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醜い奴ら  作者: 川崎真人
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逃避行 四

 

 「ひろにー」

 「何だ」

 「そのパン、四枚目でしょう? そんなに食べて大丈夫?」

 「良いんだよ。俺は育ち盛りなんだ。食い過ぎるってことはない」

 清々しい朝だった。

弘は窓を見る。どしゃぶりのにわか雨であった。何てことだ、昨日綺麗にした自動車が汚れてしまった。窓も拭きなおさなければならない。おい、そこのビニール袋。俺んちの庭に飛んで来るんじゃねー!

 「ひろにー。今朝は何だか男前だね」

 「惚れちゃいそうか?」

 「妹に対して冗談でもそんなことが言えるからには、ひろにーは、女の子に惚れてもらうことで、自分に自信を持つ恋愛をするようなタイプだね。邪な支配欲はないし、相手を人間的に良く認めるけれど、好かれようとする女の努力に対してまるで無頓着」

 「昨日読んだ母さんの雑誌はおもしろかったか?」

 「何でそれを知ってんの?」

 清々しい荒れ模様だった。それは、今日から気持ちを入れ替えて頑張ろう、と思った弘の、ステレオタイプの欲求の現われでもあった。自分が生まれ変わる朝は清々しくてはならない、ということである。

 だから、弘はどしゃぶりの雨も気にしないようにしたし、朝食がトーストと明太子のみであっても(一昨日から帰っていない母親に代わって妹が用意してくれたのだし)うまうまと食べた。

 「明太子ばっかり食べてると塩辛い人生を送ることになるよ」

 「おまえが用意したんだろう? ていうか、どうして冷蔵庫に明太子のパックが三つもあるんだ?」

 「お母さん、買い物の度に、碌に確認もせず明太子やらたくあんやら買い足すからね。梅干しも二パックくらいあったよ」

 「そうか」

 「出そうか?」

 「パンに梅干しというのはどうよ?」

 「パンに明太子を付けて食べているひろにーが、そんなことを言うなんてね」 

 「おまえが出したんだろう?」

 「嫌ならどっちか食べなきゃ良いじゃない。あたしはそうしてるよ」

 まったくこの生意気盛りめ。もっとも、こんな醜い兄貴と一緒に朝食を取ってくれるだけでもましなものだろうか。

 「それにしても、おまえ、明太子だけばくばく食って朝は満足なのか? 塩辛い人生を送ることになるぞ」

 「誰かが食べることになるのなら、不幸はあたしが引き受けようと思ったんだよ。あたしは家族思いの娘だから」

 と言って、妹は辛子明太子の一本を箸で掴み、まるごと口に詰め込んだ。頬を膨らまして咀嚼する妹は、へっちゃらな顔をしていた。

 調味料を直接吸う癖のある兄と比べても目劣りしないほど、妹の味覚は常軌を逸している。妹は何でも食う。何でも食うが、混ぜると気持ち悪いと言っては、一度の食事で一つのものしか口にしない。水すら飲もうとしないこだわりっぷりには圧巻だ。

 そんな妹だが、本人が主張するように家族思いであることも事実だった。掃除に洗濯、食事の支度に食器洗いと、母親に代わって良く働く。ただし、雑巾で机や食器を拭いてみたり、干し切れない洗濯物を木に吊るしてみたり、甘柿の入った鍋料理を披露したりと、まるで働こうとしない大学生の兄の方がありがたく思えることもないでもない。

 「ごちそうさま」

 妹より先に飯を食い終わり、弘は席を立った。トーストは机の上に直接置かれていたし(妹の悪癖だ。固形の食品を皿に載せることを滅多にしない)、明太子はパックに入っているので、洗い物は箸だけになる。

 「ひろにー。置いといたら洗っとくよ」

 お言葉に甘えるつもりはなかった。弘は手際良く箸を磨き、綺麗にする。ついでにシンクの掃除も行った。これならなめたってへっちゃらだぜ!

 明太子を貪っている妹を放置して、弘は歯を磨く為に台所に向かう。わお! 相変わらず酷い顔だぜ!

