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醜い奴ら  作者: 川崎真人
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逃避行 五

 五区間先の碇本の家まで、弘は自分の足で駆けた。トレーニングになるし、何より汽車代が儲かる。 

それは、これから弘がやろうとしていることを思い知れば、およそおだやかすぎる考えだった。

 雨は既に上がっていた。自宅で腹を抱えて笑っている内に、にわか雨は去っていたのだ。強い雨ほど早く上がる理屈を理科の授業で習った気がするが、はて、どういうことだったかな? 何とか前線がどうのこうのとか剥げ頭の教師が言ってた気がするけど……。

 さいわいにして、弘が一人で笑い転げているのを知る者はいなかった。兄は大学までの長い道のりを車で走っていたし、両親は仕事中で妹は学校である。お陰で、できの悪い次男坊の気がついに降れたと思われることは免れていた。

 「よう、弘。何だ走ってきたのか」

 碇本宅最寄り駅に差し掛かったところだった。碇本は笑顔で弘に駆けて来る。どうやら駅で弘を待っていたらしい。

 「おまえんち、こっから近くないだろう? 途中までの切符しか買えなかったのか?」

 「いいや」

 教えてもらった弘が碇本の住所を知っているのは当たり前だが、どうして碇本が弘の家を知っているのだろう。弘は小首を傾げた。

 碇本に招待してもらった彼の自宅はなかなか美しかった。というのは、大宮の所為で他人の家というものに恐怖感を持ってしまった弘だから思ったのかもしれない。他人の家独自の匂いを嗅いで、靴の数を確認し、蛍光灯の形に目を奪われる。なんだこりゃ、魔法陣かよ?

 おじゃましますを言うと、必要ないと碇本は返した。「おれとおまえの仲だろう?」ということらしい。それから、家族は今はいないのだそうだ。

 弘は碇本の自室に通された。天井まである本棚には何やら中学生が読むものではない難解な専門書と中学生が読むものではない幼稚な漫画が半分ずつ詰まっている。後は勉強机と、コンピュータと、ベッド。テレビはパソコンで見るのだろう。それからトロフィや賞状がいくつか飾られていた。

 「どうしたらこんなに賞が貰えるんだ?」

 弘にはそれが不思議だった。作文、スポーツ、自由研究。何とか漫画賞といったものから、凧揚げ大会優勝なんて代物まであった。

 「一度すると決めたことは、何でもやり遂げるのが、あらゆることへ共通する成功の秘訣だよ」

 碇本は謙遜せず言う。

 「ところで、何の話だ? オウムガイだって?」

 「ああ」

 長々と自慢するつもりは碇本にはないらしい。確かに、この部屋に通した時点で、それ以上は必要がないものと思われた。

 「柳沢が死んだ」

 弘はそう言った。事実だった。

 「家に帰ってすぐに、あいつの家に電話をした。そうしたら、柳沢はちょうど」

 「ま、そんな気はしていたがね」

 繊細な声色だった。諦観しきれていないその声は、寂しそうでしかなかった。

 「おまえが殺したんだろう? 零人」

 「はあ? 何を言ってるんだ?」

 と、碇本はすっ呆けて言った。

 「オウムガイがやったんだよ。違いない。犯行声明はあったし、手口まで同じだ」

 「おまえがオウムガイに決まっているだろう?」

 弘は人差し指を突きつけた。

 「最初っからおまえは怪しすぎるんだ。四人の聖者、だっさい名前を付けた四人組。十条と、柳沢と、俺と、そしておまえ。十条は肥満で、柳沢は醜い女だ。俺なんて顔だけ見れば化け物だ。その中に、確実に美形に分類されるおまえがいる」

 「だからおれがオウムガイ?」

 碇本は肩を竦めた。

 「そりゃあんまりだ」

 「じゃあ零人。大宮が呑んだだろう毒を仕掛けられる人間はどいつとどいつだ?」

 「クラスメイト全員。たとえば給食に毒を入れるなんて、隙を伺えば簡単だ。そしてプールで運動したことで体に毒がめぐり、大宮をあんなふうにした。或いは、ただ時限爆弾の設定があの時間だっただけかもしれない」

