逃避行 おしまい
「愛することと、殺すことや食らうことは同じだよね」
酷く機嫌が良いらしく、大宮は足を揺らしながらそう言った。車椅子で病院内を散歩するのが随分とおもしろいらしい。弘には彼女の頭髪から匂うシャンプーの香りが心地良い。つい先程、看護士に世話されて風呂に入って来たのだ。
「深冬ちゃん。あたしのこと愛してた。愛することで、尽くすことで、あたしの心をしゃぶり尽くすような快楽に浸っていたんだと思う。あの子は少しだけ気が降れていて、自覚のある妄想狂いなのよ。それがまた可愛らしくって」
「おまえは、更科のこと、好きだったか?」
「好きよ。でも残念、あたしはあの子のことを人間だと思ってない。あたしは人を人とも思わないことを信条としているの。だからあの子には、そういう話をしたことはないわ」
エレベーターのボタンを押す。美しい庭に下りて、二人でゆっくり話をしよう。弘はそう思っていた。大宮も反対しないだろう。
「ねえ。あなた、あたしの車椅子を押すの、楽しい?」
「楽しいぜ。おまえと話ができるしな」
「もしも会話がなかったら?」
「それでも楽しいだろうな」
弘は考えずに言った。
「座っているのが、あたしじゃなくて柳沢さんだったら?」
弘は少し考えた。
「楽しくないだろうね」
「それはね。あなたがあたしのことを愛しているからよ。愛しているというのは、あたしの何かに好感を持っているということ。手に入れたいと思っているということ。あたしの移動の世話をして、あたしをある程度掌握できるのが楽しいのは、その所為よ」
「つまりおれは、車椅子を押すことで、おまえを手に入れたような気分になっている訳だな」
大宮は笑った。
「そうよ。ね、そういう心って、醜いでしょう。あなたの顔なんかよりずっと」
エレベーターがやって来た。背の高い青年と、彼が押す車椅子に座る、弛緩した顔の老人。口から涎が垂れている。みじめだ。こうはなりたくないな、弘は、老人に対しても、青年に対してもそう思う。
「『あなたが好きです。殺しちゃいたいくらいですよぅ』深冬ちゃんが初めてあたしに話しかけた時の文句よ。最近は『食べちゃいたいくらい』になったけどね。どうも、手に入れたいものに儀式的な何かをするのが、趣味みたい」
「あいつ、俺の性器を切り取って食おうとしやがったもんな」
「ええ。それにしても、碇本君があなたのことを好きだったなんて、それは読めなかったなぁ」
エレベーターが一階に着いた。
「あたしの兄貴ね、同性愛にものすごい興味を示すのよ。そういうビデオや文献をたくさん持っていてね。一度深冬ちゃんと会ったことがあるんだけれど、なんだか意気投合していたわ」
「見たことあるぜ。……あの時見てたあれは、ただのアダルトビデオじゃなかったんだな」
「端から見て理解はできないでしょうね。理解できない方が正常なんだけれど」
「だな。おまえの植物コレクションも理解できん」
庭園はとにかく美しかった。緑色の植物たちが、太陽の光に晒され、影を作る。全体で一つの絵のようだった。芸術は姿だけではない。鳥のさえずり、清涼な涼しさ、柔らかな香りが弘を祝福する。
「植物が綺麗なのは、分かるでしょう?」
大宮は言った。少しふてくされているようだった。
「まあな。だが、もっと美しいものが世界にはあると思うぜ」
おまえとか。
「そうかしら。……そうなんでしょうね。世界にはまだ、あたしの知らないことがいくらでもある」
うんうん、大宮は二度、頷いた。
「なあ大宮。おまえ、碇本が毒物の研究をしていたこと、知っていたんだよな」
「もちろんよ。と言うか、あたしも大分協力したの。碇本君って、ものすごい凝り性でしょう。植物をテーマにした後は、その手の関連書物を読みまくっていた。その内、あたしに声をかけて来てね。深冬ちゃんあたりから、あたしの植物好きを知ったんでしょう。それから、二人で毒花を調べた。どれだけ致死量の少ない毒を作り出せるかって。その時は、男の子らしく暴力的なこと考えるんだなって、それだけ思っていたわ」
「じゃあどうして、自分が碇本にやられたって気付かなかったんだ?」
「気付いたよ。多分彼は、口封じにあたしを殺そうとして、殺しきれなかったんでしょうね。彼にとっては、殺すより愛した方が、相手をより高度に手に入れられるってことなんでしょう」
「柳沢を殺したのは?」
「どうでも良かったのね、柳沢さんのことが」
