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【完結】期限付きの婚約者  作者: 桐野湊灯


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4.



 誰かが呼ぶ声が聞こえた。優しくて温かい声で、何度も何度も名前を呼んでいた。


 ーーああ、ここはどこかしら?


 目を開けると、目の前には真っ白な見慣れない天井がある。


(……明るい)


 何もかもが眩しい。手を動かそうとして、初めて誰かがずっと手を握ってくれていたことに気付いた。


 優しくて温かい手、その先を見て月子はハッと息を呑んだ。


 桑茶色の軍服を纏った見ず知らずの男が、月子と目が合った瞬間に驚いたような表情を浮かべている。

 

「あっ、目が覚めたみたいね」


 すぐそばで、明るい声が聞こえてきた。急に身体中に痛みがじわじわと広がっていくのがわかる。


「まだ、ぼーっとしてるのかしら? 月子さん、わかる?」


「……はい」


 喉がカラカラだった。ようやく絞り出した声はしゃがれていて自分の声ではないようだった。


「さっきも一度目を開けてくれたんだけど、ここがどこかわかる?」


 月子の答えを待つ前に、看護婦は言った。


「……ここは病院よ」


 月子はぎゅっと瞼を閉じた。熱い涙が頬を伝っていく。



 ーー死ねなかったんだ。


 看護婦も軍人も黙ったままだった。月子は泣きながら再び眠りに落ちた。



 次に目が覚めた時は、幾分頭がスッキリしていた。ここは神原病院という病院らしい。医師の冨岡はまだ若いが腕がいいと評判で、物腰が柔らかく安心感を与えてくれるような人柄だった。


 明け方、あの土地を管理する者が水かさの増した川が畑に影響するのを心配して、偶然通りかかったこと。春の嵐で薙ぎ倒された木々や、流れ切らなかった大量の葉が硬い岩肌にぶつからぬように守ってくれたこと。


 それらが重なって奇跡的に命が助かったのだと、冨岡医師は本当に嬉しそうに語った。


「左足の捻挫、肋骨にヒビ、擦り傷、切り傷……でも、大丈夫だから。ゆっくり治していこう」


 月子がそれらの話を聞いている間も、軍人はベッドの横でじっと立ったまま動かない。


「しばらくは安静ですからね」


 看護婦は月子の顔を覗き込んで、人懐っこい顔で笑った。


 月子はなんとなく、震える手で頬をさすった。顔は無事よ、と笑ったその看護婦の肌はつるんとしていて、綺麗な人だった。


 テキパキと慣れた仕草で薬品やガーゼを仕分けると、医師と看護婦は風のように去っていってしまった。


 耳が痛くなるような沈黙が続く。


 恐る恐る軍人を振り返る。


「……痛むか?」


 と、鋭く聞かれた。声は抑え気味にしているのだろうが、低くて腹に響くようなどっしりとした声だった。なにより、そこにいるだけで威圧感がある。男性と言ったら佐久間や杉浦医師や寿太郎さんくらいしか知らない月子にとって、恐怖さえ感じる出立ちだ。


「ええ、まあ……」


 と、答えた瞬間に肋に激痛が走る。顔を顰めて苦悶の表情を浮かべる月子を心配そうに見つめている。


「あの……失礼ですが貴方は?」


 軍人は目を細めて、月子を見つめた。


「陸軍少尉、黒瀬恒一。挨拶が遅れてすまなかった」


 黒瀬、と聞いて月子の体温はスーッと冷えていった。


(この男が……)


「伝えておきたいことを先に言おう。こんな時にいうことではないが、早く伝えるに越したことはない」


「……君は親戚に見放された」


 黒瀬は言いづらそうに、それでいて淡々と告げた。


 ーーああ、なるほど。


 月子は静かに納得した。それで、この病室には誰もいないのだ。何も不思議なことではなかった。


 陽子が佐久間と駆け落ちしたとき、月子がいるにも関わらず口汚く罵っていた。二度とこの屋敷の敷居は跨がせないなど、笑わせてくれる。屋敷は藤宮家のものだというのに。他にも聞くに耐えない汚い言葉で姉を詰った。自殺未遂なんて騒ぎを起こしたことを世間に知れたら、それこそ自分たちにまで非が及ぶと考えたのだろう。


