sect:2
カラオケボックスに入ると大して待つこともなく情報の提供者である女の子たちと合流した。部屋に入ってきた女の子か髪をショートにした快活そうな女の子と大人しそうな長い黒髪の対照的な二人組だった。
黒髪の女の子の履いたスカートの太ももからは巻かれた包帯が確認できたので、おそらくこの子が、例の被害者なのだろう。
「突然のお願いなのに今日はありがとう。オカルトSNS管理人であり教理高校オカルト研究部部長の京極栄です。」
「桜庭幸人です。よろしくっす!」
「酒井綾野です。とつぜんごめんなさいね」
「高坂みゆきです。どうぞよろしくお願いします。」
みゆきさんは椅子から立ち上がり丁寧にお辞儀をする。どんな時でも礼儀正しいみゆきさんはまさしく大和撫子だ。いつみても惚れ惚れする。
「宮田京子です。今日はよろしくお願いします。」
「佐々木雪乃です。よろしくお願いします。」
二人とも立ち上がって僕たちにお辞儀をしてくれる。さすがお嬢様学校の生徒だ。僕たちのいい加減さが申し訳なくなってくる挨拶だ。
「それでさ、さっそくで申し訳ないのだけど…」
「はい。じゃあおはなしさせていただきます!」
僕が宮田さんの方に視線を送ると、宮田さんと佐々木さんと顔を見合わせてそう言った。
「書き込んだ内容はみなさん一通り目を通してあるかと思います。」
僕らはうなずいて、肯定の意を示す。
「最近になって私の高校でも『赤いちゃんちゃんこ』と遭遇した。っていう人がすごく増えてきているんです。最初聞いたときは、珍しい物でもないですし、気にも留めていなかったのですが、先生含めかなり沢山の人が遭遇しているようで…。」
「佐々木さん以外にもけがをさせられた人はいるのかい?」
「いえ、今は雪乃だけです。」
「怪我をした状況を教えてもらえるかな?」
「私たちは美術部で、共同の作品をつくっているんですけど、下校時間ぎりぎりまで作業していた時のことでした。美術室からすこし離れたところにお手洗いがあるんですけど、雪乃が寄りたがったんです。」
宮田さんはドリンクバーから持ってきていたアイスティーを飲み干すと意を決したように続きを話し始めた。
「お手洗いの時間にしては長いな。と思ってた時でした。中から大きな物音がしたので覗いてみると雪乃の入っている個室からがりがりと音が響いていました。何かあったのかと思った私は美術室から工具を持ってきてドアをこじ開けたんです。そしたら中から足から血を流した雪乃が出てきたんです。」
そのあと、救急車を呼んだり警察から質問を受けたりして学校では一騒動だったそうだ。
警察がそのトイレを調べてみても人が隠れた痕跡も不審者が入った痕跡も何も残ってなかったという。「怪異」にやられたと話をしても、『赤いちゃんちゃんこ』程度が…。と言われて誰も信じてくれなかったそうだ。
「雪乃ちゃんもさ、よかったらトイレの中での出来事を話してくれないか?」
幸人がそう聞くと佐々木さんはうなずいてゆっくりと話し始めてくれた。
「用が済んだ後に個室のドアを開けようと思ったらなぜかドアが開かなかったんです。それで必死にドアを叩いていたらあの声が聞こえてきて…ごめんなさい。そこまでしか覚えていないんです…。」
「怪我した瞬間の記憶はないってことなの?」
「はい…そうです。ごめんなさい。」
佐々木さんが申し訳なさそうな表情をみせる。
「こっちこそ怖かった記憶を思いださせてしまってごめん…。」
「そのトイレって調べることはできないかしら?」
怖い思いをした人にこれ以上の協力を求めるのは気が引けたけど、僕自身も強く望んでいることだった。
「正直僕も調べてみたいと思ってる。その怪異、僕たちなら何とかできるかもしれない…。
協力してもらえないかな?」
