愛 一
長らく更新を行なわず、真に申し訳ありません。戒名しました川崎です。
この章のプロットにはかなり自信があります。今までの遅れを取り戻すべく執筆に打ち込みたいと思います。
それでは、お付き合いください。
「あなた。近いうちにその顔の所為で酷い目を見ますよ」
セーラー服の上に黒のローブを重ね、厚紙に絵の具を縫って作った黒帽子を被った占い師は、ビー球みたいな大きさのやっすい水晶を覗きこんでからそう言った。
「何だって?」
「そのまんまの意味ッスよ。あなたがその面を提げたまま、今までどおりの生活をしているでしょう? 朝起きて飯食って授業受けて飯食ってゲームして寝る。このプロセスの途中のどっかで、刃物を持った殺人鬼だの、ハンマーを持った殺人鬼だの、銃を持った殺人鬼だのと遭遇するって言いたいんです」
根本弘はその醜い顔を占い師の鼻先まで持って行く。占い師はと言えば、弘の醜貌に動じる気配もなく「良いッスか?」気だるげな声色で
「わたしぁ。別にあなたをおちょくってる訳でもからかっている訳でもバカにしてる訳でも見下している訳でもああこいつなら別に死んでも良いやって思っている訳でもなんでもないんスよぉ。ただ、占いの神様が言ってることをあなたに伝えただけなの。でもなきゃぁ、大切なお客相手を怒らせるようなこと言いたかねぇです」
と、そこで占い師は大きくあくび。両手を上に伸ばし、椅子ごと後ろに反れて、両足を机にガツンと置いた。小指を立てて鼻の穴に突っ込んだところで、帽子の下に隠れていたその面構えが露になる。なるほどまともな顔をしている。これなら弘をおちょくっても天罰は受けないに違いない。よっしゃ、女と言えどもムカついた。一発殴ろう。弘がそう思った時だった。
「おいおい根本。まさか本気で起こったんじゃないだろうね」
背後から西条未明が弘の首を優しく抱いた。そして耳に息を吹きかける。まさか西条がそんなことをするとは思っても見なかった弘はしこたま驚いて、咄嗟にその体を振り払う。あまりのことに加減のできなかった弘の腕力は、西条の体をまるごと一メートル弾き飛ばした。
「……いったいなぁ。人のスキンシップをなんだと思っているんだい? 体を通わせるのは、心を通わせるよりずっと勇気のいることなんだぞ」
貼り付けたような笑顔を崩さずに、床に転がった西条は弘にそう言った。弘は恐怖と興奮の入り混じった声色で
「うるせぇ! 気持ち悪いんだよ! 碇本の野郎でもそんなことはしてこなかったぞ!」
「……碇本という人物をぼくはあまり良く知らないが。しかし根本、生徒会長は言っていたじゃないか。一年に一度の文化祭、特別なこの日に、特別な友情を育むのも良いでしょうって」
その言葉に、弘は心の底からぞっとする。
同姓間で芽生える友情以上の愛情は、弘にとって最大のトラウマだ。
「ああ。愛、素晴らしい言葉とは思わないか、根本。これがあるから、人類はこれほどまでに文明を開花させたんじゃなかろうか。……と、いう訳で、君の深い愛でそこの女の子を許してあげようよ」
と、西条が腕で占い師をさした。占い師は何も考えていないような顔をして指の皮を剥いで遊んでいる。
……こいつのこと、すっかり忘れていた。
……まぁ。だとすれば、西条に抱き疲れただけで忘れるような怒りだったに違いない。
根本は西条に一度頷いて、それから占い師の方を向く。
「おまえ。店を繁盛させたいなら、もっと言い方を考えた方が良いと思うぞ? それとも文化祭なんてダルいか? やっぱ」
占い師は如何にもかったるそうに、
「別にぃ。どうでも良いッスよ、そんなの。あたしは占いの神様の言うとおりにしてるだけッス」
と、冗談にもならないようなことを言う。ひょっとしたらここの占い師は全員そういうキャラでやっているのかも知れないなどと、弘は一瞬だけそんなことを思った。
「そう。それじゃあ、またお願いするよ」
二度と来る気もないだろうに西条はそんなことを言って、弘と二人で二年二組の教室を離れた。占いの館、外で順番を待っている人は誰一人いなかった。部活が同じ柏や高山の占い師を見られると思って来て見たら、とんだ外れくじを引いたものだった。
「しかし西条、おまえ、どうしたあんなことをしたんだよ?」
弘はしかめっ面でそう訊いた。正直、あれには心底参ってしまった。
