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夜、高層から眺める地上は、深海で淡く発光する生物の映像を髣髴とさせる。
照明を抑えられた店内は、暗い夜の大気と溶け合うが如く、ひそやかな空気を演出していた。
右を見ても、左を見ても、ごく親しい人間が、ごく内輪の穏やかな時間を過ごしているのが見て取れる。
その中にあって、一人でカクテルを嗜んでいる男がいた。
窓際、眼下に都市の夜景を独り占めできるカップルシートに、一人でだるそうに酒を飲んでいる様は――好意的に受け取れば、「物憂げで素敵」に見えないこともなかった。
暗さに目が慣れれば、男の身につけているスーツの仕立てが悪いものではなく、組んでいる足の長さが非常に均整のとれたものであることも、自ずと分かる。
「あの……お一人ですか?」
だから、白いドレススーツに身を包んだ妙齢の女性が、そう彼に声を掛けることも頷けることだった。
「ああ、すみません、連れがいます」
はっきりとした低い声であるのに、愛想のない響きはしかし、相反して爽やかな印象を相手に抱かせる。
「もう三十分もお一人、ですよね」
女性は食い下がった。そんなに以前から自分のことを見つめていたのかと、男の表情が少し曇る。
確かにカップルシートという名前の席に座っているのに、男の隣はずっと空いていた。横の席の会話が聞こえないような距離で配置されている、窓際の二人用の他のテーブルは、その殆どが男女の二人組で埋まっている。
「いつまでも来ない相手より、目の前の実物はいかがですか?」
少し酔っているのだろうか。とろんと瞳が淡く煙った女性の言葉は、割と即物的だった。
男は思案するような顔をし、左手の腕時計に目を落す。少々値は落ちるがブランド物のそれに、女性はひっそりと喜色を浮かべた。
「そうですね、あと三十分待って来なかったら、お相手願えますか」
「え、……ええ、いいですけど」
今から相手をしてくれるのではないのか、と女性の顔に明らかな落胆が表れる。だが、男はそれで話は終わったとばかりに、一つ吐息を落すと、再び夜景に視線を戻した。
女性が男から視線を外し、元いたカウンター席に戻る足音が響く。夜景を見つめながら、男は一瞬不快そうに眉を顰めると、また気だるげに酒を仰いだ。
星も月もない夜が、ただ平穏に更けていく。
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きっかり三十分後に、一人の女性が店に入ってきた。
身長は高くもなく、かといって極端に低いというわけでもない。黒よりも少し明るい、肩までの長さのしっかりとセットされたストレートの髪。一重なのに大きい瞳が、特徴的な女性だ。
色調を抑えた服は、身につけた彼女の肌の白さを強調する。何より男の目線を惹きつけるのは、ふっくらと突き出た胸部だった。今彼女が見につけている服は、さほどデコルテを露出するデザインではない。だからこそ却って、布に包まれた彼女の胸の形が、蠱惑的に際立つ。
身体を検分した後、さてどんな顔をしているのかと目を上へ向ければ、化粧の薄い、しかし清潔感のある面立ちが微かな笑みを湛えている。「清純そうな」という表現が適当な容姿は、男好きする体つきと相俟って、倒錯的な妄想を見る者の――、一部の男性の脳内に展開させる。
「お一人様ですか?」
近付いたウェイターが彼女に尋ねるが、微笑んだまま彼女は、
「いいえ、連れが先に来ているんです」
と、店内を指差す。
ウェイターは心得て、「どうぞ」と彼女を店の奥に導いた。
磨かれた黒い床を蹴るヒールは高く、そこに乗っている足首はきゅっと細くくびれている。何より彼女の身体を支えるふくらはぎと、スカートの奥に仕舞われた上向きの尻は、これでもかというほど優美な曲線を描いて、人の視線を釘付ける。
ウェイターが一瞬己の職務を忘れて彼女の後姿を見送ってしまったのも、詮無いことと言えた。
店の奥に進めば、カウンター席の向かいに数席のカップルシートが並び、壁面が全て硝子で覆われた窓が、彼女を出迎える。
時刻は九時。宵が深まっているとはいえないが、興が乗ってくる頃合いではある。夜景を望む席の恋人達は、そしてカウンターやテーブル席で語らう友人達は、酒やつまみを手に、程よく酔いを楽しんでいる。
そんな中にあって、二人掛けの席に座る一人の男はよく目立った。酒を飲み、夜景を見る目つきが、欠片もこの状況を楽しんでいない雰囲気が、余計に周囲から彼を浮かせている。
