表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
醜い奴ら  作者: 川崎真人
25/35

愛 二

 アクセスありがとうございます。皆さんのアクセスで執筆がはかどってうれしい川崎です。

 小説書くのってやっぱり楽しい。今回は大長編だけれど、頑張って仕上げたいと思います。

 それではお付き合いください。

 


 誰かさんの探し人 著・榊原唯人 


 姉の死体を発見したのは偶然だった。ただ、ネット掲示板に書き込まれたURLをクリックしたというだけである。

 行方不明になって久しい姉の体は全身緑色に変色しており、表情はいっそ作り物だと言われた方がしっくりするようなグロテスクさだった。男とも女とも付かぬそれを姉だと判別することができたのは、その右腕に刻まれたリストカットの跡が、姉のものとまさしく一致したからである。

 はたしてその写真を誰がカメラに撮って、誰が流出したのかは、今のところは皆目と検討がつかない。けれど、一晩中眠れずに考え続けて、それで心当たりの一つ見つけ出せなかったところで、諦めてしまう私ではなかった。

 例の写真の、死体が寝かされていた床のデザインに、私は見覚えがあった。その見覚えの正体を確かめるのに三日を要し、そのデザインがとある全国展開している高級ホテルのものだと知るのには五日かかった。死体が寝かされているとなればそのホテルは閉店している可能性が高い。

 私がそこまで思考が進んだあたり、掲示板に一件の書き込みがあった。書き込んだ者は、姉の死体に心当たりがあるのだという。

 レスをした女性と個人的に話し合い、私は女性が死体に自らの親友を見ていることを知った。

 そして、彼女の親友の名前は高根京子。私の姉の名前とは一致しない。

責任者の手腕の低さによって廃墟同然に落ちぶれた建物の場所を特定することは、決して難しい作業ではなかった。窓ガラスを割り、内部に乗り込んだ私と女性が見たのは、姉の死体と、それに群がる何人もの老若男女。彼ら彼女らは、皆一様に姉のことを自分だけの関係者と主張し、他人の考えを認めようとしない。

だがこれは、間違いなく私の姉なのだ。

 

 「随分と事務的な文章だねぇ」

 初対面に近い他人の家の床に寝転んだ西条は、榊原の小説を読みながらそう言った。西条の無駄に冗長で無意味に韻を踏んだ文章や、A4用紙下半分が真っ白の柏の文章と比べれば榊原の方がずっと好みだと弘は思う。

 「でもわくわくする展開じゃない? これは最後まで読むべきだよ」

 風早が綺麗な笑みを浮かべて言った。今さっき殺されかけていたくせに、死体に纏わる話に対して『わくわくする』と言ってのける神経を、弘にはとうてい理解できそうにはない。

 殺人鬼の襲撃をどうにかこうにか回避して、ぜいぜいはーはー息を切らしていた弘を、あろうことか風早は自室に招待してしまった。駅前にある古ぼけたアパートの一室、四つある壁の内の三つを本棚で囲った四畳半が風早の空間である。

 「根本君はどう思う?」

 風早は精一杯の親愛を込めて弘にそう言った。弘はほとんど何も考えずに「良いんじゃねぇか?」とそれだけ言った。

 「しかし、これは随分と分厚い束だね。文庫本に換算すると六百ページ近くはあるんじゃないかな? 一ヶ月かかったというのにも頷ける」

 ふむふむと分析しながら西条。真剣な表情で用紙に向かっている。どうやら気に入っているようだった。良かったな、榊原。

 「榊原君、推理小説は嫌いだったはずなんだけれどね~」

 思い出すような声色で言って、風早は首を捻る。

 「どういうことだ?」

 「そのね~。榊原君は生徒会の庶務で、会長さんとそれなりに交流があるんだけれど~。少し前にね、本の好みについて話していたのを聞いたの。それで榊原君は『小説や漫画は読めません。特に探偵の主人公が活躍するような小説は、これははっきり言ってしまえば大嫌いです』って言ってた。嫌悪感丸出しの顔で、奥歯噛み締めながら」

