逃避行 三
「何だ弘。どうしてこんな時間に?」
大学生の兄が、家に帰って来た弘を見てそう言った。支度を始めているところらしく、下半身を隠すものがパンツしかない状態だった。いい加減な男である。
「何でもねぇ」
弘はぶっきらぼうにそう言った。そして自分の醜い顔を彼に向けてしまわないように、弘は彼の脇を通り過ぎる。兄でさえ、弘の顔には眉を顰めるのだ。その不満を口にしたことは兄には一度もない。だがしかし加害妄想の持ち主であるところの弘としては、自分と違って優秀な人格者の兄を少しでも不快にさせまいと必死なのだ。
「そうか。なら良いんだ。……どうだ。早いけれど、飯でも食いに行くか?」
「大分早いわ! それに大学があるだろ!」
「中学サボってきたおまえが言うなっ。なあ、付き合えよぅ弘くぅん」
オカマを連想させるような、ふざけた言い方だった。弘は心の中に塩を塗りこまれるような気分にさせられる。そして泣きたくなった。
兄の優しさは、弘にとって自分の弱さの象徴だ。顔の所為で嫌われ化け物扱いされて、泣いていた頃、自分は兄ばかり頼って来た。兄は優しく、頼もしかった。だから弘はどんどん弱くなった。でもそんな頃の自分は、とっくの昔にもう克服したつもりだ。でもなんだって俺は学校から逃げるように……。
「すまん。そういう気分じゃない」
弘は搾り出すように言った。
「そうかい? んじゃ、弘、庭の草むしりをやっといてくれ。母ちゃんに頼まれてたんだけれど、面倒だからサボってた」
飄々と、抜け抜けと、兄はそんなことを言う。
「なんで俺が!」
「暇だろう? 俺はその間、カップヌードル食って、一昨日買って来たファイナルファンタジーしてるから」
どうやら大学はサボるらしい。弘の兄は良く言えば寛大で心に余裕を持っており、悪く言えばおそろしくいい加減な人物だった。神経質で何かから逃げるように生きている弘とは大違いである。
多分、それは、生まれ持った顔の造形によるものだろう。
駄目だ。
もうこんな考えはただみじめなだけだ。
弘は黙って、庭へ出た。他にすることが特にないからだ。それならば、優秀な兄に代わって家の用事でもやっているのが良い。その方が合理的である。
それにしても自分が草を毟るのはおかしな気がする。
サッシから室内を確認するに、兄貴は本当にテレビゲームに興じていた。剣を持った戦士が巨大な蟹の化け物と戦っている。……何だこの蟹? 火を噴いたぞ!
弘は首を振って、意識を雑草に集中する。ひときわ巨大な、育ちの早い雑草を両手で掴んで、弘は一気に引き抜いた。素手でやった為か、切れるように痛い。
「おおい、軍手を持って来てくれ」
冊子の向こうにそう言う。
「えー。自分でやれよー」
戦士に攻撃の指示を出しながら、兄はそう言った。子供のような声だった。
「ゲームばっかしてんな長男!」
「るっせー。弟が兄に逆らうんじゃねーべ」
言いながら、兄は白い布を弘に投げて寄越した。まったく、愚兄は素直に俺の言うことを聞けば良いんだ!
弘はその布を手に纏わせる。冷たく湿った、不快そのもののような感触が弘の手を蝕んだ。
違和感、そして異臭。
良く見ると親父の靴下だ。ギャーッ! 弘は顔を劇画風に歪めて、それから絶叫した。
「何しやがるクソ兄貴!」
「いいや。傍にこんな汚いもんがあると、愉快じゃないだろう?」
「だからってこっちに寄越すな!」
どうやら、部屋の中も散らかっているらしい。弘はそう思った。
「悪い悪い」
弘が靴下を投げ返すと、交換で軍手が飛んで来る。弘は今度こそ軍手を嵌めて、作業を開始する。やっぱりこの方がやりやすいね!
用事をしていたらある程度、弘の気は紛れた。その内弘は、この庭の雑草が永遠に無くならなければ良い、と思い始める。
雑草を抜く。雑草を抜く。雑草を抜く。弘はまるで、自分の心が抜け落ちて行くような気分に駆られた。がらんどうの心に心地の良い風が吹く。弘は自分の顔が醜いことも、その付属物としての苦痛も、罪悪感も劣等感も、全て忘れ去っていた。天へ上るような時間だった。
途中で食事を兼ねた休憩を取りつつも(兄貴が飯を作って持って来てくれた。丼の上に米とベーコンエッグが乗ったもの。派手にソースが掛かっている)、弘は草を毟り続けた。ついでに倉庫の整理に掃除、いくつかあるマイカーの清掃まで手掛ける。ついでに窓も拭いちゃれ。そうだ、台所も綺麗にしなければ!