ある程度の危険も付きまとう、非常に申し訳ないお願いだ。もし断られたとしても彼女たちを責めることはできない。
「ぜひ協力させてください。親友の雪乃が傷つけられた以上放っておくわけにはいきません」。」
宮田さんは僕に手を差し出してくれると、僕はそれを固く握りしめた
そんなわけで、宮田さんの協力を取り付けた僕らは、高蘭女子学園に調査のお願いをしてみたわけなんだだけど、何を話しても埒があく様子はなく、当然ながら調査の許可は下りなかった。
仮にもでもなく、事実として高蘭女子学園は男子禁制の女子の楽園。そんなところの調査のために胡散臭い部活の、しかも男子生徒を校内に招きいてれくれる訳はなかった。
僕が校長だったとして、他校の男子生徒が女子トイレを調べさせてくれなんて頼んできたら当然断る。
そんな中誰か問わずの口から飛び出したアイディアが、夜中の学校に侵入するという案だった。
一度解散した僕らはそれぞれの準備を整えるために、自宅に戻ることになった。
おそらく僕たちはこれから怪異と、正面からぶつかることになるだろう、その準備である。
僕は家に帰ると机の引き出しから二挺のガスガンを取り出した。銃からマガジンを引き抜くと、すでに込められているBB弾をすべて抜き取って、べつの引き出しから取り出した、白色の粒を取り出した。
僕は「怪異」と直接渡り合えるような力、たとえば、陰陽師のようなミラクルな力は持ち合わせていない。そこで知恵を絞って用意したものだ。さまざまな「怪異」に対して有効打となりえる用に考え出した結果、「怪異」には銀や塩が有効との結論が出た。
そこで僕は、銀と清めの塩を粉末にし、プラスティックの粉末と練り合わせたものを、ガスガンで撃てるようにBB弾のサイズに丸めたものを用意したのだ。
効果はすでに実証済みだ。
二挺のマガジンにそれぞれ弾丸を込めると、二つある予備のマガジンにも同じように弾丸を装填した。
先日までは銃は一挺しか持っていなかったが、先の「怪異」との戦いで調子にのった僕は、さらにもう一挺同じものを買い足し、二挺拳銃とし、さらにそれらの銃を収められるホルスターまで購入していた。
調子に乗るというものは恐ろしい。新たな銃とホルスターを注文する際に、オールド感たっぷりに加工されたロングコートまでも注文してしまおうかとしていたほどだ。まぁ、小遣いの問題で断念せざるを得なかったのだけど。
さて問題の『赤いちゃんちゃんこ』を封ずる方法だ。
自宅に帰った僕は今一度この「怪異」について深くしらべてみることにした。
どうやらこの「怪異」の正体は、正しい解答を求められるテストへの恐怖心が生んだものらしかった。「解答を誤ると悲劇が起こる」。そんなことへの恐怖が、子供たちの学校のトイレへと向けられる、おぼろげな恐怖と交わって生まれたものだった。
そして一度生まれてしまった「怪異」は、その「怪異」として広く拡大し、「赤いちゃんちゃんこ」の名として全国に知れ渡る怪異となったのだ。
この「怪異」は「答えを出させる」ことこそが悲劇の引き金となっており、対抗するためには「無視する」、もしくは「拒否する」がこの「怪異」に対する有効な決定打となりうる、と僕は解釈した。
しかし、一見完結したと思われるこの解釈にも、一点の疑問点が存在していた。
雪乃さんの存在である。彼女は声が聞こえてきた以降の記憶がないといっていたが、どのような回答をしたのだろうか。はたまた拒否をしていたとしたら、なぜ牙を向けられたのか、である。
ながながと考え事をしていると、待ち合わせの時間が近づいてきた。
僕は真新しいホルスターを腰に巻き、LEDライトをブレザーもポケットに放りこむと、カバンを持ち自宅を後にした。
しばらくして駅に集合した僕らは、時間をつぶすために駅前のファーストフード店に入ると持ち寄った装備をそれぞれ披露した。