 「あの榊原君からそんな本音を引き出したのかい? すごいなその生徒会長は」

 感心したように、西条が言った。風早は「んにゃ?」ととぼけたような声を出す。

 「そういうおまえは、ミステリは読むのか?」

 弘は何とも無しに聞いた。風早の部屋が、ミステリ研究会の部室を連想させたからである。単純な蔵書量では研究会をも上回っているだろう。

 「んとね。コナン君と、金田一少年と、ホームズ先生と~。後は維新とか舞城とか森とか。趣味とは違うけれど、創介も読んでる」

 「へぇ」

 弘には名前の半分も理解できなかった。

 「ふうん。……そういう趣味か。じゃあ流水は読むのかい?」

 と、西条が榊原の原稿から目を離して、風早の方へ向く。何やら話題が自分のついていけない方向へ向き始めそうだったので、弘は 

 「ところで。俺達はさっきの発火野郎について調べているんだが。顔とか見なかったか?」

 そう風早に訊いた。そしてしまったと思う。いくらこの女でも、今さっき殺されかけた相手について話すなんてしんどいに決まっている。これは紳士にあるまじき行いだ。

 しかし風早は

 「そーそー! それよそれ~!」

 と、はしゃぎながら右手の本棚最下層、何冊かのスクラップブックが収まっている部分に移動。

 「あった。これを見て」

 弘にスクラップブックの一冊を手渡す。西条が興味深そうにそれを受け取った。

 「あのねあのね。小学四年生の頃から身近で起きた殺人事件についての情報はできる限り纏めるようにしているんだけれど~。ここ最近の連続殺人の現場の様子、警察がいなくなる前から写真取りまくってさ。これなら絶対に手がかりになると思うよ~」

 楽しげに、風早は言った。西条は感心したように

 「すごいじゃないか。ぼくらのミステリ研究会も、こういうことしなくっちゃな」

 などと言った。これには探偵気取りの弘も興味がある。

 「ああ。ついにやったんだなぁ~。感激だな」

 風早は恍惚の表情を浮かべる。

 「どうした?」

 「あたしね、いつかすっごいことに巻き込まれてみたかったの。漫画みたいな、すっごい冒険。それを求めて、現実の事件をずっと追いかけてたんだけれど。それでね」

 風早は拳を振り上げて

 「あたし。殺人鬼に襲われちゃいました!」

 高らかに宣言した。

 ……あ。この女、西条達と同じ人種だ。

 弘は気付いて、複雑な心境になる。

 「まさかとは思うけれど。おまえ、殺人鬼と会いたくてあんなところを歩いていたんじゃなかろうな?」

 「んにゃ?」

 弘の問いかけに、風早はとぼけたような顔をする。

 「いいや。あんな裏道通らなくても、線路沿いに進めば家には帰れるだろう? 駅のすぐ傍なんだから。明らかに遠回りじゃないか。そんな理由でもなけりゃぁ、なあ?」

 西条の方を見る。貼り付けたような笑みを崩さない友人は「そうそう」とスクラップブックから目も話さずに頷く。

 「あは。もしかしたら、って思ってただけだよ」

 風早は能天気な声で言った。

 「今までの犯行現場はどれも人気のない場所ばっかり。人の多い時間に、人気のない場所で、事件を起こすのが……殺人鬼、じゃ格好付かないよね。何が良いかな?」

 風早は首を傾げる。すると、すぐに西条が

 「ホッチキス」

 と一言。しまった、先を越された。弘はオウムガイと答えるつもりだった。

 「んにゃ。意味分かんないけどそれで良いや。……ホッチキスの手口は、多分、凶器を持って散歩するみたいに街中を歩き回って、目撃者が出なさそうな場所で誰かと二人きりになったら殺人を決行、ってところだろうから」

 それはおかしい、と弘は思った。あの時、殺人鬼……ホッチキスは自分と西条の隙間を堂々と通り抜けて犯行に及んだ。あれで目撃者を出さないように気を使っているようには思えない。