 弘は鏡と言うのが苦手だった。自分の醜い顔を拝むことになるからだ。自分が一人暮らしを始めたら、家に一枚でも鏡を置くことはないと思っていた。しかし、今にして思うとそれは逃避以外のなんでもない。鏡を見て、自分の顔の醜い点を認識し、それを改善して行くくらいの心構えが必要だ。

 そうとも。柳沢のあの前髪の長さは、瞳の醜さを隠す為のものだ。それを弘は卑屈だと言っては心の底で軽蔑していたものだが、他人の努力をバカにするなどと自分はなんて人の道に外れた行いをしていたのだろうと今では思う。

 思えば弘は、顔の醜さよりも醜い顔に囚われる心の醜さに嫌気がさしていたのだ。大本となる顔の醜さを何とかすれば全て解決だ。あったまいー!

 弘は鏡に映る自分の顔を凝視した。さて、醜いパーツはどれだろう。全部だ。裏返ったような目と言い、九十度近く左に曲がった鼻と言い、左右で大きさが三倍くらい違う鼻腔と言い、山脈地帯も悲鳴を上げるほど盛り上がった皮膚と言い、二つの黒い丸太みたいな唇と言い、エトセトラエトセトラ。それらの配置場所にしたってまるで服笑いの如き有様だ。まさに妖怪。食事中、妹が一度も目を合わせてくれなかったのも頷けようものだ。

 さて、どうすれば綺麗な顔になるだろうか。弘は考える。皮膚をはがして誰かハンサムな奴と交換するくらいしか方法が思いつかない。だがもちろん弘はそんなことはしない。だって俺は紳士だもん!

 「ひろにー。いつまで歯、磨いているの?」

 妹が背後に立っていた。こやつ、気配を消しおって。弘の妹だけに運動神経はかなり優れている。その上に学業成績も良いのだから小生意気だ。

 「すまん。と言うか、歯を磨くのもこれからだ」

 「そう」

 妹に歯ブラシを持たせてやって、弘は自分の歯を磨き始めた。妹には自分の歯ブラシという概念が存在しない。どれでも構わず、歯磨き粉を異常な程付けてから使用する。それはまだ良い。だが大学生の兄も時々同じことをやらかすのは弘にはどうにもならない。あいつは食事の時間が不規則で、歯を磨くのもだいぶ気まぐれだからだ。兄のその行いを止めようとすれば、常にその後ろを付ける必要が生じる。そんなことするなら兄弟同士唾液の交換をした方がまだましだ。

 自分は顔が醜い。そして、他の二人は人間として常識が成っていないのだ。どちらがまだ良いか、なんてそりゃ、能天気で幸せそうな兄や妹を見ていれば、簡単に答えは出る。

 

 弘の家は、学校と徒歩で行き来できる距離にある。自転車を使えば通学時間はさらに縮まることになるのだが、それは弘はしないことにしていた。駅から歩いて通学する生徒がいるのに、駅より近い位置から自転車を走らせるというのも気分が悪い。

 シャワーのようなその雨に打たれれば、体についた汚れなど簡単に洗い流されてしまうに違いない。だがそんな凄まじい雨でも、運動神経の優れた弘は傘一本で凌ぎ切ることができた。

 学校が見えてきたところで、弘はその後ろ姿を発見した。柳沢だ。その醜すぎる瞳以外にこれと言った特徴がない(或いは、瞳の所為で他の特徴が埋もれている)柳沢を遠くから発見することができたのは、弘が彼女を後ろからでもよくよく凝視して見たからである。どうしてそんなことをしたのか。

 柳沢は傘をさしていなかった。普段は綺麗に結ばれている二束の髪は、振り乱して体中のそこらに張り付き、だらしなく髪留めがその辺に引っかかっている。そんな有様だったから目の良い弘でも彼女を特定するのに時間がかかってしまったのだ。

 「柳沢!」

 弘は濡れ鼠の少女に駆け寄った。柳沢は背中をなめ回されたように体を捩り、竦みあがる。歯をかたかたと鳴らしてから、恐る恐る振り返った。

 自らの瞳よりも数段醜い弘の姿を確認して、柳沢は全身で脱力した。そして泣きじゃくりながら

 「根本!」

 弘に突っ込んで来た。

 「根本、君はボクの味方だよな。君がボクを責める訳がないよな! そうだよな」

 濡れそぼって冷たくなった柳沢を抱え込んで、弘は混乱する一方だった。たまらず傘を地面に落とし、 柳沢に見入ってしまう。良く見ると、右足と左足に違う靴を履いているではないか。柳沢の右手が弘の胸元を引っ張っていた。良く見ると、人差し指根本辺りから手首に向かって皮が派手に剥ぎ取られており、その上からさらに抉った跡があった。柳沢に手指の皮や爪を傷付ける癖があるのは知っていたが、これは異常と言えるのではないか。