(いっそ、せいせいするわ)



「……私との結婚が嫌で身を投げたのか?」


 怒っているのかと思ったが、そうではないようだった。月子が黙ったまま、視線から逃れるように俯いた。


「入院には保証人が必要だった。だから、私の名前を書いておいた」


「杉浦医院に連絡してください」


 杉浦医師なら、月子を昔からよく知っているのだから新しく保証人はいらないはずだ。すると、黒瀬は間髪入れずに答えた。


「あそこではここまでの怪我を診ることはできない」


 まるで一度調べたかのようにキッパリとした口調だった。


「君が退院するまでの間だけ婚約者のままでいよう、その方が何かと都合がいい」


「……婚約は破棄になったのでは?」


 親戚にも見放されたというのは、婚約が破棄になったことも原因だと考えていた。


「こちらからはまだ何もしていないが……君が退院し、新しい生活を難なく送れるようになるまでの間だ。そしたらすぐにでも解消してやる」


 淡々と一方的になんでも決めてしまう物言いに、月子は少し苛立っていた。


「どうしてそこまでしてくれるんですか?」


「こうなってしまったのは、全て私の責任だ」


 黒瀬はそう言って膝の上に置いた拳をぎゅっと握った。きつく結ばれた指の節が白くなっている。


 月子は黒瀬に同情したが、目覚めた瞬間から胸の奥に怒りが燻っていて目にしたもの全てにそれをぶつけたい衝動に駆られていた。行き場のない苦しみから解放されないでいる。


「責任なんて感じないで。私が死にたかった、ただそれだけ」


 ーー死にたかった。それなのにどうして、生きてしまったんだろう。


 また新しい涙が一粒頬を伝う。もう泣きたくなんかなかったのに。


「……むしろ、ご迷惑をかけて申し訳ないと思っています」


 精一杯の強がりだった。これで関係を終わらせてほしい。月子はとにかく一人になりたかった。


「君が謝ることはない」


 黒瀬はそう言って、まだこの場を去ろうとしない。


「……本当に大丈夫なので、もう帰ってください」


「それなら、入り用なものを教えてくれ。明日また来る」


 月子は耳を疑った。


「……一人になりたいの、わからない? 」


 黒瀬は少し戸惑ったような表情を浮かべている。


「どうせ、私のことを死にきれなかった馬鹿な女だと思っているのでしょう……」


 息をするたびに、身体中がズキズキと痛む。死にきれていたらこんな思いはしなくて済んだのに。何もかも忘れることができたのに。


「そもそも、貴方は姉と婚約していたのよ。それが突然じゃあ妹と……って納得できるの?」


「なにも珍しいことじゃない」


「……冷たいわね。人の心が無いんだわ」


 月子は吐き捨てるように言った。黒瀬が一瞬傷付いた顔をしたように見えて、少しだけ気が済んだ。


「入り用なものを持ってくるだけだ。なんでも言え、用意する」


「なんでも?」


「ああ、欲しいものだ。必要ならなんでも」


「それなら裏通りのカフェで林檎のバターケーキが食べたいわ」


「林檎のバターケーキ?」


「わかったでしょう、私の欲しいものなんか貴方に用意できないの」




 夜中になると、痛み止めが切れたようで月子は一晩中唸っていた。その度に看護婦が飛んできて、月子の体をさすってくれた。「痛み止めは増やせないの、ごめんね」と優しい声だった。