 しかし西条は

 「なるほど」

 とそう言って頷いた。

 「それで。ホッチキスの出没しそうな場所を通りながら生活をしていた訳だ」

 「そ」

 「殺されるのは怖くなかったのかい?」

 「うん。だって、格好良い人が助けるもん」

 言うと、風早と西条が弘の方を見る。弘としてはこれはかなり困る。

 弘は自分を世界で一番醜い男と自負していたし、しかもホッチキスの炎に制服を焦がした間抜けな姿だ。それを格好良いと言われてはもどかしいばかりだ。嬉しくはあるが。

 その為、弘は自分が何を言おうとしていたのかも忘れてしまった。

 「ところで。それは風早さんにはホッチキスの出没しそうなところが分かるということだよね?」

 西条がそう問いかける。風早は胸を張って「そうだよ」と答えた。

 「じゃあさ。根本、ホッチキスに会って、今度こそ捕まえて来いよ」

 「それ良い!」

 にやにやと、二人はそんなことを言う。弘は面食らって

 「危険すぎる!」

 そう叫んだ。

 「しかし根本。おまえはもともと、直接対決でホッチキスを捕らえるつもりでいたんじゃないのかい? そこに、プロファイリングによってホッチキスの動きを予測できる人材が現れた。これはもう、とんでもない巡り合わせだよ。運命と言っても良い」

 「きゃ。運命の出会いだね!」

風早が能天気な声を出す。

 「それとも何かい? 頭脳体力ともに併せ持つ我ら探偵部屈指の名探偵であるところの君が、軽く火炙りにされただけで怖気づいたのかい?」

 弘は心の中で叫んだ。

 ……怖気づいたのかい? って、そりゃビビるよ!

 ……体にガソリン被って突っ込んでからに、点火した後も俺を殺そうとしキチガイ野郎だぞ! 

 「別に、怖いなら無理にがんばらなくてもだいじょーぶだよ、根本君」

 風早が優しく言った。

 「もともと一人だったしね。根本君がやらないなら、あたしががんばる」

 にこり、と。

 屈託のない笑みには、人の話を効かない類の意思が宿っていた。

 「いい、いい! 俺がやる!」

 弘はそう答えた。そう答えざるを得なかった。

 「さすがぼくらの名探偵! 期待してるよ!」

 西条が嬉しげに言った。風早が能天気な拍手を送る。

 ……こいつら。初めからこうするつもりだったんじゃねぇのか?

 「ははは。頑張ってくれよ、ホッチキスは殺人鬼としても一流の存在だからね。君にこそ相応しい獲物さ!」

 「西条、おまえも来い」

 弘は凄みを利かせて言った。

 「あはは。そっちが勝算高いよね~」

 風早が間延びした声で言う。西条の笑みが少しだけ、引き攣った。


 ……どうしてこうなった。

 弘は頭を抱える。殺人鬼を捕らえようと思ったのは自分だったのだけれど。

 火炙りにされてみてから冷静に考えると、自分はあまりにも愚かだった。風早なんて頭のおかしな女は見捨てておけば火傷しなかったし、そもそも直接対決なんて名探偵の柄じゃない。リスクを犯した上での勝利なんて切羽詰った解決は弘の美意識にそむいているし、客観的に言って殺人鬼と殴りあうなんて狂気の沙汰だ。

 なぜ、きちんと考えられなかった。

 それはおそらく、榊原に褒めちぎられて調子に乗っていたからだろう。コンプレックスを克服してからの弘はそういう性格だった。自己評価が過剰に高く、そして自ら向上する努力を常に怠らない。研究会に入ってから成績だって少しはまともになったし、運動面も劣化していない。自分が好きで好きでたまらない弘に榊原の言葉は麻薬のような役割を果たした。捻じ曲がった万能感、無謀な宣言。