 「ボクはどうすれば良い? あたしの何がいけなかった? あたしはどうなるの? あたしはなんでこんな。嫌だよ、怖いよ。怖いよう」

 柳沢は弘の胸に頭をすり付けて来る。母親に縋る子供のような仕草だった。

 「柳沢! まず落ち着け。おまえはもっと、気丈ぶって、御高かくとまっているキャラじゃねえか」

 弘が言うと、柳沢は一転して火のついた火薬のように、弘の学生服を強引に引っ張った。

 「うるさいな! おまえに何が分かるんだ、この卑怯者!」

 その醜貌に怯みもせず顔を近づけて来る。全ての不幸の元凶にあたるように、柳沢は全身の血を沸騰させて弘を怒鳴りつける。

「あたしよりずっと恵まれている癖に、一人で逃げやがって! お陰で、おまえの所為でもうあたしは! 不幸にしかなれないんだから!」

 普段の墨のような瞳には凄まじく鋭利な光が伴い、羅刹の如き剣幕を作り出していた。たまらず、弘は柳沢を突き飛ばす。柳沢は粗末な人形のように後ろに反れて、水溜りに突っ込んで行った。

 「柳沢!」

 弘は巨大な後悔に苛まれた。紳士にあるまじき行いだ。ちくしょう。すぐに柳沢に飛びついて、助け起こす。それは冷たく、がらんどうのような体だった。

 「どうしたんだよ?」

 肩に手をやって、弘は柳沢に問うた。彼女は荒い息を吐くと、それから「あああ」と何事かに辟易したような声をあげる。そして、

 「すまない。失態だった。……昨日から、頭がまるで働かないんだ」

 そして今度は腹の中の物を吐き出す様に嘆息し、そして弘の方を向く。

 「人は肉を食う。それは、肉を食わないことで自分達にいつか訪れる死を、動物に肩代わりさせていると言うことだ。これはいけないか?」

 「しょうがないことだろ。それは」

 弘は言った。

 「そうか」

 柳沢は全身を脱力させながらつぶやく。

 「なら良いんだ」

 神に救われた罪人のような、清々しい微笑を浮かべた。そして抑揚のない声で

 「十条が死んだ。どうやら自殺らしい」

 

 その一時間目の集会は、本来なら『愛と死を撒く植物達』という自由研究を発表した碇本に、学校が賞状を与える為のものだった。三年生の女が柔道で全国三位になった時にも似たようなことがあったが、碇本の研究はそれと同じくらいすごいらしい。

 だが、身近に人が死んだことと比べれば、そんなのは微々たることなのだ。

 「えー。あなたがた学生は、自らの精神を高め、それを維持することを目標としています。それを指導し、生徒の力になることが我々教育者の責務であります。さしあたって、今回起こってしまった悲劇に対する責任、これは学校の教育者、生徒が、これから担って行く他ないものなのでしょう」

 この校長は、自分の言っていることが何を齎すのか、本当に分かっているのだろうか。

 十条が死んだことに本気で責任を感じている人間が、たとえば後を追って自殺するような可能性を校長はまるで加味していない。いい加減に言葉を濁す選択よりはずっと貫禄があるかもしれないが、だからってこうもはっきり言ってしまうのは問題だ。弘は思った。

 やはりこの中学は特殊なのだ。人死をごまかしてしまうだのそういう如何にも矮小な判断をしたがらない。むしろ、十条の死に対しても、転んでは唯では起きないような考え方をしているのだろう。そこでこの集会だ。十条の死を悼み、その責任を一手に引き受け、周囲からの評価を獲得する。なるほど前向きなこった。