神経質な性質ゆえに、不精でならした弘からは考えられないような徹底的な仕上がりである。家中掃除機をかけ、ゴキブリの巣と格闘し(兄も共に戦ったが、びびりなのでむしろ足手まとい)、さて二階に入ろうとした時だった。
「おい、そこの幸せ野郎」
兄が子機を持って参上した。
「何だよ!」階段を念入りに磨きながら返事をする。
「女の子から電話が来ているぜ」
にやにやした兄の脇を抜け、受話器を取る。「根本くーん」大宮だった。しわがれた声である。
「熱がまた出たぜ。いえーい! あたし今とってもホットだよーん。何か知んないけれどお腹の中で思いもよらぬ展開があってさ、あわてて薬打ったんだけれど、この副作用がすごいのなんのってー。山は鳴り、血は裂け、海は荒れる勢いよ! 頭いってー腹いってー! しかもそんなしんどいのにも関わらず薬ほとんど意味ないらしくってさー。一度切開して、胃腸の爛れているところ根こそぎ切り取る必要があるとかないとかもう大変! ふざっけんなヤブ医者共! 爺ちゃん頼んでおまえらの病院潰してもらっちゃろか!」
「落ち着け! それから愚痴なら更科に言え! 隣にいるだろ」
本音がつい口を吐いた。
「テンションがおかしいぞ。そんなにつらいのか?」
「きゃははははは。人格が変わる勢いだよもう! いぎゃ、うげ。ゲボヘ! 血ぃ吐いちゃったぁ。拭いて拭いてー。深冬ちゃん洗面器持って来て、いやむしろ看護士さん呼んで来てー!」
「つーか電話なんかしてんなよ! 大丈夫か!」
「大丈夫じゃねーしこんなキャラじゃなきゃやってらんねーわ」
息も絶え絶えとはこのことである。どうやら相当酷いらしい。恋慕の相手がこうも苦しんでいるのに、のんきに掃除なぞに精を出していた自分が不信になった。そんな時間があるのなら、更科のような滅私奉公とはいかずとも、見舞いくらい行ってやれば良いものを。
ていうか俺、どうして家にいるんだっけ?
「大宮。どうして俺が家にいると分かった?」
「根本君に放課後外で遊ぶ友達とかいないでしょー!」
弘は時計を確認する。もう放課後の時間だった。いつの間に!
「何ぃ? 根本君。ひょっとして今日早引きしてんの? つーかサボり? 不良気取り? ぐれちゃったの? それとも唐突に自分という存在を見つめなおす必要ができて、それで学校を飛び出したりなんかしちゃったりなんががががががが」
せきをする音。
「しちゃったの? 相談に乗るよ」
そんな場合じゃないだろう。と思いつつも弘は
「俺をどう思う?」
と訊いた。
「醜い顔をしてるね」
大宮は言った。
「としか言える余裕ないな、今のあたしには」
それはそうだろう。彼女は今、血を吐いて熱を出して悶えているのだ。
「でもさー。あなたの顔より醜いものなんて世界にいくらでもあるよ。それに根本君は顔は酷いけれど他は結構イケてるじゃん」
「何だ! 俺より醜いものって!」
「人が人を思う気持ち」
大宮はすぐに答えた。
「世界でそれが一番醜いね。あなたの顔の醜さもたいがいだけれど、それと比べたらその辺に転がってる中身が蒸発したカタツムリくらいのもんよ」
そしてまた吐血の音。
「根本君はもっと下か他所向いて生きた方が楽だと思うな。柳沢さんみたいに」
楽? 楽ってなんだ?
