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【完結】期限付きの婚約者  作者: 桐野湊灯


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3/6

3.

 庭の紫陽花が少しずつ色付き始めた頃、陽子に縁談話が舞い込んできた。


 没落寸前の藤宮家と縁談したいだなんて何が目的なのだろうかと訝しんでいたのだが、士族上がりの軍人家系が金は無くても名のある元公家家族と関係を結ぶことはよくある話らしい。


 この縁談がうまくまとまれば、相手方にとってももちろん、藤宮家も建て直す好機になるだろう。


 親戚たちは大張り切りだった。今すぐにでも話を進めようとする意見と、ここは家名を重んじて慎重になるべきだとする意見で対立していた。特に、藤宮姉妹を昔から可愛がってくれた今回の仲人でもある最年長の寿太郎さんは、今すぐに話を進めることに賛成で、言葉通り今すぐにでも屋敷を飛び出して話を進める勢いだった。


 その相手というのは、なんでも士官学校を出ていて、階級は"少尉"、年齢は姉より少し上、将来をかなり期待されている立場だと聞いている。写真はまだ見ていないが、精悍な顔付きの男だと、寿太郎さんの奥さんが話していた。


 月子は縁談話を知らせる手紙が舞い込んだ頃には、外で佐久間と会っていて彼らの沸きっぷりは見ていない。屋敷に入るなり、興奮気味の奥さんから話を聞かされただけである。姉は置き去りにされた日本人形のように、薄暗い部屋で体を投げ出しているのが見えた。


 少し様子を見に行くと、陽子は月子の方をチラッと見て、この世の終わりのような声で「……終わりよ」と言ったきり布団をかぶってしまった。


 こうなった姉はもうどうにもならない。この騒ぎをどこか他人事のように聞きながら、月子は陽子の気持ちが落ち着くのを待つつもりだった。しかし、寿太郎さんは姉を説得できるのは妹しかいないと、月子にいかにこの縁談が藤宮家にとって重要なものなのかを熱く語り、姉の元へ説得に行くように命じた。


「姉さん」


 大きな布団の塊に声をかけると、モゾモゾと動いた。近くに寄って、おそらく背中あたりを少し撫でてみる。


「月子も聞いたのよね」


 陽子は目を真っ赤にして、瞳にいっぱいの涙を湛えている。


「ええ、聞いたわ」


「嫌よ」


 陽子はか細い声で、それでいてキッパリとした口調で言った。


「でも、姉さん。藤宮家が建て直せるのかもしれないのよ?」


 暗い屋敷で二人きり、そのまま老いて朽ちていく未来を想像したことが月子にはあった。


「私を犠牲にして?」


「犠牲って……」


 握った手の平に爪が食い込む。姉はどうしてそんなことを言うのだろう。


(藤宮家のために何もかも犠牲にしてきたのは、なにも姉さんだけではないわ……)


「月子、黒瀬少尉の噂は聞いた?」


 月子はハッと我に返る。自分はなんと冷たい考えをしてしまったのだろうと、浅はかな思いを恥じた。


「精悍な顔付きだって、寿太郎さんの奥さんはときめいていたみたいよ」


 月子はあえて声を弾ませた。言葉に嘘はない。現に寿太郎さんの奥さんは目を蕩けさせて語っていた。「私もあと十年若かったらねぇ」と言って、寿太郎さんに「五十年の間違いだろ」と言われて喧嘩していた。二人はよく喧嘩もするが、本当に仲が良い。ご近所でも鴛鴦夫婦として有名だった。


 陽子はムクっと起き上がると、恐ろしく冷たい表情を浮かべて月子の目をじっと見つめた。


「……顔が良くても、とても冷酷な男だと聞いたわ。それもそうよ、軍人さんだもの。きっと荒くれ者よ、人の心なんて無いの」


 陽子はそう言って、月子の胸に震える人差し指をトンっと置いた。そのままスーッと斜めに滑らす。


「人を斬ることに、躊躇いなんてないわ」


 背筋がゾッとした。その言葉というより姉の仕草や虚ろな瞳に、だ。


「そんなことないわ。国のために働いてくれている方たちよ」


 口に出した途端、その言葉がいかにも月子自身の言葉ではなくて、ふわふわと宙に浮くようだった。思わず、口元を手で押さえる。陽子はそれを見逃さず、口の端を歪めて少し笑った。それは知らない姉の顔で、月子は少し恐ろしくなった。

 

「みんながそうでも、あの人はきっと違う。私は嫌よ、結婚なんかしない」


「姉さん……でも、藤宮家と結婚したいなんて言ってくれる方、次はもうないかもしれないのよ」


 この縁談を逃したら、次はもうないだろうね。寿太郎さんは淡々と告げた。そもそも縁談が舞い込むことだって思いもよらぬことだったのだ。


 ーーお父上とお母上も、さぞ安心でしょうな。これでお二人に顔向けできますわい。


 誰が言ったことだったか、寿太郎さんだったかもしれない。それが月子の頭を離れなかった。


「……月子、寿太郎さんに言われて説得しにきたんでしょう」


 陽子の声が静かに響いた。月子が黙って頷くと、陽子はそっと手近くに来るように手招きした。姉の肩に顔を埋めると、なんだか懐かしい香りがする。昔してくれたように、月子の髪をそっと撫でる。