 「ここに、十条さんの遺書があります。これを皆さんに聞かせることは、十条さんの意思です。聞いてください」

 喋くっていたり下を向いていたりしていた生徒達の視線が、一気に校長に注がれるのが分かった……遺書、遺書だってよ、おもしろそうじゃね? 弘は唾を吐きたくなった。

 「『私が死んでしまうのは他の誰の責任でもありません。全て、この私自身の弱さがいけないのです』」

 弘は心の中に焼けた釘を打ち込まれたような気分になった。

 「『皆さんが笑顔で暮らしているこの世界に、私は絶望してしまったのです。矮小な私の精神は、あらゆる善意に不信を抱き、あらゆる悪意に耐えられませんでした。もう良いのです。この先に訪れると言われるあらゆる幸福を、捻じ曲がった私には感じることができないでしょう。私は自ら世界を黒く塗りつぶしてしまう人間ですから、それは間違いありません。もちろん、努力はしました。自分を好きになる為に、あらゆる手段や心掛けを尽くしてきたつもりなのです。それは逃避でもありました。逃げるのに必死になっていた時は、あらゆることから目をそむけることができました』」

 ああ! 弘は叫び出しそうになった。自分と同じだ。しかし彼女は敗れたのだ。他ならぬ、自分自身に。

 十条は、本当の意味で気付くことができなかった。世界の色がおかしいのは、自分の目がおかしい所為ではないということを。世界の色は、自分自身で塗り替えていかねば成らないということを。コンプレックスは克服するよりも、どうにかして排除しなければならない。外敵から逃避するよりも、打倒しなければならないのに、それをしなかった。できなかったのだ。

「『つい数時間前、ついに逃げ道も尽きてしまいました。それは突如と立ちはだかりました。私は、自分が、ついに整合性を失ってしまったことに気付いたのです。世界は、沸騰させた墨汁のような、死体の眼球を潰した汁のような、そんな醜い漆黒に染まってしまいました。他に何の表現もあてはまらない、これは致命傷です』」

 弘は身震いした。誰にだってそうなる可能性はある、人の心の致命傷、精神の滅亡。それははたして、どんな感覚なのだろう。

 「『最後に。私は矮小な人間です。だから、最後の救いを、逃避行に対するけじめを、自分自身で用意することもできません』

 校長は少しだけ眉を潜めて

 「『オウムガイ様。どうか、柳沢をお願いします』」

 

 昨晩、学校は柳沢に電話をかけたのだそうだ。十条が死んだ。遺書にこういう文句がある。柳沢、おまえ、何か心当たりでもあるか?

 学校がどんな考えを持ってして、電話なぞでそれを伝えたのかは弘には分からない。ひょっとしたら、ただ好奇心を赴くままにしただけなのかもしれなかった。

 「柳沢」

 彼女は保健室にいた。弘がそうさせたのだ。集会で、十条の遺書が読み上げられることは簡単に予想がついた。公衆の面前で、柳沢が理性を忘れて暴れたり嘔吐したりするのはしのびない、という判断である。

 その容姿に起伏して、柳沢は感受性が強く自意識の強い女なのだ。人の多いところで、みなが自分を責め苛むような錯覚を覚えるかもしれない。

 「学校に来ることなんてなかったのに」

 「ふん。ボクだって、こんな糞ったれの学校になんか進んでは来やしない。集会だけで下校っていう日程なら尚更だ。……だが、教師に言われたんだ。事情を聞きたいから必ず来い、て。……来なければそれは、何か後ろめたいものがあるっていう、そういうことじゃないか」

 判断能力はまだ失われていないらしい。根本的に、柳沢はそれほど脆弱と言う訳ではないのだろう。ならば、先ほど弘の前で取り乱していたのは、あれは何だったのだろう。

 「しかし異常な学校だな。ふつうなら、柳沢には無理に来なくても良い、って言うはずだろう? 事情なんて向こうが聞きに来るべきなんだよ」

 「ふん。ボクは成績は後ろから数えた方が早いし、スポーツや文化活動で結果を出せる訳でもない。人望は最悪だ。家柄も良くないし、この学校にだって、前の学校から逃げる為に済し崩し的に転校したに過ぎないんだ。そんなボクの為に学校が時間を割くのはつまらないだろう、そういう理屈だ」

 柳沢の心の中にある腐敗したものが、口から溢れている。その容姿の所為で、人に好かれず、故に孤立し、淘汰され、そしていびられ、苛まれ、よって捻じ曲がった人格。その精神活動が生み出すものは、劣等感と、他者に対する不信、敵意。