 いいや。一番の問題はそこではない。榊原に期待されようとされなかろうと、捕獲を宣言しようとしなかとうと、風早に向かって行った殺人鬼に突っ込むか否かの選択はあの時弘は自由にできた。

 弘の心の隙、それは自らが美しい存在であろうとする意思だった。

 思えば、醜い顔に対する劣等感を克服していようとも、それは弘の本質を変えたことを意味しない。自らの美醜や優劣に対する不毛なこだわりは何も解消していないのだ。

 「……おおよそ。自らが美しい存在であろうとする心ほど、醜いものはない」

 「なんだい?」

 つい口に出してしまった弘に、西条が首を傾げる。

 「何の小説の言葉だったかな? それだけ訊いても、訳が分からないな」

 「……いいや」

 弘は苦笑する。西条は訝しげな表情をして、それから思いついたように

 「流石に緊張する。ぼくはちょっとそこのトイレに向かうから、君は先にトンネルまで行っててくれ」

 ……なんでい、随分とチキンな野郎だな。弘はにやりとして

 「おう。分かった」

 男前な声で言った。西条は「すまないね」と一言肩を竦めて、それから脇の公園に走り出した。

……さて。

 トンネル、というのは公園から五百メートルほど先、風早が当たりをつけたホッチキスの訪れそうな場所の一つだ。国道の真下、ほとんど人の通らないじめじめしたそのトンネルは、過去に窃盗やら猥褻やらの現場になっている、ちょっとした犯罪の名所。ホッチキスの行動範囲とも一致するし、ここで待機して遭遇しないことはないだろうと風早は言った。

 辿り着いてみると、そこは確かに随分と無秩序な空間だった。五十メートル程度の短いトンネルだが中央付近になると壁の位置を知るのも一苦労で、床には何ヶ月分になるだろう塵芥が散らばっている。比較的明るい部分の壁には下手糞な落書きが鎮座なさって、何とも粗野な印象だった。

 ……帰っちまおうか。

 しかし、いつ風早が様子を見に来るか分からないし、もう少ししたら西条が自分を追って来るのは確かなのだ。できるなら自分が逃げたことにはしたくないのが、見栄っ張りな弘の心境だ。

 榊原のこともある。あんなことがあってからも、弘にはその気があった。正直、相手が殺人鬼だろうとホッチキスだろうと、弘に負けるつもりは微塵もない。全力の本気でやり合って弘に敵う奴なんて、大宮と部長とそれとオウムガイくらいなものだろう。更科も途方もない輩だったが、大宮の愛は弘が勝ち得た。

 もちろんホッチキスは強敵だ。それは弘も認めている。三人から選べる対象から迷いなく少女を選択する外道、危機によって自らを発火する狂気、全身を燃やしながらも刃を振るう執念。まるで暴力に人格を支配されたようなあの存在は、殺人鬼の名に相応しい。

 だがしかし。もしも奴がオウムガイなら。

 碇本零人なら、自分に火を付ける前に弘を強く抱擁しただろう。そして燃え尽きる直前まで、或いは共々 焼け焦げるまで、弘と重なり合っていたに違いない。

 情熱の温度が違う。

 体にガソリンを塗って突っ込んで来る糞度胸には感服するが、ホッチキスは結局それを組み伏せられた状況から脱する為にしか使えていない。そんなだから、あの殺人鬼は柔らかい女一人も殺せなかったのだ。その程度の相手、オウムガイとやり合ったことのある自分なら楽勝だ。

 弘はそう思う。逃避するのは検討が違う。だがそれは、あくまでホッチキスを打倒すべき相手と見た場合に尽きるだろう。頭のおかしい殺人鬼なんてその辺に転がしておけよ、俺には関係ねぇ、無駄な戦いはごめんだぜ。と、そんな気分もする。

 などと考え事をしている内、九月の太陽はいい加減に落ち始めた。入り口から窺える夕焼け空が何とも美しい。

 気が付けば随分と長居してしまった。西条の奴、逃げやがったな。弘は舌打ちかました。あんな野郎の協力など無理にいらないが、しかし弘一人だけこんなトンネルで殺人鬼の登場を待っているなどとバカらしい。西条を巻き込んだところでバカらしいことには変わりないだろうが、そのバカらしさを西条にも味合わせてやりたかった。

