからかうように声を弾ませる。

 「けど正鷹、一つだけ忠告だ。ボックスを無闇に暗い所へ連れて行くな」

 「はぁ?」

 「彼女は暗いところが嫌いだ。それにレディーを暗い所へ連れ込むのは、もう少し大人になってからだな」

 「ふ……ふざけんなよ! なんでオレ一人なんだよ!」

 「今回、繋がった次元はリートゾーン31。この次元を歩行できる能力者は、いまはお前とボックス以外にはいない」

 「ウソだ。この街はほとんどが次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉なんだろ? だったらなんで」

 昼ごろ、リースから受けた説明を思い出した。それだけの数がいて、リートゾーン31への次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉が二人というのは納得がいかない。

 「確かに、ここにはたくさんの次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉がいる」

 父に代わり隠密参謀長が答えた。

 「しかし、現時点でリートゾーン31へ行けるのはキミとボックスだけなんだ」

 「現、時点?」

 「今回の出陣は二度目だ」

 「……一度目は?」

 その答えは大方想像ができた。だが、聞かずにはいられなかった。

 「全滅。前の隊は何者かの奇襲を受けて全滅した。帰還したのはボックスだけ」

 父が答えた。父の声は「こんなことは日常だ」と言わんばかりに淡々としている。全滅という言葉にも後ろめたさが感じられない。

五歳で生き別れになった父のことは正直よく覚えていない。時折、父の使いがフラッと現れ、ある程度のまとまった金銭を受け取っていたが、父の話を聞いたことはなかった。父はいったいどういう人物なのだろう。

 「前回の隊が全滅したのは、我々にとっても未曽有の衝撃、未曽有の損害だった」

 オレの心中を察したのか、隠密参謀長が全滅した隊を労わる言葉を述べ始めた。しかし、その表情に哀しみの色はない。きっと根っこの部分は父と一緒なのだと感じた。

 「んなこと言ったら! もう一度そんな次元にボックスを飛ばすことが、未曽有の軽はずみだろ!」

 オレの怒声を無視して父が机のボタンを押した。すると、壁際のスクリーンが作動し、画面には再び仏頂面の女子生徒が映った。

 「あっ」

 映し出された女子生徒を見て気付いた。この仏頂面の女子生徒は先ほどオレが助けた、傷だらけの天女だった。そうだったのか、ボックスは天女であり、天女はボックスだから別次元で襲われたのだ。そう思った。

 自分に与えられた任務が明確になるにつれて、鉛でも飲み込んだかのように胃が重くなってきた。父は今、一部隊が全滅した超危険区域に我が子を投げ込もうとしている。

獅子の親は十年ぶりの再会であっても、我が子を千尋の谷に突き落としたいようだ。

 「緊急事態なんだ。お前には次か、その次くらいから活躍してもらう予定だったけど、まさか今回の遠征で全滅するとは思ってなくてさ。頼む正鷹、この通り」

 父が両手を合わせて頭を下げた。その姿はジュース代を借りる子どもの様に軽い。

 「もし、断るって言ったら?」

 「んー……。なら、いいよ。それで」

 「え?」

 思いがけない答えだった。断れば命も奪われかねないと思っていた。

 父が顎髭を二度、三度と撫でて答える。

「いいよ、好きにして。お前が学校に通えるよう手筈も整えたし。学校に通いたければ通う、それが嫌なら次元の放浪者〈デッド・パッカー〉に戻る。お前の自由だ」

 父はそこまで話すと、目でリースにオレを部屋から退出させるよう合図した。

 リースがオレの腕を握って退出を促す。

退出間際に振り返り最後の質問を投げかけた。どうしても聞いておきたいことがあった。

「おい、オヤジ」

「なんだい、息子よ」

父がおどけた表情を見せる。

 「その……もし、オレが断った場合だけど……その、どうなんだよ。ボックスは?」

 「出陣だ、一人でな」

 先ほどまで軽い口調だった父が、目の奥で一瞬、狂気をのぞかせた。

初めて聞いた父の筋が通った力強い声は、異論は絶対に認めない、そういった類の力強さが込められていた。

目的を完遂するために犠牲は厭わない。父の狂気を感じた。


 ○


 その夜は一人で煩悶した。

リースに案内された室内は(リースは室内に辿り着くまで、一言も口をきいてくれなかった)脱走した監禁部屋と違い、生活感のある部屋だった。室内にはテレビに冷蔵庫に机、大きな窓もあった。逃げたければ逃げればいいといわんばかりに開放された窓からは頬をなでる優しい夜風が吹き込んでくる。

リースが立ち去り、シャワーを浴びてベッドで横になるとすぐにあの天女、ボックスのことが思い浮かんだ。「考えるな、忘れろ」自分にそう言い聞かせても、次第に頭から離れなくなった。オレにはボックスを見捨てられない理由がある。悔しいのはそのことを父も重々承知ということだ。だから父はボックスの話をしたいま、オレに選択の自由を与えている。それは、必ずオレが自発的にボックスを助けると確信しているからだ。

父の思い通りに行動するのは腹立たしい。それにオレ自身にも、一部隊が全滅した戦地へ即決で出陣する覚悟があるわけではない。

胸の中で、灰色の空気がどんどん充満していく。

 ベッドから立ち上がり窓から見える夜景に目を向けた。窓の外には宝石を散らしたように輝く街の光が見える。この光のどこかであの天女も寝ているのだろう。

恐らく今頃は病院か。あの子はまた次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉となる覚悟はあるのだろうか。病院で最後に言った「ごめん」にはどんな意味が込められていたのだろう。次から次へと疑問があふれ、暗澹たる気持ちが重なる。

その夜は、輾転反側して一睡もできなかった。


 ○


 「あれ、あの人がそうでしょ? 魑魅理事長の」

 「うん、だけど。全然似てないよね」

 「なんかね、理事長にナイフ投げつけたらしいよ」

 「えっ!? ナイフ!?」

 「なんで!? なんで、なんで、なんで!?」

 「分かんない。男子が噂してた」

 「そういえば、目付き超怖くない?」

 「怖い、超怖い」

 「ってゆーか、何なの、あの顔の傷……」

「あれ……えっ!? 耳、半分ちぎれてない!?」

 「あっ!? うん、ちぎれてる、ちぎれてる!?」

 人で溢れた食堂内に女子高生たちのキャッキャッとした嬌声が響く。

 昼休みの食堂は人で溢れていたがオレの周囲には誰も寄りつかなかった。これはオレという稀有で高尚なる存在に対する明白な侮辱……という訳ではなく、理由はちゃんとあった。

 ひとの口には戸がたてられないのが世の常。どこからかオレと父との熱い再会シーンは筒抜けとなり、その情報を怖がって誰も近づいてこないのだ。

 十年ぶりに再会した父にナイフを投げつけた息子。確かにその事実だけを聞くと、近寄りがたい人物と思われても仕方ない。

 オレはひとり寂しく、手元の焼きそばに箸を伸ばした。


 この日の朝、扉がノックされると朝食と制服をもったリースが現れた。リースは仏頂面のまま「学校に行きたければ行けばいい、行きたくなければ行かなければいい」と父からの伝言を告げると、押し付けるように朝食と制服を手渡し去って行った。

 受け取った制服は、すぐに投げ捨てた。

 これ以上、父の掌で踊る気はない。そう思い、絶対に学校へは行かないつもりでいた。だが、朝食を食べ終えるとやることがひとつもなくなり、一時間二時間とボーっと過ごすのを苦痛に感じ始めた。そして決して人には知られたくないが、オレには学校に対する憧れがあった。それも強い憧れだ。次元の放浪者〈デッド・パッカー〉として十年間過ごしてきたオレは、一度も学校に通ったことがない。各次元を転々としながら同い年の子どもたちが、手を繋ぎ楽しそうに通う学校は憧憬の的だった。

 学校に行けば、幸せが待っているに違いない。

 そうした幼少からの憧れに負け、簒奪された青春の日々を取り戻すべく、昼前には父が手続きを済ませてあった鈴鐘高等学校の門をくぐった。

 鏡の前で学生服を着た時は恥ずかしくもあり嬉しくもあった。学校へ行ける。そう思うだけで胸が高鳴り、学生服を着た鏡の中の自分が滑稽にも見えたし、高尚な存在にも思えた。

 オレは生まれて初めて、憧れの学校生活をスタートさせた。そして、すぐに自分の誤想に気付いた。憧れの学校生活はこれまでの人生になく辛く、厳しいものだった……。

 突如現れた転校生に周囲の生徒は好奇の目を向けた。しかもその転校生が理事長の息子である事を知った生徒たちはUMAが現れたかのような騒ぎでオレを見に来た。注目されることに慣れていないオレにとって好奇の目は苦痛でしかない。

職員室で簡単な手続きを済ませると、「今は昼休みだから、授業は午後からね。さきに食堂でご飯食べておいでよ」と、オレの担任となる女教師が明るい笑顔で言った。

だが、今のオレに午後の授業に出る意志はとうの昔に消え失せていた。この飯を食ったら速攻で帰宅しよう。そしてさっさと父がいない別次元に旅立とう。人生初登校はオレの憧憬の念を打ち砕くには十分な心苦しさだった。

この十年間、一日一日を生き延びるため死力を振り絞ってきたオレにとって学校は狭く息苦しい場所だった。安全だからという理由で自由に大空を羽ばたいていた鷹が不自由な狭い鳥籠に押し込められた気分だ。

遠くからオレを指差し、楽しそうに話をする女の子たちを見て、「世界が違うな」と、乾いた気持ちで思った。彼女たちは死神の腕を掻い潜った事もなければ、その腕が間近に迫った事もないのだろう。

周囲から向けられる好奇の目を苦痛に感じ、焼きそばを持って一番目立たない壁際に移動した。

壁際の席は陽の光もあたらず陰気な雰囲気だったが、人の姿が見えない分、落ち着くことができた。すぐにこの場を去りたいと思い、飲み込むように焼きそばを食べた。不思議なことに悲愴が染みて飯だけはやたらと美味かった。

 その時、食堂内の喧噪としていた雰囲気が一気に静まった。

 何事かと思い振り返ると、皆の目がある方向、一点を見つめていた。

その先には両手に包帯を巻いた、制服姿の天女がいた。

そうだ。この時になってはっきりと思い出した。昨夜、天女が着ていたズタボロの制服はここの制服だったのだ。

真新しい制服に身を包んだ天女は、目玉焼きがのった信じられないほど大盛りの焼きそばを手に歩いていた。

天女が近寄ると、自然と人波が左右に割れ、彼女はモーゼのように真っ二つに割れた群衆の中を悠然と進んだ。但し目は伏せて誰とも顔を合わさないようにしながら。

喧噪としていた食堂を瞬時に沈め、無言の行進で人波を左右に割るその姿は怪物が闊歩している様だった。天女は食堂中の視線を独占していた。天女が目の前を通り過ぎると、全ての生徒がドミノ倒しのように視線を移動させていく。

割れた人波の中を突き進み、どこに行くのかと思っていると、天女はオレのすぐ近くの席に座った。その席もまた陽の光があたらず陰気で目立つことのない場所だ。

天女は焼きそばにマヨネーズをかけると一人で黙々と食べ始めた。一口、二口と焼きそばを口にすると、それが合図だったかのように、他の生徒たちが徐々に口を開き始めた。

 「……ホントに帰って来てたんだ」

 「……他の奴らは?」

 「……決まってんだろ……全滅だよ」

 「ウソでしょ!? 弁天様は?」

 「マジだって。オレ、先生が話してるの偶然聞いたし」

 「オレたちの式神ちゃんは?」

 「……ダメ。……帰ってきてない」

 「じゃー……音色ちゃんも?」

 「うん」

 「かわいそー……」

 「けど、ボックスはまた出撃するらしいぜ」

 「マジかよ。……よく行くよな、ホント」

 「仕方ねーだろ、箱はそのための存在なんだし」

 知らないことを知りたがる生徒と、自分が知っていることを話したがる生徒の興奮が入り混じり、初めはコソコソと聞こえていた話し声が次第に大きくなっていく。いつの間にか食堂の話題はそれ一色と化した。

 ボックスは全次元で最も尊崇され価値ある存在とされているはずなのに、ここでは彼女に対する尊崇の念は全く感じられない。それどころか噂話の標的にされている感じすらする。

この学校の日常は新参者のオレには分からない、これが普段の姿なのか。

 そう思い天女に目を向けるとギョッとした。皆に背を向け、壁と向きあっている天女は、ぽろぽろと涙を流しながら焼きそばを食べていた。話し声が聞こえていない訳でも、傷ついていないわけでもなかったのだ。皆が我先にと口走る情報合戦は天女の心を傷つけ、彼女に無言の涙を流させていた。

制服を着た包帯だらけ美女が、泣きながら焼きそばを食べる姿を見たのはこれが初めてだった。その姿は不思議とオレの心に響くものがあった。

 目が釘付けになっていると、こちらの視線に気付いたのか口いっぱいに焼きそばを頬張った天女が目を向けた。

 「……ふぁんた……ふぃのうの」

 何を言ったのか分からなかった。聞き返そうか、無視しようか迷っていると、焼きそばを手にして立ち上がった天女がオレの腕を掴んだ。

 「いっふぉにふぃて」

 「えっ!?」

 「いっしょにふぃて」

 天女はオレの腕を掴むと、一目散に食堂から逃げ出そうとした。

 「おい待てって」

 天女は好奇の目から逃れるために俯いて走った。新参者のオレにもこの場の空気が彼女を追いこんでいることは分かる。だが、このまま彼女の逃走を許すわけにはいかない、なぜならその先には……。

 「おい! 待てって! おい!」

 オレの呼びとめも虚しく、天女は逃げ出すように走り続けた。そして、


 ゴチンッ!


 食堂内に鈍い音が響き渡った。慌てて外へ走り出ようとした天女が閉まっているガラス扉に直撃したのだ。ちゃんと扉が閉まっていることを伝えてやれば良かった。息が止まるほど、見事なぶつかり方だった。

 鈍い音が響くと同時に全員の言葉が一斉に途切れ、食堂内は潮が引いたように静まった。その中、真っ赤におでこをはらした天女の呻き声が響く。

 「うぅ……う……いたぃよぅ……」

 天女の瞼にはうっすらと涙が溜まっていた。

自分で自分のおでこを何度もさするその姿は、とんでもなくトロクサく、そして生まれたての子犬のようにとんでもなく愛らしかった。

ガラスに直撃した天女はその場で蹲ったが、焼きそばだけは零さないよう死守していた。


 ○


 「あんなの所で食べても、美味しくないもん」

 天女は屋上の手すりの前に立ち、直立不動の姿勢で焼そばを食べ続けた。そのおでこはいまだに少しだけ赤い。

 雲一つない澄み切った青空の下、颯爽と吹く風が天女の制服のスカートを揺らす。その姿を見ていると、甘い喜びが胸の中で広がった。

 「あんた、昨日の人でしょ」

 焼そばを食べる天女が訊ねてきた。

 「覚えてた?」

 「当たり前でしょ。忘れる訳ないじゃん、命の恩人を」

 天女がこちらを一瞥して答えた。半分ホントで半分ウソだな、と思った。

昨夜の天女は意識がなかったので、オレのことを明瞭に覚えているとは思えない。だが、身長百九十センチで体重九十キロ、髪形は長髪のクルクル天然パーマで、頬に切傷が走り、耳が半分裂けている男のことはなんとなくうろ覚えでいたのだろう。事実、天女は今、風に吹かれて見えるオレの耳をチラッと確認している。耳が半分裂けた男はそうそういるものじゃない。

しかし、オレには自分のことを覚えていたかどうかより、裂けた耳を目の当たりしても、あえてその傷に触れてこない天女の気遣いが嬉しかった。

「ここの生徒だったんだ。初めて見たけど何組? ってか何年?」

 「一年、組は知らない」

 「知らない?」

 「今日、入学したばっかだから」

 天女が目を丸くして驚いた。

 「あぁ、あんたが魑魅総統の息子さん」

 父の息子であることは揺るぎない事実だが、その呼ばれ方はどうにも納得できず返事は適当に濁した。

 「で、お前は親父たちが重宝するボックスだろ」

 ボックスと呼ばれ天女の眉がピクッと動いた。それは明らかに不快感の表れだった。

 「なんだ、知ってたんだ私のこと……」

 天女は食べ終えた焼きそばの皿を地面に置くと、冷ややかな目で訊ねてきた。

 「じゃーさ……昨日も、知ってて助けてくれたの?」

 「いや、助けた後に知った」

 「そう、やっぱりそうだったんだ。……それじゃー、無理に連れてきて悪かったわね。いいよ行っても」

 「なんだよそれ。無理やり連れてきておいて」

「だって、一緒にいると怖いでしょ」

 「怖い?」

 「そうよ、だって私はボックスだもん。一緒にいると何が起こるか分かんないでしょ。いいわよ気をつかわなくても。嫌われたり、無視されるのは昔から慣れっこだから」

 吐き捨てるように天女が言った。その顔には酷く寂しい色が浮かんでいる。

 なるほど、そういうことかと合点がいった。

 ボックスは全次元において最も価値のある存在。そうなると勿論、ここにも人攫いや、よからぬ犯罪者軍団が襲撃にきていることは容易に想像できる。その時、ボックスの傍にいることで闘いや襲撃に巻き込まれることを皆は恐れているのだろう。親しくなった者はボックスを呼び出すための「餌」として攫われる可能性も高い。

 食堂や昨夜の街中で、皆がボックスを避けている理由が分かった。

 我が身の安全を脅かす存在を避けるのは当然かもしれない。しかし、そんな理由で全次元のために命を懸けるボックスが孤立するのは腑に落ちない。冷たい現実の一端を垣間見た気がした。

 立ち上がり、徐に天女との距離を縮めた。するとその瞬間、天女が気色ばんだ。

 「なに、なにか文句ある訳? 言っとくけど謝んないからね」

 「謝るって、何を」

 天女が顔色を曇らせ、眉間に深い皺をギュッと寄せた。

 「分かってるわよ。……私の護衛にあんたの友達がいたんでしょ。その人が亡くなったのは、私のせいだって言いたいんでしょ。そうでしょ」

 天女が初めて厳しい表情をみせた。しかし、こちらに彼女と事を構える気は寸毫もない。

 「オレは今日、転校してきたんだぞ」

 「だからなに」

 「友達、いるわけないだろ」

 「あっ……」

 天女は「そっか……」とつぶやくと、安心したようにホッと息を吐いた。

 オレは朝、リースが用意してくれていたハンカチを取り出した。

 「それより、拭けよ」

 「え?」

 「口の回り。ソースだらけだぞ」

 「えっ!?」

 天女はすぐに自分の唇を指で触り、ソースがついているかを確認した。指先についたソースを見ると、みるみるうちに天女の顔が赤面し始めた。彼女にも人並みの羞恥心があることが分かると、なぜかホッとした。

 「あ、ありがとう……」

 天女はハンカチを受け取ると、目を伏せながら口を拭いた。

 「リートゾーン31ってどんな次元?」

 話題がほしくて何となく訊ねてみた。沈黙が怖かった。

 「一言で言えば……砂の国かな」

 「ヤバい次元?」

 天女はかぶりを振った。

 「危なさでいえば中の下。至って普通、現世界〈ホット・ホーム〉とそれほど変わらない」

 「だったらなんで……」

 なんで全滅したんだ。と、聞きそうになったが喉元で言葉をとめた。真実を知りたかったが、心の傷をえぐるような質問をしてはいけないと思った。

 「なんで、全滅したかって?」

 天女が言葉を引き継いでくれたが、慌ててかぶりを振った。

 「いや、いい。悪かったバカなこと聞いて」

 「全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉」

 「えっ!?」

 天女の顔にうっすらと憤怒の色が浮かぶ。

全次元には、次元を滅ぼす七つの凶災が存在するといわれている。

それぞれの凶災は、凶災の宿り主である七つの生命体が使いこなし、全次元の民はその力を忌み嫌って、全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉と呼んでいる。

だが、その力を見たもの者は誰もいない。なぜなら凶災が訪れた次元は必ず崩壊しているからだ。ただそれは、あくまでも伝説にすぎない全く信憑性のない話だ。

 「全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉って……」

 「みたいな奴がいたの」

 「みたいな奴……」

 「途中でギャングみたいな奴らにもあった。私を攫おうとした犯罪組織もいた。けど、そんなの問題じゃなかった。いつも通り闘って勝って、束ねられた神の光〈オーラス〉まで辿り着いた……」

 天女はそこまで話すとぷっくらと膨らんだ、果実のような下唇を悔しそうに噛んだ。

 「そしたら、そいつが来たの。束ねられた神の光〈オーラス〉の直前で」

 「……それで?」

 「あっという間だった。意味が分かんなかった。急に空から現れたかと思ったら、お前らと思ったけど違った、まぎらわしいんだよ。とかなんといっていきなり闘いになって、全然歯が立たなくて……それでみんなは……」

 天女は両手が白くなるほど強く拳を握りしめた。

 「けど、お前は助かったんだし。良かったじゃん」

 「良くないわよ!」

 弾かれたように天女が叫ぶ。

 「みんな、私を逃がすために犠牲になったんだよ! それでいい訳ないでしょ!」

 怒声を上げた天女は、荒くなった呼吸を整えると「……ごめん」としおらしく謝った。

天女のその姿は、真冬の雪片のように揺れながらオレの心の底に落ちた。

 「ホントは今日、学校に来たのも私以外に誰か帰ってきた人がいないか、確認したかったの」

 「誰か、いた?」

 天女が力なくかぶりを振る。その姿を見た途端、胸が締め付けられた。

 「お前……また出陣するのか?」

 「当たり前でしょ」

一切、迷いのない返事だった。

 「いつ?」と訊ねると。すぐに「今夜。十時」と即答された。返答の早さは決意の強さにも、投げやりな感じにも聞こえた。

 何を話せばいいのかわからず、黙り込んでしまった。恐れていた沈黙がやってきた。

恐らく天女は今度の出撃で、護衛をできるのがオレだけということは知らない。そしてそのオレが護衛をすることを渋っていることも知らないはずだ。

事実を告げぬことに罪を感じ、胸の中はみるみるうちに灰色の空気が充満した。

 「空、きれいだね」

 天女が両手を高々とあげて全身で風を浴びた。その姿の天女は、今にも蒼穹に向かって浮かびあがりそうなほど颯爽として美しかった。

 「別に……行く必要なんてないだろ」

 風を浴びる天女が潤んだ瞳をこちらに向けた。

 「ほろこびが出来ようが、それがひずみになろうが、お前が気にすることじゃないだろ」

 天女の髪とスカートが風に吹かれてフワッと浮き上がった。その瞬間、不意に甘い喜びが湧きあがった。

 「……初めて。そんなこと言ってくれた人」

 「ひずみを持った世界なんて、他の次元じゃ珍しいことでもなんでもないし、現世界〈ホット・ホーム〉にもひずみは既にあるじゃん」

 現世界〈ホット・ホーム〉に「ひずみ」はすでに二十四個ある。ただし全ての「ひずみ」は信頼できる友好的な次元と繋がっている。その為、現世界〈ホット・ホーム〉の秩序が乱れることはない。だが、だからといって次に繋がる次元もそうした友好的な次元という保証は何もない。

 「いいの。もう行くって決めてんだから」

 「なんで? 命の危険もあるんだろ?」

 「だって私はボックスだもの。それ以上の理由はないでしょ?」

 天女が口の端をあげて笑った。時間が止まればいいと思うほど妖艶で美しく、そして深い悲しみを感じさせる笑顔だった。

 その笑顔にみせられたせいか、思いもしなかった言葉が口から飛び出した。

 「助けてやろうか」

 「え?」

 天女が虚を衝かれた顔をする。

 「オレも次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉だ。必要なら助けてやる」

 言い終えた後、どうしてそんな事を口走ったのかと思うと同時に、何か腹の底で決意が固まった気がした。行きたいのか逃げたいのか、自分の本心が分からないが、言い終えると言って良かったという気持ちが湧いてきた。

 しかし、天女は力いっぱい首を左右に振った。

 「いい、絶対来ないで! 一人で行きたいの! 絶対来ないで!」

 敵愾心で溢れた目がこちらに向けられる。

 「なんだよ、そんなに嫌がらなくていいだろ」

 「いいって! だって邪魔なんだもん! もう護衛はいらない、一人がいいの! 足手まといがいるからうまくいかなかったのよ!」

 天女が語気を強めた。こっちは良かれと思って言葉をかけたのに、罵倒を持って返礼されるとは想像もしていなかった。

 「だったら、勝手にしろよ」

 踵を返しその場を後にしようとした。全次元一の紳士を自称するオレも、こんな理由で憤慨するレディーに謝る気にはなれなかった。

 「待って」

 呼ばれて振り返ると、天女が紙パックを投げてきた。

 「なんだよ、これ」

 「昨日のお礼。そんなんじゃあれだけど、今そんなのしかないから」

 投げ渡された紙パックを仔細に確認した。上下に振った感覚からすると、中身が液体であることは分かった。そしてパッケージに林檎の絵が描いてある。恐らく林檎ジュースであることも分かる。しかし、この紙パックについている細長い透明の筒が何か理解できない。

 「何だよ、これ?」

 細長い透明の筒を指差すと、天女が「はっ!?」と素っ頓狂な声をあげた。

 「だから、なんなんだよ。これは?」

 「なにって……ふざけてんの? ストローでしょ、それ」

 「ストロー……」

 使い方が分からず見つめていると、天女が「貸して」と紙パックを受け取り、細長い透明の筒を突き刺した。

 「あんた、ストローを知らないって。どっから来たの?」

 感心しながらマジマジとストローを見ていると、天女が怪訝な顔で訊ねてきた。

 「……外国だよ」

 人には一つや二つ隠したい過去がある。オレの場合それは、次元の放浪者〈デッド・パッカー〉だということだ。次元の放浪者〈デッド・パッカー〉とはそのまま犯罪者であることを告白しているようなものだ。一般的な次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉から見れば、次元の放浪者〈デッド・パッカー〉は魔道を歩む者。その存在は蛇蝎の如く嫌われる。そのため、オレは自分が次元の放浪者〈デッド・パッカー〉であることは明かさない。

 「外国ってどこよ?」

 「ロンドンだよ」

 口から出まかせだ、適当に答えた。オレは現世界〈ホット・ホーム〉のことを知らない訳ではない。現世界〈ホット・ホーム〉のことは別次元にいるときから情報を仕入れていたのである程度のことは、いやある程度以上の情報は知っているつもりだ。

ただ、ストローだけは盲点だった。

 「ウソだ、ロンドンのどこよ」

 訝しげな顔で天女が追及してくる。

 「山だよ山、山奥」

 「ロンドンに山奥なんてあったっけ?」

 「これ、ありがとな」

 踵を返した。これ以上、自分のことを追及されたくはなかった。しかし、二、三歩くと聞き忘れていたことを思いだして振り返った。

 「おい」

 「な、なによ」

 「お前、名前は?」

 「え?」

 「名前。ボックスなんて名前じゃないだろ。ちゃんとしたお前の名前は?」

 名前を聞かれた天女はパッと光が灯ったように明るい顔をみせた。しかし、すぐに顔をしかめた。

 「いい。……言わない」

 天女は俯くと、つぶやくような声で答えた。

 「なんで」

 「だって……名前なんてあるから、別れが寂しくなるのよ。私はボックスでいいの」

 天女が屋上の策にもたれ下界に目を向けた。その先には木陰で楽しそうにお弁当を食べている女子高生たちがいる。笑い声をあげて、お弁当を食べる女子高生たちを見る天女の目は物悲し気で、それでいて見とれてしまう美しさがあった。