「とにかくねー。あらゆる悩みは簡単に解決できないもんだし、あらゆる劣等感を乗り越えるのは至難だし、さっさと諦めて自分に隷属するのが賢いやり方だよ。だいたいさー世界で一番劣悪な人間は世界に一人しかいないんだからさー、世界で不幸なのは一人だけでいーはずなのよねー。まぁどおーでもいぃーけどさあー」
何か車輪のついたものが運ばれてくる音がした。
「あー。なんか看護士が点滴台持って来やがったぁ。これからちょっと通話出来なくなるから用件言うねー」
大宮はいったん咳き込んで
「あたしんちに行ってさー。ちょっと取って来て欲しいものがあるのよ。頼まれてくれる?」
「あ、ああ。……もちろん」
「ありがとー。男前よ根本くーん。あたしの家は○○駅の近くにある美術館の傍の住宅地帯南部にある青い屋根の窓八つで電柱が二つ傍にある二階建てだからー。着いたら携帯でかけてねー」
電話が切れた。
弘は脳味噌をスプーンでかき混ぜられたような気分になった。
「声や喋り方からしても……なかなか魅力的な女の子だな。まさか恋人か?」
弘は首を振った。それだけで何も言わず、弘は自分の部屋に帰る。埃塗れになった制服から適当な服に着替えて、外に出た。
大宮の家を探すのは意外な程簡単だった。指定された駅には地図が張られていたからだ。二キロ程歩いて件の美術館に行き、それから近くを徘徊して住宅地帯らしきところを探す。そこで適当な奴を捕まえて大宮から聞かされた特徴を話せば、彼女の家へ案内してくれた。
「この一家には、あんまり関わらない方が良いと思うわ。……お節介だと思わないでね」
中年女性は最後にそう言ってから去って行った。見ず知らずの弘に道案内を頼まれてくれるあたり、良い人なのだろう。
携帯電話を取り出して大宮の番号を呼び出す。「はーい」擦り切れたような声だった。
「おまえの家に着いた」
「そう? 特徴はちゃんと合ってる?」
彼女の家にはどういう訳か表札がない。それが、弘には少し不自然に思われた。
「庭に何か良くわからん植物が大量に生い茂っているな」
二階建ての住居の高さに迫る勢いで、黄色や緑、なんと赤や青の草花が競り立っている。まるで一塊の妖怪のようなそれらは門の外にまで侵食しており、弘の足元を擽っていた。何やら香ばしい匂いが漂っている。
「ああ。あんまり触れたり近付いたりしないでね。下手したら根本君死ぬよ」
「え! 死ぬの?」
「そー。あたしってば博愛主義だから、雑草から毒花まで愛するんだよ。すごいでしょ」
そんなことを言われても弘には恐怖しかない。というか、大宮が血を吐いた原因はここにあるのではないかと思う。
「見たこともない植物がたくさんあるな」
「外国から輸入してきたのよ。同好の士からは玉石混合で節操なしとか言われるけれど、あたしにとってはどれも素晴らしい宝物ね」
誇らしげに、大宮は言う。何の趣味もない弘からすれば、それはなかなか感心させられる話であった。へえ、すげーじゃん。
「ところでよ、大宮」
「んにゃ?」
「どうやって中に入るんだ? 鍵閉まってんぞ?」
「あたしのお花ちゃん達の中で特にチャーミングな子の口の中に、合鍵を隠しているから。それで入って?」
「口の中ってか!」
「うん。玄関の傍の……」
指示されるとおりに移動し、弘はそのチャーミングな植物の前に来る。博物館で見たラフレシアの複製を、さらに二周り巨大にしたようなものが鎮座していなさった! ぬうぅ、と弘の方に口を近づけ、何のつもりだとばかりにばくばく動かす。ぬらぬらした液が溢れていた。
「……こいつの口の中に鍵があんの?」
「そ。大丈夫。弘君の腕を食いちぎったりはできないから。……がんばれ!」
弘は目を瞑り、その魍魎の如き植物の口に手を突っ込む。不気味なほど冷たくさらさらした液体の感触。そして、どもった調子の悲鳴がこだまする。何こいつ声帯まであんの!
不気味ではあったが、不快感はなかった。愛する大宮の為ならこれくらい! 更科ならこの口の中に顔だって突っ込むに違いない! 弘はついに鍵を見つけ出し、引っ張り出した。
素晴らしい達成感だった。自分の中にある何者かが強くなるのを感じる。
「やったぜ! どうだ見たか!」
電話に向かってそう叫んだ。そして、見てはくれていないだろうと弘は思った。
「ちゃちゃちゃちゃちゃちゃーん」
大宮がレベルアップの音楽を鳴り響かせてくれた。弘はレベルが上がった!