 「しょうがねぇ」

 もう帰っちまおう。弘はようやく、そこまで辿り着いた。

 判断の遅いのが弘の欠点の一つだった。咄嗟にものを考えるのなら得意だが、いくらでも思考をこね回していられる時には湯水の如く時間を使う。なまじ集中力が良いので気が付けば何時間でも経過していることも多い。昔みたく世界に対する呪詛を頭の中で叫び続けるよりはずっとマシだろうが。

 榊原には風早を助けた時の自慢話でもしてやれば良い。そうすればまたあの殺人的な賞賛攻撃が聞けるだろう。楽しみである。風早にはここには誰も来なかったと伝えておけば良い。

 立ち上がり、大きくのびをする。だいたいこんなところでいくら待ったって、そう都合良く敵キャラがやって来てくれる訳が無いのだ。そりゃあもし現れたのならばボッコボコにしてやるところだが。

 などと。肩を竦めながら背を向けたところで。

 ガツン。

 或いは、ドカッ。

 背後から硬くてでかくて重いものにぶん殴られた。

 頭蓋骨が外と内が引っくり返ったような激痛を感じた。

 脳味噌をホームランされ、意識がどこか遠いところに飛んで行く。

 弘は思い出す。

 今よりもずっと小さな頃だった。兄と二人で外で遊んでいた時に、弘の顔を見て化け物と罵ったガキ集団があった。弘はこれに憤慨し、彼らを追いかけ、兄も後ろから着いて来る。やったぁ兄ちゃん加勢してくれたぞと嬉しがった次の瞬間、兄が振り回した金属バッドが弘の後頭部に激突した。

 兄貴としては、特に何の目的も無くただ持っていたからぶん回してみたのだろう。

 それでも五つも年の差がある兄貴の一撃は随分と堪え、弘はその場で目を回し、十分は目を覚まさなかったのだった。意識が戻った時、兄が弘の顔に蛇口を捻っていたのを覚えている。

 ……懐かしいもんだなぁ。

 ……まったく、兄貴にはあの頃からさんざんな目に合わされていたもんだ。確かその一ヶ月後には……。

 そこで、弘は気付いた。

 自分は走馬灯の記憶を見ていると。

 このままでは天に召されるだけだと。

 「……こ、ろ、されてたまるかホッチキスウゥ!」

 弘は背後を振り返り、繰り出された二発目を華麗に避ける。やはり重たいバッドを振り回していたその襲撃者は姿勢を崩してしまい、あえなく弘の一撃を受ける羽目になる。

 「……っ!」

 華奢な体が掃き溜めのようなトンネルの床を転がった。随分と軽い体。これがさっきの一撃を生み出したというのならば驚きである。 

 弘は襲撃者に向かって飛び込み、しつこく握り締めていた金属バットを奪い取る。撃つか、逃げるか、一瞬だけ迷う。

 結局、弘は一歩だけその場を引いて、バットを構えて襲撃者を威嚇する。息も絶え絶えに立ち上がった襲撃者の男は、粗悪なパーツを美的に配置したような、歪であると同時に随分と端正な、それはもう容易く人を殺しそうな病的な面構えをしていた。

 「おまえ。殺人犯じゃねぇよな?」

 そう言った弘に、華奢な長身の男は何も答えず、何の反応も見せず

 素手で弘に殴りかかって来た。

 ……なんだ、こいつ。

 弘は思い、攻撃が届く前にその男の体を蹴り飛ばした。プラスチックケースが壊れる音を立てながら、男の体は地面に転がって行く。

 少しの静寂。しかし、すぐに男は長い両手をふらふらと、足の力だけで立ち上がる。そして、猫背のまま首を上げて弘の方を見た。

 ……不気味な奴。

 男はまたしても弘に向かって歩いて来る。弘は僅かに後退った。喧嘩の強さに差があることは示したはずである。どうしてこの男は敵わぬ相手に向かって、こんななさけない接近を試みるのか。

