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店を出るときに、結太は自分で会計した。
摂に語らせた内容を思うと、自分がしたことが幾分非道に思えて、その罪滅ぼしのつもりだった。もちろん、摂が金を払うための理性を、アルコールの海に沈めてしまったことも原因だが。
店主は潰れた摂と、それを申し訳なさそうに世話する結太を面白そうに眺めつつ、「今度は楽しく飲みに来てくださいね」としっかり釘を刺した。痛いところを突かれている自覚はあったので、渋々結太は頷く。
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彼女の腕を首に回して、身体を腕に抱えながら外に出ると、月がビルの隙間から見えるほどに高い位置にあった。日付は疾うに変わっている。
店を出てすぐのところに、いつもなら数台のタクシーが停まっているはずだった。だが、何故か今日に限って一台も見当たらない。
仕方なく、結太は彼女を支えながら、少し交通量の多い道まで歩くことにした。
「う、う……」
一歩進むたび、押し出した空気が漏れるような吐息が、摂の口から落とされる。顔を見れば、半分以上、夢の世界にいるのは明らかだった。これは自宅まで連れて行って、眠ったのを確認してから、鍵をポストに入れるしかないと結太は考える。
「……摂」
本当に彼岸に行っているのかどうか、確認のために、結太は呼びかけた。摂の反応はない。
「……あきお」
下の名前で呼んだのは、単なる気まぐれだった。昔のことを思い出した、そのついでのつもりだったのだ。
しかし、「明生」は瞳を開けた。
「明生」
もう一度呼ぶ。
淀んだ怒りの眼差しが、ゆっくりと結太を見据えた。
あ、と結太が気付いたのは、この瞬間に至ってようやくだった。彼女はずっと、下の名前で呼ばれることを嫌がっていたのだ。一度「あき――」と、彼女の職場で呼びかけたときに、彼女の同僚にそっと耳打ちされたのを、気まずい感情とともに結太は思い返した。
「……目、覚めたか? 送るぞ」
彼女は静かな苛立ちを、視線で結太に送り続ける。タクシーはなかなか捉まらなかった。
恐らく触れられたくはなかったであろう弱みを強制的に吐かせ、その上嫌がらせのごとく「明生」と呼んだ自分を、結太は傍目にはそう見えなくとも、反省していた。
つまらない意地やひねた感情で、優しく慰撫されるべき傷を見せろと求めるのは、稚拙ないじめ以外の何物でもない。中学生から自分はあまり変わっていないのかというところまで思考が進むと、恐らく際限がないであろう自嘲を彼はそこで止めた。今は落ち込むよりも先に、するべきこと、口にすべき言葉があると思ったからだ。
「――名前で呼んで、悪かったよ」
結太は謝った。視線を摂に向けることは出来なかった。面と向かって真摯に謝れるほど、まだこのとき彼の中で、自身の行為に対する後悔と反省は終わっていなかった。
「だから、」
「…………っふ」
ははは、と可愛らしい笑い声がして、とっさに結太は摂の方を見た。
酒にとろけた表情ではあったが、摂は笑っていた。ホテルのラウンジバーで会ったときよりも、数段朗らかな雰囲気で。
――え? と、一瞬結太は、息をするのを忘れる。ごくりと唾を嚥下する音が、自棄に耳のうちに大きく聞こえるのを感じながら。
「なんか、あやまってもらうのって、しんせーん」
まだ明るく笑っている摂に、結太は問いかける。
「……どういうことだよ?」
「べえつうにい?」
会話が成立しているのに、彼女には話すつもりがないようだった。しかし容易に浮上しなさそうなほど沈んでいたのに、今笑顔でいるのはどういうわけか。そして、何故自分が謝った直後なのか。幾つもの疑問が結太の中で渦を巻く。
「気になるだろ。話せよ」
「んんん~、いがいとくだらなかったなあ、っておもったの」
「だから、何が」
「いーわーなーいっ」
数台タクシーを見送りながら問答を続けたが、摂はのらりくらりとかわして、どうして笑ったのかそれ以上の説明を拒んだ。