凍てつく指先
「わたし、秋穂くんのことが好きなの。」
女の子特有の甘えた声が、私の耳を通過し鼓膜を震わす。
秋穂に関連することなら、こんな微かな音ですら拾ってしまう自分の耳を少し恨んだ。
この言葉は、当然私に向けられたものなんかじゃない。
校舎の壁にぴたりと体を寄せ、角からちらりと覗き見をすると予想通りそこには秋穂の姿があった。
右手に持ったゴミ袋に、わずかに力が入る。
「中村?」
歩みを止めた私に不思議そうに声をかける大庭くん。
視線が秋穂に移ると、彼は納得したように私にならって黙り込んだ。
秋穂とわたしと大庭くんは、いわゆる悪友である。
よく言えば社交的、悪く言えばチャラい秋穂
真面目で成績もよく、教師受けのする大庭くん
至って普通の特になにかあるわけでもないわたし
偶然にして、高校三年間を同じクラスで過ごすうちに私たちは自然と仲良くなった。
それぞれ違うところだらけの三人だから一緒にいて退屈することはなかった。
テニス部に所属し、大会でも何度も優勝している秋穂。
大学も推薦で決まっており受験シーズンのいま、暇を持て余しているくらいである。
そんな秋穂はモテる。
あかるい茶色の髪にふわりとパーマをかけ、人懐っこい笑顔を浮かべて、フレンドリーな物腰を持つ彼は男女ともに人気がある。
それにもまして、テニスをしている時の秋穂はとてもかっこいい。
いつもの子犬のような笑顔は封じ込められ、スポーツマンの顔をする秋穂に女の子はころっと落ちる。
わたしも、そのうちのひとりだった。
でも、秋穂には常に彼女がいた。それは一人の時もあれば二人の時も三人の時もあった。
彼は女癖が悪いのだ。
そんな秋穂のそばにいられるのなら、友達でいい。
そう感じた一年前の夏。
いつか終わる日が来る彼女というポジションなんて、いらない。
でも、やっぱり嫉妬しないわけじゃない。
秋穂に近づく女の子がいやでいやで仕方がない。
俯き加減の私のことを大庭君が「大丈夫か?」なんて聞いてくる。大庭君は優しい。
いまだって、大庭くんは掃除当番でもないのに私がゴミ捨てに行くといってゴミ袋を持って歩いていたら
「手伝うよ」なんて爽やかな笑顔を浮かべて二つのうち一個を持ってくれて、寒いのにわざわざ校舎裏のゴミ置き場までついてきてくれて
そして、動けずに立ち尽くしてる私に付き合ってくれている。
たぶん、大庭くんは私が秋穂のことを好きだってことに気付いているんだろうなあ。
だって、ずーっと私たちは一緒にいるんだもの。
お昼休みも、お互いが部活のない日の放課後も、たまの休日も、わたしたちは三人でひとつだった。
だからこそわかる。
秋穂がこの告白にオーケーするってことぐらい。
「来るものは拒まず去る者は追わず」が彼のモットーであり、その言葉どおり、秋穂はその時彼女がいようがいまいが、女の子と付き合う。
みんなそれを知っていて、告白してくる。
校舎の壁を隔てて存在する、あのかわいらしい声の女の子だって知っているに違いない。
心配してくれる大庭くんには悪いけど、あまり大丈夫じゃない。目頭が熱くなって涙が止まらない。
自分で秋穂の友達であることを選んだというのに、どういうことだろう、自分の矛盾にいらだつ。
もし私があの女の子みたいに好きだと言ったら、秋穂はわたしと付き合うのだろうか。
でも、私はたくさんの彼女の一人になるのがいやなのだ。
よくばりかもしれないけれど、わたしは秋穂の一番になりたい。
どれくらいそこにいただろうか。
指の先の感覚がなくなるくらい手が冷えて、吐く息の白さに視界がぼやける。
日が落ちはじめ、教室の光もまばらになってきた。
秋穂と女の子は、とっくにいなくなっていまっていたのに、私はそこから動けなかった。
告白の結果も聞こえなかったし、盗み見ることももうできなかった。
見たくもなかった、秋穂が女の子と一緒にいるところなんて見たくもなかったのだ。