「月子は恋をしたことがある?」


「……え?」


「なんでもないわ、あっちに行きなさい。寿太郎さんの手下なんて嫌いよ」


 陽子の声は少し明るくなっていて、でもまた布団をかぶってしまった。月子は諦めて、薄暗い部屋を後にした。



 陽子はしばらく塞ぎ込んだ。一時期は食欲も人並みに戻り、体力も回復していたというのに。好きだった梅干しを散らした白粥も一口啜っていらないと言う。杉浦医師も心配していた。回復には生きる気力が大切なのだと、今の陽子からはそれを感じられないらしい。


 緩やかに弱っていく姉を見るのは辛かった。ふっくらしてきた頬もすっかりまたやつれている。


 それでも、月子にとって救いだったのは陽子は本気で生きることを諦めていたのではなく、相手方や寿太郎さんたちが縁談を諦めてくれるのを待つための命をかけた芝居だったということだ。みんながいなくなった後、月子がこっそり食べ物を持っていくと陽子は貪るように食べていた。


 縁談話が舞い込んでから、本来ならばすぐにでも顔合わせと行きたいところだったが、陽子の体調が優れないため延期になっている。相手方は快く了承してくれたばかりか、季節の果物を見舞いに贈ってくれた。月子がやっぱり優しい人なのではないか、というと陽子は「諦めの悪い人」と一蹴した。


 やきもきしているのは寿太郎さんの方だった。最初こそ姉の体調を最優先にしていたものの、何度も杉浦医師に縁談の日取りを決めたいと相談していた。その度に杉浦医師に「彼女の回復が先だ!」と叱られていた。もしかしたら、杉浦医師は姉の思惑にうっすら気づいていたのかもしれない。



 陽子が塞ぎ込んだまま、そろそろ1ヶ月ほど経つ。相変わらず、姉と先方と寿太郎さんの根比べは続いていた。



「姉さん、今日も顔を見せてくれなかったわ」


 撫子色の紗の着物を揺らしながら、月子は首元の汗を拭った。ぽろっと零した言葉に、佐久間は思った以上に心配し、真剣に話を聞いてくれた。


「黒瀬少尉の噂は聞いたことがあるよ」


「そうなの?」


「なんだかすごく無口で厳しい人だとか……」


「えっ」


「そう言われてしまうのは仕方ないさ、でも部下思いだって話も聞いたよ。怪我をした仲間を背負って運んだとか。色々あって、あんまり笑わなくなったとか」


「そう、大変な思いをしてらしてるのね……」


「そうだ、今年の灯籠流しは三人で行ってみる?」


「三人?」


「僕と月ちゃんと陽子さんと。いい気晴らしになるかもしれないよ」


 この町では毎年夏になると小さな川に灯籠を流す。慰霊として、または願いを込めて。手のひらほどの小さな灯籠が細い川にぶつかり合いながらもそよそよ進んでいく様は幻想的で、月子はこの祭が大好きだった。昨年も一昨年もその前の年も、佐久間と二人で訪れている。でも、その前は姉と二人で来ていたこともあった。ほとんど外に出られない姉と出掛けられることが嬉しかった。


 いいの? と、月子が尋ねると、佐久間は屈託なく笑った。


「もちろん、月ちゃんの家族は僕の家族だよ」


 今年になって、春の嵐が過ぎた頃だった。とくに言葉はないけれど、佐久間が小さな指輪をくれた。小さな針金で出来た桜色の石のついた指輪だった。


 いつものカフェで目敏く月子の指輪を見つけた女給のヨリちゃんは、一瞬羨ましそうに見たあと、口の端を少し持ち上げて「なあんだ、本物のダイヤかと思ったわ」と言った。


 なんだか何もかもがうまくいくような、幸せな予感がしていた。



 姉は灯籠流しに出掛けることを、意外にもすんなり承諾した。返って月子の方が拍子抜けするほどだった。灯籠流しまでは数週間あったのだが、その間も姉は塞ぎ込んでいた。


 本当に大丈夫かしら、と心配する月子だったが、当日には約束の時間にしっかり支度を済ませた姉の姿を見て、ほっと胸を撫でおろした。意外にも姉さんも楽しみにしてくれていたのかしら、と思うとなんだか嬉しくて佐久間に感謝してもしきれなかった。