 策の上で頬杖を突き、羨ましそうに女子高生を見る姿は、ただでさえほっそりとした、儚い印象のある彼女をより弱々しく感じさせた。

女子高生たちの楽しそうな声が聞こえた。彼女たちは身の回りのもの全てが青春なのだ。それに比べてボックスはどうだろう。彼女は今夜、たった一人で別次元への歩行を始める。それは死地への歩行である。

女子高生たちとボックスとの歩む道の違いは、人生の不平等に他ならない。

 心の中で、ゆっくりと天秤が揺れ動いた。

父の掌で踊らされるのは癪だが、胸の中では決意めいた空気が今にも動き出そうとしている。初めてボックスの存在を知ったときからそうだ。ある一つの気持ちが、ゆらゆらと揺れ、膨張し、喉の奥を圧迫する。かろうじて抑えられているものの、何かのスイッチ一つで制御を失ってしまいそうだ。万事、父のお膳立てに任せ、俎上の魚になるべきか。心の中で天秤が大きく揺れ動く。

 旋風が吹くと、天女の絹糸のような柔らかい髪が風になびき更に妖艶な美しさが増した。そして旋風がもうひと吹きすると、今度は天女のスカートが一気にめくりあがって、純白の下着が目に飛び込んできた。

 「きゃっ!?」

 天女は慌ててスカートを抑えると、顔を赤らめたまま鬼のような形相でこちらを睨んだ。

 「見、見たでしょ!? って言うか、絶対見たわよね!!」

 「え? いや……見たっていうか見えたっていうか」

 オレが答え終わる前に、天女が鬼神の面持ちでこちらへ歩み寄ってきた。

 「エッチ! ヘンタイ!」

 「えっ!?」

 天女はボールを遠くへ投げるように大きく振りかぶるとそのまま拳をオレの頬を目掛けて撃ち込んできた。

 ウソだろっ!? その思ったのも束の間、「ゴンッ!」と鈍い音が青空の下に響いた。


 ○


 天女の一撃は想像以上の破壊力で、頬の痛みがひいたのは夜になってからだった。

 その日は結局、授業には出ず、編入の手続きと昼飯だけを食べて帰った。

部屋に戻り、夕食を済ませてベッドで横になると、いよいよ何もすることがなくなった。制服姿のままベッドの上で何度も寝返りをうった。心を無にしようと努めても、頭の中には昨日と同じ事ばかりが思い浮かぶ。

 天女の護衛をするか、それとも無視をするかだ。

 学校で見た天女の包帯姿が忘れられなかった。「当たり前でしょ」と即答した、覚悟を決めた声が耳から離れなかった。天女の声には死を覚悟した重さがあった。

 時計を見ると、時刻は午後八時を回っていた。

 胸中にわだかまるさまざまな想念を抑えこもうとする度に、胃が鉛でも飲み込んだかのように重くなった。

激しく懊悩しながら室内を右往左往と歩き、ポケットに手を突っ込んだ瞬間、「あっ」と声をあげて驚いた。初めて天女とあったときに手にした、黄色い小鳥の形をしたペンダントを入れっぱなしだったのだ。

黄色い、ぽっちゃりとした小鳥が無邪気な丸い眼でオレをジッと見つめている。純真そうなその目が、昼間の天女の笑顔を想起させた。

 窓際に立ち夜景に目を向けた。

思うことはただ一つだけだ。この光のどこかに彼女がいる、そして彼女は今、出陣に向けて一人で準備をしている。

ボックスとは全次元の未来を双肩に担おう、祝福される存在であるべきだ。

 「その時、その時、必死に考えて正しいと思ったことを全力でやりなさい」

 母の声が聞こえた気がした。

 オレは手の中のペンダントを力強く握り締めた。


 ○


 「すいません。ちょっと通して、すいません」

 午後十時近くの海辺は人、人、人で埋め尽くされていた。

黒山の人だかりを掻き分け、前へ前へと進む。集まっている奴らは、表向きはボックスの見送りとなっていたが、オレにはただの野次馬に思えた。

オレの考えが捻くれているだけかもしれないが、実際に誰も自分の命を懸けてボックスについて行こうという豪の者はいないだろう。別次元へ行けない自分をラッキーと思っている奴もいるだろうし、もしかすると移動ができることを黙っている奴もいるかもしれない。しかし、だからといってオレにそいつらを責める気持ちがあるかというとそれは皆無だ。オレも同じ穴の貉だ。一時間前まではボックスの護衛と我が身の安全のどちらを取るかを本気で悩んでいた。

集まった人の数は数百人、数千人ではなく、数万人単位、もしかするとそれ以上かもしれないほど溢れ返っていた。全員が手に赤や青や緑、黄色と色とりどりのライトを持ち、花火や虹を彷彿させる輝かしさでボックスを送り出している。荘厳、そして華麗な見送りであるが、それだけによけいにこの世のものと思えない。

皆は口々にボックスが無事に帰ってくることを祈るようにつぶやいている。その声も今のオレには永別の不安を本能的に感じ取っている声にしか聞こえない。

「オヤジィ!」

人混みを掻き分けて先頭に出ると、「ほころび」の前に立つ父と隠密参謀長長、リース、そして制服姿の天女が見えた。四人は膝元まである海中に衣服のまま入っている。

オレの声を聞いた父は眉一つ動かすことなく「早くしろ」と言った。オレがきたのは当然といった仕草だ。

父の合図で、横一列に並んでいる武装した警備員が通してくれた。

四人の前に歩み出た。

「役者がそろったな」

満面の笑みを浮かべた父が、馴れ馴れしく肩に手を置こうとしてきたのでサッと避けた。

父は昨日みせた狂気の片鱗を、まるで感じさせない笑みを浮かべている。

父の隣に立つ隠密参謀長長は柔和な笑みを浮かべ、その後ろに立つリースは険しい表情だ。そして天女は今にも泣きそうな顔でこちらを睨み付けている。

「なんで! なんできたのよ!?」

天女が噛みつくように声をあげた。

「キミの分の地図と向こうの通貨だ。気を付けてくれ」

隠密参謀長が地図と通貨を入れている鞄を渡してきた。

「はいはい時間だ時間、ゴーゴーゴー!」

腕時計を見た父が言った。

次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉の出発は、すべてが未知、すべてが闇に包まれている。未知への歩行は同時に闇への歩行であり、死を覚悟した歩行である。

これが今生の別れになる可能性もあるが、父はその素振りを一切見せない。

「護衛はいらないって言ったでしょ! 一人でいいって言ったでしょ!」

天女が背中越しにオレの肩を揺するが無視した。それよりも今は聞くべきことがある。まっすぐ父の目を見据えた。

「オレが、絶対ボックスを見捨てない。そう思ってたんだろ?」

「あぁ」

父が低い声で答えた。

「だけど、もしかしたらあっちの次元から戻ってこない可能性だってあるんだぜ。誰かが昔、そうしたように」

犬死は御免だが死ぬことに恐れはない。追われて、逃げて、嫌われての唾棄すべき人生だ、これといった悔いもない。だがその前に、父にどうしても訊ねたいことがあった。

なぜ十年前のあの日、母とオレの前に現れなかったのか。

十年間の憤怒の怒りを鎮め、持てる総力を振り絞り平静を装った。

しかし、父はオレの体を力づくで回転させ、「ほころび」に向けた。質問は認めない、そういう仕草だ。

「行け。可愛い子には旅させろだ!」

父がオレの背中を力強く押す。

納得できる答えなど期待してはいなかったが、まさかこんなクソみたいな返答とは恐れ入った。

「ほころび」を眼前に控えると、不意に切なさが込み上げてきた。何かを叫びたいような思いに囚われたが、歯を食いしばって堪えた。憎しみの感情だけが燎原の火のように広がっていく。

「あぁ、分かったよ。じゃーなクソオヤジィ!」

隠密参謀長長から鞄を受け取り、地図と通貨を抜き取ると鞄はすぐに返した。余計な物は荷物になるだけだ。

すぐ近くで天女が仁王立ちしていた。

「なに勝手に行く気になってんのよ!? 邪魔だから来ないでって言ったでしょ!」

「行くぞ、いまさら引く道なんてあるか」

強引に天女の手を握り、足を進めた。

「あるでしょ、あんたには! 他にも選べる道があるでしょ!」

天女の声には怒気が含まれている。

「あんたは私と違うんだから、幸せに生きられるでしょ!」

「ほころび」の前まで歩むと、天女がオレの手を振り切った。目尻からは涙が零れている。

「お願いだから帰って……」

頬をつたった大粒の涙が零れ落ち、海面で弾けて光の粒を散らした。天女が零したその涙は、これまで歩んできた無情な運命への抗議に思えた。

「もうイヤなの……。これ以上……私を護るために、誰かが傷つくのは……」

絞り出すような声が聞こえた。最後の言葉は、懺悔室で神父に訴えかけるように、己の罪を告白する弱々しさがあった。その声を聞いた瞬間、「これか」と思った。天女が人を避けるにはそういった理由があったのだ。

オレの中で激情が込み上げてきた。生まれて初めての昂ぶりだ。一人の女を護りたい、これまで経験したことのない感情が体の奥底からあふれ出てきた。

天女の顎を指で上げ、目線をこちらに向けさせた。

「いいか、よく聞け」

瞼に溜まった涙で、黒く大きな瞳が宝石のように輝いている。

「オレの名は魑魅正鷹。正しい鷹って書いて正鷹。オレは自分が正しいって思ったことをする」

「な、なによ急に」

天女が不意打ちを食らったような顔をみせる。

「オレは誰の指図も受けない。オレはオレの道を歩く。お前の名前は」

「え?」

「名前。ボックスなんてただの呼び名だろ、ホントのお前は誰なんだ」

天女の目がひときわ大きく開かれた。天女は驚きとも喜びとも取れる表情を見せた。

「……巫女。私は、早乙女巫女」

 早乙女巫女。天女は自分の名を告げると、少しだけ口の端をあげて笑った。

「行くぞ、巫女」

手を握ったまま「ほろこび」に向かった。

「ほころび」に飛び込む瞬間、見送りの野次馬たちから歓声があがった。「がんばれ」「気を付けて」「絶対、帰ってこいよ」様々な言葉が聞こえた。その瞬間、母と過ごした日々が脳裏に蘇った。

暖かい気持ちで「ほころび」に飛び込んだのは十年振りだった。


 ○


 次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉以外によく聞かれる質問は、だいたい決まっている。その中の代表格が「ほころび」を通過する時ってどんな感じ? という質問だ。

 その答えは、答える者によってさまざまである。光が体を突き抜けて意識が超越される。ブラックホールに吞み込まれるような逆らえない力に吸い込まれていく。天からの祝福を受けるように幸福な気分に浸される。さまざまな答えで、どれもが聞く者に夢を持たす話ばかりだ。だが、真実は違う。

夢のない答えで申し訳ないが、実際はジャンプをして着地するようなものだ。ホントに呆気ない出来事である。恐らく生まれつきの能力者が、自分が次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉と知らずに「ほころび」を通過した時は、別次元に入り込んだことすら気づかないだろう。それゆえ「別次元へ迷い込んだ」「異世界に行った」などの話が、どこの次元でもインターネットで溢れている。オレ個人はああいった話は全てが都市伝説ではなく、なかには信じるに値する話もあると思っている。


 「ほころび」を通り抜けると目の前は砂漠都市だった。砂丘にはいくつもの高層ビルがそびえたち、車のような物体が砂上三十センチほどの高さに浮いたまま走っている。歩く人々はオレや巫女のように制服姿の学生もいるが、その姿は人だけではなく、同じように制服を着た二足歩行のサイやカバもいる。人、サイ、カバが同じグループで楽しそうに話をしながら砂上を歩んでいく。

 街中のいたるところには名も知れぬ草花が今が盛りと咲き誇り、空には三つの太陽が浮かんでいる。治安は安定し、文明は優れ、街はそこに生きる生命体の活力に満ち溢れていた。

次元の移動は百を超えていたが「ほころび」を出た瞬間は、いつもその次元の光景に目を奪われる。

あまりの空の蒼さに天を仰いだ。

 「すげーな」

 「……うん」

 隣に目を向けると、天女改め巫女が頬を赤く染めていた。

 具合が悪いのかと思ったが、そうでなかった。「ほころび」を抜けた後も繋ぎっぱなしだった手が気になっていたようだ。

巫女は横目でチラチラと繋いでいる手に目を向けている。

この時になって初めて気づいたが、巫女の指は突きたての餅のように柔らかった。その感覚が肌を通して伝わってくると、こちらまで恥ずかしい気持ちになった。

 「あぁ、ワリィ」

 慌てて手を離すと巫女は「あっ……」と声を漏らしたが、慌てて口を塞いだ。

 「なんだ、繋いどきたいのか?」

 「バ、バカ言わないでよ。そういうのってレディーに対して失礼じゃない!」

 顔を真っ赤にして巫女が反論した。眉間に皺を寄せて怒る姿は、他の女子高生たちと変わらない普通の女子高生に見える。だが、油断はできない。なにせ彼女はボックスなのだ。全次元から狙われる身であり、いまその彼女を守れるのはオレだけである。もはやこの先は、いくら慎重であっても慎重すぎることないと自分に言い聞かせた

 束ねられた神の光〈オーラス〉までの地図を広げた。

 地図で見る限り、束らねられた神の光〈オーラス〉は砂漠のど真ん中だ。恐らく交通手段はなにも通ってないだろう。車での移動を考えたが、警備がしっかりとしたこの次元で車を盗むことは賢明ではない。自転車のような乗り物を購入すべきかとも考えたが、砂漠の砂の上なら自転車より徒歩の方が体力を使わず進めるはずだ。なら、徒歩の選択が賢明だろう。

 「歩こう、徒歩でも行ける距離だ」

 地図をポケットに突っ込み歩き始めた。しかし、すぐに「待って」と巫女の声がかかり、足を止めた。

 「なんだよ」

 「ひとつだけ協力して」

 巫女が真剣な顔をみせた。

 「なにを?」

 「仲間を、友達を助けたいの」

 「友達?」

 「お願い、それだけは協力して」

 距離を詰めてきた巫女が哀願するような目で顔を覗き込む。

 「助けるって、だって前の部隊は……」

 全滅、という言葉が脳裏をよぎった。前の部隊は、巫女以外は誰も生き残っていないはずだ。

 巫女が力強くかぶりを振った。

 「ううん、生きてる。絶対生きてる! 約束したの、逃がしてもらう時に、絶対迎えに行くって。ここで再会しようって」

 「ここって、どこ?」

 「束ねられた神の光〈オーラス〉のすぐ近く。みんなと別れた場所。絶対みんなはそこで私を待ってるの」

 感情を露わにした巫女が力強く手を握ってきた。その姿から必死さが伝わってくる。

 「お願い。ホントは私、束ねられた神の光〈オーラス〉なんかより、みんなと会いたくてここへ来たの。だからお願い、力を貸して。お願いします」

 巫女が慎み深く頭を下げた。巫女が死地へと再び舞い戻ったのは、そうした理由があったのだ。

しおらしく頭を下げる姿がオレの心を強く打った。

 「……分かった」

 「ホントに!?」

 パッと明るい顔をみせると、巫女は「ありがとう! ありがとう!」と連呼して激しく手を揺すり始めた。その声はさきほどの重苦しさから一転して明るさが滲んでいた。

 「ただし、オレも条件が二つある。いや、三つだ」

 「三つ?」

 人差し指を一本突き立てた。

 「一つ目は、このどさくさに紛れてオレは親父の手から逃げる。それを黙認しろ」

 「逃げるってどこに?」

 「決まってんだろ。別次元だ」

 「えっ!?」

 巫女が弾かれたように驚いた。

 「次、次元の放浪者〈デット・パッカー〉になろうっていうの!?」

 「驚く事じゃねーだろ」

 「ムリよそんなの、だってIDも通行書もないなんてムチャクチャじゃない。病院にも行けないし、警察にも追われるし……それに絶対悪い人たちに捕まるわよ」

 「悪い人って?」

 「bps〈快楽主義者〉とか……」

 bps〈快楽主義者〉とは全次元最悪と悪名を馳せる犯罪組織だ。

“真夜中の王”と呼ばれる人物がその組織をおさめ、無数の次元を地獄に叩き落としていると聞く。しかもその活動に明確な目的はなく、ほとんどが破壊を楽しむために行っているという理由から「快楽主義者」と名付けられた無法者の極みだ。どこまでの噂がホントか分からないが、今回の次元の歩行〈ディメイション・ウォーク〉でオレが一番鉢合わせしたくないのは、そのbps〈快楽主義者〉だ。

面白半分に犯罪を犯す連中なら、必ずボックスの誘拐を企てる。bps〈快楽主義者〉との鉢合わせだけは避けたい。

 オレは心中の不安を悟られない様、巫女の言葉を無視して中指を突き立てた。

 「二つ目、束ねられた神の光〈オーラス〉までお前を連れて行き、無事にここまで送り届ける。だからその間は、決してオレに逆らうな」

 少し訝った表情を巫女が浮かべる。

 「それがおかしいのよ。なんであんたがそこまで親切なの」

 「優しさだな。ひとえに慈愛の心だ」

 「ウソだぁ。だってあんた自分で言ったじゃん。ほっときゃいいって、ひずみのある次元なんて珍しくないって」

 巫女が口を尖らせた。

 「ちゃんとホントのこと言いなさいよ。私は何にもウソ言ってないんだから」

 次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉同士で信頼関係が揺らぐことは命取りになる。本当のことを伝えようと思った。

 「オレはお前以外のボックスに借りがある。その借りを返したい」

 「えっ」

 「そういう理由だ。納得できたか」

 「わ、私以外のボックスって誰? ホントに知ってるの? 誰それ……教えて、いまその人どこにいるの!?」

 巫女が驚愕と喜びをない交ぜにした表情をみせた。初めて自分と同じ能力者にあえると思ったのだろう。そいつとなら同じ悩みを分かち合い、そして良い友達になれると。しかし、現実とは残酷なものだ。

 オレはかぶりを振った。

 「そのボックスにはもう会えない。それに、その人に恩を返すことも、もう出来ない」

 「え?……それって……」

 「だから、その人からの恩は同じボックスのお前に返す。それでオレの思いをチャラにしたいんだ」

 「ホントに、そんな理由なの?」

 巫女が訝った表情を強めた

 「決着をつけたいんだ。自分自身の過去と」

 本心だった。この一件で過去を断ち切りたいと思った。そのためにオレは巫女を連れて無事にこの次元を踏破する。

 「だから、その間は文句を言わず、黙ってオレについて来い」

 「……あんた、見かけによらずいい奴だね」

 人差し指、中指に続いて、薬指を立てた。

 「で、最後のひとつ」

 「なぁに?」

 「そのあんたって言うのやめろ。さっき教えたろ、オレの名前は正鷹。正しい鷹で正鷹。正鷹って呼べ」

 「えっ!?」

 「あんたより、正鷹の方が分かりやすいだろ」

 「えぇっと……けど、男子なら苗字でいいでしょ……」

巫女が頬を赤く染めた。

 「ダメだ。親父と一緒の呼び方はやめろ。あんたもやめろ。オレの名は正鷹、正鷹って呼べ」

 「そんな強引に言われても……」

 巫女は頬を染めたまま、右手と左手の人差し指をツンツンと突き合わせ始めた。

 「じゃー……マサ、タカ」

 消え入りそうな声でつぶやいた。

 なぜ名前ひとつ呼ぶだけでこれほど顔を赤らめるのか理解できなかった。しかし、いまはそうしたことを追及している暇はない。空に浮かぶ三つの太陽はすでに傾きかけている。日没の砂漠はすぐに暗闇に吞み込まれる。そうなる前に行ける所まで進んでおきたい。

 「巫女」

 「ふぁい!?」

 電流が駆け抜けたようにビクッと巫女の体が震えた。

 「な、何であんた、違う、マサ……タカも、私のこと呼び捨てなの。もっと早乙女さんとか、巫女ちゃんとかって……」

 「いいんだよ、巫女の方が呼びやすいだろ」

 「ご、強引過ぎるわよ……」

 三秒ほど沈黙した後、突き合わせていた人差し指同士を絡めると、真っ赤な顔の巫女が唐突に頭を掻き毟り始めた。そしてこっちを睨むとやけ気味に声を発した。

「もう、わかった! いいわよ! 協力してくれるんだから、特別に名前で呼ばしてあげる! ちゃんと感謝しなさいよ!」

 「んなことより、それ貸せ」

 「え?」

 「リュック、オレが持つ」

 「え?……あ、ありがとう」

 巫女が申し訳なさそうにリュックを差し出す。

背負ってみると思ったより重かった。たった一日、二日の行動なのに何を持ってきているんだ。儀式で使う道具か何かか?

 リュックを背負い足を進めた。空に浮かぶ三つの太陽は燃えさかるように輝き、暑さは容赦ない。街を抜ければすぐに砂漠だ。そこからは命を懸けた歩みが始まる。

首を捻り、後ろを歩く巫女を見た。巫女は目があうと口の端をあげてニコッと笑った。つい昨日、「ほころび」から降ってきた巫女のことを思い出した。そうだ、恐らくオレ

はあのときからこうして命を懸けるべきだとわかっていたんだ。

 「あと、これ」

 「え?」

 「返しとく、お前のだろ」

 ポケットから黄色い小鳥のペンダントを取り出した。その瞬間、巫女は飛び上がり全身で喜びを爆発させた。

 「ことぺだ! ことぺ! どうして!?」

 「巫女がほころびから出てきたとき、壊れて落ちたのを拾っといたんだ」

 「ありがとう! ありがとうね!」

 両手を合わせ、神に祈るような仕草で巫女が礼を言った。

 「首の紐も直しといたから」

 ペンダントを巫女の首にかけた。巫女は熱っぽく潤んだ瞳をみせると、これ以上ないほど丁寧な手つきで、ペンダントをギュッと握った。

「そんなに大事な物だったのか」

 「うん大事! 凄く大事! 宝物なの! だってかわいいでしょ!」

 「これが?」

 小鳥のペンダントを見た。ふくふくとした少しぽっちゃり気味の小鳥がこちらを見ている。このおっとり具合が巫女の心を掴んでいるのだろうか。

 「あぁ……。かわいいな」

 適当に相槌を打った。

 「でしょ! サザナミインコのことぺ。一番大好きなの!」

 巫女は愛おしそうに小鳥の頭を撫で、ぷっくらとした唇で軽くキスをした。そして自分の首からそのペンダントを外すと、それをそのままオレの首にかけた。

 「なんだよ、なんでオレに」

 「持ってて」

 「あぁ?」

 「それで、帰りに私に返して。だから……絶対、生きて帰ろうね」

 巫女が固い決意を込めた、凄みのある表情をみせた。

巫女がかけてくれた小鳥のペンダントが太陽の光を浴びて金色に輝き、巫女の顔を優美に照らす。

生きて帰ってくる、悪くない約束だと思った。

 「行くぞ」

 「うん!」

 声をかけると巫女が肩を並べて歩き始めた。

 風が吹き足元の砂が舞い上がる。風を浴びた巫女の髪がなびき、砂漠の街に似つかわしくないシャンプーの香りが漂った。

隣を歩く巫女を見て、悔しいがやっぱり可愛いと思った。


 ○


 

 砂漠に入りしばらく経ったころ、巫女が水を飲みたいと言ったのでリュックを開けて驚愕した。リュックの中身は、ほとんどがお菓子や弁当、果物といった食べ物ばかりだった。儀式の道具など一つも入っていない。

「なんで……なんでこんな、メシばっかりなんだよ!?」

驚きのあまり訊ねると、「ちゃんと、はんぶんこするから。正鷹も好きなの食べていいよ」と笑顔の答えが返ってきた。オレが聞きたいのはそういった答えではなかった。だが、あまりに可憐な笑顔だったため、それ以上の追及は出来なかった。

 しかし、可憐な笑顔だからといっても許されることには限りがある。

巫女は砂漠に入るなりすぐに「お腹すいた」と言いだし、お握り四つとクッキーを二袋ポテトチップスを一袋食べた。なぜそんな喉が渇くものばかり……。そう思った矢先、「喉が渇いた」といって水筒の水を飲み始めた。

 始めは用意した食料が全て巫女の物であることや、リュックがどんどん軽くなることを良しと思い何も口を出さなかったが、時間が経つごとに不安が募り始めた。何故かと問われれば巫女の食欲があまりに凄まじかったからだ。リュックの中身は次から次へとなくなるが、巫女の食欲は一度満たされても、またすぐに空腹に戻る。そうなればもしリュックが空になった時はどうすればいい? 食べ物がないと分かれば愚痴を言って泣き出すかも知れない。そう思うと、好き勝手に食べさすことに不安を感じ、食べるペースを調整し始めた。

巫女はそのことに対してブーブー愚痴を言ったが、いまは適度に食べ物を与えているため、その不満が爆発することはない。しかし、もしリュックの中身が空になったら……。

 そんな不安に駆られていると、背中のリュックがガサガサと揺れていることに気付いた。

 慌てて首を捻ると、リュックに顔を埋めていた巫女が勝手にチャックを開けて中に顔を突っ込んでいたのだ。

 「あ、コラッ!」

 咄嗟に叫ぶと、巫女の体がビクッと揺れた。

 「顔、出せよ」

 巫女は見事に開いたチャックから、顔だけをリュックの中に突っ込んでいる。

 「出せって、顔」

 リュックに顔を突っ込んだ巫女から返事はない。

 ゆっくりと背負っていたリュックを肩から降ろし、巫女の顔をリュックから出した。

リュックから出てきた巫女は口の中いっぱいに食べ物を頬張り、ドングリを口に含んだリスのように頬っぺたがパンパンに膨らんでいた。

 「なんで……なんでまた食べてんだよ……」

 「ふぉめんな……しゃい……」

 巫女が頬っぺたを膨らせたまま返事をする。

 「食べきってから返事しろよ。顔、すごいことになってるぞ」

 巫女は食べ物が喉に詰まったのか、恥ずかしかったのかわからないが、顔を赤くするとしゃがみ込んで咀嚼を続けた。

 「……おみじゅ」

 「え?」

 「……おみじゅ……くだしゃい」

 しゃがんでいる巫女が申し訳なさそうにつぶやく。

 残りの水は少なかった。だが、あまりにも申し訳なさそうだったので、仕方なく水筒の水をコップに入れた。

 コップを手渡すと巫女はすぐに飲みほし、ケホケホと激しく咳き込んだ。

 「慌てて食べるから……って言うか、あんな姿勢で食べるから詰まるんだよ」

 巫女がしゃがんだまま顔だけをあげた。こちらをキッと睨む目にはうっすらと涙が溜まっている。

 「だって、仕方ないじゃない。正鷹がケチなのよ。お腹すいたって言っても意地悪するじゃん」

 「意地悪じゃない、調整してんだよ」

 「ううん! 調整なんかじゃないよ! 意地悪よ、意地悪! 意地悪! 意地悪!」

 巫女がかぶりを振りながら、頑是ない子どものように言い続けた。

 「ガキみたいに駄々こねるなよ」

 「子、子どもじゃないわよ! 私もう十五歳よ! 成長期だからお腹が減るの!」

 「オレだって十五だよ。同じ成長期だろ」

 「そ、それは……そうだけど……」

 リュックを開き中身を確認した。パンパンに膨らんでいたリュックがわずか数時間で半分ほどの量になっていた。恐るべき食欲だ。そして先ほどまでは中身がパンパンだったために気付かなかったが、よく見るとケチャップやソース、七味なども入っている。