「ようし。では魔城に乗り出すぜ!」
「いえーい!」
悪ふざけの会話を交わしながら、弘は鍵を差し込み、大宮の家に突入する。
異臭がした。
凄まじい散乱ふりだった。中身のたっぷりしたゴミ袋やら缶やらペットボトルやら酒瓶やら汚れた衣類やら文庫本やらコンビニの弁当箱やら、何やら意味不明な言葉が綴られたパッケージやらが散乱し、しばらく放置されたであろうそれらはまがまがしい存在感を放っていた。
「それでねー。玄関の傍の部屋を抜けて、洋服の部屋があるんだけれど……」
「あ、ああ」
弘は何とか声を取り戻した。……そうさ。大宮だって、こんな部屋を見られるのは嫌に違いない。それを自分に頼ってくれたのだ。それはある程度の信頼を勝ち得ている、ということにならないだろうか。
そう思うと励みになる。弘はゴミを足で掻き分けながら、室内を進む。この匂い、我慢だ。我慢しなければ、これくらい。
途中、弘は生暖かい何かを踏んだ。
足元を見る。
中年らしき女が下着姿で寝転んでいた。
「んな……っ」
「根本君? どうかした?」
弘は今度こそ何も言えなくなった。中年の女は不愉快そうに身をよじり、一度弘の方を向いた後、ゴミの中に体を突っ込んで行く。……弘のことなど、無数あるゴミの一部のようにしか思っていないらしかった。
「根本君? 何か尖った物でも踏んだ?」
「そんなことは、ない」
「そう。なら良かった。気を付けてね。この間、剣山がいっぱい撒かれていてさ。知らないで踏んで大変な思いをしたんだよ。もう絶叫」
笑い話のように、大宮は言った。剣山が撒かれているなんて、そんなこと自然に起こる訳がない。何者かが悪意を持ってそんなことを、その何者かって誰だよ。
弘は途方もない不信と、それから不気味な危機感に見舞われた。弘は電話に向かって怒鳴りそうになり、しかし何とか自制する。それを大宮が望んでいるのか?
詮索するな。関係ない。
俺は言われたことをちゃんと実行しろ。それは確かに彼女の為なんだ。
弘はゴミの撒かれたその魔窟を抜けて、木製の茶色い扉を静かに奥へ。その中は存外綺麗だった。巨大なクローゼットの中と言った趣の、細長い部屋だ。タンスがたくさん並び、服がかけられている。
「私のパジャマは奥の、一番上。下着類はその下から二番目ね」
「ちょっと待て! パジャマに……それから下着だってぇ?」
それをどうして俺に頼むんだ!
「そういうのは、更科に頼めよ!」
ついそんなことが口を吐く。
「あの子、何するか分かんないもん」
大宮はそう言って
「ごめんね。あなたにしか頼めないのよ」
「……俺だけ?」
「もう何日入院するかも分からないからね。ありったけ、ゴミ袋にでも詰め込んじゃって。お願い」
やや急き立てられたように、大宮はそう言った。弘は言われたとおりにする。変な気はまるで起こらなかった。大宮への単純な好意と、発酵した罪悪感。それらが弘を動かしていた。
「後は……保険証と通帳をお願い」
「何だって!」
人間不信な弘にとって、その願いは衝撃的だった。
「まさか、取りはしないでしょう?」
大宮は飄々と言った。
「場所を聞いた後、見付からなかったことにして盗んで行くとかしたら……。おまえに知られずに頂戴する方法なんていくらでもあるぜ」
「何言ってるの。埃の一拭いでも盗むつもりない癖に」
大宮は笑った。
弘は大宮と繋がっている携帯電話を床に置いて、それに土下座したい思いに駆られた。彼女は、なんて大きな人物なのだろう。自分自身すら信用せず、神経質で後ろ向きな、この限りなく矮小な自分なぞとは、大違いだ。
「でね。それは二階に上って、手前から二番目の部屋に冷蔵庫があるの」
「おう」
中年の女に怯えながらゴミ部屋を抜け、階段を上る。弘を迎えたのは、女性が泣き喚く声だった。弘はつい、手前の部屋を覗いてしまう。十四インチのテレビからアダルトビデオが流れていた。若い女が男性器の形をした器具を操り、あまりに巨大すぎるそれをもう一人の女の陰部にねじ込んでいる。捻じ込まれている女は全身をおぞましい拘束具に当て嵌められ、つんざくような悲鳴はとても演技とは思えない。
高校生くらいの男がそれに見入っている。その部屋にはテレビと少年と、その背後のやけに整理された本棚以外に、およそ物体らしきものは何もなかった。
「根本君!」
「お、おう。手前から二番目の部屋だな!」
男は弘に気付く様子を見せず、テレビに食い入っていた。その病的な姿に弘は背中を向けて逃げて行く。
次の部屋には、洋風なデザインの絨毯の上に書籍がいくつか散らばり、奥に冷蔵庫が鎮座している。どうやらこの家には、散らかった一階とものの少ない二階でできているらしい。