僕の装備は、腰に巻いた対怪異用のガスガンとLEDのマグライト(レーザーポインタ付)。それと食べかけのカロリーメイトを少々だ。
幸人はいつものように日本酒で清めた木刀を、綾野は銀でできたナイフを、「怪異」用の装備として持ってきていた。
みゆきさんは小さなカバンを下げているだけだったけど、問題ないだろう。いつものように、みゆきさんミラクルを呼び起こしてくれるに違いない。
そんなことを考えていると、宮田さんが生徒便覧と書かれた冊子をとりだして僕らにそれを見せるようにして開いた。ぱらぱらとめくられるページのあちこちに、礼儀だとか心得だとかの単語が見え隠れしていた。なんというか僕が女の子だとして、この高校に入ったら一週間も耐えられないだろう。
宮田さんの、手が止まるとそこには校内の地図が印刷されているページがあった。
彼女はいつもなら施錠されている裏門のカギを、わざわざ一度学校へ戻り、開けておいてくれたそうだ。裏門から、美術室前のトイレまでの道順を簡単に解説してくれた。
地図をみて最初におどろいたことは 、学校の敷地がびっくりするほど広いということだ。僕たちの高校が三つは入るのではないだろうか。
広い上に敷地内も入り組んでいて、毎年数人の新入生が、教室移動の際に迷子になり騒ぎになると言う。
肝心の潜入ルートは裏門から入り、目の前の二号館を迂回。その隣にある三号館の万一のため常に開錠されている非常階段をのぼり、屋上に設置されたプールから校舎内に立ち入いる。校舎内の階段を二階まで下りて、そこから実技課目用の部屋が集められている四号館につづいている渡り廊下を通過。そのまま四号館四階にある美術室前まで行く。とのことだ。
僕は協力に改めて感謝の言葉を述べた。
話し込んでいるうちに気が付けば時計の針は、十二時を周っていた。
予定の時間になった僕らは店を後にした。
少し歩いたところで、僕らは例の高校正門の前に到着していた。
夜は完全に更けており、周囲にある明かりは切れかかった電燈が、頼りなく輝いているだけであった。
高蘭女子学園。暗闇に包まれているのに、煉瓦で組まれた正門や、すごそうな装飾の付けられた門構えの立派さが目に入ってくる。こんな真夜中に、女の子の楽園の目の前にいる僕らは他人か見られたら間違いなく不審人物だろう。
宮田さんに案内されるまま、校舎の裏側に回り込んだ僕らは、ほどなくして裏門にたどり着き、門に手をかけた。宮田さんが教えていてくれたように、裏門の鍵は開いていて、手の甲で押すとゆっくりと門は開いた。音をあまり立てないように慎重に、門をひとが一人通れるくらいの大きさ開けた。初めに空いている手で幸人の背中を軽く押して、入るようにうながした。幸人は軽くうなずくと、門をくぐり少し横にずれた。
順番に門を通り抜けた僕らは、闇にまぎれながら潜入を開始した。僕らのすぐ横に面している三号館の切れ目まで到着すると、僕のすぐ横を歩いていた、宮田さんが前に出て、手に持った懐中電灯で目の前の二号館を示した。
「二号館のすぐ脇に非常階段があります。新しい会談ではないので一応足元に注意してください。」
僕らは小さく頷くと、三号館の切れ目から二号館まで小走りで移動した。
二号館の非常階段は、LEDの光で照らされた姿を見ていると。どこか不気味な物に感じられた。全面鉄の踏み台と鉄パイプのようなもので構成されたそれは、塗料がまだらに剥げており中からは錆がうかびあがっていた。昼間に見たらただのボロい非常階段。という認識で終わるのだろうが、今は深夜、光源は手に持ったライトのみといった状況だ。
何気ない光景がとても気味悪く感じられた。