 「巫女、これはないだろ。捨てるぞ」

 リュックから使いかけのマヨネーズを取り出した。

 「ダメ! いるの、それも! 私はどの次元にも絶対マイ、マヨネーズは持ってくって決めてんだから!」

 「じゃーこれは」

 続いてワサビを取り出した。

 「いる! たまにはピリッとした辛いのも食べたくなるでしょ!」

 巫女はさも当然のように答えた。こいつは次元の歩行〈ディメイション・ウォーク〉を旅行や何かと勘違いしているのか。いや、旅行だとしてもマヨネーズやワサビはもっていかないだろ。リュックの中身を仔細に見渡すと端っこのほうに、ポテトチップスに埋もれた袋がひとつあった。わざわざそれだけを袋詰めにしているあたりが怪しい。

 「あ、それはダメッ!?」

 弾かれたように巫女が叫んだ。だが、時すでに遅し。

オレの手が袋を開けると、中からは白とピンク色の布が一枚ずつ出てきた。タオルか? けどタオルにしては生地が薄すぎ……鼻血が垂れた。二枚の布はタオルでなく巫女の下着だった。袋の中身は今日と明日分の下着だったのだ。

 下着を鷲掴みにしたまま、どうすべきかと懊悩した。するとすぐに、背後からメラメラと燃えるような灼熱の怒気を感じた。

 恐る恐る首を捻ると、眦を吊り上げ、閻魔大王の如き顔でこちらを睨む巫女がいた。

 「ヘンタイっ! エッチ! 大っ嫌い!」

 足元の砂を蹴り上げて巫女が力強く振りかぶった。

 左頬に衝撃を受け視界に火花が散った。渾身の力を込めたグーパンチだった。

朦朧とする意識の中で、そういえば昨日、屋上で見た巫女の下着も白だったなと、甘い記憶が蘇った。


 ○


 林檎を手にした巫女が上機嫌で砂漠を歩く。下着の罪を不問に付してもらいたく、オレが差し出した品は林檎だった。しかも手渡しではなく、ナイフでキレイに皮をむき、ウサギの形にして手渡すと、巫女はたちまち上機嫌になり鼻歌交じりに歩いている。

砂漠の地平線に目を向けると、燃えるように赤くなった三つの太陽が姿を消そうとしていた。日没が近い。出来れば今日中に、束ねられた神の光〈オーラス〉に辿り着きたい。

 「ねぇ、夕陽がキレイだよ」

 巫女が正面の夕陽を指差して笑う。

 「私、今までの最高は太陽が五つ同時に出てる次元に行ったことがあるの、すっごい、びっくりするほど暑かったよ。八歳の時だったけど、初めて日焼け止め塗ったの。お月様は最高で七つ同時に出てる次元に行ったことがある、それは七歳の時だったかな」

 上機嫌の巫女は楽しそうに喋り、タッパーの中の林檎にフォークを突き立てる。

 「けど、やっぱり現世界〈ホット・ホーム〉の夕陽が一番好き。あの夕陽が一番、林檎みたいで美味しそうでしょ」

 巫女が屈託なく笑うので聞いてみた。

 「今まで、何次元くらい行ったことあるんだよ?」

 「分からない。二百かな三百かな」

 巫女が首を傾げながら答える。

 「私って、ほら。ボックスじゃん。それが分かったときから、ずっといろんな次元を行ったり来たりの毎日だから」

 「それって、いつ? いつ自分がボックスって分かったんだよ」

 「五歳のとき」

 巫女が不意に目を細める。それは夕陽の光を避けるためではなく、遠い昔を思い出すための仕草にみえた。

 「もともとそういう家系ってのもあったんだけど……。家族でキャンプに出掛けた時、パパとママと滝を見に行ったの。すっごい大きな滝で、いろんな人が下からその滝の雄大さを眺めていたの。そしたらその滝のすぐ真上に綺麗な虹が出てきて、あ、あれ欲しいと思って手を出したら……」

 「虹を勝手に取り込んだ?」

 巫女が力なく頷く。

 「そう。体の中に虹がスーッと入ってきて、それをパパ、ママに見せたいと思ったら、今度は手からパーッと出てきたの。私は嬉しくて、それが出来たことがすっごい嬉しくて笑ったんだけど、パパとママは血の気が引いたように真っ青な顔をしてた。周りの人を見ると、周りの人たちも同じように真っ青な顔になってた……」

 巫女がタッパーの中にある最後の林檎にフォークを突き立てる。その林檎だけは元気なくモグモグと口を細めて食べる。巫女の目がだんだん哀しみの色を帯びてきた。

 「それからは、大体わかるでしょ?」

「人の口には戸は立てられぬ、ってことか?」

「そう。……次の日キャンプから帰ると、家には政府のお偉いさんとかいろんな人たちが来てて、パパとママと話をすると、すぐに私だけが連れられていったの。……私、バカだった。その日の夜には家に帰れると思ってた。だから、なんでパパとママが泣いているか分からなかったの。私を乗せた車が出発すると、泣きながらママが追いかけてきたの。私の誕生日にプレゼントするはずだった、そのことぺを手渡しに走ってきたの」

巫女がオレの首にかかっている黄色小鳥のペンダントを指差した。

「その時から大好きだったの、サザナミインコのことぺちゃん。今も大好き」

「誕生日だったのか?」

「うん。丁度その日がね。ドラマチックでしょ」

巫女が自嘲気味に答えた。

「それからはずっと後悔した。あのとき虹なんて欲しがらなきゃ良かったって。そしたら普通の女の子として生きていけたのに。……虹なんて……ホントに欲しがらなきゃ良かった」

 巫女の目は果てしなく遠くを見ていた。その黒く大きな瞳を持つ少女が今日までどんな人生を歩んできたかは分からない。だが、ボックスとして生きてきたからには凄絶な人生であったことは相違ない。

 「巫女」

 遠くを見つめる巫女に声をかけた。巫女は「なぁに?」といって振り返ると嫣然と微笑んだ。

 その巫女に一番気まずい質問を投げかけてやった。

「オレの分の林檎は?」

巫女はハッとすると同時に、手元の空になったタッパーに目を向けた

「……ごめん……なさい」

乾いた砂上に向かってか細い声が落ちた。

「ほころび」からこっちの次元に移ってすでに五時間近く経っているが、オレは一切何も口にしていない。

 「その林檎でいいからくれよ」

 巫女の手には、半分かじったウサギ型の林檎が残っている。巫女がギョッと驚いた。

 「この林檎って……だって、これ私が半分、かじってるし……」

 「いいよ。オレだって喉がカラカラだ」

 渇ききった舌は先ほどから喉に張りつき、うまく喋る事が出来ない。

 「そんなこと言われても……だって……」

 オレの腹の虫が「ぐ~」と鳴る。その状況に責任を感じたのか、巫女が半分かじった林檎をこちらに差し出す。しかし、すぐにその手を引き戻し、渡そうかどうしようかを迷い始めた。

 「だって、だってよ……。もし、これ食べたらその……関、関節……関節キスになるんじゃないの? だったらそれってやっぱり。……咽乾いてるのは分かるけど、だからって、えーっと……えーっと……えーっと……」

 夕陽以上に顔を赤らめた巫女が一人で何かに煩悶し始めた。

猛烈に煩悶しながら両目をギュッと瞑ったので、いまがチャンスとばかりに林檎を奪い取って食べた。その瞬間、爆発したように巫女の顔が真っ赤に染まった。

 リンゴは涼しさや安らぎを凝縮した甘露の味だった。喉の渇きが癒されると思わず笑い声が漏れた。

 呆然としていた巫女は、その声を聞くとハッと意識を取り戻した。

 「な、なによ! なんで急に笑うのよ!」

 「いいだろ別に、巫女のこと笑った訳じゃねーし」

 「ウソッ! ウソだウソ! 絶対、私のこと笑った!」

 「違うって。夕陽だ、夕陽。夕陽がキレイなんて考えたことなかったなって。そう思ったら急に笑えてきて」

 半分ウソで半分ホントだった。笑ったのは巫女の顔だが、夕陽をキレイと思ったことがないのはホントだった。

 「ホ、ホントに?」

 猜疑心に溢れた目がこちらに向けられる。

 「あぁ。全次元に誓う」

 堂々と胸を張って答えた。疾しい時ほど堂々とするに限る。

巫女が呆れたように嘆息を漏らす。

 「正鷹ってロマンスがないのね。私は自分が感動したものはずっと大事に覚えとくの。心のフィルムに刻んでずっと覚えとく」

 巫女は金色に輝く夕陽を指差して宣言した。

 「私は、これからもいっぱい感動するものに出逢うんだ」

 「例えば?」

 「次元の中心地〈オール・フェアライン〉」

 巫女が即答する。次元の中心地〈オール・フェアライン〉とは読んで字の如く全次元の中心地とされている、伝説の次元だ。

 「そんな所、行ってどうすんだよ」

 「決まってるでしょ。そこにいるボックスさんに会うの」

 次元の中心地〈オール・フェアライン〉には全次元の平和のために、八面六臂の活躍を続ける伝説のボックスがいると噂されている。しかし大方は、その噂を眉唾物だと解釈している。人は心の弱い生き物だ。心の隙間を埋めるため超越した伝説を欲しがり、それを信じようとする。

「私、そのボックスさんに会って聞きたいことがあるの」

 「なにを」

 「生まれてきた意味よ」

 「はぁ?」

 ふざけているかと思ったが、巫女の顔は真顔だった。

 「なんで私が生まれてきたか。どうして、生まれた時からこんな力があるのか。なんのために私が選ばれたかよ」

 遠くを見ながら巫女が言った。ボックスとして生まれたことを悔やんでいるかと思ったが、表情からは何も読み取れなかった。

 「フンッ。バカバカしい。生まれたことに意味なんてあるもんか」

 本音を漏らすと巫女が射ぬるような目でこちらを睨んできた。それでもかまわず話を続けた。

 「大体、次元の中心地〈オール・フェアライン〉自体が存在するかどうか怪しい話だろ。そこで活躍しているボックスなんているかもわかねーし」

 「いる! 絶対いる!」

 巫女が語尾を強める。

 「私は信じているの。次元の中心地〈オール・フェアライン〉も、そこにいるボックスさんも」

 「最初の光を手にした者〈リベイション・ハウゼン〉も?」

 「もちろん、そうよ」

 最初の光を手にした者〈リベイション・ハウゼン〉とは次元の中心地〈オール・フェアライン〉にいる特殊能力者のことだ。これもまたUMA並に信憑性が低い。

 「だったら、やっぱり全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉も信じてんのかよ?」

 少し意地悪気味に訊ねた。もし伝説がホントならば、次元の中心地〈オール・フェアライン〉は、すでに全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉によって滅んだことになっている。

 「なんで、そんな意地悪言うのよ!」

 「だって、信じてるんだろ。伝説は全部」

 「嫌い! 正鷹なんて意地悪、大っ嫌い!」

 赤く染まった砂上に巫女の声が響く。その本気で怒った顔が愛らしくも面白くもあり、つい笑い声をあげてしまった。

笑い続けていると、先を歩く巫女が振り返った。怒るかと思ったが、振り返ると一緒になって笑い始めた。

金色の夕陽に照らされた巫女の笑顔は、真善美がそろった完璧なる美しさだった。

 「私、本気だから。絶対行くんだもん。みんなと約束もしたし」

 「みんなって?」

 巫女がポケットから携帯電話を取り出した。液晶画面には巫女を入れて四人の女の子が映っている、皆同じ制服を着ている、父の学校の生徒だ。

 「誰、それ?」

 「友達、みんな私の友達」

 巫女の声が弾む。携帯電話がオレの鼻先に引っ付くほど突き出してくる。

 「いたんだ、友達」

 「いるわよ! 私にも友達は!」

 怒った巫女が更に携帯電話を突き出してくる。

 「いいって。もう見たから」

 「ちゃんと見なさいよ」

 「見たって」

 「もっと見なさい」

 「いいって」

 「もう!」

 携帯電話を強引に押し返した後、ふと気になった。

 「もしかして……助ける仲間って、その三人?」

 「そうよ」

 「ちょっと、もう一回見せてくれ」

 突如、興味が湧き仔細に顔を見たくなった。自分と同い年の次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉をもっとよく知りたかった。

 「一人一人教えてくれ」

 「ほらぁ、みんな可愛いから興味が湧いたんでしょ」

 「そうそうそう、そうだ。だから、親友の紹介をしてくれ」

 親友の紹介、という言葉が巫女の心に響いたのは一目瞭然だった。巫女は目の色を輝かせて話を始めた。

 「まず、この子が鬼龍院弁天」

 携帯電話の画面が切り替わり長身の女の子が画面に写った。真っ直ぐ伸びた艶やかな黒髪を一束にキュッとまとめたポニーテールの髪型が彼女の生き方を表しているようだった。巫女と一緒に写っている写真から比較すると、背はスラッと高く百七十センチほどで体はいたって細身。顔に関しては顎のラインがやたらとシャープだが、目立つのはその顎ではなく彼女の目だった。

弁天と呼ばれた子の目は、ややつり目だがギラッとした鋭い名刀のような輝きを放ち、挑発的で独特な力強さを感じた。黒縁の眼鏡をかけているが眼鏡越しにもその目力の強さが猛然と伝わってくる。現世界〈ホット・ホーム〉での人気舞台「宝塚」の主役を彷彿とさせる力強い目だ。

「どんな子なの?」

「どんなって? 性格とか?」

「そう」

「強いよ、すごく強い子。初めて弁天に会った時ね、思いっきり殴られたの」

「な、殴られた?」

「しかもグーだよグー。ビンタじゃなくてゲンコツパンチ」

 巫女が自らの拳で自分の右頬を殴る真似をした。そして綺麗に整った白い歯をニコッと見せた。

「すっごい痛かったけど、すっごい嬉しかった」

「嬉しかった? 殴られてか?」

「うん。だって、それまで私を対等に扱ってくれる人なんて誰もいなかったから。みんな私を怖がったり、無視したり……恨んだり。そんな時に初めて正面から向き合ってくれる子が現れたって気がして、すっごい嬉しかった。もちろん、私も思いっきり殴り返したけどね」

ペロッと舌を出した巫女がイタズラっぽく微笑む。

 「でね。続いては、この子が一本松音色」

 巫女が携帯電話を操作すると童顔の女の子が写った。

 「小学生?」

 「違うわよ。同い年、同級生」

 「こ、この子が……」

一本松音色。

背は至って低く、これも巫女と一緒に写っている写真から推測して百十センチくらい。顔は童顔で、特に頬は赤ん坊のようにぷっくらと愛嬌のある丸みを帯びて、林檎のような美艶な赤みがさしている。目は顔から零れ落ちんとばかりにやたらと大きい。先ほどの弁天とは真逆で音色の目は垂れ目だが、童顔な顔立ちにその目は見事にマッチしており人形のような可愛らしさがある。恐らく生まれつきなのか肩より短く揃えている髪の毛は少しパーマがかかったようにくねくねとうねり、独特な可愛らしさを醸し出している。

ただ、どうしても学生服よりランドセルが似合いそうなイメージは拭い去れない。巫女と抱きついて写っている写真は同級生というより姉妹のようにみえた。

「音色はね、世界的に有名な音楽一家の娘なの」

「じゃー、この子も音楽を?」

「うん。けど術式の腕前がもっと凄いの。五歳のときに音楽を奏でていたら勝手に使えるようになったって。今は術式のスペシャリスト」

そう言えば昔、音楽での術式はとてつもなく強烈だという話を聞いたことがあった。攻撃的な術式から催眠術のような術式まで、音なら自在に奏でることが出来、その効果は抜群と皆が噂していた。ただ効果的な反面、難点もあり、それは周囲の仲間もその術式に巻き込んでしまう恐れがあることだ。そのため音楽の術式は諸刃の剣とされ、扱えるものも全次元でも一握りだと聞いていた。それをまさか、こんな幼女が……。

 「で、最後は神楽坂式神」

 巫女が再度、携帯電話を操作すると特異な外見の女が写った。ひと目で別次元の民だと分かった。

 「一人だけ違うな」

 「やっぱり分かった?」

 「どこ出身?」

 「関西。大阪」

 「はぁ!? 現世界〈ホット・ホーム〉かよ!?」

 「そうよ。あぁそっか、見た目ね。式神はハーフだから、お母さんがイギリス人なの。あ、正鷹と一緒じゃん。お母さんロンドン出身なの。良かったね、きっと話があうよ」

 「あ、あぁ……そうなんだ」

 神楽坂式神。

 金髪碧眼で目は澄みきった海と空を凝縮したように蒼く、金髪の髪は太陽の光のように輝いていた。顔つきはリースのようなモデル的な美しさではなく、幼さがある分、妖精のような愛らしい顔つきをしている。学生服を着ていなければ妖精〈エルフ〉と間違うほどの人間離れした可愛らしさだ。

しかし、なぜか写真に写っている式神の目は全て敵愾心に溢れていた。敵愾心といっても相手を倒そうという敵愾心ではなく、子犬が虎に向かって負けるのは分かりきっているのに、それでもがんばってワンワンと吠えているような、押せば倒れる諸刃の剣のような敵愾心だ。

不屈の闘志を一点集中させたかのように、眉間に皺をギュッと寄せている式神だったが、今にも泣きそうなその目は波打つようにキラキラと輝いている。また闘志を奮い立たせるためか眉間同様に唇にもギュッと力を込めているが、そうした闘志の表れは本人意思とは真逆にアヒル唇と化しており、その姿が何とも言えない独特な愛らしさを出している。

背丈は巫女と同じくらいだが、式神の注目する点はそうした顔や髪形、体つきなどの風采ではない。彼女にはもっと特異な注目に値する装備が兼ね備えられていた。

まずその怪奇的アイテムの一つが首に巻いているチョーカーだ。式神の首にはお洒落なネックレスではなく、黒光りする鴉の羽をチョーカー風に仕立てて首に巻き付けていた。それは首だけはなく耳も同じだ。イヤリングにしても耳についているのは黒光りする鴉の羽だった。写真によっては扇子で自分を扇いでいるが、その扇子には有り得ないほど漢字がビッシリと書き込まれており、字体も一つ一つがのた打ち回っているような不気味な字体である。そうした漢字がビッシリと書き込まれているその扇子はオドロオドロしさを遺憾なく発揮している。見れば見るほど現世界〈ホット・ホーム〉の民とは思えない。

 「式神はすっごい男子にモテモテなの」

 「ふーん」

 男子にモテモテ。式神の容姿を見ればそれは容易に想像できる。

 「でもね、すっごい男子嫌いなの」

 「なんで?」

 「小学校、中学校のときにあまりにもモテすぎて、女子からいじめられたんだって」

 「なるほど」

 切れすぎるナイフは嫌われる。それと一緒で美しすぎる同性は女の間では忌み嫌われる。それは人間関係に疎いオレでも察することが出来た。

 「陰陽師の末裔で力はあるんだけど、本家の京都の人たちもいじめられてんの」

 「なんで?」

 「わかんない。ハーフの式神が力を継いだのが気に入れないみたい」

 「この眉間の皺と唇は?」

 「大体いつもそんな感じ。だけどね、根は優しくて友達思いの、すっごいい子だよ」

 巫女は最後に四人で写っている写真を画面に表示させた。その写真に写っている巫女と弁天の顔は殴打されたように赤く腫れていた。すぐに先ほど言っていた弁天と殴りあった後だとわかった。二人とも、女の殴り合いとは思えないほど激しい傷を負っていた。

だけど、写真に写っている四人の顔には気まずさなど一切ない。四人が四人とも弾けんばかりの笑顔で写っている。

 写真の中の巫女はボックスではなく、一人の女子高生だった。

 「次、正鷹の見せてよ」

 テンションの上がった巫女が声を弾ませた。

 「見せってって、なにを」

 「携帯、持って来てないの?」

 「あ? あぁ……そうそう。そうなんだ。ついうっかり忘れてきて」

 「なんだぁ。つまんないの」

 巫女が足元の砂を一蹴りした。

 「日本人? それともロンドンの人?」

 「なにが?」

 「友達に決まってるでしょ。ね、携帯ないなら名前だけでも教えてよ。友達の名前」

 「友達の名前……」

 「いいでしょ。減るもんじゃないんだし」

 適当に思いついた名前を答えればよかったが、咄嗟のことで何も思い浮かばなかった。十秒、二十秒と沈黙が続くと、巫女が全てを悟ったように「あっ……」と気まずそうな声をだした。

 「もしかして……その……」

 気まずそうな巫女が、こちらの顔をそっと覗き込む。

 「そうだよ。いねーよ、友達なんて」

 ぶっきら棒に答えた。オレは友達とか家族の話を聞かれるが苦手だ。そのことについて話そうとすると胸が苦しくなる。溺れている最中に無理やり水を飲まされる感じだ。

 「いないの? 一人も?」

 「悪いかよ」

 「別に悪くはないけど……」

 「だったらいいだろ。ほら少しは黙って歩くぞ。無駄に喉を乾かすな」

 「あ、あの、じゃーさ、何か楽しかった思い出とか聞かせてよ」

 「なんで?」

 「えっと、だってさ、ただ聞きたいな~って思って」

 「いいよ。興味ないだろ、そんなこと」

 「あ、あるよ。あるから聞いてるんでしょ」

 「いや、違う。お前は気まずい事を聞いたから、話題を変えようって思ってるだけだ」

 「えっ!?」

 「そうだろ?」

 「ち、違うって! ただホントに興味があって、純粋な好奇心から来た質問よ!」

 巫女が気色ばみながら抗弁した。本音を言い当てられて狼狽しているのが明らかだった。

しかし、決して顔には出さないが、巫女のそうした優しい気遣いは嬉しかった。真実を伝えることによってバカにされることはあっても、気遣ってもらえるとは思っていなかった。その心遣いに感謝して、聞かれた質問くらいには答えようと思った。そしてその時、フッと気付いた。

 楽しい思い出が何も浮かばない。

 どれだけ記憶の思考回路を働かせても、蘇る記憶は辛く、苦しい逃亡生活の唾棄すべき思い出ばかりだ。楽しかった思い出? 楽しかった思い出ってなんだ? そんな思い出がここ十年のうちにあったのか?

