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「……あきお」
そう呼ばれたときに、不意に苛立ちが脳の片隅に沸き立つのが、摂には分った。
今更――かもしれないが、その名前で呼ばれるのには、抵抗があった。この年になってまで、と言われればそれまでだが。それでも尚、名前を冷やかされた記憶と言うのは根深いものだ。
意識が混濁する中でも、名前を呼ばれて嫌だというだけで感覚が浮上するのだから、ある意味すごいのかも知れない、と摂は思う。
ふ、と夜の暗くなりかけた繁華街が目に映る。
「明生」
もう一度呼ばれた。苛々した感情のまま、自分を支えている男――梶を見上げた。
軽薄で不順で幼稚で、何処までも馬鹿だとばかり思っていた男性が、自分の酒の介抱までやるようになるなんて、世の中、本当に分らないと、働かない頭で考える。
梶は、摂がジト目で自分を見ていることで、ようやく何を言ったのか理解したらしい。少しすまなそうになり、こちらを見ていた視線を逸らす。
「……目、覚めたか? 送るぞ」
彼が手を上げる。タクシーでも捉まえるつもりなのだろう。なかなか、止まらない。
名前を呼ばれはしたが、かといって抗議するまでもない。視線で十分に意図は伝わったのだろう。彼が更に自分を呼ぶ気配がないので、摂はこの話題が終わったのだと理解する。
気持ちのいい酔いだけが思考を塗りつぶし、またうとうとと彼岸へ旅立ちそうになったときのことだった。
「――名前で呼んで、悪かったよ」
太く、真摯な声だと摂は思った。暗く霞みそうな視界を何とか絞って、梶の顔を見る。彼は摂を見ていなかった。だがその表情に顕れているのは、後悔と慙愧だった。
ほろりと、自分の中にあった名前――「明生」へのこだわりが、あっという間にほどけていく。
考えてみれば、くだらないことだ。彼にからかわれたのはいつのことだっただろう? 十四年も前のことだ。
じゅうよねん。
「だから、」
「…………っふ」
ははは、と思わず声に出して笑っていた。じゅうよねん。じゅうよねん!
自分はどこまで馬鹿だったのだろう。どうでもいいじゃないか、名前くらい。
しかしまあ、今更ながら、
「なんか、あやまってもらうのって、しんせーん」
今日自分をあっけなく翻弄してくれた彼がこのように自分に謝るなど、しかも名前のことで謝罪を表明するなど、本当に新鮮な体験をしたと思う。
「……どういうことだよ?」
「べえつうにい?」
呂律が上手く回らないし、いま感じたことを論理的に説明するのは無理だし、何より疲れた。きっと梶のことだ。誤魔化されてくれるに違いない。
「気になるだろ。話せよ」
「んんん~、いがいとくだらなかったなあ、っておもったの」
「だから、何が」
「いーわーなーいっ」
梶はそのあと何台かタクシーを見送ってまで、どういう理由で笑ったのかしつこいくらい尋ねてきた。いいじゃん、もう終わったことなのだから、と、今までの意趣返しも兼ねて、ついに説明することはしなかった。
多分、それでよかったのだと思う。