「いやぁ。ああでもしないとあの女の子が君に殴られてしまうと思ったからね。ぼくはフェミニストなんだ」
西条はいっそ気持ち悪い類の笑い顔で言った。
こいつはいつもこんな調子だ。
「それに。大宮さんに振られて傷心の君に、せめて友情だけは与えてやろうと思ったんだよ」
からかうような口調。弘は溜息を吐いて
「ふられていない。あいつはどっかの誰かの会話が嫌でも耳に入ってくるような人込みは大嫌いなんだ。だから、文化祭なんてところには、絶対に来ない」
「それにしても。恋人にはメールくらい寄越すのがふつうだろう?」
ぬけぬけと、西条はそんなことをのたまわりやがった。
おまえは渚のことを知らないんだよ。
などと言って、西条とこれ以上会話を続ける無意味さを弘は知っている。こいつとまともに話が通じるのはそれこそ人間以外の何者かか、さもなければ人殺しくらいなものだろう。
もしも柳沢が生きていたら、さぞこの男に気に入られたことに違いない。
「しかし根本。君は随分と能天気に文化祭を回っているけれど。心配じゃあないのかい?」
「何がだ?」
「大宮さんのことだよ。……ここ最近は、随分と物騒な世の中になっているじゃないか。あっちでは脳味噌が抉れた死体が見付かり、こっちでは首を折られた死体が見付かり、向こうには心臓に穴が空いた死体が出現する。大宮さんが殺されたとは言わないけれど、それでも無事を確認することくらいしておいた方が良いんじゃないかい?」
西条に言われて、弘は肩を落とした。
「おや? もしかして、どうしても通じないのかい? だとすればそれは大変なことじゃないか」
「いいや。そんなことはなかった」
弘は息を吐く。
「今朝、あいつの家に行くとだな。大宮の……同居人と出くわしたんだ。そうしたら、あいつは家で寝ているって」
「ふうん。なら問題はないんじゃないのかい? ……同居人って?」
「一号という女だ」
「一号?」
西条は首を傾げる。
「居候という奴だ。俺らと同世代くらいの、可愛らしい女だよ」
「……ふうん」
あだ名ということで納得してくれるだろうと、弘は思った。
「それで。その一号ちゃんが大宮さんの無事を伝えてくれたというのに、何が不安なんだい?」
「寝ているって」
「……?」
「寝ているって言ったんだよ。その一号は」
「そうだね」
「あいつはかなり早おきな性質なんだが。俺が学校に鞄を置いて、それから大宮の家まで箸って向かったまでに八時半にはなっているはずだ。そんな時間に大宮が『寝ている』のだとすれば……」
体の具合でも崩しているのかもしれない。
一号は家の中に入れてくれなかった。それは大宮の意思ということらしい。
弘には胸騒ぎがする。飲み込んだ紙くずが胃の中でうごめいているみたいな感覚だった。
「……げらげら」
と、西条は肩を竦めながら言った。
笑っているとは思いがたい、ただそんな風に発音しただけに聴こえる。
「それじゃあただの心配性だ。それからなんだ、恋人が来ていないからって、わざわざ学校から家まで行ったのかよ」
おかしそうな声で西条は言う。根本はばつが悪そうに頭をかきむしり。
「しょうがねぇだろう。今時は物騒なんだ」
「本当だね。ストーカー被害も年々増加しているしね」
「こいつ!」
弘は西条に掴みかかり、首に腕を巻きつけて力を加える。西条は笑いながら、すぐにギブアップの宣言をした。
「さて。ぼくらの出し物はどれくらい繁盛しているのだろうね?」
期待するような声色でそう言いながら、西条は元気良く部室の扉を開けた。先ほど弘に締め上げられたのにまるで応えていない様子である。
西条は文化祭におけるミステリ研究会の出し物として、部員にそれぞれ小説を書かせていた。何も文化祭の時にそんなことをする必然性があるとは思えないし、だいたいにおいて、ふつうの中学生が他の出し物を回る時間を割いてまで素人の小説を手に取り、あまつさえ時間をかけてそれを読むなどという青春の無駄遣いをするとは考えがたい。感想はミステリ研究会にお寄せくださいということになっているのだが、結果が芳しくならないのは目に見えていると言って良い。
ちなみに、弘の作品は紙切れ一枚に書きなぐった暗号文である。可能な限り難易度を高くしたので、解答が部室に届けられることはまずないだろう。そう、誰も俺には適わないのだ!
