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いじめ表現があります。苦手な方はご注意ください。
結太の通っていた中学は、校庭にも花壇にも通学路にさえ、桜の木がこれでもかと植えられていた。
従って卒業式や入学式は、その学校の春を彩る意気込みのお陰で、非常に華やかな景色を生徒にも保護者にも与えていた。
結太がその中学に入学したときも例外ではなく、非常に枝振りの良い桜の並木が、まるで屋根のように頭上を覆っていたことを彼は覚えている。もちろん近所の中学校の桜は地域でも有名だったので、小学生のときも、友達や家族と一緒に見物に行ってはいた。
しかし兄弟の中で一番年上である自分がその中学に入学し、これからこの校舎で三年間を過ごすのだという妙な感慨を、十二歳の結太の心に、あの桜はもたらしたのだ。
当然それは一瞬のことで、桜が散って葉に変わる頃には、彼は多くの少年期の学生と同じく「もう少し落ち着け」と教師に言われるような生活態度をとっていたのだが。
さて、結太の通う中学校は、三つの小学校と学区を接している。
今のように学区を越えて学校を選ぶ時代ではなく、指定された学区から、指定された中学校へと進級する時代である。隣り合ってはいても、六年間顔を合わせたこともない生徒と、初めてコミュニケーションを取る生徒が多数だった。違う学区の小学生と交流を持つのは、クラブや生徒会などの授業外の活動を積極的に行うような、活発な生徒に限られていた。
同じクラスに同じ小学校出身のものがいれば、自然なじみの面子と交流する。新しい友人を作るものもいたが、それで上手くいくものと、いかないものもいる。
結太にとってその頃の生活というのは、殆どが睡眠と食事と遊びに占められており、つまり自身の欲望充足が生きることのすべてだった。誰かが損をしようが傷つこうが、そんなのは「欲しい」と言って戦わない弱者のサボりに他ならなかった。
弱い奴を跳ね除けて自分の願望を満たす。どこにも論理の破綻はなく、そして彼を強いて責める存在もなかった。彼が誰とも徒党を組まず、潔く独力で願望を叶えていた、というのも大きい。要するに彼が「子供」だったから、というのが一番比重の重い理由ではあったのだが。
だから、彼が人間関係で悩むといったことは、この時期には全くなかったと言っても過言ではない。同じ学年同士や他学年との諍いなども、彼は基本的に関知しなかった。関知していても、それを問題だと捉える感覚が、まだ彼の中で育っていなかったのだ。
友達と遊んで馬鹿笑いして疲れて寝てご飯を食べてエロ本を読んで――そうして日々を消化することで、彼の頭はいっぱいだった。
ゆえに、同じクラスに面白い名前の女子がいるということも、彼にとっては遊び道具が一つ増えた、くらいの感覚でしかなかった。
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ただの普通の休み時間。
前の授業で、たまたま隣の席の女子生徒が指名されて、教科書を数ページ読まされていた。
結太にとっては非常につまらない国語。付け加えるなら国語の女教師が年かさの女性というのも、彼のやる気を削ぐ原因になっていた。数学や理科のように若い男性教師や、英語のように綺麗な女教師であったならば、いくらか静かにして教科書を眺める気にもなるのだが。
「今日は十二日だから、十二番の摂、摂明生さん」
おばさん国語教師は、指名するとき苗字だけではなくて下の名前も呼ぶ。なぜかは誰も知らない。
「は、はい」
隣の席の女子生徒が、若干裏返った声で返事をする。結太は視線を上げた。
どう形容しても、非常に地味だ。
眼鏡を掛けて、長い髪は後ろで一つにまとめて。肌も浅黒い。恐らく外で遊んでいて自然に焼けたのだろう。
ほっそりとした身体はどこにも肉付きがなく、髪の毛が短かったら完全に少年に見えた。
小学校から上がったばかりだから、彼女の方が身長が高いのは仕方がないが、そのことが少しだけ結太の癇に障る。
それにしても「あきお」とは。まるで男のような名前ではないか。
容姿が容姿だけに、彼女の名前はすこぶる嵌っているように、結太には思えた。男みたいな身体だから、男みたいな名前をつけたのだろうかと、順番が全く逆な感想を彼は考える。
彼女は何回かつっかかりつつも、無事数行の文章を読み終えた。ほっと息を吐くと、摂明生は「いいですよ、では次の行を――」と教師が言い終わる前に席に着いた。ふと隣を見れば、頬を赤くした彼女が俯いている。たかがクラスメートの前で文章を読むことに、緊張していたのだろうか。
結太の心に、一つの悪戯心が芽生えた。
授業が終わり、完全に緊張を解いている摂明生に、結太は少し大きな声で話しかけた。
「ねえ」