 返答に窮していると隣の巫女がますます気まずそうな顔つきとなり、慌てて質問を変えた。

今度はその優しさが辛かった。

「そ、そうだよね。思い出なんて急に聞かれてもパッと思い出せるものじゃないよね。あの、じゃーさ、その、子どものころから変わったな~、オレって成長したな~って思うこととかってある?」

百パーセント、場を和ますためだけの質問と分かった。他人のそんな話をわざわざ灼熱の砂漠を歩いているときに知りたがる訳がない。しかし、懸命にこちらを気遣い質問を変えた巫女の顔を見ると答えない訳にもいかない。

「変わったところは……」

「うん、なに? なにかある?」

目を爛々と輝かせた巫女が顔を覗き込んでくる。ようやく垂らした釣り糸に魚が食いついてきたような喜びを浮かべている。

「子どもの頃は、明日とか明後日とか、一週間後、一ヶ月後、一年後、三年後、五年後が想像できた」

「うん、うん、それで?」

「けど、今は違う」

「……へ?」

「今は、五年後も、三年後も、一年後も見えない。一ヶ月後、一週間後だって生きてる自分が想像できない。今はかろうじて明日、明後日の自分が見えるけど、それもいつかは見えなくなる気がする。ってことくらいかな」

最低の答えだと思った。真実を告げずに理想を語れば良かった、理想というより空想を。だけど巫女が相手だと、なぜか本音を零す自分がいる。

 「……それって、未来が見えなくなったってこと?」

 巫女が地を這うような苦しそうな声で訊ねる。

 「まぁ、ロマンスはなくなったかな」

 冗談めかして答えたが、くすりとも笑いはおきない。

 「……寂しい?」

 「別に」

 「寂しいでしょ?」

 「別に」

 「だって……一人なんでしょ。私、分かるよ。寂しい気持ち」

 巫女がオレの心を覗き込むように、上目遣いでこちらを見る。

 その時、周囲の砂上の変化に気付いた。砂の盛り上がりが不自然に多い。

 「だからさ……もし良かったら……ならない? 私と友、きゃっ!!」

 巫女の体を強引に抱き寄せた。

 盛り上がった砂に目を向ける。わずかであるが砂上がかすかに動いている。今は無風だ、砂が揺れる訳がない。

 「あ、あの! 友達っていっても! 付き、付き合うとかじゃ!」

 巫女が声を震わせ何かを言っている。しかし、いまはそれどころではない。

 「そ、そういうのは! ちゃんと! ちゃんとお互いを知ってから!」

 砂の盛り上がりが徐々に膨らむ、こうなればもう疑う余地はない。何かが砂の中にいる。

 巫女の肩に手を回しギュッと抱き寄せた。何があっても巫女は守る。

 「ダ、ダメよ! ダメよそういうのは! わ、私はそういうのは! ちゃんとしなきゃって!」

 胸の中で巫女が何かを叫び続けている。言葉は聞き取れないが心臓が早鐘を打っているのは分かる。可哀相に、よほどの恐怖を感じているのだろう。

 「来るぞ」

 「え?」

 「飛べ!」

 のろりのろりと動いていた砂上の膨らみが突如、四方八方から勢いよくこちらに向かってきた。

 厄災とは唐突に現れるものだ。

 巫女の肩を抱いたまま地面を蹴って後方に飛んだ。

 「え!? なに!? なんなの!?」

 巫女は素っ頓狂な声をあげると、ようやく事態を呑み込んだらしく眼前に目を向けた。

 太陽三個分の夕日に照らされ、燃えるように赤く染まった砂が花火のように天高く吹き上げられた。

砂の中から土竜のような生き物が姿を現した。但しその姿は現世界〈ホット・ホーム〉の土竜よりはるかにデカい。皆、身長は三メートル近くあり、愛らしい土竜のイメージを打ち壊すかのように、それぞれが一癖も二癖もありそうな悪人面をしている。土竜たちの衣服には一様に見慣れないマークが描かれている。どこの組織かは分からない。だが、まともな組織でないことは確かだ。

 「お前ら、死にたくなかったら抵抗するな」

 一人だけ色違いの衣服を着ている土竜が声をあげた。恐らく奴がリーダーだろう。その土竜の後ろでは下っ端同士が見下した目でこちらを見ながら各々に話をしている。

 「見たことある種族か?」

 「あぁ、人間って奴らだ」

 「なんだそれ?」

 「文明の民だ」

 「売れるのか? こんなのが」

 「あぁ、女の方は相当の金になる」

 相手の話を聞きホッと胸をなでおろした。こいつらはただの人攫いだ。巫女を狙っている犯罪組織とは違う。

 それならどう対処すべきか? 深く息を吐き、冷静に思案するよう努めた。

 「これで勘弁してくれないか」

 隠密参謀長から受け取った、この次元の金を差し出した。この次元でこの札束がいくらの価値か正確には分からない。だが、差し出した瞬間、土竜たちが、オッと驚いた顔をみせたので、そこそこの金額だと分かった。

 事を荒立てる気はない。ここで一悶着起こせば、こいつ等のような雑魚ではなく、巫女を狙う戦闘のプロ組織がやってくる恐れがある。その危険性を回避できるなら金の損失は惜しくない。ただ、問題なのはこいつ等がこの金額で大人しく引いてくれるかだ。そこの駆け引きをもっと冷静に考える必要がある。

 方々から敵意のこもった視線を向けられるが怯んではいられない。次なる一手を暗中模索しながら友好的な笑みを浮かべた。その時だった。

 「なぁ~に言ってんの正鷹、そんなのあげる必要ないじゃない」

 「あぁ!?」

 巫女の声を聞き、土竜たちが凄んだ。

 「当たり前でしょ、あんたたちみたいなクソ雑魚どもにやるわけないじゃん」

 巫女がさも当然と言わんばかりに声をあげた。するともちろん、土竜の軍団も反射的にドスを利かせた声を返してきた。

 「おい女! お前いま何って言った!?」

 土竜たちの刺すような視線が巫女に向けられる。しかし巫女は全く臆することなく傲然と腕を組み、土竜たちを睥睨した。

 「雑魚に雑魚って言って何が悪いの。あんたたちみたいなゴミクズ軍団は、この早乙女巫女大先生にかかれば一瞬で壊滅よ」

 「ふ……ふざけんな小娘ぇ!」

 土竜たちは腰にぶら下げている武器を手に取ると一斉に襲い掛かってきた。

せっかく思いつきそうだった作戦も全てがパァだ。こうなったら闘う以外に道はない。すぐに意識を集中させるとオレの両手には漆黒の闇が宿り始めた。

その時気付いたが、隣に立つ巫女は両手を向かい合わせ、手の間の虚空を見つめながら意識を集中させていた。その巫女の目は修羅場を潜り抜けてきた強者の目だった。

 「解放〈フォーカス〉」

 巫女が表情とは裏腹に落ち着きのある静かな声を出した。

 その瞬間、巫女の右手と左手から突風が巻き起こった。続いて突風同士がぶつかり合うと瞬く間に眼前に竜巻が出現した。

 突然の光景に息をのみ、それと同時に昔聞いた話が脳裏に蘇った。それはボックスに関しての話だった。ボックスの中には己の体内に、風、雷、炎、水、光、その他あらゆるものを取り組み、その力で闘うことができる者がいるという話を。そんなのは根も葉もない噂話と思いまともに取り合わなかった。だが、いまオレの目の前ではその伝説が証明されている。

 すぐ手前まで迫って来ていた土竜たちの顔が引き攣る。それは巫女がボックスと気付いたからなのか、それとも突如現れた竜巻を恐れてなのかは分からない。ただひとつ、こいつ等が数秒後にどうなっているかは明確に予測できる。

 「ぶっ飛べ、クソ雑魚ども!」

 巫女が両手を突き出すと竜巻が前方に飛び出し、土竜たちを一気に大空へと吹き上げた。瞬く間に大空に吸い上げられる者、逃げようと砂の中に潜り込むがその砂ごと吹き飛ばされる者、やけくそになり仲間を盾にするが結局二人とも飛ばされる者、全ての土竜たちが次から次へと耳を劈く悲鳴を上げながら大空に舞い上がって行く。夕陽に照らされた血染めのように紅い砂漠が、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 「すげー……」

 巫女の能力に度胆を抜かれた。最初は十メートルほどだった竜巻は砂漠を駆け巡るうちに勢力を強め、今は三十メートルほどになっている。砂漠の砂が重力に逆らって舞い上がる姿は圧巻だ。土竜の一味を蹴散らした竜巻は今も縦横無尽に砂漠を駆け巡り、駆け巡り……駆け巡って一直線でこちらにやってきた!

 「あれ? あれれれれれれれ!?」

 隣で巫女こと早乙女巫女大先生が迫りくる竜巻を見て素っ頓狂な声をあげた。

 「逃げろよ、早乙女大先生!」

 オレは竜巻から身をかわせたが、巫女は遅かった。

 「助けてー正鷹ー! やだぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁー!」

 早乙女巫女大先生は自ら発生させた竜巻に飲み込まれ、夕焼けの赤みと夜の暗さが入り混じった大空に吸い上げられていった。

 「マジかよ……」

 竜巻にも驚いたが、巫女のトロクサさにも驚いた。

 「きゃぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁー……」

 巫女の悲鳴は大空に吸い上げられながら聞こえなくなった。大空に舞った巫女の体は豆粒のように小さくなっている。

 「巫女ぉぉぉーっ!」

 豆粒サイズの巫女を見失わないように懸命に走った。しかし、事態は更に最悪な状況を招いた。

 大空から降下してきた巫女を、突如現れた大鷲のような生き物が空中でキャッチしたのだ。よく見ればその大鷲の服にもさきほどの土竜たちと同じマークが描かれている。同じ人攫いの一味だ。

 大鷲は鉤爪で巫女をしっかり握ると、一気に逃げ切ろうと背中の翼を勢いよく羽ばたかせた。

 「離してー! ヘンタイー! エッチー!」

 鉤爪に握られている巫女が手足をバタつかせながら叫び声をあげる。

 ここで見失ったら一巻の終わりだ。

 ポケットから石をひとつ取り出した。意識を手の中の石に集中させる、体中の産毛がぞわぞわと波打つように激しく揺れ始めたのが分かる、呼吸が荒くなり、髪の毛がゆっくりと逆立ち始める。その瞬間、手からは放たれた黒い闇が手の中の石を包み込む。

 大空を羽ばたく大鷲に向かってその石を投げつけた。

漆黒の光芒が空を切り裂き、放たれた石が瞬く間に大鷲の頭部を強打する。

ゴスンッ! と鈍い音が響くと同時に大鷲の目が白目になり、力を失った鉤爪が巫女の体を手離した。

 「うそぉっ!? いきなりはなさないでよぉぉぉおおおぉぉぉぉぉぉぉーっ!」

 巫女が叫び声をあげながら落ちてくる。いくら地面が砂漠の砂でもそのまま落下すれば骨折はまぬがれない。

 巫女を受け止めようと必死に落下地点まで走った。巫女の体が空気を切り裂き勢いづいて落ちてくる。豆粒ほど小さかった体がいまは等身大と変わらぬ大きさになって迫ってきた。地面に激突するまであと数秒。落下地点に入ると、両足で力強く足元の砂を踏みつけ腹と腰に力を入れた。両手を突き出し、落ちてきた巫女をキャッチすると背骨が軋むほどの衝撃が走った。

 「重っ!!」

 「し、失礼ねっ!」

 思わず本音が飛び出すと、真っ青な顔で落ちてきた巫女はあっという間に頬を染め、頭を軽く小突いてきた。

 「ありがとう、ありがとうだけど、失礼よ。だって私、重くないもん!」

 恥ずかしいのか巫女はササッとオレの手の中から降りると、必死に「私は重くない」と何度も繰り返した。そしてハッとした顔をみせると「今のは何だったの!?」と食いつくように訊ねてきた。

 「今のって何だよ?」

 「決まってんでしょ。さっきの黒いビャーッて飛んできたやつよ」

 「あぁ。銃弾だよ銃弾。よく見えたな」

 「ウソだぁ!」

 巫女が怒ったように語気を強めた。

 「絶対、鉄砲なんかじゃないでしょ!」

 「何でウソつく必要があるんだよ。いいから行くぞ」

 「だって黒く光ってたのよ。鉄砲なら光らないでしょ? あの光ってその……呪術?」

 踵を返し巫女に背を向けた、人には極力知られたくない秘密の一つや二つはある。

 しかし、それでも好奇心旺盛な早乙女大先生の質問は止まらない。

 「正鷹、ロンドン出身って言ったよね?」

 「あぁ」

 「どこ? ロンドンのどこ? ちゃんと教えてよ」

 「一二七丁目だよ」

 「なによそのテキトーな住所。ウソでしょロンドンって」

 「それくらい山奥だったんだよ」

「ウソだぁそんなの、ホントはどこにいたのよ?」

巫女が歩く足を速め、肩を並べてくる。

 「巫女、ロンドンに行ったことは?」

 「……ない、けど」

 「じゃー分かんないだろ。今度、タクシー乗って行ってこいよ」

 つっけんどんに言い返すと巫女がムッとした顔をみせた。

 「どうやってタクシーで海を渡るのよ!」

怒声を無視して歩き続けると、背中越しに「ウソつき。ちゃんと教えてよ。ケチ、ドケチ、正鷹のケチン坊」と低俗な罵詈雑言が聞こえた。

 軽いローキックも喰らい続ければダメージが蓄積して痛み始めるように、低能な罵詈雑言も繰り返されると軽い苛立ちを覚える。

 「いいから早く歩けよ、大食い。そんなことばっか言って、また腹減ったなんて泣き言いうなよ、大食い激重女」

 自分が言い返した悪言も低俗極まりない幼稚な言葉だったが、言い返すと思いのほか溜飲が下がり、胸の内がスッとした。やはり何事も溜め込むのは良くない、これからは女が相手でも言うべきことは言っていこう。そんな事を思いながら爽快な気分で歩いていると、背後から砂漠の灼熱よりも熱い何かを感じた。

 恐る恐る振り返ると、口を真一文字に結び、ボロボロと涙を零しながら、こちらを睨む巫女の姿があった。

 「私は……けで……じゃない」

 「え?」

 「私は……ちょっと食いしん坊なだけで……大食いじゃない」

 下唇を強く噛んだ巫女が声を絞り出した。こちらを睨む目は異様な凄みを漂わせている。

 「いや、別にそういう意味で言った訳じゃ……」

 じゃーどういう意味で言ったんだ。と問われれば答えようがない。

 人には極力隠したい秘密が一つや二つあるように、決して踏んでいけない地雷も一つや二つある。今まさに、オレは巫女の地雷を踏んだことに気付いた。

 必死に弁解を続けるオレに向かって巫女が身の毛もよだつ眼を向けた。

 「私は、人よりちょっとだけ食いしん坊なだけだもんっ!」

 頬をつたった輝く涙が零れ落ちると、巫女が左右の掌をこちらに突き出した。

 「うそだろぉ!? やめろよ!!」

 巫女の手から突風が生じた瞬間、オレの体が消えゆく夕焼けの紅さと訪れし夜の黒さが入り混じった大空に向けて高く、高く吹き上げられた。

早乙女大先生を怒らせた代償はデカかった。


 ○


 「いやよっ! 絶対いやっ! 野宿なんていや! ちゃんとお布団で寝るに決まってんでしょ!」

 巫女が砂上で地団太を踏む。

 「やめろよ、砂埃が舞うだろ」

 「だっていやなんだもん! 絶対お布団で寝るの、お風呂も入るの、ご飯も食べる!」

 地団駄だけでなく手までバタつかせ始めた。こうなるとまた頑是ない駄々っ子だ。

空を見上げるとイルミネーションのように燦然と星が輝いている。

太陽が沈みきったこの次元の砂漠は、星の輝きが現世界〈ホット・ホーム〉より強いため、夜でも明るく寒さも感じなかった。そこでオレは野宿を提案した。

 本来なら、束ねられた神の光〈オーラス〉には到着している時間だったが、土竜の一味との闘いや、竜巻でオレが飛ばされたために(正確には巫女が飛ばしたために)最短ルートから外れてしまい予定が大きくずれた。

野宿を提案した理由は、さきほど巫女がつくり上げた大竜巻だ。突如、砂漠のど真ん中に表れた大竜巻。大方はただの自然現象だと考えるだろうが、巫女を狙っている犯罪組織は違う。奴らが巫女の能力を知っていれば、必ず巫女の仕業だと気付くはずだ。

そうなると大竜巻の出現を知った犯罪組織は先回りをして、宿に見張りを手配している可能性がある。

敵の魔手はどこから迫ってくるかわからない。油断は禁物だ。

「きゃあっ!」

隣から耳を劈く悲鳴が聞こえた。

「どうした!?」

「そ……そこ、そこ!」

「どこ!?」

「そこぉ!」

巫女が青褪めた表情で砂上を指差す。

「虫がいたの! こんなおっきな奴が。ササササッて動いていたの!」

眉毛を八の字にして泣きそうな顔で訴えてくる。

なんだ、虫か。と思い嘆息が漏れた。先ほど、屈強な土竜の一味を一掃した豪の者が、たかが虫一匹に臆する気持ちがわからなかった。適当に相槌を打って無視しようと思ったが、巫女が素早くリュックの中から何かを取り出した。

 「ほら、ここ見てここ! ちゃんと宿の印があるでしょ! 印があるってことは泊まっていいってことよ! 泊まっていいってことはお風呂も入って、ご飯も食べていいってことなのよ!」

 錦の御旗のように隠密参謀長から預かった地図を突きつけられた。確かに地図には宿屋の印が書いてあり、その場所はここから歩いていける距離だ。巫女の表情は必死だ、大詰めになった裁判で、裁判長に決定的な証拠を突きつける弁護士のような鬼気迫る迫力で訴えてくる。

 だが、オレの答えは決まっている。

 「ダメだ。少しでも危険性がある所には近寄らない。それが賢明だろ」

 毅然とした態度で却下した。

 「やだ! やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、野宿なんて絶対いや! 私はお風呂も入るし、ご飯も食べる!」

 「ダメッたらダメだ」

 「トイレだって行きたいの! 私、ずっと我慢してるのよ、かわいそうでしょ!?」

 「だったら、その辺でしてこいよ」

 適当に目の前の砂上を指差すと、巫女が発火しそうなほど顔を赤くした。

 「ヘンタイ! ドヘンタイ! エッチ! スケベ!」

 怒りながら腹の虫が「ぐぅ~」と鳴ると、巫女はその場でしゃがみ込んだ。

 「うぅぅ……お腹空いたよ~……ご飯食べたいよ~……お風呂も入りたいよ~……」

 巫女は蹲ったまま砂上に力ない言葉を落とした。

しゃがみ込んだ巫女の背中は小さく、包帯を巻いてある腕は細く、顔には十五歳らしい幼さが残っていた。

 その姿を見ているとだんだんと憐憫の情が湧いてきた。巫女も好き込んでこんな場所にやってきたわけではない。自分しか救えない人々を救うためにやってきたのだ。しかも、その救うべき人々は皆、感謝するどころか巫女のことを畏怖し、避けている。それなのに巫女は文句ひとついわず、命をかけて自分の役目をまっとうしようとしている。

 いったんそう思い始めると、夜の砂漠に蹲り、空腹と汗のベタつきに堪え、トイレを我慢している巫女に対し、壊れた蛇口のように憐憫の情が次から次へと湧き出てきた。

 「正鷹……」

 「なんだよ」

 巫女が力ない眼差しを向けてくる。

 「ホントに野宿するの?」

 「あぁ……。安全のためだ」

「だったら、一個だけお願いきいて」

 「お願い?」

 「手、握ってって……」

 「はぁ?」

 「寝るとき、私の手、握ってて」

 しゃがみ込んだ巫女の星空に照らされた瞳がこちらを見つめる。上目遣いのその目は、おびえる小動物のようだった。

 そのとき、父が言っていたことを思い出した。「ボックスを暗い所へ連れて行くな」

 よく見ると、しゃがみ込んだ巫女の体は震えていた。

 「巫女……」

 体の震えを抑えこもうと、両腕で膝を抱えた巫女が弱々しい目をこちらに向ける。

 「お前……攫われたことがあるのか?」

 巫女が小さく顎を引いた。

 「いつ?」

 「八歳のときと十二歳のとき、あと去年……は、みんなが助けてくれたけど」

 巫女が更にギュッと膝を抱え込んだ。

 「怖かったの……。暗い窓のない部屋にずっと、ずーっと何日も閉じ込められて……。だから、暗いのが怖いの」

 言葉を漏らす度に巫女の震えは大きくなった。その震えは小刻みだが、全身の関節が震えているように見えた。ボックスとして凄絶な人生を歩んできた巫女の魂は、抑えきれない恐怖に蝕まれていたのだ。

 巫女は頭を下げると辛そうに目を閉じた。その姿を見た瞬間、心を鷲掴みにされたように胸が締め付けられた。

 闇に怯える巫女は、生身の女という感じがした。

 膝を抱えている巫女の左手をギュッと握った。

 「……握っててくれる?」

 夕暮れ時の元気がウソのように巫女は弱り果てていた。

 「行くぞ」

 「え?」

 「宿だ。風呂に飯に布団。あとトイレか」

 「……けど、もし敵がいたら」

 「その時は……」

「その時は?」

巫女の目を真っ直ぐ見て答えた。

「オレが守ってやる」

手を力強く引っ張り立ち上がらせた。

「ほら、サッサと行くぞ!」

 立ち上がると同時に巫女が天真爛漫な笑みを浮かべた。

 「ホントに? ホントにいいの?」

 「あぁ」

 「ウソじゃないよね?」

 「そんなウソつくか。サッサと行くぞ」

 力強く手を引いた。突きたての餅のように柔らかい巫女の指とオレの指が絡まる。

 「歩けば十分から二十分の距離だ」

 「ねぇ、正鷹」

 「それくらい頑張って歩けよ」

 「ねぇってば」

 「なんだ……よ」

 こちらに目を向けた巫女の体は全身に緊張感がみなぎっていた。咄嗟になにかとんでもない要求してくるのではないかと身構えてしまった。

 「……繋いだままでいい?」

 「え?」

 「手。……繋いだまま、歩いてもいい?」

 上目遣いの巫女が桜色に頬を染めた。その威力は絶大だった。オレの胸では甘い喜びが大きく花開いた。

恥ずかしさのあまり返事が出来なかった。しかし、その代わりに巫女の手をしっかりと握りしめた。

 「正鷹」

 「うん?」

 「ありがとう」

 「うん……」

 ありがとう、そう言った巫女の声は、女の声だった。

 宿に到着するまでの二十分、巫女は初めて何も喋らずに歩き続けた。

二人で肩を並べて歩いている間、握り締めた手からは巫女の心音が伝わってきた。

 巫女の心音も早鐘を打っていた。

 熱く、優しく、心地好い心音だった。

 巫女の存在を身近に感じた。

 オレは生まれて初めて、致死量に近い幸福感を味わった。


 ○


 「うわぁー、宿だ! 宿だ! 宿!」

 宿の前に到着すると巫女は何度もぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。

 ここまで警戒しながら歩いてきたが、敵どころか生き物の影ひとつなかった。

宿の周辺は何もなく遥か地平線まで目が向けられるほど視界良好だ。そして、ここでも生物の存在は確認できず、辺り一面は静謐に包まれていた。

暗夜の砂漠の中、宿の電球だけが燦々と輝いている。何かを見落としてはいないか、敵の策略は見当たらないか、どこかにリスクは潜んでいないか、五感を最大限に働かせたが脅威は感じなかった。自分の心配事が杞憂だったと分かりホッと胸をなでおろした。

 砂漠の砂で痛んだ扉を開けると、カウンターにはサイが座っていた。顔の厚化粧を見て、一目で女と分かった。恐らくこの宿の女将だろう。

 「ふたり?」

 サイの女将が訊ねてくる。

 「うん!」

 巫女が元気よく頷く。

 「ふーん。あんたたち学生服着てるけど、別次元の人ね」

 値踏みをするような目でサイの女将は足のつま先から頭のてっぺんまでこちらを見る。三秒ほどこちらを眺めた後、女将は不敵な笑みを浮かべた。

「分かった。新婚さんね」

 「えぇぇっ!?」

 甲高い声をあげた巫女の体が固まった。

 「そうです。学生結婚をしたばかりで」

 サイの女将に話を合わせた。詳細不明の宿泊客より、新婚として好意を持ってもらった方がいいと思ったからだ。

 「あら~。もしかして新婚旅行?」

 「はは。まぁそんな感じで。なぁ巫女?」

 「えっ!?……えぇっと、うぅぅん……」

 話を合わせろと目で訴えた。しかし、巫女はあたふたとサイの女将とオレの顔を交互に見るばかりで、何も気の利いた答えを返さない。

 「奥さんったら照れちゃって。かわいらしい」

 サイの女将が微笑む。

 「けどちょうどよかったわ。あと一つしか空き部屋がなかったから」

 「ど、同部屋なんですかぁ!?」

 巫女の間の抜けた声が響く。

 「あら。当たり前じゃない。だって新婚さんでしょ?」

 「ははは。そうですよね、すいません、うちの奴ウブなんで」

 直立不動の巫女の肩に手を置いた。話を合わせろと、合図のつもりで肩を握ると全身がカチカチに固まっていたので驚いた。

 「じゃーこれ部屋のカギ。それと……あとこれは、サービスね」

 サイの女将はそう告げて部屋のカギと、真っ赤な目隠しや、怪しげな手錠、その他、夜のオモチャと呼べるアダルトグッズを籠の中に入れて差し出した。

 「うっ!? うぅ……う~ん……」

 アダルトグッズを見た巫女が卒倒しかけたので慌てて抱きかかえた。

 「あらやだ、ホントにウブな奥さんね」

 女将の笑い声が宿中に響き渡った。


 ○


 「絶対、ここから先は入ってこないでよ! 絶対だからね!」

 結界を張るように、意識を取り戻した巫女が部屋のどこからどこまでが自分の領地かを、事細かに説明し始めた。もちろん、話は上の空でしか聞いていない。

砂漠の宿ならもっと荒涼とした室内を想像していたが、部屋の中は広くて十畳ほどあった。掃除も行き届き、机が一つとベッドが一つ、ソファーが一つに大きな窓があるだけのシンプルな室内だ。しかし、砂漠の中のこの空間はオアシスそのものである。大窓から入ってくる夜風は肌に丁度良い冷たさで心地良い。巫女がベッドで寝て、オレがソファーで寝れば問題ないだろう。サイの女将には宿泊料金を先払いしたが、こんなにいいところならチップをつけてやれば良かった。

 「あと、電機は絶対消さないでね。私、暗かったら寝れないから。消しても豆電球だけは点けといてよ!」

 「はいはい」

 「それと、私の寝顔は絶対見ないこと。写真とかは絶対撮っちゃダメだからね! 私、イビキはかかないけど、もしかいたとしても」

 巫女が細かく指示を出すが、全てがどうでもいい事だらけだ。恐らく喋っている巫女自身も、何を言っているか分かってないだろう。緊張を隠すために無理して喋っているのが丸分かりだ。

 「巫女」

 名前を呼ぶと弾かれたように巫女の体が震え、機関銃のように捲し立てていた話し声も急にとまった。

 「な、なに。ダメよ、そんな亭主関白みたいに強気で名前呼んでも。だって私たち……砂漠でも言ったけど……そういうのは……ちゃんと仲良くなってからっていうか……なんていうか……」

 「何言ってんだ、お前」

 「だから、その……。この部屋では秩序とモラルを持った行動を心がけるようにって。もしそれができないなら、もう一回竜巻で吹き飛ばすからね!」

 巫女は懸命に虚勢を張ったが膝が震えていた。内部に抑えこんだ緊張が体の節々から漏れている感じだ。

 「そんな話じゃなくて、風呂だよ」

 「え? お風呂?」

 「入りたかったんだろ。行ってこいよ、今ならまだ大浴場が空いてるぞ」

 「ウソォ!? ホントに!? 大浴場なんてあるんだ! やったーっ!」

 巫女が両手をあげて喜ぶ。ようやく十五歳らしい笑顔を見た気がした。

 「じゃー私、お風呂行ってくる!」

 巫女はリュックの中から下着を入れてある袋を取り出した。着替えはサイの女将が用意してくれた浴衣がある。

 「絶対覗いちゃダメだからね! 覗いたら別次元までぶっ飛ばすからね!」

 乱暴な言葉とは裏腹に笑顔が溢れている。

 「言い忘れてたけど、ここ混浴だからな」

 「ウソォ!?」

 巫女の手からタオルと浴衣がドサッと落ちた。

 「ウソだよ」

 嘲笑して答えると、「正鷹のバカァ! 大っ嫌い!」と激怒して巫女は出て行った。

 一人になると、室内は大窓から入ってくる風の音が少し聞こえるだけの、程よい静寂に包まれた。

 ソファーで横たわり、きりきりと張り詰めていた精神を弛緩させた。

心と体が落ち着くと、昨日から今日にかけての記憶が一気に蘇ってきた。「ほころび」から降ってきた巫女を受け止め、泣きながら焼きそばを食べているところを見て、砂漠では竜巻を発生させ、自分自身も吹き飛ばされて、大食いのくせに大食いって言われたら顔を真っ赤にして怒る。

思い出すと笑いが込み上げてきた。

張り詰めた緊張感が途切れると、不意に睡魔に襲われた。起きていようと思っても瞼が鉛のように重い。大窓から入ってくる冷たい風が心地よく眠気に拍車をかける。

サイの女将が、食事は後で部屋まで持っていくと言っていた。食事を見たら巫女は喜ぶだろうな。

そんな事を思いながら輝く電球を見ていると、いつの間にか眠りに落ちた。


 ○


 目の前には母、魑魅愛子がいる。母の周りでは大勢の大人が膝をつき頭を垂れていた。中には低頭したまま手を合わせ、母に祈りを捧げている者もいる。ホントに大勢の人がいるが、服装や人々の顔つきから、ここが現世界〈ホット・ホーム〉でないことはすぐに分かった。

母の前には大地の全てを呑み込まんとする、虚空に出来た漆黒の大穴、「ひずみ」が存在している。「ひずみ」の中からは獣の唸り声のような、不気味な低い音が聞こえる。

 母が目を閉じたまま「ひずみ」に向かって両手を差し出す。母の周辺で頭を下げている人々もギュッと目を閉じ、皆が一斉に祈り始める。

 次の瞬間、母の体からまばゆい光が一気に放出された。母の小さな体から天空の全てを包み込もうとする光が放出されると、その光は「ひずみ」を包み込んだ。

光に包み込まれた「ひずみ」は、断末魔をあげるように轟音をたてると、その姿が霧消と化した。

 低頭していた人たちが一斉に飛び上がり、割れんばかりの歓声をあげた。

皆が抱き合い、涙を流して喜んでいる。雷鳴のような歓声が耳を劈く中、母がこちらを見て微笑んだ。

 オレを見る母の目は優しく、全てを包み込む慈愛に満ち溢れていた。


 ○


 全身がバネ仕掛けのように活動し、バッと飛び起きた。一瞬自分が何処にいるか分からなかった。室内を見回し、机の上にある巫女の携帯電話を見て、すぐに砂漠の宿にいることを思い出した。

瞼を触ると、うっすらと涙で濡れていたので驚いた。

時計を見ると時刻はまだ夜の九時前だった。宿に入ったのが八時過ぎだったので、転寝をしたと言っても十分程度だ。巫女が帰ってきた気配はない。恐らくまだ風呂だろう。

たった十分だが睡眠の効果は抜群で頭が軽くなった。そして睡眠前より研ぎ澄まされた五感が働き、すぐに外の異変に気付いた。

大窓からそっと外に目を向けると、暗夜に包まれた砂上を素早く動く影が見えた。大きさからいってさきほどの土竜たちとは違う、なによりも土竜たちのように動きがガサツではない。俊敏に、そして連携して宿の周囲を包囲しようと動いているのが分かる。

そして奴らの胸や腕に彫られたタトゥーには、オレが一番恐れていた文字が書いてある。「bps」と。

奴らは全次元最悪の犯罪組織「bps〈快楽主義者〉」だ。“真夜中の王”の部隊がやってきた。

手に汗を握り、背筋が冷たくなった。

オレの心配事は杞憂ではなかった。巫女の存在を嗅ぎ付けたbps〈快楽主義者〉がやってきたのだ。しかも、その数はオレの想像を遥かに上回っている。

すぐに手に取れるものを手に取って風呂場へと駆け出した。


 女湯の暖簾をくぐると幸いなことに客は誰もいなかった。風呂場からは呑気な鼻唄が聞こえる。もちろん、その歌い手は巫女だ。

 ガラスの扉を開けて風呂場に飛び込んだ。

 「え? え? えぇぇぇっ!? きゃぁぁぁーっ! ままままままま、正鷹ぁ!?」

 湯船の中でくつろいでいた巫女が、濡れた髪が全て逆立つほどの悲鳴を上げた。折りたたんだタオルを頭の上に置いてあった、なんておっさんクサい女子高生だ。

 巫女の悲鳴を聞きつけてか、一斉に風呂場の外に足音が集まってきた。

 時間がない。湯船にそのまま入り込み、湯の中の巫女を担ぎ上げた。

 「えっ!? えぇ!? えぇぇぇぇえええぇぇぇーっ!」

 湯の中から担ぎ上げられた巫女が肩の上で素っ頓狂な声をあげる。もはや思考回路がショートして現実を直視できていない様子だ。湯の中から担ぎ出した巫女の体は雪のように白く、そして信じられないほど軽くて柔らかかった。青春のシンボルであるオレのジョニーはこんな時でもしっかりと己の役割を果たして元気爆発だ。だが、いまはそうした事態ではない!