 気の毒だ。弘はそう思った。

 「だが……十条はオウムガイに殺人を依頼している」

 『オウムガイ様。どうか、柳沢をお願いします』

 それは、そういう意味に違いなかった。

 「くそ! 何だってボクがこんな目に!」

 柳沢は眉間に皺を寄せ、保健室のベッドを勢い良く叩く。

 「警察に連絡したか?」

 「取り合ってくれなかった! あいつらぁ、中学生の下らないうわ言で済ませやがるんだ! 家族だって馬耳東風だ。全部偶然にされちまう! できの悪い娘が死のうとどうだって良いんだ! ちくしょう! みんな死んじまえ! この世の生きる者みんな、全身の血を抜かれ皮膚を削がれ、目玉を抉り出されて死ねば良いんだあぁ!」

 「落ち着けよ」

 「落ち着けるかバカぁ!」

 柳沢は言って、涙を流し始める。ちくしょう、ちくしょうとうわ言のように繰り返していた。

 「どうしたら良いんだよぉ!」

 悲痛な叫びだった。柳沢は、それが分からないから、危険を冒してまで学校に来たのだ。状況に依存するより他なかった。今以上に敵を作りたくなかった。そして何より、家に引き篭もっていたのでは気が狂いそうだったのだろう。……こんなところにいてもいつか奴は来る。どうにかしなければ……。

 「あたしはそんなにいけないことをしたの? あなたがそんなぎりぎりだったなんて、あたしは知らないよ。死ぬなら人を巻き込むなよ。やだよ、死ぬのは怖いよ。怖いよ怖いよ」

 助けてよ。

 ねぇ、あなたはあたしの味方でしょう。

 「ああ」

 弘は答えた。

 「とにかく、家に帰ろう。送ってやる。それから、おまえは自分で用意したもの以外何も食うな」

 オウムガイは毒使いだ。大宮が血を吹いたのは、あれは何がしかの薬物を利用したに違いない。ならば、オウムガイが仕掛けたものに口をつけなければ問題はない。

 「……分かった」

 柳沢が消え入るような声でそう言った。

 

 「おれだって無関係じゃない。付いて行くよ。」

 肩を並べて階段を下る柳沢と弘を見て、何もかも悟ったらしい碇本がそう言った。

 「ああ」

 人数が増えたところでどうという訳でもない。これは碇本自身の精神活動だろうと思われた。オウムガイに選ばれた『四人の聖者』として、柳沢に対する義理を果たさなければ、碇本は自分で自分を責め苛む羽目に陥る。そうならない為に柳沢に対して善意を働かせるのだ。

 いかん、それはなんて捻くれた考え方だろう。弘は思った。人が人に向ける好意というのは、そんな醜いものではないはずだ。

 「オウムガイなんてふざけた野郎なら、おれ達がなんとかしてみせる。安心してくれ」

 歯が浮くようなことを言って、碇本は柳沢の両手を掴んだ。その碇本の態度があまりに真摯だったので、柳沢は少しだけ、救われたような表情をする。

 やはりこいつは良い奴だ、弘は思った。ふつうは、柳沢を安心させてやる為だけに、人が見ている状況でこんな恥ずかしいことはできない。偽善者と呼ばれる人種に限って、自らに少しでも被害が起こることは絶対にしようとしないものだ。

 「ありがとう」

 柳沢は少し笑った。

 昇降口まで、弘は柳沢のことばかり気にしていた。やはり落ち着かないのか、先ほどからずっと爪やら皮膚やらを歯で噛み千切っている。たびたび、口の中を噛むような仕草も見せた。よほど不安なのだろう。と言って『大丈夫か?』などと言うつもりは弘にはなかった。そんなことを訊いてどうなる訳でもないし、それはある種の偽善的なポーズのように弘には思われるからだ。そんな風に考えるのは、弘の中に少しでも偽善者の心があるからに違いない。

 三人で二本の傘を使い、駅まで辿り着く。柳沢の家は二駅先にあるということだ。

 「ボクはどうすれば良い?」

 と、柳沢は言った。

 「何とか警察に事情を分かってもらうことから始めよう。しつこく食い下がれば、頭の固い奴らも腰を上げるさ」

 碇本の意見には弘も概ね賛成だった。

「奴は一度、大宮を殺しかけているんだ。殺人事件の検挙率は九十七パーセント。捕まらないはずがない」

 九十七パーセント。それは客観的にはとても頼もしい数字だろうと思われる。だが、柳沢にとっては、それはどうなのか。

 たかが三パーセント。だが、命がかかった状況で、この数値は如何なる意味を持つというのだろう。加えて柳沢は人間不信だ。警察が満足に動いてくれるかという不安を抱え続けるに違いない。

