サイレントキラー~静寂の悪魔~
週末の騒がしい夜の前にいかがでしょう
集中して読めば、周りの音も消えているかも……
外は昼間だった。
通りを人々が歩いて行く。
どこにでもある日常がそこにある。
彼女は切断された右足の激痛も忘れて声の限り叫んだが、薄いガラス窓一枚隔てただけだというのに街行く人たちは誰もこちらに気付かない。
「無駄だよ。ここは宇宙と同じだ。君の悲鳴は誰にも聞こえない」
背後から近づいて来た男は血に濡れた大きな植木ばさみを手に、にっこりと笑った。
※
仕事が一段落したということで義弟が夫婦揃ってうちに顔を出した。
妹は閑があるとしょっちゅう来ているが義弟はそもそも忙しい身だから滅多に来ない。
その義弟がうちに来るときは一息つきたいときか、なにか相談事があるとき。今回はタイミングからして一息の方だろう。
妻にタイミングを見計らって酒を始められるよう頼んでおく。
つまみは簡単なものでいいから、と。
妹と仲の良い妻は、はいはい、と請け負って妹と2人してキッチンへ。
「今回は随分と嫌な事件だったそうじゃないか」
「嫌というか、悲惨というか、おっかないというか。とにかく、二度と係わりたくないですね」
18人殺し
安アパートに住まう平凡な男は、それだけの人数を殺していたという。
義弟はその捜査に駆り出されていた。
と言っても、事件発覚と容疑者確保はほぼ同時であり、証拠固めだけだったようだ。
ある単身者用マンションの住人から異臭がすると通報があり、最寄りの交番から巡査が派遣されて異臭元を確かめた。
結果、部屋の1つが酷い有様で、何人分あるかも分からない人体パーツが散乱し、夥しい量の血、そして腐臭と無数の虫に占拠されていたという。
警察が立ち入ったとき、部屋主は不在だったが夕方には何食わぬ顔で帰って来た。
橘善行は会社勤めをする平凡な男であり、とても凄惨な事件現場の主とは思えなかった。警察官から同行を求められても抵抗することもなかった。
「何故、ですか。まあ、色々です。ふと見掛けて殺したくなったとか、犯したくなったとか、深い理由なんてありません。やりたいからやった。それだけです」
犯行動機を尋ねると橘は悪びれることなくそう語った。
「とにかく、悪いことをした感覚がないというか、いや、悪いことだとは分かってはいたようなんですが、だからどうした、と開き直っているとも取れる態度なんです。裁判に掛けられることも、刑務所に収監されることも、ひょっとしたら死刑になるかもしれないことでも、ああそうですか、とまるで他人事のようでしてね」
義弟は、はあ、と吐息して、
「こちらが聞けば嘘偽りなく答えてくれるんで、証拠固めは非常に楽ではあったんです。ただ、どうにも納得が行かないというか、おかしな話でしてね。
考えてもみてください。奴は18人もの人間を次々殺したんです。大した理由もなく、部屋に連れ込んで、いたぶり、バラバラにした。今年の初め頃から始めたそうで。最近温かくなって来て臭い始めたから発覚しただけで、そうでなかったらまだ犠牲者は増えていたかもしれません。いや、そうじゃない。そこじゃない。
問題は、あのマンションが単身者用の安普請というところです。
気持ち程度の防音はそりゃしてありますよ。けど、ちょっと大きな音を立てると隣に聞こえる程度のものです。それで、どうしてこれまで発覚しなかったのか」
安普請がどの程度か知らないが、度合いによってはちょっと大きな声を出すだけで隣室に聞こえることだってある。
さすがに大昔の木造アパートのようなことはないだろうが、大学時代、やはり単身者用マンションに住んでる知り合いが、防音がゴミレベルだから彼女を部屋に呼ぶこともできないと嘆いていたことがある。
夜の声が隣に聞こえてしまうらしい。
今時そこまでの安普請がまだあるかどうか知らないが騒音問題はいつだって集合住宅には付きものだ。
生活音ですら気を付けないといけない状態の場所で、拷問などを人知れずやれるものだろうか?