 「大宮の給食を配膳したのは更科だし、その後も更科が給食を見張っていた。隙なんてない」

 「じゃあ更科か、給食当番の誰かがやったんだ。毒を仕掛けた皿を渡されれば、見張るも何もあったもんじゃない」

 そのあたりの不安は、更科なら冴えた方法で解消しただろうと弘は思う。

 「……待てよ? 更科が見張るって、どうして彼女は、大宮が狙われていることを知っていたんだ?」

 「知らないよ。でもあいつは確かに、大宮が毒を呑まないように努めていた。大宮に何か吹き込んで図書室にやって、その間に彼女の給食を配膳した。ちなみに言うと、図書室に行っている時、俺は大宮の後ろを付ける様に更科に頼まれた。彼女を外敵から守る為だろう。随分と念の入ったことだ」

 「なんじゃそりゃ。んなもん、更科が犯人に決まってるじゃねえか」

 と、碇本は言った。

「確かに、この事件だけに限れば、おまえの言うとおり。だが、オウムガイの犯行はこれだけじゃない」

 「柳沢を殺したのもオウムガイで、柳沢を殺す機会のない更科はオウムガイではない、ということか?」

 「そうだ。あいつは今日も今日とて、大宮の病室にいただろうからな。大宮に電話して、確かめるまでもない」

 更科深冬。自らの親友に対し、異常なまでの執着を見せる彼女。友達の為に、何日も病室に居続けるなどと、ふつうの中学生がふつうの意志で行えることでは決してない。弘は大宮のことが好きだった。それでいて、思うのだ。もしも更科が男であり、彼女が大宮に寄せる思いが恋心であれば、自分は決して彼女には適わない、打倒しようと試みることも痴愚である、と。

 「よって、更科はオウムガイではない。では、誰が柳沢を殺した?」

 「疑うべきは柳沢の身内だろう? 使われた毒が即効性にしろ遅効性にしろ、今日彼女は、家族の出したものしか口にしていないはずだ。……だが」

 碇本は口ごもる。

 「そうなんだよ。ふつうに考えて、一つ目の事件の容疑者はクラスメイト。二つ目の事件の容疑者は身内。同一犯の仕業だとすれば、これは不可能犯罪ということになってしまう。ふつうに考えれば」

 「ふつうに考えれば、二つの事件に直接の関係はないってことにならねえか?」

 碇本は言った。

 「でなきゃ、辻褄があわない。というか、おれ達はオウムガイの手紙に囚われすぎているのかもしれないな。ひょっとしたらあれはただの悪戯でしなくて、大宮を殺そうとしたのは更科やクラスメイトの誰か、柳沢を殺したのは彼女の家族なのかもしれない」

 「たしかにな」

 弘は神妙に頷いた。白々しい仕草だな、と自分で思う。

 「だが。もしも、大宮と柳沢を同時に狙える奴がいたとして、そいつがオウムガイである確率はどれくらいだ?」

 「その条件だけで、七割五部」

 碇本は答える。

 「警察に事情を話した場合、確実に、調査の手はそいつに伸びるだろう」

 「そうか」

 「で、何なのよ」

 愉快そうに、碇本は言った。弘には、それが虚勢のように思われた。

 「何か考えがあるのか? 誰がしか、オウムガイになり得る人物を思いついていると?」

 「ああ」

 弘は醜い顔を歪めた。

「そいつを披露する為に、ここへ来たのさ」

 弘は机の上にぞんざいに置かれたトロフィを手に取る。最初の事件の日、いつ提出したものかも知れない自由研究を評価されたものだ。

 「何だよ」

 抑揚のない碇本の声。だが弘には分かった。この発声こそが、碇本が動揺している証左であるということ。

 「トロフィってのは大分ごつごつしているからな。頭の良い奴なら、人がこれを持つ時どこに手をつけるか、どこを触れるか、どこを撫でるか、予想できるんじゃないか?」

 「何が言いたい?」

 今度は上ずった声だった。弘は笑みを浮かべる。

 碇本は意思の強い男だ。この瞬間まで、焦りのようなものを弘に一切見せなかったことからも、それは分かる。

 でも悲しいかな。弘は真相を掴んでいる。

 「このトロフィに毒を塗っていたんだろう? 最初の事件の日、おまえはこれを大宮に触らせた。大宮の手に付着した毒は、彼女のパンを介して体内へ。プールの中でそれが効力を発揮し、血を吐き、青が赤に染まった」