弘は、あの恐ろしく目付きの悪い少女のことを考えた。鏡に映った自分のような存在であり、途中で過去の自分となり、最後は弘の下地として消えた。弘が他人を見下す悦びを覚えたのは、彼女の為だった。
「そもそも、どうして碇本君は人を殺そうと思ったのかな?」
「あいつは持ちすぎていた」
弘は言った。
「室長って立場は、あいつにとって、クラスメイトの全てを所有しているって意味だったんだろう。あいつは何事においても自分を高めた。それはつまり、自分と、それから他人を相対的に評価することを知っていたということだ。そうなると、あいつにとって、末端の者はただの屑になる。処分すべき、ゴミになる」
「つまり、不要なものを整理していた訳ね」
「ダスト・ザ・ダスト、さ」
弘はシニカルに笑った。
「だがあのへたれ野郎は、いよいよ実際に人を殺す段階に来て、誰を殺したものか分からなくなった。それで選考委員を何人か用意した。それが『四人の聖者』」
「だっさいわね」
大宮は辛辣に言った。
「殺し屋の癖に『オウムガイ(大無害)』。それに『赤が青を塗りたくる』。自由研究のタイトルは『愛と死を撒く植物達』」
「自覚はあったんでしょう。そして、碇本君は自分の精神の整合性を保つことに怠惰じゃなかったから、自分の悪いセンスで人を殺すなんてことは、しなかったんでしょうね」
「賢明だな」
弘は笑った。
「誰にでも欠点はある」
「そうよ。それを無理に解消しようとすれば、それはもう、自分の欠点を人から奪ったもので埋める他ない。成績の悪い人は、秀才を所有してそれを補い、体力のない人は、スポーツマンを所有してそれを補う」
大宮はいとわしげな表情をする。
「あたしはそういう精神活動が一番嫌い。その果てに人に危害を加えるなんて最悪よ。世界で一番醜いわ。だからあたしは、人を人とも思わないようにしているのよ。自分の醜いところを、他人を使って埋めるようなことがないように」
本末転倒だと弘は思う。それに気付いた時、大宮の心はどんな風に破綻してしまうのだろうか。
「誰か美しい人を、愛して、殺して、食べて、汚して、あげつらって、それで自分のものにしようとする心が、一番醜い、か」
弘は呟いた。
「俺は碇本の皮膚を剥いで、自分の顔に貼り付けようとしたんだぜ」
「あなたは、ただ醜いだけ」
大宮は言った。
「それだけで、あたしはあなたを嫌ったりしない」
「そうだな」と弘は言った。
「何が美しいとか、醜いとか、そういう概念に囚われることが、不幸なんだ」
さっきエレベーターで会った、車椅子を押す青年が、弘たちの前を通り過ぎた。青年は笑って、老人に声をかける。老人は指先を僅かに、それはスキップを踏むように揺らして、とても幸福そうにしていた。
ベンチに座る少年は、点字の本を読んでいる。白い髪の童女が、花を愛でている。腕の無い女性が、芝生を楽しそうに駆けていた。
「大宮。俺はおまえが好きだ」
それは、呼吸に伴うように吐き出された、弘の言葉だった。
「もちろん恋。おまえに執心で、懸想して、それから首っ丈。好き好き大好き愛してる」
「あたしも、あなたの傍にいたい。そう思う」
大宮の頬が朱に染まり、照れたように笑う。碇本の清々しい笑顔よりも、ずっと、美しかった。
二人の周りでは、数多の醜悪がひしめいて、つんざくような阿鼻叫喚を叫んでいる。血が迸り、汚物が弾け、ありとあらゆる不幸が空気中に蔓延して鼻につく。それを忘れてしまうことは、弘には絶対にできないことだ。
それでも
太陽は眩しく輝いて、木々はたくましく生い茂り、空は優しく生命を包み、海は全てに慈しむだろう。夜になれば、星の明るさから希望を授かり、川のせせらぎから安心を貰い、土の匂いから力を得るだろう。
それは、決して変わることがない。確かにそこにあるものなのだ。
――大宮、
醜い俺の目は、美しいおまえを、ちゃんと見ているぞ。
ここまで読んでいただけたのなら、それは私にとって、自分の人生を肯定する材料に他なりません。
本当にありがとうございました。
この投稿で一度区切ることになりますが、読んでくれる方がいらっしゃるようなら、まだ物語を続けたいと思います。是非、また根本弘の小説を書きたいですね。
気に入らない展開、気に入らない文章、気に入らない登場人物などがございましたら、容赦なく批判してくださると幸いです。是非、お願いします。
ここに作品を投稿している時、ものすごく楽しかった!