「おうや。感想が三件も届いているぞ」
などと思っていた弘の前で、両手を振り上げんばかりに喜ぶ西条の姿があった。ルーズリーフに書かれたほんの数行の文章を実に大切そうに読む。
「見ろよ、根本。二つまでが部長の小説の感想だけれど、もう一つはぼく宛だぜ。何々……カッターナイフはそんなに万能じゃないと思います。リンゴを切ったり、人間の首を切り落としたりできる訳がありません。また、カッターナイフで地面を削ってそこにガソリンを流し込むトリックがありましたが、どう考えてもコンクリートの地面をカッターで削るというのには無理があります。主人公のカッターに対する執着があまりに強く、この作者はカッターナイフ教の信者なんじゃないかと私は……」
明らかな批判を、しかし楽しそうに読み上げる西条。弘は呆れるような思いがした。
……やれやれ。随分と、振る舞いだけは明るい男だな。
最近は……作中の凶器を途中で銃から刃物に変えたあたりからこいつは殊更明るく、そしてうざったくなった気がする。
変わった、というより、元に戻ったのか。弘の知る、遠藤や本田の死んでからの西条が、あまりにあまりだったのか。
……カッターナイフねぇ。
「なぁ、西条」
と、弘はなんともなしに声をかけた。
「なんだい? 根本。おまえの小説に感想はまだないみたいだよ」
「それはかまわない。……ただ、おまえ、頭を坊主にするつもりはあるか?」
西条は首を傾げ、それから肩を竦めて
「似合わないという次元じゃない」
そう言った。確かに、それは実にもっとも、そのとおりだった。
「あれ? もう戻っていたの?」
部室の扉が開いて、高山遥が姿を現した。その背後を、柏落葉が背後を窺いながら付いてきている。
「ああ。二組の教室を見に行ったのだけれど、占い師がとんでもなく愉快な人物でね。二人の内のどちらかがいれば、占ってもらったんだけれど」
「誰もそんな面倒なことはしないわよ。やるのは目立ちたがりの久慈くらいのものじゃない? 南浦の奴の頭に穴が空いちゃって、上妻は入院するし、宮田は霧崎に代わって不登校になっちゃったしで、面倒を下に押し付ける奴が全滅。怠惰な本性を表したクラスメイトは、自分の好きなようにしか動かなくなったわ」
そういう高山の背後、柏が何故か得意そうな顔を浮かべていた。
「それで? あたしの小説に感想は付いているのかしら?」
「残念ながら、まだみたいだね」
西条は自分宛の感想を読み返しながらそう言った。こいつはどんだけ嬉しいんだ。
「そう。結構できが良かったのは柏の奴だけれど、それは?」
「それもまだだ。……というか、あれには誰も何も言えないだろうよ。いくらなんでも」
「どういう意味よ」
柏が軋んだ笑みを浮かべて言った。自覚はあるらしい。西条は肩を竦める。
「しかし。俺らも暇なもんだよな」
弘が呟くように言った。
「暇って言うか。平和かな?」
柏がそれに同調する。
「もうしばらく、家と学校と部室と、後は本屋と雑貨屋くらいにしか行ってない」
「クラス会、もうなくなったのか?」
「うん」
嬉しそうに、しかし申し訳なさそうに、柏が言った。南浦が死んだから、クラス会はなくなったのである。
「ふうん。財布と、それと気分が楽になったんじゃねぇの? 良かったな」
弘は素直にそう思った。とことん自分達の都合しか考えない男である。弘自身が、人間というのはだいたいそんなもんだと思い込んでいるから余計に性質が悪い。
「それはそうだろうけれど。居心地の悪くなったクラスメイトもいるだろうに」
西条が独り言のように言った。高山がくすくすと笑う。
「ざまぁみろだよ、そんなもんは」
弘は言った。そんな性格である。
と、その時。上品で、そして堂々と分かりやすいノックの音が、部室中に響き渡った。
顔を顰めたのは弘である。ある一軒の所為で、弘はノックの音を聞くと身の危険を感じるようになってしまっている。なので、一番扉に近い席に座っていながら、弘はノックに反応しようとしない。
「どなた?」
柏が行こうとして、先に西条が席を立った。
研究会の面子は全員揃っている、例のあの部長という奴か?