 柳沢は大宮が血を吐くところを間近に確認している。それが、彼女の頭の中で巡り巡っているだろうことは簡単に想像がつく。

 目当ての駅に停車して、後は柳沢の行くところに従った。彼女の家に着くまでに、三人は結局濡れ鼠になってしまった。弘もだ。だがそれは仕方がないことである。

 「君たち二人、とてもありがたいよ。……やはり君らは、ボクの味方だな。同じ手紙を貰ったのだから」

 「おう。そうだな」

 「明日も迎えに来るよ」

 と、弘は言った。柳沢はそれを聞いて、二度、頷く。今の弘の台詞は、碇本が言うものだと思っていた。譲ってくれたのかもしれなかった。

 「柳沢は、所属や分類というものに飢えている」

 碇本がそんなことを言った。

 「危険と知って学校に来たのも、その為だ。学校では、一人の生徒という所属が認められるからな」

 「何を言っているんだ?」

 「これから柳沢をフォローするに当たって、彼女の人格を理解するのが必要だと思ったのさ」

 と、碇本はしたり顔で微笑んだ。

 「あの気取った一人称と、喋り方だ。ああして自分を特殊化することは、あらゆる分類や所属に対するこだわりの裏返しだろう。或いは、女性と言う立場に付け込まれない為、一方的なフェミニズムに対する反発ということも、まあ考えられなくはないけれど」

 「やめろ」

 弘は碇本を払いのけるように手を振った。

 「人の心を読み解こうとするな。気持ち悪い」

 気持ち悪い?

 何が気持ち悪いんだ? 俺は。

 「……そうだな。すまない。確かに、失礼だった」

 碇本は愛想笑いを浮かべる。彼に相応しくない、曖昧な仕草だった。この事態には、さすがの碇本も疲弊しているのかもしれない。

 

 『柳沢』

 『何の用だ。建設的な目的を持ってボクに話しかけたんだろうな? え?』

 『……男子トイレの、カメラ。オレさ、そういうの、駄目なんだ。直接的に、本能的に快楽を得ようという訳でも無くて、人の痴態を眺めて喜ぶような、奸悪さ。自分がその被害者になったのなら、尚更』

 『ふん。自意識過剰が過ぎる。誰も君の為にカメラなど仕掛けやしないさ』

 『……決め付けている訳じゃない。そうじゃないんだ。ただ、訊きたくて。……おまえ、やってないよな?』

 『そうだと言っている』

 『信頼できるかよ』

 『だろうな。ボクを信じてくれる人間なんて、この世のどこにも現れないだろうさ』

 『おまえのそういう、卑屈に開き直ったところがさ、信用できないんだよ。心の中にやましいものがある人間が、自分勝手に憤慨したような態度じゃん』

 『ふん。酷く抽象的だな』

 『分かってるんだろ?』

 『そんなにボクが怪しいか?』

 『言っちゃ、悪いけどさ。おまえって、暗いし。人とも話そうとしない、もちろん男とも。ぞれに目付きがすごぶる悪い。言動だって……』

 『ボクの持つあらゆる特性が、間接的に盗撮行為に結びついているように見える。ということか?』

 『……ああ』

 『ふん。自分の疑問に対して、素直なんだな。ごくろうなことだ。隣のクラスからわざわざ』

 『……』

 『君はその矮小な想像力と、視野の狭さの所為で、ボク一人に疑いを向けてしまっている。確かにボクは嫌われ者だし、君のように自意識過剰なバカから疑われるのも仕方が無いかもしれない。だが、それにしても他に怪しむべき人間がいるんじゃないのか?』

 『何だって?』

 『いいか。男子トイレにカメラを仕掛けるなどと、行為としては異常だ。これをしかねない奴、となると、クレイジーな者がいくらでもあがる』

 『それは……』

 『たとえば前科者。それに、とりあえずは特殊学級の生徒を怪しんでみるような、想像力の欠如した人間は、まさしく君の人物像じゃないかな。それと、勉強ばかりして孤立している生徒の心には、どんな風が吹いているか知れないな。後は、ボーイズラブの小説なんかを読んでいる奴もあやしいものだ。その内容に、スカトロジーが含まれるなら尚更だろうな』