「橘は犯行の一部始終、とは言いませんがかなりの部分を録画してました。
被害者たちは身も世もなくもく泣き叫んでいたんです」
「隣室の人間が知らなかったとは信じられないな」
それだけ人の声がしたなら当然隣室の住人の耳には届いてはずだ。
或いはフロア中、マンション中の住人に聞こえていたかもしれない。
「けど、マンションの住人誰一人、犯行に気付いてなかったんです」
「テレビの音とでも誤魔化していたとか?」
ホラー映画の類を見れば悲鳴や絶叫は付きもので、現代人はそういうものにある程度鈍感になっているとも言える。
「そういうのも一切なかったんです。
橘は同じマンションの住人たちからは、とても静かな、本当に住んでるのかと思うぐらい静かな住人だと思われていたんです。
明かりは点いていても生活音なんかも一切しなかったようです」
「でも実際には住んでいたんだろう?」
「ええ、5年前からずっと。目撃もされています。ただ、ここ一年ぐらいは静かだったというだけで」
どうも、良く分からない話だ。
人が生活しているならどうしても音は出る。
水を流す音、テレビの音、くしゃみや咳の音
生活していれば、どうしても音は出てしまう。どれだけ注意したところで、トイレには行かねばならないだろうし、くしゃみの1つぐらい出るだろう。
廊下を歩けば足音がするし、上階の部屋なら室内を歩くだけで下の部屋に音を聞かれる。
生活実態があってなんの音もしなかったなどということがあり得るだろうか?
「隣近所が共犯ということはないだろうね」
共犯者であるのなら、逮捕された橘にすべてをおっ被せて自分はなにも気付かなかった、と主張することもあるだろう。それが多少不自然であろうと。
仮に、隣人一人だけなら共犯という可能性もある。
けれど、近隣の部屋の住人が全員共犯だというのはちょっと現実的な話ではない。
「繋がりはなかったですよ。一応、同じ階の住人全員、と言っても2人ですが、調べましたけど、橘との接点は同じマンションに住んでいるというだけです。
他のマンション住人とも特別な繋がりは見つかっていません。互いに廊下で会えば会釈ぐらいするようですが、それぐらいです。橘の名を知ってる人もそんなにいませんでした。
単身者用ですからね。住人同士の繋がりなんてそんなものでしょう」
マンションには理事会やら管理組合なるものもあるが、どのマンションでも必ずその手の組織が活発というわけでもない。
単身者用に限らず、住人同士の繋がりが希薄なところはあるものだ。
日常生活をしていれば廊下で擦れ違う、駐車場で会う、ゴミ捨て場で挨拶を交わす。そういうことはあっても、相手がどの部屋に住まうなんという人であるかを知らないこともあるだろう。
橘と同じマンションに住まう人たちは突然のニュースに混乱し、驚愕しているに違いない。
同じマンション内でそんな凶行が行われていたこともそうだが、同じマンションに、距離にして10メートル圏内に凶悪殺人犯が暮らしていたのだから。
橘が獲物をどう選定していたか知らないが、近隣に住んで橘と日常的に顔を合わせる機会があったのなら、自分が犠牲者に選ばれなかった幸運を感じずにはいられないだろう。
しかし、共犯でないとすれば事件に気付かなかったと嘘をつく必要もない。
「橘の部屋からは見つかった殺害シーンの録画データは数が多いですからまだ全部の検証は済んでませんが、これまで見た限りだと被害者は悲鳴をあげ、悪態をつき、泣き叫んでいました」
「つまり、余計に怪しい声を聞いた人がいないのはおかしい、と?」
拷問とは、相手の痛覚に訴えることによって隠している事を喋らせようとするものだ。
だから限度がある。
しかし殺害が目的、或いは死んでも構わないとなると相手が言葉を話せない状態になろうとも構わないことになる。
橘のやったことは単なる虐待であって、拷問とは少し違うのだと思われる。
サディスティックな欲望があったのかどうか知らないが、なんら遠慮呵責なく思うままに暴力を振るったことだろう。
被害者は死の恐怖から、そして苦痛から助けを呼び、叫んだはずだ。可能な限り大きな声で。
これが山奥の一軒家で起こったことというのなら誰も聞いた者がおらずとも納得できる。しかし、実際には街中で起こったことだ。
誰も知らなかったというのは、どう考えてもおかしい。
「そのことについて橘はなんと?」