 鈍い音が響くと同時に、数メートル先の壁が外側から打ち壊された。砂埃が舞い上がり、何者かの影が入ってきた。しかし、全ての姿を確認する前に、こちらも内側から外に向かって壁を蹴破り逃げ出した。

 暗夜の砂漠を、巫女を担いだまま韋駄天の如く疾走する。

 背後から「ピィーッ」と笛の音が響くと一斉に足音が集まってきた。相手の姿は見えないが、足音の多さからして二十人以上であることは確かだ。

 担いでいる巫女に声をかけた。

 「巫女! さっきみたいに風を出せるか!?」

 「え?」

 「出せるならその風にのって」

 「やっ!? やだぁ!! こっち見ないでぇ!」

 指示を出そうと顔を向けると、思いっきり頬を叩かれた。

 「イッテェ! クソッ」

 口の中いっぱいに血の味が広がった。しかし今は痛がっている場合ではない。

「その風にのって逃げ切る! だから風を出してくれ!」

 「なんで!? なんで私、裸なの!? なんで裸で砂漠なの!?」

 「それどころじゃないだろ! 出せるなら早く!」

 「裸で砂漠なんて、やだぁぁああぁぁぁぁー!」

 担いだ巫女が号泣し始めた。鼓膜を劈くような泣き声に混じり、背後の足音が先ほどより近づいてきているのが分かった。距離にして数メートル、おそらく四、五メートルほどしか離れていない。

 「泣き言いわずにサッサと風、出せ!!」

 左肩に担いでいる巫女の桃尻を右手で強くビンタした。「ペチンッ!」と爽快な音が響くと、巫女の体がビクンッと震えた。

 「……正鷹ぁ」

 大地を震わす低い声が聞こえると、背中の辺りが瞬時に熱くなった。

驚いて首を捻ると、向かい合わせた巫女の右手と左手の間には爆発を圧縮させたような、赤い業火の玉が浮かんでいた。その玉は確実に少しずつ膨らみ、背中に伝わる熱さがどんどん増していく。

 「巫女! それって!?」

 「見ないでって……」

 「えっ!?」

 「こっち見ないでって、言ったでしょー!!」

 巫女が怒声を上げると業火の玉が爆発した。文字通り爆発だ。

 背中に激痛が走ると、体がロケット弾のように宙を舞った。

回転しながら宙を飛んでいると、背後にいた敵たちの姿が見えた。敵は敵で爆風によって逆方向に飛ばされていた。

何とか逃げ切ったな。肩の上で「ヘンタイ! エッチ! 大っ嫌い!」と叫ぶ巫女の声を聞きながらそう思った。


 ○


 「なんで!? なんでこれしかないのよ!?」

 「いいじゃん。似合ってるし」

 「似合ってるって……」

 「胸元、足元。バッチリだよ」

 怨嗟のこもった目で巫女が睨んでくる。

 「ヘンタイッ!」

 オレの視線を意識した巫女が、慌てて右手で胸元を左手で足元を隠したが、恥じらう姿がよけいにセクシーさを醸し出す。

 慌てて風呂場に駆け込んだオレは、サイの女将が用意した浴衣を握っていた。

だが、女将の気遣いだったのか、着替えの浴衣は怪しいピンク色で極端なほど裾が短い超絶ミニスカートの浴衣だった。しかも、胸元も不自然なほど左右に開かれ、はじけんばかりに大きい巫女の胸を隠すには圧倒的な面積不足だ。

これはオレが狙ってやったわけではない。巫女のことを思って持ち込んだ浴衣はオレの慈愛であり、優しさだ。そこには一切の疾しさはない。ゆえに胸を張っていえる。

眼前のセクシー巫女は、神からのご褒美だ。

 「……下着は?」

 白く大きな胸元を細い手で隠し、スラッと伸びた細い足を内股にしている巫女が震える声で訊ねた。オレは一切の後ろめたさを感じさせない堂々とした声で答えた。

 「ない」

 「……ないって」

 「ないってことだ。忘れてきた」

 「……う、うぅぅ…うぅぅぅ~」

 巫女が顔をくしゃくしゃにして項垂れた。

咄嗟の事態で仕方がなかった。命を張った瞬時の判断の時、下着の存在まで気が回る男はいないだろ。

 砂上を一陣の風が吹き抜けると、巫女が更に強く足を内股にした。

ノーパンの股がスースーするのだろうと思ったが声には出さなかった。それを言えば、下着を持ってこなかったオレが責められる。

 「ともかく歩こう」

 「歩くって?」

 「敵に見つかったんだ。グズグズできないだろ。神の束ねられた光〈オーラス〉までノンストップで行こう。あと少しだ」

 「……ご飯は?」

 目尻を下げた情けない顔で訊ねてきた。その瞼にはうっすらと涙が溜まっている。

巫女自身も分かっているはずだ。手ぶらのオレが食べ物など持ってはいないし、この先の砂上に喫茶店などもない。ましてやオレたちは無一文だ。

だが、巫女の目は慰めを欲していた。

 「これだけは、持ってきたから」

 ポケットの中から携帯電話を取り出した。宿の机に置いてあったのを持ってきたのだ。その携帯電話の画面には巫女と三人の友達が写っている。

 瞼に涙をためている巫女は、携帯電話をジッと見ると「行こう」と言った。

浴衣の帯に携帯電話を差し込み、毅然とした表情で歩き始めた。

 「大丈夫か?」

 「大丈夫、だってみんなが待ってるでしょ」

 巫女が浴衣の襟元をギュッと閉めた。

胸元を覆い隠したつもりだろうが、胸元を無理に閉め、張り付いたように体を締め付けている浴衣からは巫女の胸元のライン、体のラインがしっかりと浮き上がっている。裸体に薄いテープを巻きつけたような格好は裸よりもセクシーだ。深夜の砂漠を歩きながら、十五年の人生で初めてそのことを知った。

 煩悩にまみれながら歩いていると、巫女が不意に「帰ったら、みんなで焼肉に行くんだ」と言った。

 「焼肉?」

 「そう。前の出陣とき、みんなと約束したの」

 「ふーん……」

 前の出陣といっても僅か四日前だ。なんとなくその時のことは聞かないでおこうと思った。なぜなら報告上、巫女の仲間は全滅となっているのだから……。

「お肉いっぱい焼いて、それでご飯も大盛りで食べるの」

巫女が自分を鼓舞するように明るい声を出す。

「私、ポイントカードがいっぱい貯まってるから、いっつもおまけしてもらえるの」

「良かったじゃん」

巫女がポイントカードを自慢げに言った、その姿が可笑しかった。全次元の為に命を張って生きるボックスは、もっと贅沢な暮らしをしていると思っていた。

「けど、正鷹は意地悪するから、正鷹の分のお肉焼かないからね。正鷹はちゃんと自分の分は自分で焼くのよ」

「いいよ、オレは。来たときも言ったけどオレは帰らない」

「え?」

 巫女が歩きながらこちらの顔を覗き込む。

 「だから、気持ちだけで十分」

 「そっか……。一緒に行けると思ったのに」

 巫女が唇を尖らせる。

 「どっかの次元で、誰か待っている人がいるの?」

 「待ってる人?」

 思わず苦笑した。

 「いねーよ、追ってくる人だったらいるけど」

 「魑魅総統のこと?」

 「いろいろだ」

 巫女にはまだ告げていないが、オレを追ってくる奴らはわんさかいる。オレの手持ちのカードはジョーカーだらけだ。

 地図を見た。「ほころび」まであと少しで辿り着く。巫女も体力を温存するためか、途中から口数が少なくなった。しかし、時折思い出したように「そこのお店のお肉、すごくおいしいよ」とか「お肉が苦手なら冷麺もあるよ」「私、他にも美味しいドーナツ屋さん知ってるよ」と話してかけてきた。「お前、誘ってくれてるのか?」そう訊ねると巫女は発火したように顔を赤らめ、「別にそんなわけじゃ……」と黙り込んだ。

 それから暫く無言の行進が続いたが、最後に「正鷹と行ったら楽しいかなって……」と消え入りそうな声が聞こえた。


 ○


 夜の底が最も深くなったころ、束ねられた神の光〈オーラス〉が肉眼で確認できた。

 初めて見る訳ではないが、その迫力には圧倒された。夜空一体に光のカーテンが張ってあり、その周辺だけが昼間のように、いや昼間よりも明るく輝いている。

 巫女がオーラスを体内に取り込むには、そのすぐ手前まで行かなくてはならない。

束ねられた神の光〈オーラス〉の周辺から気配は感じないが、間違いなくbps〈快楽主義者〉が待ち伏せをしている。先回りし、砂山の陰にでも隠れているはずだ。束ねられた神の光〈オーラス〉がユラユラと揺れるたびに砂山の影も波打つように動き、こちらの警戒心が自然と高まる。

後、五分も歩けば束ねられた神の光〈オーラス〉に辿り着く。なにか策はないか? 出来れば、敵には見つからずに持ち帰りたい。そのためには……。

 周囲を警戒しながら思案を巡らせていると、隣に立つ巫女が胸を張り、大きく息を吸い込んだ。

まさか!? そう思った、まさに次の瞬間だった。

 「弁天―っ! 式神―っ! 音色―っ! 迎えに来たよーっ!」

 砂漠の果てまで木霊する大声を巫女があげた。慌てて口を塞いだが、手の中ではまだフガフガと叫び続けている。

 「やめろって! 敵が来るぞ!」

 声を殺して叫ぶと、口から手を外した巫女が答えた。

 「大丈夫よ。それより先に、絶対みんなが駆け付けてくるから」

 巫女の目は希望に溢れていた。しかし、それとは逆でオレの頭の中では「前の隊は全滅した」という父の言葉が反芻された。

周囲の砂上を見回す限り、どうしてもここに巫女の仲間が生き残っているとは思えない。ここは三つの太陽が照りつける灼熱の砂漠だ。そこで、いつ来るか分からない仲間を待ち続けるのは体力的にも精神的にも不可能だ。それにこの周辺には犯罪組織もいる。本当にここで巫女の仲間が待っていたとしても、生存の可能性は限りなくゼロに等しい。

 一陣の風が吹き抜けると、前方から足音が聞こえてきた。巫女の目がより一層輝きを増す。

 「ほらね! 来たでしょ!」

 巫女が前方の、上り坂になっている砂山を指差す。

一秒、二秒、待つと砂山の頂上に向こうから歩いてきた奴らの頭が現れた。続いて胸まで、そして全身が目に映った。但しそれは人影ではない。二足歩行だが全員が爬虫類のような姿をしている。

 「ほらな。来ただろ」

 皮肉めかして言ったが巫女からのリアクションはなかった。

 目の前に立つ、二足歩行の爬虫類は少なくとも四、五十はいる。

先ほど出逢った土竜の人攫いたちとは違い、全員が全身から殺気を放っている。ひと目で土竜たちとはレベルが違うと分かった。向こうがリトルリーグの野球チームなら、こっちはれっきとしたプロ野球だ。そしてプロに相応しく全員が斧や槍の凶器を構えている。

このご時世に銃を使わないのは、もともとそういった次元の民なのか。それとも相手を殴り殺すのが趣味なのか。どちらにしろピンチであることに変わりはない。奴らの体中には、いたるところに『bps〈快楽主義者〉』のタトゥーが彫られている。

「わざわざ自分から居場所を教えるなんて、バカなボックスだな。ボックスじゃなきゃ家畜以下のクソバカ娘だ」

爬虫類のリーダーと思われるオオトカゲが言った。オオトカゲの皮膚は全身が青く、目だけは黄色い。そのオオトカゲが巫女を嘲笑すると、仲間の爬虫類たちも大声をあげて笑った。

「ふんっ! 相変わらず下品な集まりね」

巫女が爬虫類たちに射ぬるような目を向けた。

 「あんたたち、逃げるならいまのうちよ。いまに私の仲間が集まってくるからね!」

 爬虫類たちが巫女の言葉を聞いて大爆笑した。

 「何がおかしいの!」

 巫女が怒気を含んだ声をあげる。

 オオトカゲが顎で合図を出すと、近くの子分が頷いた。

 「何したの……私の仲間に何したの!?」

「分かってんだろ? 全滅だよ全滅、皆殺しにしてやったよ!」

子分から何かを受け取ると、オオトカゲは乱暴にそれを巫女の足元に投げつけた。

それは制服だった。切り刻まれ、血まみれになった女子生徒の制服が三着投げられてきた。

「これ……」

 巫女が絶句し、棒立ちになった。幻か魔物でもみた面持ちである。

「楽勝だったぜ! 散り散りになった奴らを一匹ずつブッ殺してやったよ!」

巫女がゆっくりと足元の制服を拾いあげる。

 「弁天、式神、音色……」

 か細い声が巫女の口から漏れる。

その表情は暗澹たる現実に生気を挫かれ、自分を推し進めてきた支柱のようなものを折られた顔だった。

 「ちなみに、背中の一番デカい切り傷は、オレがつけてやった!」

 オオトカゲが誇らしげに叫ぶと、自分の手に持つ斧をペロリと舐めた。

 「どうするボックス。真夜中の王がお前をお待ちだ。好きな方を選べ、大人しくついてくるか、それとも半殺しで攫われるか」

 巫女はそれに答えることなく、血まみれの制服をギュッと抱きしめた。

 「ごめんね……約束守れなくて。一緒に帰るって約束……ごめん、ホントにごめん」

 オオトカゲが顎で合図を出す。砂山に立つ爬虫類たちが体を傾け前傾姿勢を取った。突っ込んでくる気だ。

 「巫女。お前は後ろに控えてろ、ここはオレが」

 「解放〈フォーカス〉」

 「巫女!?」

 目の前の爬虫類たちから目をそむけ、隣の巫女を見た。

 巫女がゆっくりと顔を上げると、その頬を涙が滂沱と流れているのを見て言葉を失った。

 制服を手離した巫女の右手からは稲妻が、左手からは突風が、そして目には燃えんばかりの闘志が漲っていた。虚ろだった目に見る見る激しい修羅の炎が立ち昇る。

 「ブチ殺す!」

 巫女が怒声を上げると、オオトカゲも斧を振り下ろして「殺れっ!」と叫んだ。

 爬虫類たちが砂山から一斉に襲い掛かってくる。

 「くたばれ、バカヤロ―ッ!」

 巫女が右手の稲妻と左手の突風を重ね合すと、雷を帯びた竜巻が出現し、目の前の爬虫類を次々と呑み込み始めた。竜巻の中に吞まれた爬虫類たちは、体を右へ左へと回転させながら雷を浴び続けている。爬虫類たちの阿鼻叫喚も獣が咆哮するような雷鳴によってあっという間に掻き消されていく。

 「ビビるなっ! 相手はボックスだ、いずれは空になる! 突っ込め!」

 オオトカゲが身の安全が保障された砂山から指示を出した。その姿は腹立たしいものがあるが、言っていることは正しかった。巫女の攻撃は、体内に取り入れた風や雷を使うため、体内の力が空になれば攻撃することはもうできない。相手の全滅が先か、それとも巫女の体力が尽きるのが先か。

 「死ねっ!」

 竜巻を掻い潜ってきた赤い体のヘビと、紫の体をしたワニが巫女に飛び掛かってきた。

 「解放〈フォーカス〉」

 巫女が手を合わせると、今度は砂漠の砂が舞い上がるほどの業火が吐き出された。

 巫女の眼前まで迫ったヘビとワニの体はあっという間に燃え上がり、その炎を消そうと走り回るとすぐに竜巻に呑み込まれ、空高く舞い上がった。

 敵は巫女だけでなくオレのほうにも迫ってきた。最初は肉弾戦で闘いに応じたが、徐々に追い詰められたため力を解放した。

 「お前っ!?」

 目の前で槍を構えたカメが両手に宿る漆黒の闇を見て叫んだ。カメは何かを仲間に伝えようとしたが、それよりも先にオレの拳が顎をとらえた。殴り飛ばしたカメの体は空を舞い、竜巻の中へと吸い込まれていった。

 雷が渦巻く竜巻の威力は凄絶だった。当初は旗色悪いしと思った闘いも、一度竜巻に呑み込まれた敵がどこかへ姿を消していくため、あっという間にその数は半数以下になった。勝機が見えてきた。そう思ったが、事態はそれほど甘くはなかった。

 敵との距離が一旦開いたので、背中越しに立つ巫女に目を向けた。巫女の顔色は青くなり、息遣いはフルマラソンを走り終えたように荒くなっていた。目が合うと、巫女は青い顔のまま作り笑顔を見せ「力、使い過ぎちゃった」と舌を出した。

 口元は笑みを湛えているが目は笑っていない。疲労の色が混じっているのは明らかだった。オレを気遣って苦しさを隠しているが、その姿は燃え尽きる前の蝋燭を彷彿とさせた。

 「正鷹」

 「ん?」

 闘いの最中とは思えないほど落ち着いた声を巫女が出した。

 「ごめんね。こんなことに巻き込んじゃって」

 気息奄々の巫女が、苦しそうな呼吸を抑えて謝ってきた。

 「やっぱり私って、疫病神だよね」

 巫女が酷く悲しそうな笑顔を見せた。

 「悔しいね、こんなの。私の為にたくさんの人が犠牲になったのに……。こんなところで終わっちゃうなんて。悔しいね」

 巫女は下唇を色が白くなるほど強く噛んだ。

 巫女の気持ちは分かる。どんな事であっても、限界を目の前に突き付けられるのは本当に悔しい。

 だが、オレたちの限界はここではない。

 「巫女、約束しただろ」

 「え?」

 「必ず、お前を現世界〈ホット・ホーム〉に返すって」

 巫女の腕を取り、背中同士を引っ付けた。

 「まだまだ余裕なんだよ、こんなもん」

 奥の手とは最後の最後までとっておくから奥の手なのだ。出来ればこの手は使いたくなかった。だが、こうなれば手段を選んではいられない。

 「巫女、危なくなったらすぐオレから逃げろよ」

「正鷹?」

「いいか、危なくなったら逃げろ」

 背後に立つ巫女から返事はなかった。突然のことで意味を理解していないのだろう。

 目の前の敵が狂気を帯びた目をこちらに向ける。今のこいつ等に恐怖はない、なぜなら雷を帯びた竜巻はすでに遥か彼方へ消え去ったからだ。巫女が攻撃できなくなったいま、爬虫類たちは勝ちを確信している。しかし下駄を履くまで分からないのが、勝負だ。

 大きく息を吐き、腹に力を込めた。全力を解放するのは二年ぶりだ。もしかしたらこれが最後になるかもしれない。つまり、力に呑み込まれて死ぬかもしれない。そう思ったが心は山奥の湖面のように静かだった。背中の巫女だけ守れればそれでいい。

 全身の産毛が逆立ち、次第に髪の毛までもが逆立ち始める。両手が燃えるように熱くなり、陽炎のように揺らめく黒い闇が舞い上がってくる。

 「お、おいっ! それはっ!?」

 漆黒の闇を目の当たりにした爬虫類が一斉に後ずさりした。皆、この闇の正体を知っているのだろう。力を調整できる限界に近づいた。ここから先は、暴走した力が四方八方に飛び散る。

 躊躇う気持ちはない。全力を解放しても十分間は意識が保てる。その間に必ずケリをつける!

 覚悟を決めたその時、「バゼロッ!」と耳を劈く女の声が聞こえた。刹那、目の前で大爆発が起こり敵の体が一斉に宙を舞った。突如、敵の足元から巨大な火柱があらわれたのだ。

 顔色をなくした爬虫類たちが周囲を見回した。すると今度は、全身が青色に輝く屈強な体つきの鬼たちが現れ、次々と爬虫類に襲い掛かった。圧倒的な強さだった、その驚異的な強さを目の当たりにして、その鬼たちが何者かを思い出した、十二神将だ。その力を使いこなせば、一つの次元を制覇できると伝えられている巨大な力だ。

 砂山に目を向けると暗夜の砂上に、青白い光を放つ学制服姿の女が立っていた。

不屈の闘志を一点集中させたかのように眉間にギュッと皺を寄せ、唇はアヒル唇になっている金髪碧眼の女子生徒。妖精のように美しい顔立ちの女子生徒が手で指示を出すと、十二神将たちが猛り狂った。

「式神っ!」

巫女が弾けんばかりの笑顔で叫んだ。そうだ、あの女子生徒は巫女の友達、神楽坂式神だ。よく見れば首元と耳では鴉の黒羽が揺れている。

忍者のようなポーズで両手を合わせている式神がパクパクと唇を動かす。何を唱えたか分からないが、式神の全身を覆う青白い光が爆発したように輝きを増した。

 突如現れた十二神将から爬虫類たちは必死で逃げようとしたが、ある一定の距離までさがると何かにぶつかりそれ以上、後退することが出来なくなった。 

その姿は、目の前の虚空に壁でもあるかのような動きだった。

 式神から少し離れた砂山に目を向けるともう一人、制服姿の女子生徒がいた。背は至って低く。小学生のような童顔の女子生徒だ。

 「音色っ!」

 巫女が喜びの感情を爆発させた。

一本松音色、学生服よりランドセルが似合う童顔の女子高生だ。

 音色と呼ばれた子の足元には魔法陣が描かれていた。それどころか、よく見ると先ほどまで何もなかった砂上の至る所に魔法陣が描かれている。その魔法陣が虚空に壁をつくっていることはすぐに分かった。その術式は神懸かり的な早業だ。

見えない壁際に追い詰められた爬虫類たちに十二神将が迫って行く。

 「ふざけんなお前ら! 戦え! ぶっ殺せ!」

 声の裏返ったオオトカゲがやけくそ気味に武器を振りあげた。

その瞬間、「爆ぜろ!」という声が響き、大地を震わす大爆発が起きた。真っ赤な火柱が天に向かって突きあがると爬虫類の群れが一気に吹き飛んだ。

 燃えさかる業火の中から長身痩躯の女子生徒が姿を現した。鋭利な刃物のようにギラッと輝く眼差しを持った、すらっとした女の子だ。黒縁眼鏡の奥からは、挑発的なつり目が敵を見据えている。

「弁天っ」

 巫女が絞り出すような声でその子の名前を呼んだ。

 鬼龍院弁天、宝塚の主役を彷彿とさせる男の前の女の子だ。

 式神と音色の間に弁天が立ち、砂山の上に並んだ三人が巫女に向かって笑顔をみせる。

 「お前ら、ぶっ殺したはずだろ!? なんなんだよ!?」

 三人を見たオオトカゲが絶叫した。その瞬間、砂上に転がっていた血染めの制服がわずかな光に包まれると護符に変わった。殺された三人は術式でつくられた幻想だったのだ。

 「クソッタレ!」

 護符を目の当たりにし、事態を把握したオオトカゲが気色ばんだ。

 爬虫類の軍団はどちらに進むべきかを迷っていた。眼前に控える三人と闘うべきか、それとも後方に控えているオレか。前門の虎か、後門の狼か、選べる道は一つだ。

 「行くぞ、お前ら!」

 オオトカゲは叫ぶと同時に、眼前の三人目掛けて走り出した。俺との勝負を避けたのだ。

 爬虫類の軍団が迫りくると、黒縁眼鏡の女子高生、弁天が鋭い眼差しで「爆ぜろ!」と声をあげた。

刹那、大爆発が起こり暗夜の砂漠を赤々と照らす火柱が出現した。しかし、その爆発は敵だけではなく、すぐ近くで魔法陣をはっていた童顔の女子高生、音色までも吹き飛ばしてしまった。

爆風を浴びた音色は「あついよぉ~!」と甘ったるい声で叫びながら砂山から転げ落ちた。

 「す、すまぬ音色!」

 弁天が慌てて謝った。その動きを好機と見た爬虫類たちが、武器を振り上げ弁天に襲い掛かった。

 「甘いって!」

 式神が声を上げると、青白い光をまとった鬼たち、十二神将が爬虫類に飛び掛かった。

間一髪だった。敵の武器が弁天目掛けて振り降ろされた瞬間、十二神将が一斉に爬虫類を殴り飛ばした。ただひとつ大誤算だったのは暴走した十二神将が敵ではなく、弁天にも襲い掛かったのだ。

 「またか式神! しっかりしろ!」

 「あぁ、ごめんやで! 堪忍な!」

 式神が忍者のように手を組み、慌てて何かを唱えた。そうすると敵に喰らいついていた十二神将が攻撃をやめ、その場で胡坐を組んでくつろぎ始めた。中にはどこから用意したか分からないが、砂上で横たわりお茶とお菓子を口にし始めた鬼もいる。胡坐を組んでいる十二神将たちはオレには理解できない言葉で何かを話すと一斉に腹を抱えて大笑いをし始めた。

 「うわぁぁぁ! ど、どないなってん! なんでやねんな!」

 パニック状態になった式神が両手で頭をごしごしと掻き毟った。本気で慌てているらしく声は裏返り、妖精のように美しい顔立ちが総崩れだ。

 「わたしにまかせて!」

 砂山から雪玉のように転がってきた音色が立ち上がると、すぐに魔法陣を虚空に描いた。

その腕前は圧巻だった。虚空には描かれた魔法陣は瞬時に輝き始め、弁天に襲い掛かっていた十二神将が一斉に咳き込み始めた。何が起こったか分からないが、その隙に弁天は十二神将から逃げることが出来た。次第にその咳き込みは十二神将だけでなく、爬虫類たちへも広がり、爬虫類たちは顔をしかめると苦しそうに咳き込み始めた。これは毒術か!? 魔法陣の前で力込める音色に目を向けた。するとそのとき、オレの口の中にも何かおかしな感覚が伝わってきた。こ、これは!?……カレーの味だった。

 毒術かと思ったがそうではなかった。音色が力を込めれば込めるほど口の中にはカレーの味が広がっていく。それもただカレーの味が広がるだけではない。口の中で辛さが二倍、四倍、八倍、十六倍と強まり、とうとう我慢できなくなりオレまで咳き込み始めた。ただでさえ喉が渇く砂漠で、この術式の効果は危険過ぎる。なんなんだこの術は!?