 「出て行ってくれよーブサイク君よー。このトンネルからさー」

 やる気の無い声を発しながら突っ込んだ男を、弘は軽く殴り飛ばしておいた。

 地面に落下する肢体。

 逆様にされた亀のように、地面をかさかさ動き回った挙句、どうにかその場を立ち上がる。そして、またしても弘の方へ向かって、ゾンビの如くゆらゆらと接近。弘は後ろ歩きでそれから逃げる。

 「……おまえ。何のつもりだ?」

 弘は震える声を出す。

 「怖くねぇのか?」

 「……だっておまえ。ボクを頃殺す気はないみたいじゃないか」

 男は首を鳴らしながら、そう言った。

 「今までのボクは、おまえがここから去ってくれればそれで良かった。でも気が変わった。三回も殴られてボクに一つも致命傷が無いということは、おまえは大丈夫な相手と言うことだね。話し合いも通じそうだ」

 肩を竦め、男はけらけら笑う。

 「ボクは如月亮きさらぎりょう。ここにいるおまえを殺人犯だと思って襲ってみた。おまえは?」

 弘は醜い顔を更に歪にして、それから

 「俺はここで待ち伏せして、やって来たおまえを殺人犯だと思って返り討ちにしようとした根本弘。だが、見当外れだったみたいだな」

 言って、溜息を吐く。

 「まぁ。ボクとおまえは言ってみれば一つの同志。仲良くしようじゃないか」

 如月は右手を弘に差し出す。嫌々ながら、その男に逆らう気をなくしていた弘は、その右手を気味が悪そうに握り返した。

 

 「つまりだね。遊びに行ってすぐ帰ってきた妹に、ボクは事情を訊いた。『遊び場に行ったら、恐ろしくブサイクな男がじっと座っている』とね。妹の遊び場と言ったらゴミ置き場と川原とトンネルなんだが、何れも不審者が出没してもおかしくない場所。妹の遊び場にホームレスでも住み着かれたら困る。兄たるボクの出番という訳だ」

 「……トンネルから退場してもらう為に、後ろ頭をバットで殴ることは無いんじゃないか?」

 「薄暗いトンネルで、おまえみたいな不審者面が小難しい顔で目をぎらぎらさせながら人を殺す人に殺されるを考えていたんだ。ひょっとしたらそしてそれを見たボクは偶然にも金属のバットを構えている。これはもう戦うべき状況だろう?」

 当たり前のことを確認するような口調で如月は言った。げんなりして、弘は溜息をつく。

 あれから如月は弘の腕を引っ張って「お詫びと作戦会議をしたい」などと言い、とあるファーストフードまで連れ込んだ。 

 逃げようと思えば逃げるのは容易いのだが、殴られた人間がお詫びをするという人間から逃避するのは大きな失礼に当たる気がするし、弘としても如月のことをさんざ殴ったり蹴ったりしてしまっているので一方的に帰ってしまう訳にもいかなかった。

 こうして見ると如月の年はちょうど高校生くらいであり、弘と並んでハンバーガーをパクついているとちょうど先輩後輩と言う風になり、実に店の風景と馴染んでいる。だが弘にとって見れば目の前の男は今さっきまで殺し合っていた相手であり、気が抜けないどころか髪の毛が抜けそうにしんどかった。

 「しかし。おまえもその顔の所為で苦労しているだろう? 何か暴力的なことを考えている時のおまえってば、今にも人を殺しそうな具合なんだもの」

 いけしゃあしゃあとした口調の中には、僅かばかり、言い訳するような響きが含まれていた。

 「それにしても。殴ってしまったことは悪かったよ。結果的には、おまえは何もしていないのにボクに襲われて、ボクは何もしていないおまえを殴ってしまったことになる。お詫びならする、いくらでも飲み食いしてくれ」