 自殺未遂で入院すると冷たくされると聞いたが、少なくとも月子の世話をしてくれる看護婦たちは優しかった。


 長い一日だった。朝には痛み止めをもらえたので、日中は比較的穏やかに過ごすことができた。落ち着いてあたりを見回すと、ここはどうやら個室らしい。以前、杉浦医師から聞いた話では、大病院では大部屋が普通だと聞いていた。黒瀬が選んでくれたのだろうか。


 確認することもないだろう、なんとなく彼はもう来ない気がした。


 ここにいる人たちはみんな優しいのに、自分は意地悪な人間になっていた。


 林檎のバターケーキが特別に食べたかったわけではない。だが、黒瀬を困らせたかった。あの年の季節限定のメニューなら、きっともう手に入らない。パジャマやら歯磨き粉のことを気にかけてくれたのだろう。でも、彼の自信満々なあの威圧的な態度に、どうしても鼻を明かしてやりたくなったのだ。


 本当の自分はこんな人間ではないはずだった。そんなことをふと口走ると、看護婦は穏やかに笑った。「自暴自棄になっているのかしら」


「自暴自棄?」


「心が疲れちゃったのよ」


「今はゆっくり休んで。自分にだけ優しくしてあげればいいの。話したいことがあったら言ってね。あと、どこか辛かったり痛かったりしてもすぐに呼んでね」


(自分に優しく、か……)



 ーー来世ではきっと幸せになってね。


 

 自分に掛けた言葉を思い出す。


 萌黄色のカーテンが風に揺れているのを見ながら、月子は久しぶりにゆっくり眠った。



 昼の時間を回った頃、コツコツと規則正しい革靴の音が聞こえて目が覚めた。もしや、と思うとその予感は当たっていた。


 大きな鞄を抱えた黒瀬少尉だった。ベッドの横にドサッと鞄を下ろすと、「具合は?」と手短に尋ねた。


「だいぶいいです」


 そう答えるしかなかった。


 黒瀬は月子の顔をじっと見つめると、「顔色も昨日よりいい」と少し微笑んだ。


(この人、笑うんだ……)


 黒瀬は月子にも見えやすいように鞄を開けると、キビキビした動作で中身を説明し始めた。薄手の寝巻きに羽織るもの、靴下、歯ブラシ、粉歯磨き、小さな石鹸、手拭い、櫛、手鏡、装丁も美しい詩集……澱みなく説明を終えたかと思うと黒瀬の手が止まった。鞄から出さずに「……これは、下着だ」とか細い声で言った。


「まあ……」


「心配するな。荷物を見繕ったのは私の母だ」


「黒瀬少尉、何から何まであいすみません。お母上にもなんて言ったらいいのか……」


「それからこれも」


 小さな白い箱には、焼き立てだったらしい林檎のバターケーキがみっちり入っていた。こんがり焼き色が付いていて、薄くスライスした林檎が花びらのように飾られてる。バターのいい香りに空腹の胃が痛んだ。同時に、懐かしさと切なさでどうにかなりそうで月子は慌てて蓋を閉めた。ねだったのは自分なのに、見ているのが辛かった。


「これって……」


「一年前の季節限定で今はもうやっていないらしいのだが、事情を話して作ってもらった。……合ってるか?」


「ええ、合っています」


「……当てつけですか? 俺に用意できないものはないと?」


「そんなつもりはない。ただ、君の欲しいものを用意したいだけだ」



 百貨店で噂の金箔入りのロールケーキ、金平糖の花束、どんなに無茶なことを言っても少尉は必ず昼の決まった時間に数分やってきては月子の欲しがったものを置いてった。



 それでも月子の気持ちは晴れなかったし、少しも喜べなかった。罪悪感だけが募るばかりだった。



「満開の桜が欲しい」


 月子はいよいよ到底叶えられないだろう願望を口に出した。葉桜の季節も過ぎた頃、満開の桜などどこを探してもありはしない。


「……桜?」


 黒瀬は困惑したような表情を浮かべている。


(さあ、どうする?)