扉が開かれる。姿を現したのは、中性的な印象の、やや小柄な男子生徒だった。
「はじめまして、こんにちは。一年一組の榊原唯人と申します」
ノックの音の主は、優雅な口調でそう言って
「今日は、研究会の皆さんにこれを読んで欲しくて来ました」
綺麗に束ねられたA4用紙を、さりげなくこちらに示した。
「研究会の皆さんのことは、いつも心から尊敬させていただいています」
榊原は厚顔無恥にもそのようなことを平気でのたまわった。少なくとも、弘にはそれが戯言のようには聞こえない。
「へぇ。それは光栄だね」
対し、西条は満更でもないふうを装って応答する。柏はぎこちなく顔を伏せており、高山は歪な表情で榊原を窺っていた。
「教養に優れた人ばかりで、皆さんの他にはない独自な感性にはいつも感服させられます。ああ、こんな発想があったのか」
そう言って、西条はルーズリーフの切れ端を四枚、取り出して部員それぞれに渡して行く。
「戯言ですが。皆さんの小説に感想を付けさせていただきました」
「へぇ」
西条が嬉しそうな顔をする。しかし、一番喜んでいるのは柏だろう。間違いない、弘は思った。
「……うん?」
几帳面でありながら、手書きの素朴さを合わせ持った文字の羅列は、弘の暗号に対する答えをきちんと推理していた
……おいおい。
……これはうちの部長にしか解かれたことがないんだぜ?
「『334-224-142-331-555-555-342。あが1、いが2、左方に来る子音は右側、逆も然り、ただし最後尾の者は前に行けない。Aが二十四、BはⅠ、迷ったらCDCDCDCCDCDCを使え』。……正直、これは見た途端に解く気を亡くしましたね」
それはそうだろう。弘は納得した。
「ところで、これは正解ですか?」
期待と自信の入り混じった無垢な表情を、榊原は弘に向けた。弘の醜貌を直視して怯まないあたり、なかなか肝が座っている。
「はずれだ」
弘は弘にできる最高の笑みを浮かべてそう言った。
「ええ~っ」
落胆の声を上げて、榊原は分かりやすく肩を落とす。動作が大きい癖に、それを鬱陶しく思わせないものがある。
「二番目のDの正体に気付いたあたりで、やった、と思っただろう? しかし引っ掛けがある。答えは二通りに出るんだ」
嗜虐心を擽るような表情を弘に向ける榊原。弘は余計に調子に乗って、自らの暗号について得意げに解説を始めた。榊原は絶妙に相槌を打ち、目を輝かせ、時には驚嘆の声を上げながら弘の話を聞く。
その様子に、誰も口を挟めない。榊原の言動や仕草には、周囲の人間を戸惑わせてしまう気迫が備わっていた。どこからか不思議な羞恥心が湧き出してくるような、そんな感覚に縫い付けられて動けない。
「何か参考にされた書物があれば、教えていただけますか? 根本先輩の暗号を解いている内に、暗号に興味が沸きまして」
興奮したように、しかし最低限の落ち着きを保って、榊原は言う。弘は暗号を作るに当たって昼も夜も常駐したサイトのURLを榊原にメモさせた。記憶力の小さな弘だが、どうしてかそれを思い出すことに苦痛はない。榊原に促されたからだろう。
「先輩は本当に凄い人です。七月には盗撮と殺人の事件を解決されましたし、九月の事件もほとんど先輩と研究会の功績と言っても良い。運動能力は中学生離れしているし、それにそれに……」
ああ。素晴らしき褒め言葉のハーモニー。このまま聞き続けていたら、弘はバカになってしまうかも知れなかった。
「止せよ」
と、弘は、照れ隠しのようにそう言った。あまりに全身がくすぐったい。
「そんなに褒められても困るばかりだ。言いたいことは分かるが、まあ、やめてくれ」
「ああ!」
榊原はついに絶叫した。もちろん、うるさくない程度にだ。
「先輩ほどお世辞の嫌いな方はおりません。なんて謙虚な人なんでしょう」
その、榊原の一言で
「がははははははははは」
弘は完全にバカになった。
「……ところで。榊原君」
と、そこに割り込んでいけるのが西条という男だった。他の二人は、得体の知れない気持ち悪さに硬直してしまっている。
「君の持ってきたその紙の束……小説かい?」