 空色の紗を纏った姉の立ち姿は、少し前に見た時よりだいぶ痩せていてより儚さを増していたように思えた。今にも消えてしまいそうで、月子は無意識に陽子の腕に触れた。


「姉さん、すごく綺麗よ」


「月子も綺麗よ、なんだか背が伸びたのかしら。大人になったわね」


 いつも見ているはずなのに、陽子は久しく会っていなかったように月子をまじまじと見つめている。



 約束の時間より少し早めに待っていた佐久間は、今日は珍しく和服姿だった。灰青の紗の着物がよく似合っていた。二人は顔を合わせたことは何度かあるものの、こうして一緒に外に出掛けることは初めてだった。なんとなく他所他所しいような、気まずいような空気が流れる。


 まだ明るいうちから、川のほとりには町中の人が集まり始めていた。人がごったがえしていてうまく進めない。佐久間は月子の手を優しく握ると「離れないようにね」と笑った。


 子どもの頃は灯籠流しが楽しみで仕方なかった。あてどない夢を流す場所。年を重ねるうちに本当の意味を知ってから、月子は少しだけ身の締まる思いで出掛けていた。すれ違う人の、少し俯いた美しい女性の目には新しい涙が浮かんでいた。



 お参りをして、灯籠を頂いて、思いや願いを書いて川に流す。陽子は参拝を終えたあたりから疲れのせいか不機嫌で、月子はヒヤヒヤしていた。佐久間は特に気にする様子もなく、姉にもきちんと気を配ってくれた。


 ふと、陽子がその場でしゃがみ込んだ。月子と佐久間の手が解け、ゆっくりと離れ離れになる。


 何故だか理由はわからないが、月子はその瞬間何かが変わったのを感じた。

 

 不安で堪らなくて、震える指先でただ"幸せ"を願った。佐久間の付けてくれた小さな灯が、ゆらゆらと流れていく。



 それから、数週間経った頃だった。陽子は姿を消した、佐久間と一緒に。



 屋敷中大騒ぎで、月子はまたどこか他人事のようにその様子を見ていた。




 松の内も開けぬうちに、縁談の話は自然と月子のもとへ降りてきた。まるで最初からそう決まっていたように、藤宮家の娘は私一人しかいないとでもいうように。


 壊れたラヂオを聞いているようだった。寿太郎さんの奥さんが言う、「精悍な顔つきのいい男よ」。寿太郎さんが言う。「お父上とお母上もさぞ安心だ」


 ただ、あの頃と違うのは、誰も私の話を聞こうとしてくれないこと。


 薄暗い部屋で一人きり、いつからここにあったのか、知らないうちに白無垢がかけられている。


 袖を通して見てね、と奥さんの言葉が蘇る。震える手で、着物の帯を解く。毎日着けていたお守り代わりの懐中時計が滑り落ちて、不快な音を立てて鎖が切れた。


 驚いた、と頬をさすってみて初めて自分が泣いていることに気付いた。


 気付いた瞬間、何かが壊れたように涙がとめどなく溢れてくる。息ができないほど、声が漏れるのも止められないほど咽び泣いた。一生分の涙が流れて枯れ果ててしまうかもしれないと思った。それならそれで構わないと思った。


 狂ったように、手を振り回す。文机の上も何もかもなぎ払う。月子の宝箱が勢いよく壁に当たった。幼い頃から大切にしているお菓子の空き箱で、綺麗な千代紙を入れていた。


 桜色ばかりの千代紙に、綺麗な青空を映したような千代紙が混じっていた。



 ーー知っていたのだ、何もかも。



 それを見た月子はとうとう壊れてしまった。しんと恐ろしく静まり返った屋敷の中で、ただただ、闇をじっと見つめていた。




 明日は顔合わせですからね、と晩になって寿太郎さんの奥さんが気遣うような声で言った。また逃げ出されたら困るから、事前に知らせておくのが怖かったのだろう。


 月子は、「あいわかりました」とだけ返事をすると、奥さんはあからさまに安心したような表情を浮かべていた。


 乱れた白無垢と、壊れた宝箱、散らばった紙屑。月子は真っ新な紙を一枚とり、文机に向かった。


 どうにも書き出せぬまま、また夜が明けるらしい。遠くでカラスが狂ったように鳴いていた。


 導かれるように庭先に出る。庭に梅の花はないはずなのに、どこからか梅の香りが漂っていた。香りを辿るように、闇に呑まれにいくように、月子は歩みを進めた。



 とうとう町の外れの、うら淋しい道にまできてしまった。何も持たないまま、こんな所まで一人でたどり着いてしまったことがおかしくて、ひどく悲しかった。



ーーこの世に未練なんて、ただのひとつもない。



 こんな今生にいるよりも、何もわからない未来の方がきっと幸せだ。疑う余地もない。


 宛名のない遺書を胸元から取り出して、ビリビリに破って空に向かって投げた。ハラハラと宙を舞う文は、まるで桜の花弁のようで美しかった。


 


 ーー来世では、きっと今より幸せになってね。



 月子はゆっくりと、薄闇の中に身を委ねた。


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