僕が率先して、階段の一段目に足をのばすと、それは小さく軋んだが、それといったことはなく全員が普通に上り下りできるだけの耐久力は持っていた。
コツコツと響く足跡が五つ。三階ほどまで登ったところで僕は下を覗き込んでみる。僕らのいる場所からは、潜入してきた裏庭しか見渡せなかったが、僕らの今まで歩いていた場所は暗闇に包まれていて、校舎の敷地外の電燈のともった道から、世界ごと隔離されてしまっているようだった。
階段を登り切りプールのある屋上へでる。昼間なら、真夏を感じさせる塩素の心地よい匂いが、暗闇の中では不気味の要素の一つでしかなかった。
プールを横断し、更衣室に入る扉に手をかけた。宮田さんが言うにはこの扉は、万一の非難の時のために常に開いているとのことだった。
ドアを押してみると強い抵抗が感じられた。ドアの隙間にライトの光を当ててみると、閂がしっかりとかかっているのが、確認できた。
「宮田さん、開いてないよ。」
宮田さんも僕の様子を感じ取ってくれたみたいで、ドアを押し引きとしている。
「いつもは開いているって聞いていたのですけど…。ごめんなさい。別の侵入ルートを考えましょう。」
彼女は申し訳なさそうな顔をして、うつむいて思案を始める。
「あ、あのっ!」
僕が声のした方にライトの光を向けると、みゆきさんが、先端によくわからないものが付いた細い棒を握りしめていた。
「みゆきさん、…それは?」
「特殊開錠用具です…。」
みゆきさんの発する言葉とは思えないようなごつい響きをした単語の名があげられる。
名前の通り鍵を開ける特殊な工具なのだろう。
みゆきさんは前にでると、ドアの前に立ち、工具を鍵穴に挿入し始めた。
僕は少しだけでも役に立とうとライトの光をみゆきさんの手元に当てる。カチャカチャという乾いた音が数度響いたのち、聞きなれた錠前のシリンダーの回転する小気味のいい音が響いた。
みゆきさんミラクルの発動である。
彼女は慎重に工具を引き抜くと、ドアを開けて見せて、柔らかくほほ笑んだ。
みゆきさんはすごい。例によってみゆきさんはすごかった。僕らは校舎内に侵入すると、宮田さんが先頭に立ち、階段を降り始めた。
二階まで下りると宮田さんは突然立ち止まり、僕らを制止した。
「ライト、みんな消してください。」
みんなが指示に従うと、宮田さんはしゃがんで見せると、曲がり角から顔を半分のぞかせる。僕もそれにつられて、覗き込んでみる。
廊下の向こうからは、一点の光が揺れながら近づいてきた。
「見回りの警備員さんか…。」
僕らは角から身を引くと、身体を小さくして息を殺した。
「見つかったらシャレにならないわよ?」
僕ら息を殺して警備員さんが通過するのを待った。運よく見つからずに彼は通り過ぎて行った。
「こっちです。」
宮田さんは、警備員さんの歩いてきた方向を示した。
「少し行った先に渡り廊下があります。そこから例の場所に。」
案内されるがまま僕らは渡り廊下を抜け、四号館へと渡った。
「なんか空気が違うぞ?」
それは僕も感じていたことだった。いままで移動していた敷地内とは全く違うこの空気
その上でどこか腐臭のようなものも漂ってきている気がする。すぐ近くからも突き刺さるような殺意を感じた。この四号館全体が僕らを拒絶しているかのような。そんな気配だった。
「宮田さん、ここはいつもこんな感じなのかい?」
「美術部で毎日のように使っていますが、こんなことは一度も…。」
「調べるな、ってことなのかな…。大丈夫、でもここはまだ安全だよ。」
「なんでだ?」
「『赤いちゃんちゃんこ』の『怪異』は、トイレの中でしか有効でないからね。」
こうやって怖がらせることはできるかもしれないけど、直接力を発揮することができるのはトイレのなかだけだ。
でも妙だ…。「あかいちゃんちゃんこ」にそこまでの力があるのだろうか?