「冷蔵庫、見つけたぜ」
弘は勝手に冷蔵庫を開ける。中には無数のパックに入った様々な液体がひしめいており、申し訳程度に卵と三個入りのプリンがあった。
「一番下の野菜室のキャベツよ。その中に通帳があるから」
もはや何も言うまい。弘は冷え冷えになった通帳を取り出す。次は保険証である。
「その部屋の絨毯を捲って」
図鑑らしきサイズの本が三冊出て来た。どれも植物に関わるもので、児童用のものが二冊と訳の分からぬものが一冊。
「『植物と人間』の第六巻のページに挟まっているから」
弘は指定された書物を摘み上げた。『デンジャラスな植物達』という副題のその図鑑をぱらぱら捲る。なるほど毒々しい奴らだぜ。途中で封筒が落ちた。
「見つけた」
中身を確認して、弘は言った。
「ありがとう根本君。本当に助かるわ。……あなたしか、頼れなくってね」
弘は素早く階段を下りる。少し時間をかけすぎた。そりゃ、意味不明な植物やゴミ部屋や中年の女や鼠やキャベツや植物図鑑と激戦を繰り広げたのだ。しょうがない。
鍵をかけ、弘は駅まで疾走した。次の汽車に間に合わせなければ、それだけ大宮に荷物を届ける時間が少なくなる。そうなると、百メートルを十一秒台で駆け抜ける自分の脚力が頼もしかった。
その時、弘は確かに、自分が何事かを成しているという気持ちになれたのだった。
「よう、弘」
無事に時刻に間に合って、大学病院に辿り着いた弘を迎えたのは碇本だった。
「どうしておまえが?」
心なしか、繋がっている管の数が増えたように見える大宮の手を、更科が握っている。大宮は苦渋の浮かんだその顔を無理に歪めて「こんばんわだね」と笑った。「ほれ」碇本が弘に手を差し出す。どうやら荷物を寄越せということらしい。弘はそのようにした。
「大宮の様態が悪化したってんで、室長のおれが駆けつけた訳よ。どーだ、責任感あるだろう?」
と、碇本は胸を張った。そりゃ大したものだと弘は思う。
「どうして大宮の様態を知っている?」
「学校に連絡があった」
「そうなのか?」
弘は更科に訊いた。彼女ならそのあたりの事情は全て把握しているだろうと思ったからである。
「大宮さんの友達なら、こんな時くらいお見舞いに来るべきだって、思ったから。でも皆薄情ですよぅ。いかりもとぜろひとと、あなたしか来ない」
そう言う更科の目には、何の感情も浮かんでいなかった。それは彼女が意図的にやっていることなのか、だとすればそれはなんの為なのか。
「皆テストで忙しいからね。仕方がないわよ」
大宮は息も絶え絶えに言う。柔らかな笑顔も絶やさない。
「深冬ちゃんに、碇本君。それから根本君。あなた達には感謝してる。看護士さんと違って、あたしに対して純粋な情欲があるからね。近くにいてくれるととても落ち着くの」
「テンションも、ほとんど、元に戻っているな」
「……本当に酷かったのは一時だけだったからね。峠は越したのかもしれない」
大宮は横になったまま無理に微笑んだ。それは、弘達を安心させる為のものだった。
こんな事態でも他人への気遣いを忘れないのは、ただの優しさではまず不可能なことだ。大宮は精神的に強い。心の構造というものが、強度、柔軟性共に優れていて、恐ろしく磐石なのである。弘は大宮の持つ個性はだいたい好きだが、特に好きなのがこの強さだった。
彼女を襲っている尋常ではない苦渋を、弘は想像した。痛みと、自分の周囲に対する不信感、底抜けの恐怖。顔が醜いという劣等感にさえ負けてしまった弘には、とても耐えられそうにはない。
「そうだ、弘。この帰りにおまえの家に寄って行くつもりだったんだが、省けた」
言って、碇本は鞄から何枚かプリントを弘に手渡した。
「今日サボった分の埋め合わせだってよ。ちゃんとやって来いよな」
しっかりしていやがる。弘は思いながら、プリントを受け取った。
そうとも。ああやって学校を去って、それから自分はどうするつもりだったんだ? 二度と学校に行かず、退学するつもりだったのか? まさか。
「おう。明日はかならず、学校に行くよ」
そう言って、弘は更科の方を見た。華奢な美少女が、弘には心から頼もしく思えた。彼女がいるから、弘は安心して学校に向かうことができる。思えば自分は、大宮のことについて彼女の存在に甘えすぎていた。それ故に、自分は大宮の強さと優しさをただ享受する立場でいられたのだ。
……もう少し、大宮のことをおまえにまかせても良いか? 俺はもっと強くなって、それからおまえの傍に行くよ。
弘はそんなことを思った。すると、更科は弘の方を見て、そして眉を潜める。
……余計なお世話だ。引っ込んでいろ、汚い豚めが。
そう聞こえた気がした。