西条に言われ、榊原ははっとしたような顔をした。それから恥ずかしがるように顔を下に向けると、無邪気な笑みを爆発させて
「はい! そうです」
と言った。
「他の誰よりも、研究会の皆さんにこそ、ぼくの小説を読んでもらいたかったんです」
「へぇ。それは光栄だね」
西条は貼り付けた笑みでそう言った。それに、榊原が無邪気なスマイルが応戦する。
先に目を放したのは、あろうことか西条の方だった。
「皆さんの小説を参考に、寝る間も惜しんで書いたんです。良かったら、いつでも良いので、読んでいただけますか?」
「ああ。かまわないよ」
西条は頷く。榊原は嬉しそうな息を吐いた。
「ところで、先輩。今この近所で起こっている連続殺人事件について、知っていますか?」
ここでいう先輩、というのは研究会一同に向けたものだったのだろう。少なくとも、そのように聞くことはできる。しかし他の誰かが何か言う前に、弘は得意げな声で
「もちろんだ」
西条がぎょっとした顔をする。
「やっぱり! 先輩なら、何か分かっているんじゃないですか?」
榊原のその無邪気な期待を浴びて、弘は一瞬、表情を歪め
「……まぁ。他人にゃ教えられないがな?」
ばつが悪そうに、そう言って
「すごい! 流石!」
榊原は間髪いれずにそう言った。
「先輩なら楽勝ですよ! 鮮やかな解決、よろしくお願いします」
そう畳み掛けた榊原に
「お、おう」
答えた弘だった。
「なぁ根本。おまえ、本当にやる気か?」
文化祭二日目の準備が終わって、帰路の途中で西条はおもしろがるようにそう言った。
「別に難しくはないだろう? 今までにもう三人も被害が出ているんだ。手がかりならいくらでもある。南浦が考えたトリックの方が厳しいくらいだろう?」
弘は本心からそう思っていた。七月の事件の時からずっと積み上げて来た経験が、噂の大量殺人事件の解決に自分を導くのではないかと、本気で考えているのだ。
「おまえら研究会も協力しろよ」
「別にそれは構わないけれどさ。高山さんはまず乗り気だろうし、ぼくだってこういうのは別に嫌いじゃない。……だけれどさ。今回は少しばかり勝手が違うんじゃないかと思うんだ」
そういう西条に、弘は訝しげな表情をする。
「いいかい? ……今までおまえが推理してきたのは、既に終わってしまった事件や、紙上の事件、ごっこ遊びの中の事件、おまえとまるで無関係な事件だ。ようするに、おまえ自身が巻き込まれるリスクがほとんどないといって良いものばかりなんだよ。その点、今回の事件はと言えば?」
無差別大量殺人。
ぞっとするようなフレーズである。
「あの如月創介すら連想させる程の死体出現ペース、ぞっとするほど効率的で、大胆な手際。まだしも脳味噌抉りの犯行の方が御しやすいくらいさ」
……脳味噌抉り。西条達が勝手にそう呼称している一連の事件。被害者は三人、民家など閉鎖された空間で行なわれる殺害事件で、被害者は脳味噌を抉り取られ、その財産に手を付けられている。
「……脳味噌抉りねぇ」
「同じ犯人だと言う見方もあるだろうけれど。その場合は、犯人の目的が分からなくなる。財産と臓器目当ての犯行と、純粋な殺戮目当ての犯行じゃあ、その属性が大分違うよ」
「……それは良い。たが、俺がこの事件に勝算を感じている理由こそ、いまだに連続している事件だという点なんだ」
弘は胸を張ってそう言った。
「へぇ? どういうことだい?」
「つまり。現行犯を確保することが可能だと言うことだ」
西条は呆れたような顔をした。
「……まさか。殺人鬼と対決するつもりなのかい?」
「そうさ。それ以外に、どんな勝機がある?」
西条は肩を竦めて
「正気じゃない。しかし、勝機はある」
そう言った。
田畑に溢れた田舎の風景、その路地を曲がって薄暗い裏道へ進む。蝉の声だけが響く、静かな道のりだった。
「しかし。長引いたもんだな」
弘はうんざりしたようにそう口にする。
「そうだねぇ。まったく、薬師川の奴。人使いが荒すぎるんだ」
西条も同調する。二人はこれまで、それぞれのクラスで文化祭二日目の準備に借り出されていたところなのだ。高山と柏は既に帰ってしまい、靴箱で出くわした二人は肩を並べて下校しているというところ。