 「音色、めっちゃ辛い! うちらまで辛なってるって!」

 苦しそうに咳き込みながら式神が声をあげる。式神の体を包んでいた青白い光が消えると、同時に十二神将たちの姿も消えた。

 「あれ~、あれ~、ごめんね。なんでかな~」

 音色が愛らしく首を傾げる。表情は確かに困惑気味だが、動きがあまりにもまったりしているため、慌てている様子がまったく伝わってこない。

 「あとは、ゴフッ! 私に、ゴフッ! 任せろ、ゴフッ!」

 顔を真っ赤にした弁天が叫ぶ。顔の赤さから、弁天も辛さに苦しんでいることが分かる。

 「爆ぜろ、爬虫類ども!」

 弁天が右手を大きく振り上げると、大地を引き裂いた業火が天高く伸びあがった。

 業火はあっという間に敵を蹴散らしたが、同時に、弁天の制服にも火をつけた。

 「や、やだぁっ!」

 急に女らしい声を弁天があげた。

弁天が慌てて制服の火を叩いて消し始めた。

すぐに式神もその弁天のもとへ駆け付け、二人で火を叩き始めた。だが、いつの間にか火は式神の制服にも燃え広がっていた。

 「えぇっ!? な、なんでやねん!」

 慌てた式神が足を滑らし砂山から転げ落ちそうになった。その瞬間、弁天が式神の手を咄嗟に掴んだが、結局踏ん張りきれず、弁天と式神は絡まりあったまま砂山から転がり落ちてきた。

ただひとつ幸いだったのは、転がった衝撃で制服についた火は二人とも鎮火されていた。

 「もうかまうな! 行くぞ! 行くぞ!」

 オオトカゲが叫ぶと、爬虫類の軍団は一斉に退却を始めた。

 逃走する奴らの後ろ姿からは、これ以上このハチャメチャな軍団に関わりたくないという気持ちが表れていた。

 「弁天……式神……音色……」

 隣に立つ巫女が絞り出すような声で三人を呼んだ。頬をつたった大粒の涙が砂上に落ちたが、その顔は笑顔に満ち溢れている。

 「弁天! 式神! 音色!」

 今度は一転して感情を爆発させると、巫女は一気に駆け出した。

 「「「巫女」」」

 三人の女子高生も異口同音に声をあげて巫女の方へと駆け出した。

 砂漠のど真ん中で四人の女子高生が涙を零しながら抱き合った。

 「必ず、みんなが生きてるって信じてた!」

 笑顔の巫女が涙を流して叫ぶ。

 「必ず、貴様が迎えに来ると信じてた!」

 三人を代表して弁天が言った。弁天、式神、音色の目からも大粒の涙が零れた。

 巫女、弁天、式神、音色が体の奥底から湧き出てくる喜びを爆発させた。

 四人が歓喜の声をあげると、たちまち深夜の砂上はお祭り騒ぎとなった。

 再会を喜ぶ乙女たちの嬌声が満天の星空の下に響いた。


 ○


 「だから、悪い人じゃないって」

 巫女がオレを指差して力説する。

「見た目は怖いし、性格は意地悪だけど、悪い人ではないって。多分だけどね」

 しかし、弁天、式神、音色は一向に心を開こうとしない。

 「むりだよみこ、だってさっきのみたでしょ」

 「せやで、せやで巫女。見たやろ、あの手に出てた黒い闇。あれ、絶対呪術やって」

 巫女がオレを紹介すると、三人が三人とも、オレの手に宿っていた黒い闇について問いただしてきた。オレは巫女のときのように「見間違いだろ」と適当にあしらった。

だが、巫女より警戒心が強い三人は、ちゃんとした説明をしろと追及をしてきた。まぁ、どちらかというと巫女のようにあっさりしているほうが珍しいのだが。

 オレを連れて次元の歩行〈ディメイション・ウォーク〉を続けると主張する巫女と呪術使いとの歩行は不吉過ぎると反対する弁天、式神、音色。

式神と音色は巫女に泣いてすがり、弁天だけはギラッと輝く眼差しでこちらを睨んでいる。

つい四日前に自分たちの隊が似たような力の持ち主に全滅させられたのだ。三人がオレを嫌うのも無理がない話である。

 「もう三人とも、そんなの思い込みだって。それ言ったら私だって疫病神じゃん」

 巫女が屈託なく笑って自分を指差す。

 「ちゃうやん、メッチャちゃうやんか! 巫女はボックスで、あいつは呪術やで。真逆の立場やん」

 「そうだよ。だって、あんなちからでおそわれたら、わたしたちよにんともすぐ、やられちゃうんだよ。めちゃめちゃにおかされるんだよ」

 犯されると言った音色の頬は上気しており、なぜかその瞬間は怖がっているというより興奮しているように見えた。

 巫女が式神と音色の頭を撫でる。

 「どろどろのぐちゃぐちゃによにんまとめて、あさまでぐちょんぐちょんにおかされるんだよ」

 「大丈夫だって」

 「大丈夫やあらへんよ、耳やって半分切れてるやん」

 「何かあった時は私が守ってあげるから。それに」

 巫女はこちらを見ると少し恥ずかしそうにして、「いい人だよ」と言った。

 「時に巫女、今更ながら貴様にひとつ訊ねたい」

 今まで黙っていた弁天が口を開いた。

 「なに?」

 「貴様のその格好は何だ」

 「え?……あっ!?」

 巫女がハッとしたように自分の体に目を向けた。動き回ったせいで胸元は開けて、ただでさえ短い浴衣の裾が捲りあがり、太腿は内側まで丸見えになっている。

 「あわわわわわわっ!」

 巫女が慌てて服装を直し、こちらをキッと睨んだ。言葉には出さなかったか、顔には「ヘンタイッ! スケベ!」と書いてあった。

 「それは、花魁か何かに扮した作戦か?」

 弁天が真顔で訊ねる。

 どうして砂漠で花魁に扮する必要があるのか。とんでもない天然ボケだと思ったが突っ込まないでおいた。ここで下手に慣れ合おうとすれば、よけいに心の距離が開くと感じた。

 「違う違う! そんなんじゃないって! ただ正鷹と泊まった宿で出されたのが、たまたまこの服で」

 「「「泊まった!?」」」

 弁天、式神、音色が砂漠の砂を吹き上げるほどの声を上げた。

 「泊まったとは……殿方と、一夜を共にしたということか!?」

 顔を真っ赤に染めた弁天が訊ねる。黒縁の眼鏡が大きくズレたが、いまはそれどころではないといった顔をしている。

 「違うの、泊まったって言っても泊まってなくて、その泊りには行ったけど……」

 巫女の顔も弁天に負けずと赤い。巫女は言葉を失うと、俯いて右手の左手の人差し指をつんつんと突き合わせ始めた。

 「ええい、要領を得ん奴め! 貴様! 貴様が代わりに答えろ、巫女と泊まったのか!? 貴様は、無理やり巫女を連れ込んだのか!」

 弁天が舌鋒鋭く訊ねてきた。

 「無理やりって言うか……泊まりたいって言ったのは巫女の方だし」

 「「「えぇっ!?」」」

 三人の目元が一斉につり上がる。

 「違うの! そうじゃないって! もういいじゃん! サッサと束ねられた神の光〈オーラス〉まで行こうよ!」

 束ねられた神の光〈オーラス〉を巫女が指差すが、その声は三人には届いていない。

 「ってことはやで、巫女の貞操は……この殿方に……」

 式神がゆっくりこちらに目を向けると、ボッと火が灯ったように顔を赤らめた。妖精のように美しい顔が茹でたタコのように赤く染まる。

 「ど、どうだったの? こしがぬけるほど、べちょんべちょんになったところをずこんずこんされたの? ね? ね? どうなの? どうだった? はぁ~はぁ~はぁ~」

 この幼少女子高生はいったいどんな想像をしているのか。目元はニヤケ、頬は赤く染まり、口からはよだれが垂れながら、巫女の体を舐めまわすように上から下まで粘着質な眼で見ている。

 「だから違うんだって。違うんだってーっ!」

 巫女が地団太を踏みながら否定し続けた。地団駄を踏むごとに浴衣の裾が捲り上がり、また白くて細い太腿の内側が見えた。オレの視線に気付いた巫女が再びハッとして足を内股にして隠した。地団太を踏んだり恥ずかしがったりと大忙しの巫女だが、三人を納得さす肝心の言葉は一向に出てこない。

 「ちょっと待って。巫女、その前にさっきからマサカタって呼び捨てにしてへん?」

 「え?」

 「してたよな」

 「した」

 式神の問いかけに、弁天が毅然と頷いた。

 「巫女、あんたいったい……この三日の間……何してたん……何されたん……」

 卑猥な妄想が脳裏を巡ったのか式神の顔は湯気が出るほど赤くなった。瞳が蒼く澄み切っている分、頬の赤さがよけいに目立つ。

 「ちょうきょうだ。みこのめすとしてのほんのうが、ずぶといにくぼうでおかされ、じぶんのいしをうしなうほど、きっちりちょうきょうされたんだ」

 手の甲で口元から垂れる涎を拭きながら音色が「はぁ~はぁ~」と荒い息を漏らしている。

 弁天がハッとした顔をして巫女に近づいた。

 「巫女、貴様……」

 弁天の唇がプルプルと震えている。

 「え? なに……」

 弁天のただならぬ表情に気付いた巫女が、苦笑いを浮かべて後退する。しかし、弁天は逃さんとばかりに距離を詰めると、いきなり巫女の襟元に手をかけた。

「御免っ!」

弁天は声をあげると一気に襟元を開いた。その瞬間、巫女の白くて瑞々しい二つの果実が目に飛び込んできた。

 脳が痺れ、心臓は壊れるほど高鳴り、鼻血が噴き出た。そして心の中で弁天の思い切りの良さに深く、深く感謝した。

 胸元を開かれた巫女は悲鳴も上げず、魂を吸い取られたように動きがピタッと止まった。

 「貴……貴様、下着は!? 下着はどうした!?」

 驚愕した弁天は足元がふらつき倒れかけたが、ぎりぎりのところで踏ん張った。しかしその代わりに、隣に立っていた式神が卒倒した。地面がコンクリートだったら命を失う倒れ方だった。

 「もうっ! エッチ! エッチ! エッチ!」

 意識が戻った巫女が慌てて胸元を閉めた。

 「正鷹! 見たでしょ!」

 両手で胸元を隠した巫女が底光りするような目でこちらを睨む。

 「見てねーよ!」

 「うそだぁ!」

 「ウソじゃねーって」

 「だって、鼻血が! 鼻血が出てるじゃん!」

 「のぼせただけだよ! 熱さに!」

 両手で鼻を覆っているが鼻血は一向に止まる気配がない。人生最大の衝撃だった。

 「嫌い! 大っ嫌い!」

 頬を紅潮させて巫女が叫んだ。巫女はその場にしゃがむと両膝を抱えたまま肩を震わせ始めた。

 弁天、式神、音色が心配そうにその周囲に集まる。

 「だって……どうしてもトイレに行きたかったし、お風呂にも入りたかったし、ご飯も食べたかったのよ……」

 巫女が声を震わせながら懸命に抗弁した。

 「分かった。分かった。そういうことやったんやな。そやな。大丈夫やで巫女」

 式神が何とかして巫女を元気づけようとするが、巫女の話は止まらない。

 「それでお風呂に入ってたら、急に正鷹も入って来て」

 「お、お風呂に!?」

 「それは……混浴か」

 巫女がかぶりを振った。

 「ううん……。女湯」

 弁天、式神、音色が身の毛もよだつ形相でこちらを睨んだ。

 その瞬間、オレは自分が何らかの嫌疑をかけられていることを察した。

 「なんという破廉恥な輩だ」

 「けいさんしてたんだよ、みこのしろいはだを、かじつのようにみずみずしいにくたいを、にげばのないおふろばでゆっくりいたぶり、たべつくそうって」

 「いきなりお風呂に入ってくるなんて……そんなん不潔や、不潔!」

 三人の目には、背筋がゾッとするほど鋭い敵愾心が溢れている。

 「それで、どうしたのだ巫女」

 「その後、急に湯船から担ぎ出されて……」

 「いきなりあつくて、ふといにくぼうをくわえさせられたんだ」

 「いややぁ、それ以上言わんとってや音色! よう聞かへん!」

 「裸のまま、連れ去らわれて、お尻を、触られた」

 「そ……それは……つまり……手籠めにされた……という訳……か」

 弁天が恐る恐る訊ねると巫女がコクンと頷いた。

 「なんで、頷くんだよ!」

 ついに我慢できず声をあげた。だが、声をあげるのが遅すぎた。

 弁天、式神、音色が突き刺すような眼差しでこちらを睨みつける。

 「許せん……。巫女の純粋さを逆手にとって、とんでもない卑猥なことを……」

 「男の風上にもおけん奴やな」

 「おしおきだよ。こんなうらやましいやつには、きっちりちょうきょうがえししてやる」

 三人がズイッと一歩、近寄ってきた。

 「待てよ……。お前ら、オレの意見もちゃんと聞いて、うっ!」

 口の中いっぱいにカレーの味が広がった。もちろん、その辛さはあっという間に二倍、四倍、八倍と倍かけで強まっていく。

 「待て、待てって、ゴフッ!」

 大きく咳き込むと、音色の力加減がますます強まった。

 あまりの辛さに涙が零れると、潤んだオレの瞳に青白く光る何かが映った。十二神将だ。ウソだろぉ? そう思った矢先、全身を青白い光に包んだ式神が合図を出し、十二神将が一斉に襲い掛かってきた。

 「おい式神!」

 十二神将の猛攻は壮絶だった。四方八方からハンマーで殴られているような強打が豪雨のように降り注いできたが、式神が術を解く気配は一切ない。それどころか式神と音色の真ん中に立つ弁天が右手をこちらに突き出している。

弁天の挑戦的な目がギラッと輝くと、式神が十二神将を一気に遠のけた。

 「落ち……落ち着こう。まずは落ち着こうぜ!」

 「爆ぜろ! ヘンタイ!」

 オレの哀願虚しく、弁天が右手を振り上げると砂上を引き裂き、足元から真っ赤な火柱が出現した。

 オレの体は天高く舞い上がり、そのまま砂漠の砂に叩きつけられた。全身に痺れるような痛みが走ると同時に思った。地面が砂で良かった。地面がコンクリートだったら死んでいたのは式神でなく、オレだったと。


 ○


 真下から見上げる、束ねられた神の光〈オーラス〉の迫力は凄まじかった。

 オーロラが垂れ下がり、手を伸ばせば届く距離に迫ってきている感じだ。束ねられた神の光〈オーラス〉は四方八方に激しく揺れ動き、その姿は五月晴れした空の下で泳ぐ鯉のぼりのようだ。

 結局オレは四人と共に次元の歩行〈ディメイション・ウォーク〉を続ける事となった。理由は巫女への不躾な振舞いは肉体労働を持って償うしかないと弁天、式神、音色の結論が一致したからだ。

 そして、歩行を続けたオレたちの前には、いま束ねられた神の光〈オーラス〉がある。

 神の束ねられた光〈オーラス〉は筆舌に尽くし難い美しさであり、それでいて無慈悲な輝きにもみえた。人智を超えた魅惑の色彩は人の心を震わすことも凍らすことも出来る。

 この神の光を見ても臆さない存在は全次元でただひとり。巫女だけだ。

巫女は目を閉じたまま大きく息を吸って吐いてを三回繰り返すと、束ねられた神の光〈オーラス〉を包み込むように両手をひろげた。

 「封印〈リメージュ〉」

 巫女が大きく息を吸い込むと、束ねられた神の光〈オーラス〉は瞬く間に巫女の体内に吸い込まれていく。圧巻だった。夜空一面に広がっていた光のカーテンがわずか五秒ほどで、全てが巫女の体に収まった。

 振り返った巫女は異様な凄みを漂わせていた。神の使いと呼ばれるに相応しく、体からは煌々しい光が発せられている。さきほど取り込んだ、束ねられた神の光〈オーラス〉がまだ体内で輝いているのだ。髪の毛はその光の強さによって妖艶に揺れ動き、よく見れば、体も浮き上がっている。表情は落ち着いているが体内から発せられる光で神々しい顔つきに見える。巫女はまるで光そのものの化身ででもあるかのような輝きをまといながら、ふわりとオレの眼前に舞い降りた。その光は巫女がゆっくりと呼吸を整えるにつれて、徐々におさまった。

「終わったよ」

ニコッと白い歯を見せると、巫女がその場に崩れ落ちた。

 「「「「巫女!」」」」

 四人で一斉に駆け寄ると、巫女の寝息が聞こえた。

疲れ果てた巫女はその場で眠りに落ちたのだ。

 「かわいい、ねがおしやがって」

 音色が愛らしそうに巫女の頬っぺたをぷにぷにと突っついた。気のせいか、右手は巫女の胸を揉みぼぐしているように見える。心臓マッサージか? いやいや巫女は倒れただけで心停止はしていない。これ以上、こいつの言動について考えるのはやめよう。見ているとジョニーが暴走しそうになる。

 「可哀相に。めっちゃ、疲れてたんやろな」

 式神も巫女の頭を撫で、労りの言葉をかける。

 「ならば、あとは頼んだぞ」

 弁天がこちらに目を向ける。

 「へ? 運ぶのか、オレが?」

 思わず聞き返すと、三人が当たり前と言わんばかりに頷いた。

 「貴様、男だろ」

 弁天のその一言は有無を言わさぬ重さがあった。

 足場の悪い砂上で背負ってみたものの、巫女の体は相変わらず軽かった。そして背中越しに二つの大きな果実が押し付けられた感覚があり、少し役得のような気分もした。

 背負った瞬間、巫女が眼を閉じたまま「カルビのおかわりください」と元気よくいったので思わず笑ってしまった。

弁天、式神、音色も一緒になって笑い始めると、背中の巫女まで眠ったまま笑い始めた。

 乾いた砂上に五人の笑いが響いた。


 ○


 「貴様、そんなことも知らなかったのか」

 帰りの「ほころび」へ向かう途中、弁天がつり目をより一層つり上げて怒った。

 三人から、巫女と何処でどういった風に出逢ったかと問われたので、「ほころび」から降ってきた巫女を病院に運んだことや、次の日、学校の食堂で泣きながら焼きそばを食べている巫女を見かけたことを伝えた。泣きながら焼きそばを食べている巫女の姿が少しばかり面白く見えたことも。

その瞬間、弁天たちが怒り始めた。巫女があれだけ大食いなのにはちゃんと訳があった。ボックスが体内に何かを取り込み、それを持ち運び、そして放出するのには莫大な体力を使うため、一回の食事で数千キロカロリーは補給しないと体が持たなくなるというのだ。

そのため巫女は一回の食事で人の五倍、十倍は食べるし、食べたところですぐに空腹になるため間食も不可欠。もし食事を怠ることや、力を使い過ぎてしまった場合は貧血のような状態になり、いまみたいに倒れてしまうという。

その話を聞き、背負っている巫女の軽さに憐憫の情が湧いた。道中、何度も「お腹がすいた」と言ったのは、ワガママではなくホントに空腹だったのだ。リュックの中の食べ物をバカにしたことも大食いと罵ったことも、今になって猛省した。

「貴様、まさか巫女に向かって大食いなどと言ってはおらんよな」

「え?」

弁天が鋭利な眼差しで睨んできた。

「巫女は自分の食欲を非常に気にしている。分かりやすく言えばコンプレックスだ」

「そうなのか?」

弁天に変わって式神が答えた。

 「昔な、外で一緒にご飯食べてた時小さい子に、あのお姉ちゃんすごいねぇ、って言わてお手洗いから一時間も出てけえへんかったんで。」

 「トイレで一時間? 何してたんだよ」

 式神が嘆息を漏らす。

 「鈍い男やな、泣いてたに決まってるやん」

 「泣いてた? それって泣くほどのことか?」

 「おおなきだったよ。といれからでてきたとき、らんぼうされためすぶたみたいに、めがまっかっかだった」

 「それくらい巫女にとって大食漢はコンプレックスなのだ」

 「けど、巫女がボックスとしての任務を全うするに食事は必要やん。コンプレックスやけど必要不可欠。ほんまに難儀なことやんな」

 弁天、式神、音色が同時に大きくため息をついた。その溜息は深く重いため息だったが、巫女のことを思っている熱い友情にも感じられた。

 「で、どうなのだ?」

 弁天が、忘れてないぞ、とばかりにもう一度こちらに目を光らせた。

 「貴様、大食い、いや、巫女の食欲を貶すような言葉は吐いてはいないだろうな?」

 「当たり前だろ! 食欲なんて人それぞれの個性だ!」

 「こせい?」

 「あぁ、そうだ。それに、たくさん食べる女の子も活発で可愛らしいじゃねーか」

 我ながら、まことしなやかにウソをついた。背中で寝ている巫女が聞いたらどんな顔をするか分からない。だが、我が身の保身のため、舌先三寸で即答した。

 すると弁天、式神、音色の顔に明るい笑顔が浮かび、「貴様、思っていたよりいい奴だな」と弁天が答えて、式神と音色が頷いた。この三人も巫女と同じで人を疑うことを知らない純粋な奴らだと思った。

 それから暫く巫女を背負ったまま四人で歩いた。

 弁天、式神、音色は互いに冗談を言い合い、手を叩いて喜んだり、腹を抱えて笑ったりしていた。時にはどうでもいいようなことも言っていたが、それでも三人はホントに楽しそうに笑って話をしていた。その三人を見ていると「これが友情ってやつか」と思い、感慨深い気分になった。

 背中の巫女は人形のように眠りこけている。砂上を風が吹きぬける度に、その背中から女の子の匂いがした。甘くてピンクな、下半身が切なくなる匂いだ。

 帰路は道に迷うことも、何者かに襲われることもなかったため、思ったより早く砂漠を抜け切れそうだった。「ほころび」があった街もすぐそこに見えている。

 「けっきょくさ、さいしょにわたしらをねらった、あのくろいやつも、まよなかのおうのてしただったのかな」

 「ちゃうやろ。絶対ちゃうって」

 「なんで?」

 「だって、あいつは巫女まで殺そうとしたやん。bps〈快楽主義者〉なら攫うやろ。だから絶対ちゃうよ」

 「なるほど、それは一理あるな。では逆に、奴は何者だったんだ……」

 「おい」

 声をかけると先を歩く三人が振り返った。

 「帰りは、お前ら四人だけだから」

 「「「え?」」」

 弁天、式神、音色が異口同音に声を発した。

 「オレは帰らない。オレはこっちの次元か、また別の次元で生きる」

 「帰らないとはどういうことだ? 分かるように説明しろ」

 弁天が鋭い目つきで訊ねてくる。

 「自分、次元の放浪者〈デッド・パッカー〉になる気なん?」

 「あぁ」

 三人が大きく目を見開いた。

 「むちゃだよそんなの! わるいやつらにそっこーでつかまるよ!」

 音色がゆったりとした喋り方だが、逼迫した声をあげた。

 「同じことを言われたよ、巫女にも」

 「だったらなぜ、そう無謀な道を歩もうとする。貴様、現世界〈ホット・ホーム〉に帰れぬ理由でもあるのか!?」

 「もちろん。あるから帰らないんだ」

 「どんなりゆう?」

 「自分が呪術の使い手やから?」

 「いろいろだよ。ともかくオレは帰らない。けど、ほころびまではちゃんと見送る。いいだろそれで」

 「……ダメだよ」

 皆が一斉に目を向けた。背中の巫女が目を覚ましたのだ。

 背中越しにまだ眠そうな声が伝わってくる。

 「……一緒に帰ろうよ。……まだちゃんとお礼も言ってないし」

 「いいよ礼なんて。お前が言うことじゃないし」

 「……だったら、まだちゃんと謝ってもらってないし」

 「謝る?」

 「……私のこと、バカにしたじゃん。……大食いって」

 ハッと息をのんだ。巫女は寝たふりをして、しっかりさっきの話を聞いていたのだ。

恐る恐る目を向けると、予想通り弁天、式神、音色が鬼のような形相でこちらを睨んでいた。

「うそつきだ」

「うん。大ウソつきやな」

「あぁ。そして虚言者は、死刑だ」

弁天が目を光らすと、式神と音色が「うん!」と同意した。

背中の巫女がクスクスと笑いながら「死刑だって、大変だね」と言った。そして、力はないが透明感に充ちた、耳の中にすうっと入り込む美声を投げてきた。

 「……だから、ごちそうしてね、焼肉。それで許してあげる」

 「それは……」

 返事に窮していると、巫女が耳元に口を近づけ、念を押すように囁いた。

 「約束だからね」

 甘い息が耳をくすぐる。不覚ながら、絶対に帰らないと決めていた現世界〈ホット・ホーム〉に巫女と一緒なら帰ってもいいと思った。

 肩を並べて歩く弁天、式神、音色も「特上カルビは必須だな」「めっちゃ、楽しみやな」「でざーともたべようね」などと、既にオレが帰ることが約束されたように話を進めていた。巫女が「カラオケも行こーね」と言うと三人が「「「賛成」」」と声を揃えた。

 不思議な気分だった。五歳で次元の放浪者〈デッド・パッカー〉となってから、友達が出来たことはなかった。しかし、この四人に囲まれていると、これが憧れていた学校生活ではないかと思えてきた。先ほどまでは、絶対に父がいる現世界〈ホット・ホーム〉には帰らないって決めていたのに、いまは焼き肉とカラオケで話が進み、それを楽しみにしている自分がいる。