 馬鹿な願いと一蹴して、もうここに来ないでほしい。


 黒瀬は珍しく黙り込んだまま、いつもより数分早く帰ってしまった。とうとう怒らせてしまったのかもしれない。



 その夜、月子は眠れなかった。寝返りを打つ度に体が痛む。眠れない夜は嫌いだった。暗闇を見ているとどうしようもない絶望感に襲われる。少し前までは痛みでそれどころではなかったが、今では余計なことを考えてしまう時間が増えたのかもしれない。



 そして眠れぬまま夜が明けてしまった。おかげで日中眠ってしまい、「だから夜眠くなくなっちゃうのよね」と看護婦に笑われた。


 いつもの時間になった。さすがに桜の花は無理だったのだろう。黒瀬は姿を現さなかった。その日の夕方、陽も傾き始めた頃だった。コツコツと聞き覚えのある革靴の音が聞こえてくる。


「遅くなった。具合は?」


 いつものように手短に訊ねる。見ると手には真っ白な花瓶と桜の枝を持っている。枝先にはいくつか花が咲いているようだった。


 少尉は花瓶に水を入れ、桜の枝を慎重に挿すと月子から見えやすいように窓辺に飾った。


「……どうして」


 月子はベッドから身を捩って、半分起き上がっていた。それが黒瀬には季節外れの桜に驚き、喜んでくれたように見えたに違いない。


「知り合いに園芸が趣味の者がいて分けてもらった。満開ではないが仕方ない」


 黒瀬は珍しく饒舌だった。


「今の時期に残っていたのは奇跡のようなもので、」


 "奇跡"と聞いて、月子は自分が何を求めているのかはっきりわかった。

 

 気づいた時には花瓶を手に取って、黒瀬に投げ付けた。花瓶は割れずに、鈍い音を立てて床に転がり回り、離れたところでようやく止まった。ポタポタと軍服を濡らす。黒瀬は黙ったまま、濡れた頬を拭った。


「……私の望むことはひとつよ」


 息をする度に体が痛む、起き上がるのも辛い。目が覚めても、私には誰もいない。


「何もいらないわ、ただ、あのまま死なせて欲しかったの……!」


 月子は体をくの字に曲げると、堰を切ったように泣き始めた。もう泣きたくなかったのに、とうわごとのように繰り返す。


 黒瀬はそっと、躊躇いがちに月子の背に触れた。月子が嫌がらないのを確かめると、そのまま優しく抱き締めた。子どももあやすように背中を何度もさすってくれた。


 何時間そうしていただろう。その間もずっと黒瀬は何も言わずに、月子を抱き締めていた。


 咽び泣くような声が啜り泣きに変わった頃、黒瀬はようやく月子から体を離した。


 外はとっぷりと暗くなっていた。窓辺にうっすら月明かりが差している。


 黒瀬はベッドの淵に腰掛けたまま、月子の頬に優しく触れた。涙の跡をそっと拭う。子ども同士が戯れるように額をピタッと合わせると、お互いの体温が伝わるようだった。誰かとこんな風に触れ合ったことなんてなかった。月子は思わず目を閉じた。


「俺は月子さんに生きていてほしい」


 黒瀬はそう言い残すと、何事もなかったように帰ってしまった。



 月子はしばらく放心状態だったが、気を取り直した時、花瓶を投げ付けたことを謝らずにいたことを思い出し、ひどく後悔した。窓辺にはいつの間にか綺麗に挿し直された桜が飾られた。月明かりに薄い花びらが透けていて美しかった。


「貴方に罪はないのに、ごめんね」


 月子はそう言って、逞しくしなやかな枝を慈しむように撫でた。


(月子、さん……)


 そういえば、はじめて名前を呼ばれたかもしれない。


 その夜、月子は久しぶりに安心して眠ることができた。相変わらず体中は痛むが、それでも"生きたい"と思った。

 暗闇がちっとも怖くなくなった。



 翌日、いつもの時間になっても黒瀬は現れなかった。

 

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