「ごめんね、待った?」
彼女は躊躇いなく、男に声を掛けた。声だけで彼女だと分かったのか、彼は視線すら向けずに口を開く。
「……めちゃめちゃ待ったし、遅れすぎ。一時間って、何してたの?」
彼は溜め息を吐きながら、胸の内ポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。
さらにメールボックスを操作し、一通のメールの文面を呼び出した。
そこには、
ごめんね、仕事で一時間くらい遅れそう。
と素っ気ない文面が、絵文字や顔文字すら無く表示されている。送信日時は一時間前の午後八時。本来彼らが待ち合わせた時刻だった。
「だから、メールしたとおり、仕事だってば」
彼女は彼の隣の席に腰を降ろした。すかさずウェイターが近寄り、お飲み物は、と伺う。
「チェリーブロッサムを」
かしこまりました、とウェイターが去っていくのを横目で眺めながら、メニューも見ずにオーダーする彼女の動作を、男は冷静に観察していた。
――仕事、ねえ。男は頭の中で嘆息しつつ訝る。そう急いできた雰囲気でもない彼女に、勘繰るように視線を送った。
ふと、男は気付く。照明は夜景のために落とされているとはいえ、カウンターの方は僅かに明るい。その明るさの下にあって、服の皺のなさや、彼女のファンデーションの乗りの良さが、男に違和感を与えた。
仕事終りの割には、小奇麗過ぎる。どこにも疲れた感じや、その日一日の綻びのようなものが、彼女には見られない。
まさかな、が七割。そうだったら非常に不愉快だ、が三割。
男は少し唇の端を上げると、彼女に笑顔を向けた。
「仕事なら仕方ない。じゃあ、飲もうか」
彼女がぱっと顔を輝かせる。折しもウェイターが彼女の注文した飲み物を恭しく運んでくるところだった。
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一、二杯を飲み干すと、酒に弱い彼女は少し呂律が回らなくなってきた。
男はそんな彼女の様子を、ただ静かに窺う。もちろん、彼女がそれと気付かぬように、さりげなく。
会社の話、共通の取引先の話、同級生の話――、話題が少しプライベートなものになってきたところで、おもむろに男は口を開いた。
「そういえば、ここのホテルって、アメニティ充実してるってほんと?」
彼女はほんのり赤く染まった頬を緩やかに笑みの形に変えて、男の問いに答えた。
「うん、結構充実してるよ。化粧水がブランドものでね、お肌の張りが違うんだ~」
彼女のほっそりとした指が、実例を示すように己の頬を押す。予感がして、男はそのまま次の問いを重ねた。
「へえ。今日の化粧ノリが良いのって、そのせい?」
「うんっ…………」
彼女が計算高い悪女なら、どれほどいいか。男は何度もそう思ったことを思い出す。
しかし哀しいかな彼女の行いや言葉は、全てこの可愛らしい顔の向こうにある大脳が指令を発して、素直に身体に表現させていることなのだ。つまり、全てが感情のまま。
自分が何か余計なことを言ってしまった自覚はあるのか、先ほどまでうっすらと紅を刷いていた彼女の頬は、その気色を失っている。
「って、違うよお。こ、これはちゃんと家のでっ……」
彼女は言い繕うが、これで事態は「そうだったら非常に不愉快」の方に決定してしまったことになる。男は深い溜め息を吐くと、軽い嘲りを口の端に乗せてからかった。
「そ。摂がそんなにここに詳しいなんて知らなかったなあ。結構使ってるんだ?」
「……し、知らない」
彼女――摂 明生は、そんな男、梶原結太の視線から、逃げるように俯いた。羞恥のせいだろうか、酒気を帯びていたときよりも頬が赤い。
面倒だな、と結太は思う。ここで根掘り葉掘り聞いて彼女をいじめるのも一興かもしれないが、その行為自体が面倒くさかった。自分はただ、美味しい酒が飲めればそれでよかったのに。
本来なら結太は、彼女がどこで何をしていようと全く関知する気が無かった。だが、摂はホテルのラウンジバーで一時間も彼を待たせた挙句、その遅れの言い訳として「仕事」を使ったのだ。少し腹が立っても致し方ないだろう。
結太が彼女の方を見ると、摂はまだ下を向いていた。困りながらも何とか事態を打開しようと思案する彼女の雰囲気が、結太の中に、自分でも忘れていた過去の一場面を思い出させる。
余りにも懐かしいその記憶の始終を、ふと彼は回想してみる気になった。
結太が外のほのかな明るさに目を遣ると、ビルの端から静かに、下弦の月が昇っていた。