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 月が一度昇るか昇らないかの間、二人は口をきかなかった。

 摂はずっと顔を上げない。結太もただ夜景を眺め、酒を飲むことに努めた。

 過去の追想が終わると、彼は暗い天井を仰いだ。未だに俯いている彼女にこれ以上付き合って、向き合うでもなく景色を堪能するいわれがなかった。と言うより、友人以上の好意のない人間と、夜の情緒溢れる窓辺に居座るのが、どうにも居心地が悪いのだ。

 結太は椅子の背にもたれていた上半身を起こすと、ウェイターに目配せしてから立ち上がる。

「……河岸変えるか。ここじゃ何か、雰囲気変だし」

 摂は申し訳ないような、情けない表情で結太を見上げる。そんな顔をするくらいなら、最初からここで飲まなければ良かっただろうに。結太は呆れる。

 会計を済ませ、二人はホテルを出た。しばし歩く間も、沈黙が二人の間に横たわる。

 ――彼女がどうして、一時間も待ち合わせに遅れたのか。思い返すと、不意に苛立ちが結太の腹の底から立ち上る。

 下手をすると、今日自分と飲む約束、それ自体が、一時間余分に彼女を拘束していた「誰か」と、個人的に会うための交渉に使われた可能性があった。

 最近は他人の恋路に上手く利用されても、いちいち目くじらを立てることもなかったというのに。今、結太は静かに憤っていた。

 しかし自分は何に苛立っているのだろうと、不意に自問する。彼女は遅刻の連絡を入れてきたし、自分もそれを受け入れたではないか。

 結太はゆっくりと、背後を歩く摂を振り返った。立ち止まった彼に反応して、摂は彼を見上げる。

「どうしたの……?」

 不安そうな眼差し。加えて弱弱しい声が、結太の耳朶に響いた。傍を走る自動車の排気音に、ともすれば掻き消されてしまいそうなほど、小さな声。

「……なんでもない。行こう、もうすぐだから」

 前を向いて歩き出すと、心を掠めた疑問に答えが出た。案外、自分は彼女を信頼していたらしいのだと、彼は納得する。自分を騙すような相手だと思っていなかった。彼女の吐いた適確な嘘に、「裏切られた」と勝手に思っている自身の感情が、怒りの発端だと結太は理解する。

 もし彼女が自分を利用したのだとすれば、それは何故か。利用せざるを得ないような状況とは、どんなものか。吐かせるだけ吐かせようと、結太は決意した。その過程で、相手が胃の内容物をぶちまけようが、現実との境目が分からなくなろうが、知ったことではない。意外と大きなこの怒りを、わからせてやりたい。

 時刻は午後十時半を回っていた。

 昼間は温かい気温も、夜が更けるにつれ下降線を辿る。

「着いた」

 ホテルから歩いて少しで、よく二人で利用するバーに行き着く。地下にある店内へ、結太はベルを鳴らしてドアを開けた。

「――いらっしゃいませ」

 店内は暖かかった。夜の気温まで考慮した格好ではなかったために、知らず凍えていた体に温もりが与えられて、二人同時に安堵の息を吐く。

 摂と結太は、思わず顔を見合わせた。

「温かいものでも、ご用意いたしましょうか」

 穏やかな声で、カウンターの向こうの若いバーテンダーが微笑む。

 ここの店主は若い。尋ねてみれば、結太達より二つ上に過ぎなかった。それでも、まるで一回りも年上の人間のような、包容力と洞察力で会話をこなす。接客と、作るカクテルの質の高さから、この店をひいきにする客は多かった。

「あったかいの、お願いできますか?」

 摂が控えめに店主に願い出ると、彼はにっこりと笑って頷く。すぐに手元に視線を落とすと、牛乳パックを取り出すのが結太の視界に入った。

 二人はカウンターに近寄り、席に着く。常ならば笑顔で会話を交わし始めるのに、先ほどの延長のように、無言が続く。

 店主がコースターの上に持ち手の付いたグラスを置き、そこからカフェオレのような香りが漂って初めて、彼らは言葉を紡いだ。


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 身体が温まれば、結太は遠慮せずに度数の高いアルコールを摂に飲ませた。

 店主が静かな目線で忠告してくるのが分かったが、結太と摂が恋人ではないのを知っているからなのか、敢えて言葉を掛けては来ない。

「いっぱい飲んじゃえば。奢るから」

 お前が俺に、な。と口には出さずに心の中で結太は続けた。仕返しとしてはそれで丁度いいと、またも自分勝手に彼は判断し、それを実行する。

「う、う……ん」

 結太がほとんど飲んでいないのに対し、摂はいよいよ現実認識が怪しいところまでいっていた。飲ませたのは結太だが。

「遅れた一時間、誰と居たんだよ」

 もう解放してやるつもりで、結太はそう尋ねる。意味のある返事は期待していない。それが巧妙な誤魔化しでも、もう別に結太構わなかった。朦朧とさせるほど弱らせた時点で、彼の気は済んだのだから。

「……じょうし」

「は?」

「職場の、せんぱい。奥さん……いるの」

 ぼんやりとした目で、半ばカウンターに突っ伏す形で、顔を結太の方に向けて、摂は零す。

「大すきだった。でも、奥さんから、れんらくきて……きょうが、さい、ごで」

 摂は、苦しそうに、でも幸せそうに、話す。瞳は潤んでいたが、涙は流れなかった。結太は静かに、彼女の言葉を聞く。

「だいじょうぶかなあ、って思ってたんだけど……やっぱり、仕事つらいよ。……辞めたい」

「辞めんな」

 即座に返す結太に、うー、と摂は唸る。

「確かに、あと十年くらいしないと、仕事の質は変わらないけれど……今、辞めんなよ」

「なんでえー……。辞めても、いいじゃない」

「曲がりなりにも、五年間やって来たんだろ? それくらいで『仕事』、投げるな」

 俺は何を言っているのだろうかと、結太は自分が不思議だった。そんなにも、この同郷の女性に親近感を持っていたのだろうか。疑問に思うと同時に、それは紛れもなく自分の真情だと彼は直感する。摂に自分を、自分の可能性を、諦めて欲しくない。彼女を友人として思う感情を、結太は受け入れた。

 十五年前にはただの「あきお」だった人物に、今、友情を感じている自身を、どこか遠く思いながら。

「かじわらくんはいいよね……」

「……どういう意味だよ」

「なんでもなあい」



 摂は結局、「辞めない」とは言わなかった。




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