 そう考えると、変わり行く自分を恐ろしく感じると同時に、何か得体の知れない喜びで胸が高鳴った。

 「約束だからね、正鷹」

 再び、巫女の甘い息が耳をくすぐる。

 オレは目の前の光景を見て返事をした。

 「ああ。ただし、帰れたらな」

 「え?」

 「見ろよ」

 顎で前方を指す。それを見て弁天と音色が「なるほど……」と納得し、式神は「ホンマ、懲りん奴らやな」と呆れ気味だった。

 街中には一般人の人影が一つもなかった。

 代わりに街中のいたる所で、赤い炎が踊るように燃えている。武装した車が数十台路上に止めてあり、砂丘が誇る文明都市は、わずか一夜で悪が跳梁跋扈する無法都市と化していた。

金で協定を結んだか、元から手下だったかのか分からないが、街は凶器を手にした爬虫類、bps〈快楽主義者〉と巫女が吹き飛ばした土竜の一味で溢れていた。

 「ほころび」は、最後の砦といわんばかりにしっかりとガードされている。

 「どうする? かなりの数だぞ」

 「関係ないって。雑魚は所詮何人おっても雑魚やねんから」

答えた式神を見ると、すでに青白い光が体内から湧き上がり、十二神将を使おうと構えていた。

 「待て式神。まずは作戦を立てよう」

 慌てて式神を制した。当然のことだ、制御不能となった十二神将に襲われるのはもう懲り懲りだ。

 「要は、ほころびに飛び込みさえすればいいんだ。奴らを倒す必要はない。それなら難しくはないよな」

 自分で言ってその通りだと思った。ここで戦いに勝つ必要はない。こいつ等を蹴散らし、一瞬の隙をついて「ほころび」に飛び込めばいい。奴らの何人かは次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉としても、こちらの仲間がいる現世界〈ホット・ホーム〉にまで追ってくる可能性は低い。わざわざ自滅しにくるバカはいないだろう。

 「了解した。ならばここは、私が奴らを爆ぜて道をつくる。その隙に皆はほころびに飛び込め」

 弁天が爛々と目を輝かせた。

 しかし、弁天には申し訳ないがその作戦も却下だ。力加減のできないこいつの爆撃では、「ほころび」が倒壊した建物の下敷きにある可能性もある。そうなればますます事態が悪化する。

 「ここはわたしにまかせとけって。じゅつしきでかなしばりをつかえば、そのすきにかえれるでしょ」

 音色が両手を力いっぱい握り締めた。皆の役に立てることが誇らしいようだが、絶対にその案はないと弁天と式神が強く反対した。

 「音色、以前の出来事を忘れてはおるまい」

 「う、うん」

 「敵だけやなくて、うちらも金縛りにあったやん。音色以外、みんな動けんなってどえらい目にあったやろ」

 「う、うん……」

 「今回、そうなれば生け捕りにされる可能性は大だ。分かるな、音色」

 「うん……」

 弁天と式神に説得されると、がっかりとした音色は涙目になり口を真一文字にした。

 「ここは、オレがいく」

 「「「「え?」」」」

 背中にいる巫女を含めた四人が声をあげた。

 「女性にこんな危険な任務は任せられない。オレにまかせろ」

 女性という言葉を聞いた途端、弁天、式神、音色が頬を桜色に褒めた。レディーとして扱われた事が思いのほか嬉しかったようだ。

 「いいの、正鷹?」

 背中の巫女が心配そうに訊ねる。

 「心配御無用。オレなら出来る」

 そう、この役目は他の三人には譲れない。自分の身の安全のためにも。

 「よく言った、貴様を見直したぞ」

「うん。いっしゅんだけだけど、だかれてもいいっておもったよ」

 「ごめんな。うちら、自分のこと勘違いしてたみたいやった。堪忍な」

 オレの本心を知らない弁天、式神、音色が一致団結したようにこちらを見て頷いた。

 「よし、じゃーよく聞け。勝負は一瞬だ。その一瞬に全てを賭け……」

 真っ直ぐ皆の目を見て指示を出しているときだった。夜の闇に包まれていた街中が突然明るくなった。

 怪訝な顔で皆が空を見上げる。

 「よあけ、かな?」

 「ちゃうやろ。時間的に早すぎやん」

 式神の意見に賛成だ。夜明けにはまだ早い。何よりこの次元で太陽が北側から昇ってくることはない。

 「あれ! あそこ!」

 背中の巫女が前方を指差す。

 その方向を見た瞬間、オレの耳から音が消えた。空に浮かぶ男の顔だけがオレの五感を占拠した。

 爬虫類と土竜の群れの上空に、黄金の光をまとった一人の男が浮いている。金髪碧眼で細身、顔はハリウッドスターのように美系でおまけに長身。ひと目で確信した。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉だ。

 軍団の先頭にいるオオトカゲが声を荒げたが、ここまでその声は聞こえない。

 「もっと、近づこう」

 弁天が指示を出す。敵の注目が全て、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉に向いているため移動は簡単だった。

 物陰に身を隠しながら移動を続けると、徐々に最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉とオオトカゲの会話が聞こえてきた。

 「だから、教えてくれるだけでいいからさ。外見は人間風で、背はボクと同じくらいの黒髪の男は見なかったかい?」

 「何回も同じことを言わすな! お前が誰だって聞いてんだよ!」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が辟易しながら答える。

 「だから、何回も言ってるだろ。リベイション・ハウゼン、最初の光を掴んだ者だよ」

 爬虫類と土竜が笑い声を上がる。

 「くだらねー冗談はいいんだよ! 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉なんている訳がねーだろ! バカげた伝説持ちだしゃ、こっちがビビると思ったか!?」

 オオトカゲが凄んだ声をあげる。宙に浮いている最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の下には銃を構えた爬虫類や土竜たちが次々と集まってきた。

 「奴ら、今度は銃を用意しているぞ」

 弁天が周囲を警戒しながら声を出す。

 「あいつらもいちおう、がくしゅうしてるんだね」

 音色のトロリとした甘い声が、この緊迫した場面を一気になごます。

 「あいつらもバカやないってことやな。むしろ一回敗けて目が覚めたんちゃう」

 式神の意見に弁天と音色が頷く。その瞬間、背中の巫女のお腹が「ぐ~」と音を立てる。

「はわわわわわ、こ、これはね」

巫女が慌てて何かを言おうとしたが、「大丈夫だから」と言って制した。

「……はぃ……」

消え入りそうな声で巫女はつぶやくと、オレの背中に顔をうずめた。恥ずかしさで顔が赤くなっているのか、湯たんぽを押し付けられたように背中が暖かかった。

 「これが最後だ、テメーは誰だ!」

 オオトカゲの声が周囲に響く。部下たちはすでに銃を構え、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉相手にしっかりと狙いを定めている。

 「じゃー、僕も最後に一回だけチャンスをあげるよ。見なかった? 黒髪の男?」

 「殺れっ!」

 オオトカゲの合図で部下たちが一斉に射撃した。

勝敗は火を見るより明らかだった。部下たちが放った銃弾は全て最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉を覆っている黄金の光に触れると、その場で空中停止した。

 「あ?……ど、どうなってんだ?」

 オオトカゲは目を丸くしたが、やけくそ気味に再度、指示を出した。

「かまうなお前ら! ガンガン撃て! どうせ、ボックスみたいな能力だろ、いずれはぶっ倒れる! ぶっ殺せ!」

 オオトカゲの指示で部下たちが銃を撃ち続けた。

 「仕方ないな。最初に始めたのはキミたちだからね」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が振り上げた右手を降ろすと、光に張り付いていた銃弾が一気に四方八方へ猛烈な勢いで飛び散った。

飛び散った銃弾は爬虫類や土竜の腹部や太腿をいとも簡単に貫いた。オレたちの目の前の壁にも銃弾が飛び散ってきたが、コンクリートの壁を易々と貫くほど、凄まじい威力だった。

 「何なんだ!? 何なんだよお前は!?」

 「言っただろ。僕は最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉だ」

 「最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉……」

 遠くから見ても、オオトカゲの目から戦意が消滅していくのが分かった。ようやく本物であることが分かったのだ。

 オオトカゲは踵を返すと「行くぞ!」と叫び、一目散に退散を始めた。体の動く者たちはついて行くことが出来たが、動けない者は見捨てられた。

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は地上に降りると、まっすぐ「ほころび」に向かって歩き始めた。

 「ほころびか。……ならあいつも来るかな」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉はそうつぶやくと、「ほろこび」の隣にある、丁度良い高さの瓦礫に腰を下ろした。

 「どうする! あんな奴が相手では勝機はないぞ!」

 弁天が声を殺して叫ぶ。

 「けど、あんなとこおられたら、どうしようもないやん」

 式神が嘆息をもらす。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は「ほころび」の隣から動く気配がない。

 「最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が言っていた黒髪の男とは、我々を壊滅させた奴のことか」

 「そうやろ。だってそれ以外おらんやん、そんな奴」

 「けど、りべいしょん・はうぜんは、でんせつではいいひとだってはなしでしょ。なら、ちゃんとりゆうをはなせば、いいんじゃないの」

 「そうよね。行って、ちゃんと話をしよう」

 背中の巫女が力強く言った。

 「行ってちゃんと話をすれば聞き入れてくれるはずよ。それにワガママ言ってごめんだけど、私聞いてみたいの。ホントに次元の中心地〈オール・フェアライン〉があるかって。だって、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉って、次元の中心地〈オール・フェアライン〉生まれのはずでしょ」

 巫女の話を聞き弁天と式神も頷く。

 「そやな。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が悪事を働いたって伝説は、聞いたことないな……」

 「ならば、賭ける価値はあるかもな。命を張ったギャンブル、それもまた一興だ」

 弁天が口の端を吊り上げて不敵に笑うと式神と音色も頷いた、背中の巫女が頷く感触も伝わってきた。

 しかし、オレはその作戦にはのれない。いや、のる訳にはいかない。なぜなら、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が探している黒髪の男とは、オレのことだからだ。

 その理由を四人に話すつもりはなかった。オレがここに残り、四人だけで「ほころび」に向かえば最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は通してくれるだろう。ただ、この四人に別れの言葉をどう伝えれば聞き入れてくれるだろう。そんな事を考えているその時だった。

 「あぁぁぁぁぁあぁぁぁーっ!!」

 遠方から断末魔の叫びが聞こえた。すぐに逃げたオオトカゲたちの叫び声だと分かった。慌てて目を向けると、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の黄金の光を、

喰い尽くすようにどす黒い闇が濁流の如く押し寄せてきた。

 「ほころび」の隣に立つ、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が鋭い目つきで眼前を見据える。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の視線の先には、塗装された道路を歩く一人の男がいた。派手な服装で外見は人間風、背丈はオレや最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と同じくらい高い。黒髪で体は細いが瞳はゾッとするほど底深い光をたたえ出していた。深い淵をのぞいてきた者だけにある瞳の輝きだ。そしてその黒い瞳は「ほころび」のようにゆっくりと捻じれるように回転し、全てを呑み込む晦冥のような凄みを漂わせている。

その男は唇が三日月形に裂けるほど両口の端を吊り上げると、般若のように不気味な笑みを浮かべた。

 「あいつ!?」

 弁天が驚愕と憤怒がない交ぜになった声をあげた。

 「正鷹……あいつよ」

 巫女がそっと耳打ちした。耳打ちというよりは幽霊でもみたような口調だった。

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉に向かって、豪快不遜な態度で真っ直ぐ歩いてくる黒髪の男。あいつが前回、巫女の隊を壊滅させた張本人だ。

 二人の距離が縮まるごとに黄金の光と漆黒の闇がぶつかり大地の震えが強くなる。二人の関係が敵対していることは明瞭だ。

 「けど、これってちゃんすじゃないの? あのふたりがあらそいはじめたすきに、ほころびにとびこめばいいんでしょ」

 音色が訴えるように言うと「あぁ、その通りだ」と弁天が全員を鼓舞するように力強く答えた。弁天、式神、音色の目に殺気が宿り始める、恐らく三人はもう一度、命を懸けて巫女を守ろうとしているのだ。

 「嫌だからね! 私、今度は絶対、みんなと一緒じゃなきゃ帰らないからね!」

三人の思いを察したように、背中の巫女が声をあげた。

 「嫌なの……もう一人は嫌なの。だから、絶対に一緒に帰ろう。私たち、仲間でしょ」

 力強く筋の通った声だった。すると三人の目に宿っていた殺気が霧消と化した。

 「そうだったな。一緒に帰るぞ」

 「うん、かえろうね」

 「そやな。帰ってみんなでパーティーやろな」

弁天、式神、音色の三人がお互いの肩を力強く叩いて励まし合った。

 次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉の生存率は低い。次元によっては大嵐の海をイカダで航海するより危険な次元もある。未知への歩行は、同時に闇への歩行であり、死地への歩行である。

オレは勘違いをしていた。父の組織に守られているこいつ等は、それが分かっていないと思っていた。だが、そうではなかった。巫女たちは皆、それが分かっていながらも皆で過ごせる時を楽しもうと明るく振る舞っていただけだったのだ。

 こいつらだけは帰してやりたい。心の底からそう思った。

 「最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉!」

 捻じれた瞳の男が耳を劈く声をあげた。

 「ピカピカ、ピカピカ、下品な光を発しやがって。発情中のクソ蛍が!」

 男が歩くたびに地面を這う黒い闇が大地を裂き、砕けた無数のコンクリートがロケット弾のように飛び上がる。

 「ホントはキミじゃなくて、もう一匹の害虫を引き寄せたかったんだけどね」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は至って冷静だ。すぐ足元まで黒い闇が迫り、目の前でコンクリートの塊が跳ね上がっても顔色一つ変わらない。

 「あれはオレの獲物だ。お前が手を引け、発情蛍!」

 捻じれた瞳の男が凄むと、さらに黒い闇が広がり、周囲のビルや建物まで崩し始めた。大地の震えが強くなり、もはや立っておくこともままならない。

 「ダメだよ。あいつは僕が闇に葬る。キミには渡さない、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の言葉を聞き、オレ以外の四人が色めき立った。

 「い、いま……終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉って言った?」

 弁天が震える声で訊ねる。

 「うん。……そう言ったやんな」

 答えた式神がゴクリと生唾を吞む。

 「終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉って、あの……全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉の?」

 巫女が確認するように言った。その聞き方は否定されることを期待した聞き方だった。だが、オレが「そうだ」と答えると弁天、式神、音色が蒼白の面持ちとなった。

終焉へ躍進者〈メイヘム・タイガー〉とは全次元に七つ存在する全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉のひとつだ。終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が滅ぼした世界は、伝説がホントなら既に十を超えるといわれている。

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が足を止め、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と向かい合う。その全身からは殺気が満ち溢れ、狂気と呼ぶに相応しい眼差しで相手を睨み付けている。

 「だったら、力づくだ!」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が両手をあげると、黒い闇が天に向かって高々と伸びあがった。

 「そうだね。僕も目の前に現れた害虫を逃がすほど、お人好しじゃないからね。キッチリと駆除させてもらうよ」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉はポケットに手を入れたままだが、その場で花火が爆発したように黄金の光が四散した。

 「行くぜ! 発情蛍!」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が猛り狂った獣のように咆哮する。闘えることが嬉しくてたまらないといった顔つきだ。

 「来いよ、ゴキブリ野郎」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の顔にも不敵な笑みが浮かぶ。目は終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉を睨みながら笑っている。己の勝ちを確信している強者の笑みだ。

 先に仕掛けたのは終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉だった。両手を突き出すと、天空から黒い稲妻が最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉を目掛けて降り注いできた。しかしその稲妻は、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉がポケットから手を取り出して受け止めると爆発したように飛び散り、周囲のビルに突き刺さった。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が手をまっすぐ伸ばすと突き刺すように黄金の光が終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉目掛けて一直線に放たれたが、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉は右手一本でその光を払い除けた。

 払い除けられた光が周囲のビルに直撃し、十階建てほどのビルの窓が瞬時に全て割れる。その音を聞き、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が嬉しそうに大喝する。

 「楽しいな! クソ蛍!」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が凶暴な笑みをみせる。

 「暴れるゴキブリほど醜いものはないね」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の顔にも殺気を含んだ笑みが目いっぱい広がっている。

 二人が同時に手を突き出すと、漆黒の闇と黄金の光が衝突し、周囲の建物が跡形もなく壊れていく。オオトカゲたちが町を占拠したため、一般人がいないのがせめての救いだ。

 「どうする! 凄まじすぎる! ほころびに飛び込む隙なんてないぞ!」

 大地が揺れる闘いの中、弁天が声を上げる。辺りは倒れたビルの爆風で砂埃が舞い、少し声を上げただけで弁天は激しく咳き込み、苦しそうな顔をみせた。

 「待とう! 隙が出来るまで待つしかないやん! 今は耐える時や!」

 式神も大声を張り上げる。それでも最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉の闘いが凄まじく、声はかろうじて聞こえるくらいだ。

 待つことによって、この二人の闘いに隙など出来るのだろうか。下手をすれば倒壊した建物で「ほころび」が埋まってしまうかもしれない。しかし、現世界〈ホット・ホーム〉に帰るには今や待つ以外に選択肢はない。

 「上っ!」

 式神が頭上を指差して叫んだ。目を向けると、爆発の衝撃に耐えられなくなったビルが崩れ、コンクリートの塊がこちらに向かって落下してきた。

 「クソッ!」

 考える暇も、ましてや迷っている暇もなかった。叫ぶと同時に手を突き出した。

突き出した手から力を放出すると、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉と同様に、オレの手から漆黒の闇が放たれた。力加減を誤った黒い闇は、落下してきたコンクリートを破壊すると、そのまま自分たちが隠れていたビルごと跡形なく吹っ飛ばした。

「貴様、その力は!?」

「全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉やんか!?」

周囲が見えなくなるほどの砂埃が舞い上がった中、弁天と式神が声をあげた。

「……正鷹」

背中の巫女が震える声を絞り出し、オレの肩をギュッと握ってきた。肩を握る巫女が何を思っているかは分からない、オレの能力が分かり怯えているのか。それとも現実を認めたくないと思っているのか。ただ、肩を握る手は小さく震えていた。

 周囲一面を包んでいた砂埃が晴れると、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が闘いを中断してこちらに目を向けていた。

 目が合うと同時に、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が血走った目を剝いて歓喜の声を上げた。

 「会いたかったぜ、クソヤロウォ!」

 弁天、式神、音色がオレの方に目を向ける。その目は終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉がオレを知っていたことに驚愕していた。

 「ダメだよ。あれは僕の獲物だ。あいつは僕が仕留める」

 「早いもの勝ちだ。強者が全てを手に入れる。全次元の習わしだろ」

 「ゴキブリの同士の共食いに興味はない」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が舌戦を繰り広げるが、二人の敵意は既にお互いにはなく、オレに向けられていることは明らかだった。二人にとって不倶戴天の敵はオレなのだ。

 背中を握る巫女の手に力が籠められる。その手はもう震えていなかった。

 「行かないでよ、正鷹」

 巫女が両手で強く、オレの肩を握った。

 「あぁ? なんだよ、よく見りゃ一緒にいるのはオレが殺った、カスどもじゃねーか」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉がオレ以外の四人を見て声を上げた。

 「よく生きてたなお前ら! もう一回キッチリ殺してやろうか?」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が親指で自分の首を切り裂くポーズをとる。その手にはオドロオドロしいほど漆黒の闇が宿っている。

 弁天、式神、音色が身をかがめて戦闘態勢をとる。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が攻撃してくるとは思えないが、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉は躊躇なく攻撃してくる。なぜなら闘いこそが奴の全てだ。

 「巫女。もう大丈夫だよな?」

 「え?」

 「自分の足で歩けるよな」

 「……うん」

 背中から降りた巫女と向き合った。両方の掌を巫女に見せた。今は力を抑え、黒い闇は宿っていないが、何が言いたいかは伝わっているはずだ。全次元に七つ存在する、全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉。そのうちのひとつは、このオレだ。

 「いいから! いいから一緒に帰ろう! 私、なんにも見てないから!」

 巫女がオレの手を握り懸命に訴えてきた。その唇には色がない。

 「いつから気付いていた?」

 オレもバカではない。ずっと巫女が気付かないふりをしてくれていたのは分かっていた。オレが促すと巫女はまっすぐ目を向けたまま答えた。

 「気付いてない。何にも知らない。だから一緒に帰ろう」

 巫女がオレの体を揺すった。

 「巫女」

 「なによ」

 「お前は厄病神なんかじゃない。お前はオレとは違う」

 両手で巫女の頭を撫でた。髪の毛一本一本が絹のように柔らかく形の良い小さな頭だった。

 「お前は必ず、全次元から祝福される」

 口角を持ち上げて笑顔を見せた。誰かを元気づけるために笑ったのは生涯初だ。

 「なによそれ……。いやだからね! こんなお別れみたいなのいやだからね!」

 巫女が激しく腕を揺すった。返事はせず、自分の首にかかっている黄色い小鳥のペンダントを巫女の首にかけた。

 「後は、自分の足で進め」

 「いやだって! 一緒に帰るって約束したでしょ!」

 巫女の顔に酷い悲しみの色が浮かぶ。その双眼は涙で滲み、宝石のような輝きを発しながらオレを見ている。

 返事はせず、ペンダントをかけ終えると、弁天、式神、音色に目を向けた。

 弁天、式神、音色は全身に緊張が漲っていたが力強く頷いてくれた。

言葉はなくても意志は伝わった。

「十分だ。オレの限界は十分間だ、その間に逃げろ」

「あぁ、任せろ」

弁天が力強く返答した。

 「正鷹! 待ってって! 正鷹!」

 巫女が後を追ってこようとしたが、三人がその巫女を止めた。弁天も式神も音色も分かっている、巫女は疫病神などではない。

全次元の平和を双肩に担う巫女は祝福される存在なのだ。

踵を返し、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉と向かい合った。

 「くっせー芝居見せやがって。眠っちまうとこだったぜ」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が地面に唾を吐き、凄みのある顔を浮かべる。両目の捻じれはより一層強まり、その眼底では悪鬼の炎が燃えている。

 「いや、麗しい涙の別れだった。キミの人生は今日で終わる。最後に良いものを見せてもらったよ」

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の両方の瞳が太陽を凝縮したように、金色に輝き始めた。こいつが本気になった証だ。

 「正鷹のバカ! 一緒に帰ろうって言ってるでしょ!」

 三人に止められている巫女が手を伸ばしたが、もうその手を掴んでやることは出来ない。オレの体には全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉が宿り始めた。

昂ぶりはあるが、恐れはない。ただ胸の中にあるのは、明け方の空に浮かぶ真っ白い月のような、無の感情だけだ。

 全次元の双璧と謳われる二人とぶつかり、ここで命を尽きるのもなかなか乙な最後だが、そうはいかない。オレにはまだやるべきことがある。あの四人は何があっても必ず現世界〈ホット・ホーム〉へ返す。

 全身の産毛が逆立つと同時に髪の毛も重力に反発し、揺らめきながら逆立った。全力を解放するのは二年振りだ。心臓が早鐘を打ち、目尻から血が垂れてきた。呼吸が荒くなると同時に鼻血も噴き出た。全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉が宿った両手の爪は剥がれ落ち、血が流れているが痛みはない。早鐘を打つ鼓動だけがやけにうるさく聞こえる。両目尻から流れる血が頬から首筋に滴ると、手から黒い龍が飛び出してきた。これがオレの全次元の凶災〈ダーク・ディスパー〉だ。

 出現した黒き龍は瞬時に終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉に襲い掛かった。終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉は攻撃を避けきれず両手で体を守ったが、黒き龍に弾き飛ばされると、勢いよくビルの壁を突き抜けていった。

黒き龍が上機嫌で咆哮をあげる。次元の果てまで聞こえそうなけたたましい叫び声だ。

 「闇に帰せろ化物!」

 黄金の光が襲い掛かってきたが黒き龍はその光を喰いちぎり、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉に襲い掛かった。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は俊敏に攻撃を躱したが、黒き龍の頭が枝分かれして二つに増えると、もう一頭の龍に体を弾き飛ばれた。

黒き龍たちは天空に向かって伸びあがり、砂漠の砂が全て舞い上がるほど不気味な声で咆哮した。その瞬間、二頭の龍の頭は更に枝分かれして、黒き龍が四頭に増えた。

 「逃げろ! 早く!」

 背後にいる四人に声をかけた。全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉を目の当たりにした四人は死者のように顔色をなくし、その場に立ち尽くしている。

 「早くっ!」

 声を上げると巫女の体が弾かれたように動いた。それに続いて弁天、式神、音色が巫女の体を強引に引っ張った。

弁天が巫女を抱きかかえたまま「マカセタゾ」と口を動かしたのが分かった。言葉は聞こえなかった。気が付くと耳からも血が溢れていた。

 四人は「ほころび」に向かって走り出したが、すぐに近くのビルが爆発してその足が止まった。爆発した煙の中から終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が姿を現し、こちらを指差して何かを叫んだ。その表情は歓喜に溢れている。

 「そうだよ! それでいいんだよ! 決めようぜ! オレとお前、どっちが最強か!」

 言葉は聞き取れないが、終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉に怯む気配がないのは分かった。むしろ愉快そうに大きく口を開けてこちらを威嚇している。

 刹那、後方で何かが光ったと思うと黄金の光が背中を直撃した。

 背骨が折れるほど強い衝撃が走り、声にならない悲鳴が口から漏れた。内臓が焼け焦げたように体の内側が熱くなる。

 「どれだけ強い力も、使いこなせなければ意味がない。凶災なんだよお前は!」

 振り返ると、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉がもう一発こちらに向かって黄金の光を撃ち放ってきた。しかしその光は黒い稲妻によって撃ち落とされた。

 「邪魔すんな発情蛍! コイツはオレの獲物だ!」

 「言っただろ、ゴキブリの共食いに興味はないって。なんならキミも一緒に始末してあげるよ、メイヘム!」

 「上等だ、リベイション!」

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が両手を突き上げると、漆黒の稲妻が天を裂き、解き放たれた野獣のように雲間を駆け抜けた。世界の終わりを告げているような荒々しさだ。

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉も凄みのある表情を浮かべて両手に力を込めた。その手の前では虚空が捻じれ、惑星の誕生を彷彿とさせるような濃厚な光の塊まりが現れた。

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が手を振り下ろすと同時に、最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が手を振り上げた。

 黒い稲妻と黄金の塊まりが衝突して大爆発が起きた。両足でしっかり大地を踏みつけたが、両手の龍が暴れるため真っ直ぐ立つことが出来ない。

ビルの倒壊、瓦礫の山、漆黒の闇と黄金の光が入り混じった地面、息をするのもままならないほどの砂埃、その中で顔を上げると「ほころび」の前で立往生している巫女、弁天、式神、音色の姿が目に写った。弁天が巫女に「ほころび」に飛び込むよう手を引っ張ったが巫女はその手を振り切り、こちらに走ってきた。式神と音色が同時に何かを叫んだが、もはや唇の動きを読む事も出来なかった。

時間が十分間を過ぎた。

 天空を舞う四頭の龍の体がさらに枝分かれして八頭になった。これがオレの全能力だ。八岐大蛇の化した全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉は、もはや自分で制御することは出来ない。ここまで力を解放したのは初めてだ。