 「くかか」

 碇本は笑った。それは、彼がついに見せた、失敗らしき失敗。こんな笑い方をしたのでは、誰が見ても、こいつは怪しすぎる。

 「今日、俺が柳沢を家に送ろうとしていると、そこにおまえが付いて来た。普段のおまえの、責任感のある男というキャラクターを考えれば、それは何ら不自然ではないことだ。おまえは柳沢の両手を自分の両手で覆った。安心しろ、と彼女を勇気付けた。滑稽な話だよ、そのおまえの両手に毒が塗られていたのだからな」

 「へん。どうすれば、柳沢の手の毒があいつの体内へ行くんだよ? 皮膚からでも感染する毒っていうなら、それを手に塗っていたおれは今生きてないぜ」

 碇本が悪あがきをした。だが、それがまるで道化なこととは弘には思えない。最後の瞬間まで諦めぬことが、どれだけ尊いことなのか、どれだけ強靭な精神が必要なのか、弘には分かる。

 そんなに強い意志を、正義の断罪者という立場にいる、それだけで踏みにじってしまう快感を、弘は特に望んでいたのだ。

 「柳沢には、爪や皮膚を噛み千切る癖があったろ? 柳沢は、自分の指に付着した毒を直接食らったんだ」

 と、弘が言うと、碇本は口端を限界まで歪めて、両手を晒した。

 「トロフィの毒はおまえが適当に処分すれば良いまでだし、大宮の手に付いた毒はプールで落ちている。柳沢の手についた毒は、さっきまで降っていたどしゃぶりの雨が洗い流してくれることか、或いはずぶぬれ状態の柳沢がシャワーを浴びることに賭けているんだろう?」

 「なるほど。確かに、筋は通る。もしもここが、おれの大嫌いな探偵小説の世界だったら、これだけでもうおまえの勝利だ。しかし……」

 「俺はまだ、証拠らしき証拠を掴んでいない。おまえは犯行手段を持っていたが、おまえがそれに気付いて、行使したことを証明できる何かがなければ意味がない」

 「疑わしきは罰さないのがこの国だからな」

 けけけ、と碇本は笑った。少しやけになっているように、弘には思える。意外だった。もう少しふてぶてしい態度を取ると思っていたのに。

 「俺は別におまえを告発しようなんて思っていないよ。だってそんなことをしたら、俺は面倒な裁判に駆り出され、面倒な書類を読み、面倒な証言をすることになるじゃないか」

 「ふうん。じゃあ、おれを問い詰めるのは、おもしろ半分。単純に自分の推理を披露して遊ぶ為って訳だ」

 「おう」

 弘は正直に答えた。

 「ディテクティブズ・カタルシスって知ってるか? 真相を看破した探偵は、犯人に対して絶対的な優越感を得る。そういうことを言うんだ」

 「ははは。そんな動機で、犯人が人生賭けて作り上げた犯罪計画をむちゃくちゃにするなんて、探偵さんは随分と性悪なんだな」

 碇本は笑った。

 「そりゃそうだ。そもそも、格好良い勧善懲悪なんていうのはみんなそういうもんだよ。悪人を成敗したい気持ちは、相手を倒し、乗り越え、見下し、蹂躙したいという欲望だ。正義のヒーローは、正義である時点で悪人に一歩先んじている。探偵気取りにとって殺人者程都合の良いカモはいない」

 「おまえに対するおれという訳だ」

 碇本は言った。

 「被害者は悪人の下に敷かれる。悪人は探偵の下に敷かれる。人はピラミットの何処かに属し、自らよりも下等なものを見下している。そういうもんだ。だが、おまえがそれに気付くとは思わなかったよ。だからこその、聖者だったんだがな」