 『誰か知っているのか?』

 『調べようともしない。……そうだな。まあ、十条早苗という女生徒が、グレーだな。先ほどあげた条件の二つを満たしている。ほら、そこで小説を読んでいるデブ。あの本は多分、美少年がひしめいている乙女小説だ。内容だってどんなものか知らないぞ。……少なくとも、ボクよりは犯人となりうるに違いないな』

 その無礼な少年は、柳沢を責め苛んで楽しむクラスの女達と違って、ある程度柳沢のことを本気で疑っていた。故に、柳沢は適当に彼をあしらってしまうという訳にいかなかった。自意識過剰と言えば、柳沢の方に相応しい言葉なのだ。

 その会話を十条が聞いていたこと。行動力に優れた単純な少年が、新しい容疑者として十条を問い詰めたこと。その時の十条の精神が、模擬試験の準備や家庭の事情の為に擦り切れる寸前だったこと。それらが全て偶然だったとすれば、今回の出来事が柳沢一人の自業自得であったとは言えないかもしれない。諸悪は他にあがるかもしれない。

 だがそんなことは、事件のあった日に早退してしまった弘の知ったことではない。十条が高層マンションから飛び降りていたその時刻、弘は片思いの相手の家で、彼女のパジャマやら下着やら漁っていたのだから。

 はたして、柳沢を家に一人、置いて来ても良かったのだろうか。

警察への交渉は碇本がしてくれるという。口下手で頭の悪い弘がやるよりずっと良いに違いない。

 ならば、自分は何をすれば良い?

 弘は偽善者だった。柳沢はたった今、死の恐怖と戦っている。それをどうすることもできないのに、とにかく彼女の為になろうとしている。彼女の為になろうとすることで、自分のことを少しでも良い人間にしているのだ。い。弘は自分のことを、あくまでも生理的に、醜いと感じた。顔のことではない。だってそんなのは、つまらないただの単純な、造型の悪さに過ぎないではないか。

 そして、そんな風に自嘲して見せるのも、また偽善的行いに他ならない。自らの精神活動に柳沢を利用しているのだ。ああ、何という醜さだろう。

 そうだ! 弘は閃いた。その閃きは、弘を劣等感から救い出す逃避行の入り口だった。

 大宮は、突然、プールの中で血を吐いた。それと同じように、柳沢も、何も食べなくとも何の毒も口にしなくとも、突然まるで魔法にでもかかったように死んでしまうかもしれないじゃないか! どうしてそんなことに気付かなかった? しまった! もうそれは起こっているかもしれないじゃない!

 弘は携帯電話を手に取った。それから途方にくれる。柳沢の電話番号は? 

そうだ! 緊急連絡網という奴がある! 弘は机の引き出しから連絡網を引っ張り出して、柳沢の家の電話番号を入手した。

 「柳沢か?」

 家の者が出ているかもしれないという可能性すら、今の弘には思い当たらなかった。ただ夢中で、携帯電話に向かって怒鳴り散らす。大丈夫か血を吐いてないか生きてるかどうなんだ早く答えろよ!

 「……根本?」

 消え入るような声だった。

 「良かった。生きているんだな。良かった、なら良かった」

 だが、弘は、こうも思った。

 今柳沢が生きていると言って、これから死なないとも限らないし、だからと言って、自分に何ができるものか。

 「大宮はまるで突拍子もなく急に血を吐いただろう? おまえのことも心配になったんだ」

 そんなことを言って、何になると言うのか。柳沢を余計に不安にさせるだけではないのか。何で俺はそんなことを言ったんだ? 分からない、分からない。そうだとも俺は分からないんだ!