結太が話しかけても、摂は反応しなかった。まるで結太の声など聞こえていない、とでも言いたげな態度が、また少し結太の癇を刺激する。
「ねえってば」
「……え?」
大きな声を出してようやく、摂は結太を視界に収めた。ぼうっとしていたのか、いささかぼんやりとした眼鏡の向こうの目が、結太は気に入らなかった。
「あんたさ、『あきお』って名前なんだっけ」
「……え。は、はい」
一瞬何の話をしているのかと怪訝な顔をした摂だったが、どもりながらも頷く。
「男みてえ」
「は、」
「格好も男みたいだしさあ、ほんとに女? 胸あんの? 確認させてよ、あるかどうか」
いきなり話しかけられて訳の分かっていない摂に、まるで畳み掛けるように結太は言葉を浴びせる。とろくて鈍い女子を、たまにこうやってからかうのも悪くない。
冗談で、結太は手を伸ばした。鎖骨に指が触れるか触れないか、といった辺りで摂が椅子を揺らして仰け反る。だがそんな大仰な反応一つで、結太には充分だった。
「おおっ、やっぱ胸ない! 本当は男だったんだな!」
まじで、とか、止めなよ梶原、とか、そういった声が教室を満たす。結太の声が大きかったのも、クラスメートの注目を集めた原因だった。だが、対する摂がガタガタと大きく椅子を鳴らしたのも、効果としては充分過ぎる。
周囲にそれと分かる形で、相手を弄ったり恥ずかしがらせるのが、結太は面白くて好きだった。時折こうやって友達とふざけたり、特に親しくもない人間の反応を見るのは楽しい。
相手がどう思っているかなど二の次だ。逆に相手が嫌がったり泣いたりしてくれれば、もっと楽しかった。
相手を煽る理由は、特にない。敢えて言えば、相手が自分の行動に過剰に返す、生の手ごたえがいいのだ。彼が人をおちょくる理由は、それ以上でもそれ以下でもなかった。単なる遊びだったから。
「……お、男じゃないです、女です」
震える声で、怯えながらも反論してくる摂。小さい声は周囲には聞こえず、結太にしか届かない。結太の返事は、教室に響くほど大きいというのに。
「へー、そう言うならさあ、胸、見せてよ。見せるくらい訳ないよね? 男みたいな女なんだし」
見せてくれんの、まじでストリップ!? とか、本当に止めなよ梶原、先生呼ぶよ! と教室は騒がしくなる。
結太は勝ち誇ったように摂を見ていた。彼女の顔が羞恥で赤くなり、外野の声に紛れて何を言っているのか分からなくなっているのがまた面白い。これはもう少ししたら泣くかもしれない。それもまた彼女を馬鹿に出来ていいと、結太は考えた。
「ねえ、脱がないの? 『あきお』。男だったら恥ずかしくないでしょ?」
結太が声を大にして言うと、ついに摂の感情が臨界を越えた。
「……わ、たし、……お、男じゃ、な、いも、ん……っ、……ひ、っくぅ……うっ」
堪えていた何かが抑えきれなくなったように、摂は顔を歪めて俯いた。数瞬前から瞳に盛り上がっていた涙が、彼女の頬に筋を作る。
「こんなことくらいで泣くんじゃねえよ、ブス」
結太が止めを刺すように言葉を投げると、数人の女子が彼女を囲んで教室から出て行く。摂の泣き声は小さかったが、結太が勝利を確信するのには充分だった。自分より大きい人間を泣かせたことへの満足は、一種の達成感を彼に与える。
にやにやとしている男子連中と顔を見合わせれば、授業開始のチャイムが鳴った。
女子生徒から連絡を受けた担任が、授業開始早々結太に拳骨を見舞う。しかし結太はそれを悪態を吐くことで乗り越え、歯牙にもかけなかった。こうして、記憶には残ったが。
授業が始まっても、摂は戻ってこなかった。それも何となく、結太は覚えていた。たったあれだけの言葉のやり取りで負けてしまう摂の弱さを、結太は鼻で笑った。
今思えば、それがイジメに発展しなかった原因だろうな、と結太は思う。罪悪感もない、ただの遊び。摂に対して結太が関心を示したのは、中学校では後にも先にもこれ一回きりだ。
彼女にとっては全く信じがたいことに、以降、結太はごく普通のクラスメートとして摂を扱った。中一のからかいの記憶が、たとえ残っていても、普段全く意識することはなかったのだから、結太にとってはごく当たり前の対応だった。
けれども摂は、そういう訳にはいかない。結太が話しかけるたびに、彼女は怯えたように視線を彷徨わせ、言葉も聞き取るのが困難なほど、小さい声しか出せなくなっていたのだ。
何をそんなに怯えているのか、しばしば結太は不思議だった。まさか自分の行動が、他人の心に何か不快な思い出を残しているなど、彼には埒外のことだった。
当時の結太に摂の感情は、考えても考えても理解できない、漢文の文章と同じ問題だったのだから。
今の時代でいじめを書こうと思ったら、まずは裏サイトを作るところから描写しないといけないんですよね。恐ろしいです。