 弘は口端を大きく歪めて、そして笑った。

 「今のは、おまえがオウムガイであることを認めたってことだな?」

 「あ、いや」

 碇本は頬をかいた。

 「オウムガイの言うところの聖者の意味を、おれなりに分析したまでさ。言葉のあや、言葉のあやって奴さ」

 両手を晒す。弘はくすくすと笑った。

 「おまえは本当に大した男だよ。おまえを打倒して、見下せたらさぞおもしろいだろうに」

 「なあ弘。上等であるのって、どういうことだと思う?」

 碇本は問うた。

 「更科みたいに、成績が良いことか? おまえみたいに、運動ができることか? おれみたいに、何でもバランス良くこなすことか?」

 「謙遜しない奴だな」

 弘は碇本を見やる。あらゆることを人並み以上にこなし、殺人までやり遂げた男が、その質問でまるで道化になった。

 「幸せであることさ」

 「はあ?」

 素っ頓狂な碇本の声。

 「つまり精神の整合性が取れているということだ。それがより高度な形でできていれば、それだけ幸せだということで、それが人の高みだ」

 「順序が逆だよ。自らが高みにいることが幸せじゃねえのか?」

 「自分が高等な人間であると思いこむことは、精神がうまく成立った人間なら誰にでもできることさ」

 弘は言った。愉快だった。

 「だいたいよ。人間の持つあらゆる能力のベクトルは全て、自分が幸せであることに向いているものだろうが。ってことは、幸せな奴ほど上等で偉くて強くて男前ってことだろう? 違うかい?」

 「幸せってなんだ?」

 何をバカなことを言っているのだろう、この男は。弘は思った。愉快でたまらなかった。幸せだった。

 「脳味噌がそう思い込んでいることさ」

 碇本の口は開きっ放しになった。 

 「なあ碇本。オウムガイを特定する、最高の方法がある」

 「なんじゃらほい」

 「オウムガイは誰でも人を殺す。じゃあさ、オウムガイの疑いのある人間、つまりおまえの前で、こう言ったら良い。『おまえが死ね。オウムガイ』」

 かかかか! 弘は哄笑し、床を拳で殴った。

 「さあ、俺は言ったぞ! おまえに願ったぞ、オウムガイ! 殺人を遂行しろ! 早く!」

 碇本は悲しそうな顔をした。それは憂鬱そうで、しかし諦観した、この世の全てが真っ白に塗りつぶされて行くのをただ眺めているような、そんな顔だった。

 碇本は緩慢な動きで立ち上がった。台所へ向かい、すぐに料理包丁を持って戻って来る。弘は再び哄笑した。『一度そうと決めたことは何でもやり遂げる』碇本零人は、はたして自分の精神の整合性を繋ぎとめることができるのだろうか? 

 無理に決まってる。

 そう思ったからこそ、弘は碇本に『死ね』とまで言ったのだ。

 『死ね』『醜いおまえは生きている価値がない。自殺しろ』弘が昔、良く言われていた文句だ。子供は刺激的で残忍な語彙ばかり覚えてくる。そしてそれを行使することに何の躊躇もない。なぜなら、その言葉を受けた弘が、本当に自殺するとは微塵も思っていないからだ。

 「最後に、言わせてくれ」

 最後だって! 弘はまた、笑い出しそうになる。

 「何だよ」

 「おれは、おまえのことが好きだ。もちろん、恋だ」

 弘は、時間と空間が冷え切って、ついには凍結するのを感じた。

 はあ?

 何だって?

 「オウムガイとして、おまえに手紙を出したのは、その為だ。おれが人を殺す力を得て、覚悟を決めたところで、誰を殺すものか分からなくなったんだ。間抜けだろう? 逃避してたんじゃないぜ? 無意味な殺人なんて端からごめんだっただけだ。そこでおれは、信頼を寄せるおまえに誰を殺してもらうかを決めることにした」

 静かな声。綺麗な声。碇本は自分の腹を、包丁に差し出した。その様は、随分と美しかった。

 「おまえには良く考えてもらいたかった。殺さないという選択肢もありうるからな。さしあたって、おまえにローリスクな殺人の機会を与え、様子を伺った。もちろん、『四人の聖者』の一人としてだ。他の二人、十条と柳沢はただの目暗ましに過ぎん。聖者が二人なら、おまえは自分じゃない方を疑うだろうからな。適当に御しやすそうなのを選んだ」