 「あは」

 と、柳沢は笑った。

 「根本か。そうか。ボクは柳沢だよ。クラスで。君の次に醜い柳沢だよ」

 そして、弘の電話に不可解な衝撃音がこだました。それは、柳沢が子機を取り落とした音だった。

 「すまない」

 さっきと少し違う声調。放たれる声の距離が違うのかもしれない。

 「手が震えて仕方がない。まるで血液に氷の粒を流されているような気分だよ。碌に指が動かない。でも、唇は動くから、地面に落ちた受話器に向かって君に言葉を伝えることはできる」

 「柳沢? おまえは何を言って……」

 「何か言ったかい? 聞こえない、聞こえない。聞こえても意味がないや。こりゃあ。まったく、なんてことだろう。ボクは死ぬらしい。昔からずっと願っていたことなのに、いざ実現するとなると、なかなかどうして未練があるものだ。多分、根本の所為なんだろうな」

 ばたり。

 柳沢の体が、床に転がる音がした。そして布がこすれあう音。

 「君が死に……それからボクが死ぬ順番こそが……道理なはずだ。どうして……ボクは、こんな」

 柳沢の声が、徐々に大きく、はっきりと聞こえるようになる。子機との距離を、徐々に小さくしながら声を出しているらしい。

「君がいたから、ボクは最後に未練を残して死ななければならない。残念だ」

 子機に接近するのに疲弊しきったのか、息も絶え絶えな調子だった。柳沢は大きく息を吐いて、それから

 「君という、ボクよりも醜い存在の所為で、ボクはこの世に未練を残して死ななければならない」

 そう言った。

 そして

 「……! いいいいぃいぃいアアアアアあああああ」

 血液が子機に降り注ぐ音。尋常な量ではない。そらから扉が開く音。「何をやっている! 佳織」中年のものらしき男の声が聞こえて来た。おそらく柳沢の父親だろう。

 お父さん。何をしているのかって、娘は今、死んでいるところなんだ。そっとしといてやりなさい。あんただって、嫌でしょう。醜い醜い、あんたの娘の汚い血を浴びるのは。

 「……ゲェっ……! ゲエェェエッ。ゲェェエェェ!」

 そしてまた血が滴った。弘は静かに、通話を切った。

 そんなものか。弘は思った。そして弘は、狂おしいほどの幸福感に駆られ、包まれ、体中を蹂躙され、絶叫した。弘は祝福され、救われ、天へ召される。いいや、天なんて陳家なところに興味はない。何せ、弘を導くのは、仏様に、神様と、それにキリスト様に天皇陛下様なのだ。これだけでは足りない。大魔王サタンなんかもいれて、それから昔読んだ本に載っていた、ラファエルとかガブリエルとか言う天使も加えておこう。子供の頃はまっていたテレビアニメのヒーローも追加だ。そんなものすごい奴らが弘を至高の楽園に導くのだ。それくらいの快感だった。

 「あははは! あははははは! あっはははははははは!」

 声高く哄笑する。素晴らしい。愉快だった。

弘は知った。自分よりも低級な存在を嘲り笑う快感というものを。人の上に人を重ね、その上に成り立つ自分というものを知るこの愉悦。なんという幸せなのだろう!

「あははは! あははははは! あっははははあっ!」

 弘は床を転げ回った。全身でその幸福感を表現した。誰も見てはいなかったが、かまいやしなかった。

 そうとも! 俺は今、幸福だ。幸福でたまらない。そうだ、それで良いじゃないか。そういうものだったじゃないか、弘が今まで見て来た世界は! 俺だって。俺だって、幸せになって良いじゃねえか。俺一人が思い悩む必要なんかないんじゃないのか? 大宮だって、俺はもっと下や他所を向いて生きて行くべきだと言っていたじゃないか。そうだろう?

 ひとしきり笑って、一生分も笑いぬいて、弘の喉は枯れた。頬の筋肉も疲れ切って、もう笑みを作れない。体力を使い果たした弘は、何時間もずっと、微塵も動かず、床に転がっていた。

 

 日が落ちる頃、弘は携帯電話を取り出した。

 「碇本さんのお宅でしょうか?」 

 と、弘は勤めて礼儀正しく言った。おう碇本、などと軽々しく言って、もしも父兄が出ていたらとんだ恥だ。弘は恥をかく苦しみというものを極めて強く意識していた。

 「弘か」

 「碇本。オウムガイのことで話がある」

 「水臭いな。名前で呼んでくれよ」

 と、碇本は言った。

 「これからおまえの家に行っても良いか、零人」

 「もちろんだ」

 通話を切り、弘は自分の持つ僅かな服の中から、もっとも良いものを選び、着用する。そして髪を梳き、歯を磨いて、そこで思い立って裸になり、シャワーを浴びて、それからまた服を着る。弘は鏡を見る。この醜い顔だけはどうにもならない。だがそんなことは些細な問題だった。

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