八頭の龍が各々に咆哮すると三頭が終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉目掛けて襲い掛かり、後の三頭が最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉に、そして残りの二頭が破壊を楽しむように周囲のビルを根こそぎ倒し始めた。もはや自分の体を支えることも出来ず、体がピンボールのように地面や壁に打ち付けられた。

終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉が咆哮すると、空一面から黒い稲妻がオレを目掛けて降り注いできた。そして重ね合わせるように足元からは黄金の光が天を目指して舞い上がった。

終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉と最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の攻撃をまともに二発浴びて全身のあらゆる骨が軋み、意識が飛びかけた。全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉の力は強靭だが、それを操るオレは生身の人間だ。肉体へのダメージが限界を超えれば心臓は容易く停まる。

だが、オレの命はまだ燃え尽きなかった。そしてオレの意志とは関係なしに、八岐大蛇は餓えた獣のように終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉と最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉に向かって再度襲い掛かった。

二人とも俊敏に八岐大蛇の攻撃を躱すが、徐々に形成が悪くなり後退していく。

 終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉がこちらを指差し何かを叫ぶと、両目の捻じれが更に強まった。全身から黒い稲妻を四方八方へ放出して、一直線でこちらへ飛び掛かってきた。渾身の力を振り絞った最後の一撃だと分かった。八岐大蛇の頭を一頭、二頭、三頭、四頭、五頭、六頭と吹き飛ばしたが最後の二頭が同時に襲い掛かってくるとその攻撃には耐えられず遥か彼方へと吹き飛ばされた。

 朦朧とする意識の中で何者かがすぐ背後に立っていることに気付いた。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉だった。いつの間にか背後に回り込んできた最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は体から発した黄金の光を剣のように尖らせていた。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉は何かをつぶやくと、その光の剣を高々と振り上げた。避けるつもりも避ける気力もなかった。

 あぁ、死ぬな。渇いた気持ちでそう思った。恐怖も悔いる気持ちもない。ただ目の前の死を実感した。

しかし、そうはならなかった。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が光の剣を振り降ろそうとした瞬間、指先ほどのか細い炎が最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の顔面をかすり、剣を振り降ろす手がとまった。炎が飛んできた方向に目を向けると、そこには両手を突き出した巫女の姿があった。先ほどの炎は最後の力を振り絞った巫女の一撃だった。

 最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉が巫女に向かって何かを言った。

 巫女は強くかぶりを振ると、凛とした目つきで何かを言い返した。

 次の瞬間、オレと最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉の体が漆黒の闇に包まれた。上空に目を向けると、躊躇することなく八岐大蛇が最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉目掛けて襲い掛かって来ていた。口の端が引き裂けんばかりに大口を開けた、凄まじい形相の八頭の龍が虚空を引き裂き、全身がしびれるほどの咆哮をあげた。八つの頭が同時に地面に突き刺さると、大地が裂け、体が飛び上がった。目の前には全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉の漆黒の闇と、夜明けを告げる太陽の輝きが見えた。

その光景を最後に意識が途切れた。


 ○


 空が血のように赤く染まり、街中では皆が我先にと走り続けている。

耳を劈く怒声、悲鳴、泣き声。すぐに人々が走っているのではなく、逃げているのだと分かった。青ざめた顔で逃げる者、怒声を上げ周囲の者を怒鳴り散らしながら逃げる者、絶望からその場に蹲る者、親と逸れてしまい泣いている子ども。皆一同に海とは逆の内地へと逃げていた。

その理由はひとつ。

海上の空では黒き八頭の龍、八岐大蛇が猛り狂っている。

八岐大蛇を照らす空の赤さは、天が呪いの炎を上げているように赤かった。

怒声、悲鳴、泣き後、そして逃惑う人々。得体の知れない圧倒的な力の前に、子どものオレが涙を零すと目の前の母、魑魅愛子がオレの両肩に手をおいた。

 「おかあさん……」

 オレは精いっぱい声を振り絞った。

 「大丈夫だからね、正鷹」

 母が震えるオレの体を両手で強く抱きしめた。

 「正鷹。あなたは正しいことを行い、大空を翔る鷹のように、いくつもの次元を翔る男に育ちなさい」

 母は自分の頬をオレの頬に摩り当てると、二度、三度と優しく頭を撫でてくれた。

 「正しいってどういうこと?」

 なぜ、母が急にそんなことを言ったのか分からなかった。母の言葉の意味も分からなかった。

母は優しくオレの頭を撫でると、真っ直ぐこちらを見て答えた。

 「それは一生かけて考えなさい。その時、その時、必死に考え、正しいと思ったことを全力でやりなさい」

 母が目を細め、白い歯を見せて笑った。

 別れのときなのだ。幼心にそう思った。母は目尻から涙を零したが笑顔は崩さなかった。そしてオレの額に別れのキスをするとサッと立ち上がった。

 母の顔はいつもの優しい顔ではなく、闘う女の顔だった。

 陸地に迫ってきた八岐大蛇が咆哮すると、逃惑う人々が一斉に悲鳴を上げた。

 母は覚悟を決めた強い眦をみせると、体を回転させて八岐大蛇と向かい合った。

背中越しに母の覚悟が伝わってきた。

母は両手を真っ直ぐ突き出して叫んだ。

 「封印〈リメージュ〉!」

 虚空がねじ曲がったように八岐大蛇が歪な動きを見せると、その漆黒の体が母の体の中に吸い込まれ始めた。引き寄せられては力づくで離れ、また少し引き寄せられては離れ、一進一退の攻防が続くが、八岐大蛇の体は徐々に母の体内に呑み込まれていく。

 気がつくと背後から母を鼓舞する声が上がっていた。振り返ると、先ほどまで逃惑っていた人々が皆、膝をつき手を合わせ無我夢中で母に祈りを捧げていた。

 前方に目を戻すと、八岐大蛇は最後の頭を残すだけになっていた。修羅の炎のように空は燃え上がり、母の周囲は虚空が引き裂かれたように空気が震え、力が込められた母の足は踝まで土に埋まっていた。八岐大蛇は海水が裂けるほどの断末魔をあげると、その姿をすべて母の体内に封印された。

 雷鳴のような拍手と歓声が湧きあがった。大声で喜びを爆発させる者、泣きながら感謝の言葉を述べる者、愛する者と抱き合う者、さまざまだった。

目の前の母は両手を突き上げたまま微動だにしない。母に抱きつきたかった、もう一度頭を撫でてもらいたかった。大地を強く蹴り、歓声を背に母の方へと駆け出した。

その時だった、母の背中を突き破った八岐大蛇が姿を現すと、オレの頭部を直撃した。強い衝撃を受けるとともに目の前が真っ暗になった。


 ○


 目を開けると白い天井がぼやけて見えた。ぼやけているのは涙のせいだった、目が覚めたばかりだったが、頭は不要なものが全て排除されたように冴えていた。瞬きをすると涙がぽろぽろと零れ落ち、視界がはっきりとした。

零れる涙を隣から差し出しされた手が拭いてくれた。

目を向けるとその手の主は巫女だった。

 巫女はこちらに目を向けたまま大粒の涙を零していた。

 「なんで、お前が泣いてんだよ」

 自然と言葉が出た。

 巫女は両手で自分の涙を拭きながら答えた。

 「だって、正鷹が泣いてるから」

 「オレのせいか?」

 巫女が両目を抑えたまま「うん」とつぶやく。

 巫女の背後に目を向けると弁天、式神、音色がソファーに座っていた。巫女の体も三人の体も大きな傷はなかった。自分の体に目を向けると全身がミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。肘から先は、痒いようなくすぐったいような、名状しがたい不安定さがあり、どこか自分の体ではないような気がする。息を大きく吸うとアバラ骨も痛んだ。おそらく何本か折れているのだろう。

 「迷惑かけたな」

 ソファーの三人に声をかけると、三人は声を揃えて「まったくだ」と答えた。

 窓の外に目を向けると澄み切った蒼穹と太陽が一つ見えた。その太陽の輝きは、ここが現世界〈ホット・ホーム〉であることを証明してくれている。

 頭に最後の光景が蘇る。最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と向かい合い、そして上空から八岐大蛇が襲いかかってきて……。そこから先の記憶がない。

 「最後は……」

 「うん? なに?」

「最後は、どうやって帰ってこれたんだ」

 「どうやってって、普通に帰ってきたでしょ。みんなで」

 「え?」

 巫女が潤んだ瞳を細め、笑顔を浮かべる。

 「普通って。お前ら見ただろ、オレの……」

 言葉に詰まった。いまだに自分で自分の事を、全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉と認めたくない自分がいる。

 「貴様、疲れているのか。一体私等が何を見たと言うのだ。貴様は土竜や爬虫類たちの不意打ちを食らって気絶しただけだろ」

 「そうやで、自分。そんなひ弱い体やったら次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉は務まらんで」

 「はぁっ?」

 オレが怪訝な顔をみせると、四人が「そんな事も忘れたのか」と呆れた顔をみせた。

 「んな訳ねーだろ、だってこのケガは、アタタタタッ!」

 興奮して声を上げるとアバラ骨が痛み、息が吸えなくなった。

 出入り口の扉が開くと、リースが姿を現した。

 「あら、ようやく目が覚めたの」

 悶絶しているオレを見たリースが嬉しそうな顔をした。

 「痛いってことは生きてるってことよ。良かったじゃない。先生呼んできてあげるから待ってなさい」

 リースが踵を返し、室内から姿を消した。

 「今の人、綺麗だね」

 巫女がなぜか嬉しそうに訊ねてきた。

 「誰なのあの人? 何回かお見舞いに来てたよ」

 巫女の質問には答えなかった。リースが身分を明かしていないってことは、明かさないほうがいいと父かリースが判断したからだろう。

痛むアバラを抑えながら考えた。もし最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉や終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉との闘いがオレの記憶違いなら、こんな大ケガは負っていない。いや、あれほど壮絶だった闘いが記憶違いの訳がない。四肢の包帯、全身の痛みがそれを証明している。

「お前ら、ホントはちゃんと覚えてんだろ」

痛むアバラを抑えながら訊ねた。

「なんのことだ」

「そうやで、さっきからなんのことなん」

 「そうだよ。わたしたち、だーく・でぃすぱいあーなんてみてないし」

 「「音色!」」

 弁天と式神が声を揃えて怒鳴った。音色は「あっ!?」と短い声を上げると、すぐに涙目になり「ごめんなさい」と言った。その姿を見て思わず吹き出してしまった。

 「そうか。気を使ってくれたんだな」

 四人の不器用な思いやりが嬉しかった。

 「そんなんじゃないわよ!」

 巫女が素早く言い返す。

 「正鷹の方こそ、ちゃんと約束は覚えてる?」

 「約束?」

 「言ったでしょ。みんなで行こうねって」

 「あぁ……焼肉。巫女のおごりで」

 「違うでしょ! 正鷹のおごりでしょ!」

 巫女が本気で怒ると、弁天、式神、音色の三人が笑い声をあげた。四人の和んだ雰囲気を見ると、こちらの心まで暖かくなった。

 「……オレは、超越した絶対領域〈フルメタル・ダイヤモンド〉だ」

 四人の笑い声がピタッと止まった。全員の目がオレに釘付けになる。

 この四人には真実を告げておきたいと思った。

 「超越した絶対領域〈フルメタル・ダイヤモンド〉……」

 巫女が目を丸くして訊ねる。

 「そうだ、オレもボックスだ。正しくは、元ボックスだけどな」

 ただでさえ大きな巫女の目が、ひときわ大きく開かれた。

 「ふるめたる・だいやもんどって?」

 「……ボ、ボックスが能力以上の何かを封じ込めた状態のことやけど、ボックスの絶対領域って無限やん。やから、そんな状態はありえへんはずなんやけど……」

 「つまり……貴様は、あの黒い怪物を体内に閉じ込めたため、超越した絶対領域〈フルメタル・ダイヤモンド〉になったというわけか……」

 「あぁ。……いや、多分な。その辺はオレも記憶がない」

 小さく首を傾げた。正直、ホントにそうなのだ。母を失ったあの日、八岐大蛇が頭部を直撃してからオレの記憶は暫くの間、空白となっている。その間に何があったかはオレ自身分かっていない。

 弁天、式神、音色が口を半開きにしたままこちらを見ている。何をどう答えればいいのか分からないといった表情だ。

 「だったら」

 潮が引いたように静まった中、巫女が声を上げた。

 「だったら、元のボックスに戻ろうよ。私がいれば戻れるじゃん!」

 「戻ろうって」

 「祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉よ。聞いたことあるでしょ」

 巫女の目が輝いた。その目でオレを見たあと、すぐに弁天、式神、音色を見たが、三人の目は巫女の輝きと相対して暗かった。

 「巫女、祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉は……」

 式神が言葉に詰まった。

 祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉とは、ボックスがそれを体に取り組み、超越した絶対領域〈フルメタル・ダイヤモンド〉に向かって放出することで、超越した絶対領域〈フルメタル・ダイヤモンド〉の状態を修復できる存在だ。

 だが、祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉とは伝説ではなくお伽噺の世界だ。「ほころび」や「ひずみ」に怯える子どもを安心させるために、大人たちが作ったお伽噺話のひとつである。

 「あぁ、祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉は、お伽噺の……」

 弁天も途中で言葉に詰まった。その言葉を式神も音色も引き継ごうとはしない。三人は目を伏せて口をつぐんだ。

 しかし、巫女だけは違った。

 「あるよ。絶対ある」

 巫女の言葉は確信に溢れていた。この瞬間どこかの次元に、祝福された未来〈プラチナム・フューチャー〉がパッと出現したのではないかと思えるくらい、確信に満ちた言葉だった。

 巫女が真っ直ぐな眼でオレを見た。

 「だから正鷹、ボックスに戻ろうよ。絶対、私が治してあげる」

 真善美が揃った完璧な笑みを巫女が輝かせた。その笑顔は直視することが適わぬほどまぶしかった。

 その時、病室の扉が開き、リースが車椅子を押して入ってきた。

 「先生が、ちゃんとした検査をしたいから病室から移動するようにって」

 ベッドから立ち上がりリースが用意した車椅子に座った。体は思ったよりもしっかりとしていて、立つことも歩くことも苦にならなかった。

リースは巫女たちに、検査の時間がかかるため今日はもう帰る様にと告げた。

 「ちょっと、待ってくれ」

 リースが押してくれている車椅子が、出入り口に差し掛かると一度止めてもらった。

 室内に目を向けると四人が心配そうな目でこちらを見ている。

 「みんな。……ありがとう」

 心から人に感謝をしたのは久々だった。言葉を発した瞬間、四人が照れくさそうに微笑んだ。

 「あとな、巫女」

 「なに?」

 「次元の中心地〈オール・フェアライン〉」

 「うん」

「あの次元を滅ぼしたのは、オレだ」

 「えっ!?」

一瞬にして、巫女の顔から血の気が失せた。

 「ごめんな」

 そこまで伝えると、気を使ってくれたのかリースが車椅子を押し始めた。

 去り際に見た四人の顔は激しく狼狽していた。

 時間が経てば四人はオレを恐れるだろう。いや、恐れるだけではすまない。きっと凶災のオレを蛇蝎の如く嫌うだろう。

 だが、それでいい。

 オレの心には諦念めいたものがあった。この十年間、こういったことは何度かあった。

 四人がこれからオレをどう思おうとかまわない。憎まれようが、嫌われようが、暗殺の対象になろうがかまわない。ただオレは四人にちゃんと感謝をしたかった。四人にちゃんと真実を告げておきたかった。

この四人に逢えて良かった、心からそう思った。


 ○


 町が夜の闇に包まれ、空には巨大な満月が冴え冴えと輝いている。

 深夜の蒼く、透明の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

荷物を背負い「ほころび」を目指してオレは歩いていた。どんな理由があれ、全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉が、この世界で生きていくことは出来ない。人々が噂を聞きつければ、きっと周囲はオレを恐れ、距離を取り、最悪の場合は次元の平和と秩序を保つため、オレの抹殺を試みる輩も現れるだろう。いや、もしかするとオレの力を利用しようと考えた奴らが、この次元の民を人質にとり始めるかもしれない。さまざまな未来が思い浮かぶが、どう考えても素情がバレて静かに生きていくことは出来ない。

 歩き進むと、海岸沿いの歩道に男が二人立っていた。「ほころび」の警備員だと思った。しかし、警備員が二人しかいないのは面妖だ。出発時は厳重な警備態勢で交通規制もかけ何十人もの武装した警備員が招集されていたのに、今はなぜこれほど少ないのか?

その答えはすぐに分かった。暗夜の中、立っていた二人は父と隠密参謀長だった。恐らく父が人払いをしたのだろう。

 「行くの?」

 父が軽い口調で訊ねてきた。

 「言っとくだけど、逃げる訳じゃない。旅立つんだ。言うだろ? 可愛い子には旅させろって」

 皮肉めかして答えたが、父からはこれといったリアクションは返ってこなかった。

 「任務は完了したんだ。今更、文句はないだろ」

 「いいよ。行きたきゃ行って。ただの確認だ」

 「ずっと見張ってたのかよ」

 「違う。病院からの連絡だよ。重傷を負った患者が突然消えたんだ。今頃病院は大騒ぎでキミを探している」

 父に変わって隠密参謀長が答えた。

確かにそうだと思った。重症患者が消えただけでも大騒ぎだが、その患者がこの歩行者天国〈スウィング・タウン〉を統べる魑魅鉄心の息子となれば尚更だ。病院に悪いことをしたと思ったが、特に心が痛むこともなかった。慣れてしまったのだ、何十、何百という次元を放浪する中で、生きていくために罪の意識を感じることはなくなった。そしていま自分は再び、その世界に戻ろうとしている。どこか客観的な気分で自分を見ているもうひとりの自分がいた。

 「けど、お前はそれでいいの?」

 父の声を聞いた途端、客観的な自分が消えて敵愾心が満ち溢れてきた。父に対する憎しみは、今も燎原の火のように燃え広がっている。

 「良いも悪いもあるか。全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉のオレが一つの次元に留まれるわけがないだろ」

 「ホントにそう思うか?」

「行くしかないんだよ、オレは」

 「ボックスを見捨ててもか?」

 槍を投げつけられたように父の言葉が胸に突き刺さった。

 「今回の次元の歩行〈ディメイション・ウォーク〉で過去との決着はつけた。いまさら何を言っても無駄だ」

 「ホントにそれでいいの? 自分を騙して生きると、いつか後悔する日が来るぞ」

 「それは親父の方だろ! お袋が死んだとき、どこで何やってたんだよ!」

 咄嗟に怒声をあげてしまった。

 どうしても許せなかった。あの日、母が八岐大蛇と向かい合った時、なぜ父は母のもとにいなかったのか。それが今でも許せなかった。

海に浮かぶ八岐大蛇を目前にしたとき、母は何を思ったか。父の助けをきっと待っていたはずだ。だが父は現れなかった。その母の気持ちを思うと無念でたまらなかった。

 もしいま、満身創痍でなければ間違いなく全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉を解放していた。ポケットに短剣があれば今度は心臓目掛けて投げていた。

 母が死んだあのとき、オレが流した涙は血の涙だ。

 気が付くと両手の包帯の内側から黒い闇が溢れ出てきていた。

 「待て待て正鷹くん! いま力を解放すればキミ自身が力に呑み込まれるぞ!」

 「んなこと分かんねーだろ、やってみなきゃ!」

 力が強まり、漆黒の闇が両手を包み込む。

 「キミは、この次元を滅ぼすつもりか!」

 隠密参謀長が白髪のライオンを彷彿させる凄まじさで大喝した。

その声を聞き、巫女や弁天、式神、音色の顔が思い浮かんだ。もしここで力に呑み込まれれば、あいつ等の未来も奪ってしまう。そう思った瞬間、両手の闇が消えた。

 「まったく冷や冷やさせおって。心臓に悪いわ」

 隠密参謀長が大きく息を吐いた。隣に立つ父は顔色一つ変えていない。

 「しかし、キミ抜きではボックスを守れる者がいないことも事実なんだ」

 オレの心中を気遣ったのか、隠密参謀長が婉曲にここに残る事を訴えてきた。

 「もう報告はあがってるでしょ」

 「報告?」

 「最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉。オレが傍にいることで、あの二人がやってくる可能性が高い。それこそ最悪の事態でしょ」

 「それは……」

 隠密参謀長が言葉に詰まった。それほどオレの意見は正鵠を射ていた。全次元の双璧と謳われる、あの二人以上に脅威となる存在は他にはない。

凶災のオレは、祝福される巫女の傍にいるべきではない。

「正鷹お前、羹に懲りて膾を食うって言葉知ってるか?」

「何が言いたいんだよ」

 「いや別に。知ってたらいいんだ」

 父が顎髭を触りながらオレの目を覗き込んだ。

「なら、これ以上は言うことも聞くこともない。行こう隠密」

 「浜辺の警備は?」

 「無用だ。ほころびは、もう閉じる」

 父がオレの隣を素通りした。隠密参謀長が「いいのか?」と訊ねたが、父は「あぁ」とひとこと答えて終わった。これが親子の会話か。そう思うと胸の中に漠然とした寂寥感が込みあげてきた。


夜の海辺を一人で歩いた。周囲には人影一つなく、寄せては引く波の音だけが聞こえる。

波の音を除けば、ここは世界の果てのように静かだった。

墨汁のように黒く不気味な海に足を踏み入れ、「ほころび」の前まで歩いて行く。「ほころび」は捻じれが弱まり、消滅する寸前だった。

首を捻り、夜の街並みに目を向けた。歩行者天国〈スウィング・タウン〉は光が散りばめられた宝石のようにキラキラと輝いている。この光のどこかに巫女がいる。

今になって気付いた。

オレの心は狂おしいほど巫女への思慕で充ち満ちている。

これほど人を愛おしいと思ったことはこれまでになかった。

その時だった。

 「正鷹っ!」

 巫女の声が聞こえた。

弾かれたように顔を向けると海辺を駆ける一人の少女が見えた。黄色い小鳥のパジャマを着て耳にはトレードマークのような赤いイヤリングがついている。巫女だ。

波打ち際まで来ると巫女は足を止め、荒い息遣いで大きく肩を揺らした。

月明かりが巫女の顔を照らす。遠くからでも大きく開かれた眼が真っ直ぐこちらを見ているのが分かった。

「冗談だよね? 本気で行くわけじゃないでしょ?」

巫女がイタズラっぽく笑った。その笑顔は寂しさや不安を包みかくした笑顔に見える。どう答えればいいか分からず答えに詰まった。よく見ると、巫女の足元は裸足だった。ここまで裸足のまま駆け付けてきたと分かり、胸が熱くなった。

「約束したじゃん!」

怒鳴ると同時に、巫女が海の中に足を進めてきた。

 「ほころび」の力はさらに弱まり、油が切れかけた機械のように捻じれが止まりかけた。

 「お願い、行かないで」

 必死に海水を蹴りながら巫女が近づいてくる。

 煤が落ちるように「ほころび」の闇が剥がれ落ち始めた。消滅する寸前だ。

 この次元に残りたい。心からそうと思った。巫女とともに同じ次元にいたいと。

 だが、その思いはすぐに打ち消した。凶災のオレが残れば、それこそ世界の崩壊につながる。

 「正鷹」

 海水を蹴る足を巫女が止めた。

 巫女は左手で自分の胸をギュッと握り、絞り出すように言葉を口にした。

 「私、ずっと、ずっと、寂しかった。ずっと一人で、嫌われて、避けられて、恨まれて、誰とも仲良くなれなかった。ずっと寂しかったけど……ずっと人が怖かった……」

 巫女の睫毛にたまった涙がいまにも零れそうだった。月明かりに照らされ、きらびやかな海水に立つその姿は妖艶なほど美しい。

 「だけど……正鷹となら一緒にいられるって思った……」

 言葉の一つ一つがオレの心を覆っている鋼の鎧を次々と剥がし、軽く自由な心魂に変えていく。

 「だから……お願い……お願いだから、私の傍にいてください」

 巫女の頬を伝う二つの涙が雫となって滴り、海面で弾けて光の粒を散らした。

 もっと言葉が欲しかった。もっと巫女に気持ちを伝えたかった。

巫女はオレの人生に新地平を切り開いた天与の煌きだった。この胸の想いをもっと伝えたかった。だが、オレにはその言葉の持ち合わせがない。

 熱涙が一筋、自分の頬をつたった。

 時間だ。

 「じゃーな」

閉じかけた「ほころび」に手を入れると体がフワッと浮き上がった。

 「正鷹っ!」

駆けだした巫女が右手を伸ばした。それが最後だった。

差し出された右手がオレの体に触れかけた瞬間、全身が「ほころび」の中に吸い込まれた。最後の巫女の姿を目に焼き付けた。巫女の瞳には酷く寂しい色が浮かんでいた。だが、いずれ彼女は全次元から祝福される存在となる。オレにはなぜかその確信があった。

彼女の歩む道が幸せであるように、心からそう願った。


 ジャンプから着地したような感覚が足の裏に伝わってきた。背後に目を向けると「ほころび」は既に姿を消していた。

 周囲を見回すと、ブルドーザーやトラックといった重機を使い、人間やカバやサイの作業員が壊れたビルや建物の修理を行っていた。

 近くを通りかかった年老いたサイがひとり言のようにつぶやいた。

 「信じらんねーよな。たった一晩でこれだぜ、いったい何があったっていうんだ」

 「誰かが使ったんだよ。全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉を」

 そう答えると、年老いたサイは「それなら納得だ」と丸太のように太い歯をむき出しにして笑った。その笑顔は全次元の凶災〈ダーク・ディスパイアー〉など存在する訳がないといっている。この次元なら少しは安全だと思った。

しかし、だからといって安閑としてはいられない。ここには最初の光を掴んだ者〈リベイション・ハウゼン〉と終焉への躍進者〈メイヘム・タイガー〉がいる。

大きく息を吸い五感を研ぎ澄ました。そしてその時、初めて気づいたが自分の首に黄色い小鳥のペンダントがかかっていた。

病室で寝ているときか、それとも現世界〈ホット・ホーム〉に帰ったときか、いつかけられたか分からないが、巫女がかけてくれたことはすぐに分かった。オレの体が全快することを祈ってかけてくれたのだろう。

オレはその小鳥のペンダントをこれ以上ないほど丁寧に指で撫でた。ホントに丁寧に、包み込むようにして優しく撫で続けた。

 そしてオレは前を向いて歩き始めた。

行くあてはない、ただ前に進むだけだ。

 人々はこんなオレの生き方を次元の放浪者〈デッド・パッカー〉と呼ぶがそれは違う。

 母はオレに言った。

 「自分が正しいと思ったことを行い、大空を翔る鷹のようにいくつもの次元を翔ける男に育ちなさい」

 オレは今、自分の意志で自分の生きる道を歩んでいる。オレは放浪者なんかじゃない。オレこそが次元の歩行者〈ディメイション・ウォーカー〉だ。


                                    (終わり)



貴重なお時間を割き、お読みいただきまして本当にありがとうございます。

心から感謝します。

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