 それが裏目に出た。碇本は最後にそう言った。

 「おれはもう殺人者だ。殺す必要があったのか、なかったのか、分からないような、生きていても死んでいても同じような、魯鈍極まる醜い小娘を殺す羽目になってしまったからな。もうおれには、自分の命を絶つことしか、矜持を保つ方法はない」

 碇本は、美しく微笑んだ。彼の後ろから、太陽のように激しい光が燃え滾る。それは、自分自身の全てを相手に捧げるような、心の根底から差し出された笑顔だった。

 「じゃあな」

 包丁を顔の前まで近付ける。そして、そのまま両手で

 「愛してるぜ。弘」

 振り下ろした。

 鮮血が迸った。

 碇本は両手を大きく振り上げて、舞うように体を揺らしながら仰向けに倒れた。そして腹を押さえ、弘に見せ付けるように踊り狂う。碇本が動けば動くほど、血が床を伝って、部屋中に浸透して行く。

 弘は動けなかった。大宮の血から逃げ惑う少女たちのように、部屋から飛び出すこともしなかった。できなかった。碇本はそれを嬉しがるように、いっそう激しく踊る。本棚にぶつかると、植物に関わる本が降り注いだ。

 弘は碇本の顔を見た。碇本はそれに気付いて、苦渋に歪めた顔を明るくする。両目を剥いて、口から涎を垂れ流し、それ でも確かに笑っていた。

 弘は笑わず、碇本の手から滑り落ちた包丁を掴む。

 その時、玄関からチャイムの音が鳴り響いた。

 そして、碇本の胸を一突きした。碇本の体は水揚げされた魚のように大きく跳ねるが、肝心の包丁の方は、骨に遮られて刺さらなかった。

 なので、今度は喉を一突きした。血が、二人の顔を汚した。

 チャイムの音がした。

 すぐに、碇本は動かなくなった。弘は碇本の顎に刃物をあてる。この顔を上手く切り取るにはどうすれば良いか、弘は知恵を総動員して考えた。

 チャイムの音がした。

 下手に考えても分からないだろうと思われた。弘は、もともと頭の良い方ではない。ただ、腕力には自信があった。顔の左端の皮膚を切り、そこに指を入れて、一気に剥がせばことたりるだろう。別に、彼でうまくいかなければ、他の誰でも、適当な男前を見繕えば良い。もっとも、碇本より優秀な顔の持ち主など、おおよそ見つかりそうにはないけれど。

チャイムの音がした。

 弘はそれを実行した。ざくざくと、碇本の顔に包丁を入れて行く。頬は調子良く切れた。目元や顎のあたりはやや苦戦した。少々歪な切り口になったが、初めてにしては上手くいっただろう。

 チャイムの音がした。

 指を差し込んだ。まだ生きている肉が弘の指をくわえ込む。暖かく、どこか安心するような感触だった。そしてそれを一気に剥がす。さすがに弘のバカ力。碇本の皮膚を三分の一程剥がすことに成功した。少々歪だが、これも最初にしては上手く言っただろう。次もがんばろう。そこで弘は自分の失敗に気が付いた。顔を剥がし終えたところで、どうやってそれを自分の顔に付けるんだ?