「おまえのクラスは何をするんだ?」
「ゴージャスコーラやスペシャルストローの販売さ」
「なんじゃそりゃ?」
「明日、体育館で宣伝をするからさ。まぁせいぜい見てやってくれ」
西条は肩を竦めた。こいつは、この動作が偉く気に入っている。
人気のない裏道。湿った家の陰に、弘は少女の影を発見した。癖の茶色い髪をして、弾むような足取りで歩いている。
……見たことがある。
弘はそう思った。
「なぁ。あいつって、確か五組の……」
指をさして、西条に少女の存在を示そうとしたその時
二人の隣を、まるで弾丸のように駆け抜けた存在があった。
「……!」
西条が目を見開いて、その人物に注視する。季節に合わぬ長袖ジャージ。黒い影は少女の方へ突っ込んで行く。
「根本! 突き飛ばせ!」
西条に言われて、何が何だか分からぬまま、弘は影を追った。背後の騒ぎに気付いた少女が弘の方を向く。すると、影は少女に覆いかぶさり、手を振り上げた。
……まさか。
弘はその手を掴む。その手には大きなナイフと、何やらぬめりとした感触があった。かまわず、弘は影を少女から引き剥がすように放り投げる。しかし影は驚いた様子もなく、一瞬だけ地面を転がって難なく直立。西条の方へ向かって走り出す。
「待ちやがれ!」
違いない。奴は少女を殺そうとしていた。ナイフを持った黒装束が少女を襲う様子を、他にどう解釈すれば良いのだろう。影が西条に届く前に、弘はその背中に飛びつき、羽交い絞めにすることに成功する。
……やった!
そう思った時だった。
「根本! やめろ! すぐに離れるんだ!」
西条が絶叫しつつ、自分ひとりその場から離れていく。
……何を言っている? 弘は一瞬だけ、何が何だか分からなくなり、そしてすぐに気付く。
自分が今羽交い絞めにしているこいつ。その全身をまとうぬめぬめしたこの感触は……。
弘が飛びのこうとした時、そいつは自分の体に火をつけた。
「――っ!」
爆発するように火がその全身に広がって行く。弘は、体が焼ける痛みというものを始めて知った。
「ぐわあぁあ!」
弘は地面をのたうった。弘に移った炎は大したものではない。冷静に消化すれば何でもないだろう。しかし、目の前の殺戮者は容赦しない。全身を激しく燃やしながら、ナイフを持って弘に襲い掛かる。弘は鬼の姿を見た。
……殺される!
そう思った弘は、その場を立ち上がり、炎の固まりに向けて蹴りを放つ。
足先のめり込んだ殺戮者の腹部は、以外な程柔らかかった。
「……っ」
殺戮者は今度こそ、地面に倒れ付した。
……やった!
と思った矢先、弘は焼ける苦しみを思い出し
「あっちぃ!」
やみくもに地面を転がって、消火活動を開始する。その隙に、殺戮者はどうにかこうにかその場を立ち上がって、素早くその場を離脱していった。
……野郎! 無痛症か何かか!
……全身にガソリン被って突っ込んで来るなんつー、尋常な奴のすることじゃねーぞ!
「おうい、根本。大丈夫か?」
と、殺戮者が去り、弘の火が消えたあたりで西条が戻って来る。襲われた気配もない。
「……おまえは、どこに、いたんだ?」
「隠れてた」
心の隅に芽生えたそれは、殺意と呼んで差し支えないものだろう。
「それで。そちらの女性は無事かい?」
と、紳士的な風を装った声で、西条は少女の方を向く。越を抜かしていた少女は、西条と、そして根本の方を向いて、
「ありがとう。死ぬかと思ったよ~」
青ざめた顔で、随分と能天気な声を発した。
「あたしは風早。五組の風早桜子。今ちょうど、命を助けてもらっちゃいました」
今にも死にそうな軋んだ笑顔を浮かべ、自己紹介など始めてしまう。それに対し、西条は柔らかな物腰で
「ぼくは二組の西条未明。名前は夜明け前の未明。こっちのナイスガイは根本弘、ぼくらのミステリ研究会のエースさ。君のことは知っているよ、優秀な学級委員だったね」
などとのたまわった。
弘は、たった今自分がとんでもないことをやり遂げたという得体の知れない感覚に、心臓を壊れそうに鳴らした。
読了ありがとうございます。
これからもお付き合いください。