四号館に侵入して少し歩いただろうか。僕らはついに目的地である例のトイレに到着した。
「じゃあちょっと行ってくるよ。」
僕はみんなをトイレの入り口に待たせると、奥の個室のドアを開けた。
僕としてはかなり真面目なのだけど、女子トイレの個室に腰かけているというのは絵的に相当まずいと思う。
待つこと数分。僕は目を閉じてその時を待つ。
背筋にかすかな寒気を感じたその時だった。
『赤いちゃんちゃんこ、着せましょかぁ?』
ノイズのような音に混じって、その声が聞こえた。
これで消えてくれればいいのだけど…。
「着たくないね!結構だ!」
僕は声を上げで拒絶の意をしめす。
一瞬あたりが静まったと思うと、断末魔のような叫び声が聞こえて、トイレの中から真っ赤な手が伸びてきた。
「っつ!顕現してきた!効いてないのか!?」
鋭くとがった爪で切りかかってくるのを一歩引いてかわす。だが狭い個室内では引くにも限界があった。僕は銃を抜き、その腕に向かって発砲する。一発が掌に命中すると、苦しそうに腕がもがき始めた。僕はその隙にトイレから転がりでて、みんなの元に戻る。
「おい!一体どうしたんだ!?」
「わからない!でもなんかすごく暴れている!」
僕たちが顔を見合わせていると、個室の中からは腕が伸びてきた。
風船を膨らませるかのようにその腕は肥大化していき、僕たちをまとめて切り捨てようとするかの如く、こちらめがけて腕を振りかざしてきた。
「おいおい!どうなってんだこれ!?」
「わかんない!とにかく何とかしなきゃ!」
トイレの入り口付近に固まっている僕らに向かって、その腕は勢いよく突撃してきた。
僕らは咄嗟にトイレから飛び出す。
一緒にトイレから飛び出した「怪異」は空を切るように入り口で腕を振り回している。
「トイレから出てきてるじゃねーか!」
「『赤いちゃんちゃんこ』はトイレの中でしか活動できないはずだ!どうなっているんだ?」
目の前では依然「怪異」は暴れていて、激しく音を立てている。
「なんであんなに大きくなっちゃったのよ!」
「そんなこと僕に聞かれても困るよ!」
見たところ、僕の弾丸は確かに効いていた。だとしたら何があそこまで「赤いちゃんちゃんこ」を暴走させたのだろう。
「どうすんだよあれ!?」
「何とかして封ずるしかないよ!…いいかい。一気に僕達が突撃する。ひるんだら、みゆきさんの力で一気に封印しちゃうんだ。いいかい?」
みんながうなずくのを確認すると、僕は銃を構え、幸人と綾野は間合いに入れやすいように、得物を構えて位置につく。
巨大な腕は依然暴れている。手を振り切った間のわずかの隙、その瞬間を見出して僕らは一気に突撃した。
僕はろくに狙いを定めずに引き金を引き絞り、間合いに突っ込んだ幸人と綾野はめちゃくちゃに得物を振り回した。
大きな図体のかいもあってか僕の弾丸のほとんどは命中し、二人の打撃も良く効いているようで、「怪異」は煙を立てながらのたうちまわり始めている。
『赤いちゃんちゃんこ着せましょかぁ?』
先ほどまでの不気味な声にさらに、口腔が痙攣しているかのような音が加わる。
「いまだ!みゆきさん!」
「お断りします!」
みゆきさんは「怪異」に対する拒絶の言葉と同時に、トランプのような無地のカードに何かを書き込むと、「怪異」に向かって投げつけた。
次の瞬間、「怪異」が大きく跳ね上がったかと思うと、次の瞬間にはそれは虚空へと消えていた。
僕は恐る恐る「怪異」の腕が伸びてきたトイレの個室を覗き込んでみると、そこにはすでに何も残されていなかった。
初めから、何も起きなかった。そんな静けさがトイレの中には立ち込めていた。
「栄くん。」
みゆきさんに呼びかけられて僕は振り返る。片手に筆ペンをもったみゆきさんが、僕に封筒よりも一回り小さな紙を差し出してきていた。
「恥ずかしながらお札を作らせていただきました。念のためその個室に張っておこうかと思います。」
みゆきさんの「怪異」を排除する力をのせたお札はとても強力だ。役に立つだろう。