 チャイムの音がした。

 弘は考えた。接着剤? 目や鼻も削ぎ落として、それから自分の顔に付けよう。

 チャイムの音がした。

 いや待て、俺の鼻の上に碇本の端を付けてもそれはそれで不細工じゃねえか。さしあたって、自分の鼻を切り落とさなければならない。唇もだ。歯も全部差し替えよう。

 チャイムの音がした。

 弘は自分の鼻に包丁をあてた。

 チャイムの音がした。

 力を込める。焼くような苦痛。弘は仰天し、小さく唸る。世界から光と音が元に戻った。

 チャイムの音がした。

 チャイムの音がした。

 弘はチャイムの音に気が付いた。そして舌打ちする。良いところだったのに、水を差しやがって。なんて奴だ。

 殺してやる。

 チャイムの音がした。しつこい。弘は玄関に辿り着く。そこでもう一度チャイムの音。あーはいはい今出ますからねー、弘は扉を開放する。

 更科深冬が、小ぶりなナイフで弘に切りかかった。

 弘は咄嗟に、更科の小さな体を突き飛ばした。扉に頭をぶつけ、靴の上に尻餅を着く。だが少し反応が遅かったらしく、弘の左腕が大きく切れて、どろどろと出血していた。

 構わずに、弘は更科に襲い掛かる。まずは更科の手を踏みにじって、ナイフを手放させた。悲痛なうめき声が弘の耳に届く。快感だった。弘は更科の顔を蹴り飛ばす。サッカーボールと大差ない。更科の小さな頭は靴箱にぶつかり、バウンドして床に転がった。そのまま腹を踏み、胸を踏み、顔を踏んでやる。

 喉からに搾り出される更科の声に、弘のテンションは上昇し続ける。弘は手に持つ包丁で更科を刺し殺すのが惜しくなった。このまま少しずついたぶって殺す方が何倍も魅力的に思える。綺麗な目玉を抉り出して、柳沢に送ってやったら喜ぶかもしれない。でもあいつ死んだんだっけ? まあどうでも良いや。

 弘は更科の右手を掴んだ。それを開いて床に置き、人差し指を立たせる。その上に、弘は足を立てた。このまま体重をかけてやれば簡単に指を折ることができる、と弘は漫画で読んだことがあった。

 更科はいとわしげな視線を弘に向けている。あくまでも、気丈だった。この指をぼきりとやったらこれがどんな風なるのだろうと想像すると、弘の股間はそれだけで膨張し、達しそうになる。さんざん焦らして、更科のかわいい顔が屈辱に歪むのを観察してから、弘はついに足に力を入れた。

 と、その時。

 弘の足の筋肉が機能をサボタージュした。たまらず、弘は床に転げ、更科に重なった。起き上がろうとしても、腕も足もほとんど動かない。指先だけ動かして這うようにしていると、下側から更科が這い出してくる。

 更科は自分のナイフを拾って、弘の手に付きたてた。

 「ギャーッ」

 悲鳴をあげる弘に、更科は嫌悪の表情を晒す。顔のそこら中踏まれた後でも、美少女は美少女だった。

 「やっと効果がでましたね。この汚い豚が。妙に頑丈だから困りますよぅ」

 更科が自分のナイフを撫でる。

 「ただの微力な女の子の私が、ただのナイフであなたたちみたいな野蛮な豚に挑む訳、ないじゃないですかぁ」

 建物の奥に視線を泳がせて、更科は首を傾げた。「あれぇ?」

 「いかりもとぜろひとがここにいるはずなのに、どうしてねもとひろしが私を襲ったのかなぁ? 分かんないなぁ?」

更科は奥へと足を進めて行った。弘の体から滴った血を辿り、碇本の部屋まで辿り着く。ちらと中を見て、更科は肩を落とした。

 「誰ですか死んじゃわせたのは? うーうーうー。ああ、そうか。そこの包丁だぁ、ねもとひろしだ。前見た時はただの汚い豚だったけれど、今日のねもとひろしはアタマのおかしい豚だもんね。でも顔を剥がすのも満足にできないなんて、やっぱりおばかさんなんですねぇ」

 どうしてここに更科が来る? 弘はやっと、そんな当たり前の疑問に行き当たった。しかも彼女は、扉が開いた瞬間に弘に切りかかって来たのだ。尋常ではない。

 「まー。ねもとひろしがいたからまだ良いよね。大宮さんも寝ているし、ちょっとくらい、良いよね」

 恍惚とした表情で、嬉々としたステップで更科は弘に向かって来る。弘は叫んだ。

 「どうして、おまえがここに?」

 声帯は生きていた。

 「いかりもとぜろひとを殺すつもりだったんですよぅ。大宮さんに血を吐かせた豚があいつなのは分かってたんですけど、なかなか機会がなくてですねぇ。今日やっと、大宮さん落ち着いて、余裕らしいのができたんですよぅ」