 言って、財布の中の大量の一万円札を見せびらかす如月。その半分をこっちに寄越してくれれば何でも許すのに、弘は思った。

 「……それにしても。いくら俺を連続殺人犯だと疑ったところで、途端に殺しにかかるのも変だと思うが」

 「そうさなぁ……。それはそうだけれど、妹が被害にあう可能性があるんだからね。手は抜けないよ」

 と、如月は当たり前みたいに言った。

 ……おおっ。

 弘は如月の手を握る。呆けた風に首を傾げる如月。

 「あんたの……あんたの愛は本物だよ……」

 感動のあまり、弘は涙しそうになる。

 思えば、弘はずっと、自分自身の行動がまるでつかめていなかったような気がする。殺人犯と対決することに決めたのも榊原に褒めごろされた結果に過ぎないし、風早を助けたのも西条がそう促したからだ。ホッチキスを待ち伏せしていたのも、決して自分の意思だとは言いがたい。

 その中で、妹の為だと胸を張って、自分だけの意思で、何度殴られても蹴られても弘に向かってきたこの男は、随分と偉大な存在に思えた。

 けらけら。如月は笑って

 「愛とは、また気持ちの良い言葉を使うもんだなぁ」

 などと、少しだけ寂しそうに言った。

 「付き合おう」

 「うん?」

 「俺はもともと、連続殺人事件の犯人を成敗しようとあそこで待ち伏せていたんだ」

 弘は少しだけ言いよどんで、そして

 「……恋人の為に。だから、あんたに付き合える」

 そう宣言し、胸を張った。

 今の台詞は、渚には聞かせられないな、と思う。

 だが。弘は確かに思ったのだ、自分もこの如月のようになりたいと。

 それは、大宮にとって不愉快な、醜い類の感情だろう。偽善的な思いだろう。

 分かっている。けれど、弘は言った。

 なぜなら、弘にとっては大宮本人より、彼女に対する愛情の方が重要なのだから。

 「けらけら」

 と、如月は愉快そうに笑った。

 「恋人の為か。……ふふっ。そうかボクに付き合ってくれるのか」

 如月は携帯電話を取り出して、そして

 「良いだろう。ボクはボクの芸術に対する愛を、おまえはおまえの恋人に対する愛を、それぞれ強く、凝固にする為に。何よりもこの上なく倒錯して見失って自分勝手な目的の為に、殺人鬼をひっとらえるとしよう」

 番号をプッシュ。一分ほどして

 「どーもぉ。ボクだ、亮だ。けらけら」

 如月が楽しそうにそう大声で言った。すると、通話の相手は

 「おお! 親友よ、よくぞかけてきてくれたね? 何の用かな?」

 「用がなくっちゃかけちゃいけない仲かい? ……と言いたいところだけれどね。今回は、おまえに今近所で起こっている連続殺人事件について調べてもらいたい」

 「もちろん。君の為ならいくらでも。無償で引き受けようぞ。それで?」

 相手は途端に、冷静な声になり

 「君の喋り方。何かを人に見せ付けるような、楽しげな調子。普段とは大分違うねぇ。誰か近くにいるのかい? だとすれば、君のことだ。彼が本当の依頼人なんだろう?」

 「鋭いねぇ。流石だ」

 けらけらと、如月は笑う。

 「まぁ良いだろう。君が仲介するのなら、そいつに何でも教えてやって良い。……そいつがどんな奴か、少し話をさせてくれないか?」

 「良いよ」

 それだけ言って、如月は弘に電話を握らせる。当惑したまま、弘は勤めて尊大に

 「電話を受け継いだ。……俺は根本弘という」

 「なるほどそのようだね。こちらは風間劾。君の詳細と、用件を良く聞かせて欲しいかな。だいたい予想は付くんだけれど、今回ばかりはゲームの方手間って訳にはいかないもので」

 怜悧な声。弘は眉間に皴を寄せた。

 読了ありがとうございます。

 これからもお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