「しかし、派手に暴れてくれなぁ。」
戦いに夢中になっていて、気にも留めてなかったが、あの巨大な腕が大暴れしたトイレは。
酷く荒れていた。言葉で言い表すのは簡単かもしれないけど、顕現して来た個室のドアは吹き飛び、周囲のタイルは粉々に砕け散り、洗面台の鏡は割れ、破損した蛇口からは水が噴き出していた。
「冷静に見てみると、ひどいもんだね…。」
「さらに面倒なことにならないうちに、帰った方がいいかもしれないわね。」
名案だ。綾野。
僕らがこの学校を救った。と言っても過言ではないのだが、ここで誰かにつかまれば釈明する場も得られずにひどい目に合うのは明確であった。
夜中に女子高のトイレに侵入して、学校を救いましたと言っても誰が信用するだろう。
僕らはいそいそとトイレから抜け出して学校から脱出しようとしたその時だった。
背中に重さを感じて、振り返ると、僕に向かって宮田さんが倒れこんできていた。
僕は冗談を飛ばそうと思ったけど何やら様子がおかしく、額に触れてみるとひどい熱を帯びていた。よく見ると右腕からは大量の血が流れ出している。
「み、宮田さん!どうしたの?」
「実は、今朝から風邪をひいていまして…。」
もう一度額に触れてみる、風邪ですませられる温度ではないことは確かだった。というより、この出血では風邪どころではないだろう。
「すぐに病院にいこう!」
「だめです!」
病院に行こうという提案から帰ってきたのは拒絶の言葉だった。
「でもすごい血じゃないか!いかなきゃまずいよ。」
宮田さんに説得を試みていると、みゆきさんから声をかけられた。
「ひとまずここから出ましょう。考えるのはそのあとに致しましょう。」
宮田さんを背負いながら校舎の裏門から脱出すると、彼女は僕の背中から跳ね除けるように飛び降りる。地面に足を付けるも、まとも立っていることすら困難な状況だった。症状はつい先ほどよりも明らかに悪化しているようだった。
出血は更に酷くなり、足元には血だまりができていた。
「宮田さん、やっぱり病院に…。」
「大丈夫です…、すぐそこでタクシーを拾って帰りますから。」
そういうと彼女はおぼつかない足取りで駆け足をはじめ、何度も転びそうになりながら垂れていく血の跡を残して表通りへ向かい始めた。
僕らが何度制止しても聞き入れてはもらえずに、彼女は曲がり角へと消えていった。
あわてて追いかけては見たのだけど、角を曲がった先に彼女の姿を確認することができなかった。曲がり角の先に血の跡を確認することはできなかった。
辺りには残煙のように腐臭が漂っているような気がした。
「おかしいわね、無事にここでタクシーに乗れたのかしら?」
「だと、いいけど…。」
その後、僕らは解散しようとしたのだけど、当たり前だが電車はすでに無くなっていた。
そこで僕らは、昼間も使用したカラオケボックスで一夜をあかし、始発の電車でそれぞれの家に帰る運びとなった。
家に帰宅し、わずかばかりの仮眠をとった僕は、学校にむけて出発しようとしていた。
今日部室に入ったら『赤いちゃんちゃんこ』の件をまとめなくてはならない。
玄関をでる直前、昨晩の宮田さんの病状が気になった僕は、彼女に電話をかけてみることにした。
ポケットからスマートフォンを取り出して電話番号を入力。咳払いを一つすると、通話ボタンをタッチした。
・・・。
携帯電話会社のキャリアの接続音がポポポ、となる。
その後聞こえてきたのは無機質な機械の音声だった。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません、番号をお確かめの上―。』
僕は番号を確かめなおしてもう一度、電話をかけなおした。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません、番号をお確かめの上―。』
これはどういうことだ。耳に残る明るい声の電話の主の声を聴くことは、この朝かなうことはなかった。