 そこで、更科は溜息をついた。

 「うー。でももう死んじゃってるからなー。残念だな。せっかく殺し方を八十四通りも考えてきたのにな。まーいーや、死体はあるんだしそっちにいろいろしちゃおっと。楽しみだな、るんるん」

 言いながら、更科は弘のズボンのベルトに手をかける。妙に良い手際でそれを取り外し、弘のズボンを脱がせた。

 「何をする!」

 弘は絶叫した。

 「貰うですよぅ。あなたの性器」

 更科は自分の発言に何の疑いも持っていないようだった。

 「何も道具を持って来てないから、食べちゃうのが正解かな? でも大宮さんを愛したいからなぁ。ねもとひろしはどれくらいの間起きられないかなぁ?」

 「どうして俺は動けないんだ!」

 「ナイフに薬塗ってただけですよぅ。体が痺れる奴。いかりもとぜろひとをまずは動けなくしたかったから、こんなの持ってきました」

 更科は言った。

 「若いオスが出たからいかりもとぜろひとだと思ったんですけどねぇ。あなたは紛らわしいんですよぅ。胸元に名札張っておいてくれないと」

 尋常ならざることを言いながら、更科は弘のパンツを脱がしてしまう。起立した性器が姿を現した。

 「やっぱり素敵ですよぅ」

 弘は頭から血の気が引いていくのを感じた。この少女はいったい何を始めるつもりなのだろう。

 「男子トイレにカメラを仕掛けたのは正解でしたねぇ。無駄に何人も襲うのは非効率的ですから」

はにかむように笑って、更科は言った。弘は驚愕した。カメラを仕掛けた犯人について、弘は色々と想像を巡らせたものだが、どういう訳か、彼女の顔が浮かぶことは無かった。それは、その時彼女が学校に来ていなかったからかもしれない。

 「このまま切り取って食べちゃいましょうかねぇ。そうです、それが良いです」

 「何を言ってるんだ?」

 「畜生には分からないと思いますよぅ。食事を存命行為としてしか知らないおばかさんには」

 「だから何だよ!」

 「元気な豚さんですね。いいですかぁ、食べるという行為には、相手の能力を貰うっていう意味があるんですよぅ。まあただの信仰ですけれど、夢があるじゃないですかぁ? ロマンシズムに迷妄できるのは、人間の、それも女の子の特権ですよぅ。ちょっとくらい男性器を手に入れる夢を見ても良いじゃないですかぁ」

 えへへ、と更科は無邪気に笑った。

 狂っている。弘は思った。

 「それじゃ、初めですよーぅ」

 更科は弘の股間にナイフを突き立てる。弘は家中の空気という空気が自分を攻撃するような途方もない恐怖を感じた。ばか、止せ、やめろぉ!

 「向こうに碇本がいる。まだ死にたてだ。奴の性器を食えば良い!」

 「嫌ですよぅ、あんな皮被り」

 咄嗟の意見を一蹴され、弘は絶望的な気分になった。逃げられない。体が言うことを利かない。なんてことだ。

 碇本の体ならどうなっても良いのに、どうして俺の性器が切られる羽目になるんだよぅ。

 「いぎゃっ」

 更科の声がして

 その後ろには、顔から皮膚の爛れた碇本が、大きな金槌を更科の頭に食い込ませていた。

 碇本と更科は、そのまま二人で弘に向かって倒れこんだ。加減のない一撃に、更科の頭は砕け、槌の隙間から血を流していた。死んでいるのかもしれない。少なくとも、もうしばらくは、まともに動くことなどできそうもなかった。

 弘は碇本の顔を見た。人体模型の頭部のように、顔の半分から筋肉を晒していた。それは、酷く清々しい表情だった。

 その顔は、やはり、ただただ美しい。弘はこれからの一生涯、目に焼きついた碇本の美貌に苦しめられて過ごすことになるのだろう。悲しかったけれど、腹立たしいとは思わなかった。

 弘は敗北者なのだ。

 自分は一生、碇本に適わない。

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