秋穂はいつも彼女より、三人でいることのほうを優先していてくれた。
それが秋穂から女の子が去っていく理由の一つにもなっていた。
そのことに少し優越感を感じていたのだ。私のほうが彼女たちよりも秋穂と一緒にいる時間は絶対長いのだという自負があった。
けれど、所詮私たちは三人であり、彼女というポジションを持つ女の子に私は勝てるわけもなかった。
彼女と秋穂が二人という場面を見るたびに心が潰れそうになった。
そういうときはいつも、泣いた。いつもは一人で泣いていたけど、今日は大庭くんが隣にいる。
涙がまらなかった。大庭くんになら見られてもいいと思った。ひとりでこの気持ちを抱えることができなかった。
「俺、中村のことが好きなんだ。」
大庭くんは突然ぽつりと壁にもたれ掛かったままで言った。
こんなときにごめん、と彼は申し訳なさそうな顔をしながら私に謝った。そして、彼の暖かい手は私の頬を伝う涙をふき取った。
どうして大庭君の手はこんな寒い日にでもあったかいんだろう。
謝らなくていいのに、大庭くんは律儀に謝る。謝らなきゃいけないのは私のはずなのに。
大庭くんが私のことを好きだということに、私は少し前から気づいていた。
だって私たちはいつも一緒にいたんだから。
私が秋穂を見ているとき、大庭くんは私のそばにいてくれた。
どうして、私は秋穂なんかを好きで、大庭くんを好きにならなかったのだろう。
今まで何度も何度もそんなことを考えてきた。
真面目で、優しくて、さわやかで。好青年という言葉がしっくりくる大庭くん。
そんな彼を好きになってもおかしくないはずなのに
――秋穂を好きだという気持ちがなくなってくれない。
恋人になることを諦めてもなお、秋穂は私のこころを揺さぶり続けるのだ。
誰かほかの人のことを好きになることも許されないまま、私は今まで三人という関係の中から出られなかった。
ここで、流されてしまってもいいのだろうか。大庭くんの好意を受け取ってもよいのだろうか。
大庭くんを好きになれば秋穂のことを忘れられるのかなあ。
否、そんな簡単に忘れられるわけがない、だって私たちはいつも一緒にいるんだもの。
私が秋穂のことを忘れられるわけがない。
「わたし、絶対に大庭くんのこと傷つけちゃうよ」
「それでもいいんだよ。いっぱい傷つけてくれていい。」
大庭くんは、いつもみたいに困ったような顔で笑った。
温かい手に縋り付いてしまいたくなる衝動を押さえられない。
「中村が傍にいてくれるんなら、なんだっていいんだ」
それは殺し文句だった。
傷つけてもいいだなんて、そんなこと言われたら。
わたしは誰かにそばにいてほしかったのだ。
三人でいるだけじゃ、さみしさは埋まらなかった。泣きたいときに一人で泣くのはもう嫌だった。誰かに涙をぬぐってほしかった。
もう、秋穂じゃなくてもよかった。
だから、私はいまから大庭くんのことを好きになる。後悔してもいい。
「一番に…してくれる?私を大庭くんの一番にして。」
口から出た言葉は余りにもずうずうしくて、目もあわせられない。
私の一番は秋穂で埋まっているというのに、私を大庭くんの一番にしろだなんて。
大庭くんは一瞬驚いたような表情をしたけれどすぐに私の手を握ってくれた。
その暖かい手を握り返す。私は罪悪感と共に幸せを得るのだと、自分に言い聞かせた。
手をつないだまま教室へ戻ると秋穂がそこにいた。
「おっ、中村に大庭じゃん。聞いてよ、さっきさぁー」
窓から差し込む夕日が明るい秋穂の髪をオレンジ色に染めあげる。その鮮やかなオレンジが私は好きだった。
そう、とても好きだった。
「俺達付き合うことにしたんだ。」大庭くんの声が秋穂の話をさえぎった。
じんわりと大庭くんの体温が私の手を包み込んでくれる。
秋穂はちらりとつながった手を見ていつものへらへらしたような笑顔になった。
「おめでとう。」
つないだ手に視線を向けた時、一瞬だけれど揺らいだ、君の瞳が未だに私を苦しめる。