「自分は悪魔と契約したから助けて貰っていた、だそうです」
「?」
「いや、真面目にそう言ったんですよ」
「後2人だった」
取り調べのとき、橘は残念そうにそう呟いた。
「2人?」
「20人。全部で20人の魂を捧げる約束だったんだ。静寂の悪魔の加護で、俺は守られてたのに、失敗した。これは俺の責任であり、あんたらのせいでもある。
ああ、別に責めてるわけじゃない。事実を言ってるだけだ。そして、契約違反のペナルティは契約を果たせなかった俺自身と、邪魔をしたあんたらに降りかかる。これからあんたらの周囲で起こることは契約の履行を邪魔したせいだ」
連続殺人をやるような者は、どこか常人では理解できないところがあるものなのだろうか。
悪魔崇拝者による犯罪。
実際には、自らの犯罪行為の理由付けに悪魔崇拝を利用しているだけで、本当の悪魔崇拝者は少ないとも聞いた。
悪魔を崇拝するために犯罪行為に走るのではなく、欲求に従って犯罪を行い、それを悪魔の仕業と吹聴する。そんな事例の方が多いとか。
橘もその口かと言うと、話を聞く限りではどうにも違う気もする。
「橘は悪魔崇拝者?」
「部屋からは、その手のオカルトめいたものを見つかってませんね」
悪魔を崇拝するというのは、言い換えれば神を信じていることになる。
神を信じているから、その対立軸としての悪魔が存在する。悪魔とは単体で存在するものではなく、神の敵対者だからだ。
神がいなければ悪魔は悪魔と呼ばれないんじゃないだろうか。それはただの超常的な存在であって、悪というわけでもない。
神という善を信じないものが、悪魔という悪だけを信じるというのはなんともアンバランスだ。
表がないのに裏が存在するはずもない。
「その静寂の悪魔というのはどんなもので、どんな契約だったかは聞いたかい?」
「静寂の悪魔、それだけです。契約内容も橘の手助けの対価として20人の魂を捧げることだったそうで、履行できなかった場合は相応のペナルティがあるとだけ」
「20人の魂の代わりになる相応のペナルティ、ね。なんとも恐ろしいものだ」
別に悪魔うんぬんの話を本気にしているわけではないけれど、代償がどれだけのものになるのか気になった。
そもそも、どうして20人だったのか。
既に18人の魂が奪われている。求められるのは後2人分の魂に代わるものなのか、懲罰的な意味のある代償なのか。
そんなことをつい考えてしまうのも、橘の犯罪がすぐに発覚しなかった事実があるからだ。
暴行され、泣き喚く被害者。
場所は街中にある平凡な単身者マンションの一室。
ひょっとしたら、窓からは外の風景が見えていたかもしれない。
すぐそこに広がる平和な日常に向けてどれだけ助けを求めても、その声は街行く人たちには届かない。被害者がどれほどの絶望を味わったかは考えたくもない。
マンションの一室で人が生きたまま解体されている最中、隣室の人間はなにをしていたのだろうか。殺人を思わせる音は一切届かない。なら、日常を当たり前に送っていたに違いない。
テレビやネット配信でドラマを見ていたかもしれないし、携帯で素人投稿の動画を観賞していたかもしれない。食事をしていたり、眠っていたり、壁を隔てた向こうで行われている狂気に気付かずにいられたことがどれだけ幸せだったか。
「静寂の悪魔が静寂をもたらすなら、誰もなにも聞いていないことも説明できるんですよ。問題となった悪臭は静寂の悪魔の管轄外ですからね。
けど、まさか裁判で悪魔の手助けがあったと言うわけにはいきません。検事さんも、どう扱うべきか悩んでました」
「だろうね」
弁護士なら、悪魔の助力と聞けばすぐに精神鑑定の手続きを取るだろう。それほどに常識から逸脱した話だからだ。
警察としては、誰もなにも聞いていないことに関してもっと現実的な理由付けが欲しいところだろう。多少無茶な話でも、とにかくそれらしく聞こえる説明を、そのうち誰かが考えつくだろう。
体裁さえ整えばいいのだ、ああいうのは。
……。
台所からいつも聞こえる妻と妹の会話や、食事の支度をする音が聞こえないのは気のせいだろうか?
料理の香りもまだしない。
…………。
襖は閉めてあるが台所はすぐ隣だ。
2人の人間が食事の支度をしていてなにも聞こえないなどということはあり得ない。
静寂の悪魔が代償を受け取りにでも来ていない限りは。
書きながら懐かしのエイリアンのキャッチコピーを思い出してました




