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醜い奴ら  作者: 川崎真人
22/35

人間 五

 アクセスありがとうございます。

 どうしても執筆がうまくいきません。真に勝手ながら、一区切りつけてから休憩することも考えております。申し訳ありません。

 

 今回もお付き合いください。

 端的に言うと、ボッコボコである。他に踏んだり蹴ったりだとか満身創痍だとか色々表現を浮かべてみたけれど、結局、一番稚拙な表現が一番しっくり来た。

 なんてことは無い。良くある演出だ。知人が尋ねてきたと思って南京錠を外し、扉を開けてみると、ナミなんとか言う詩集売りの女がペンのようなものをこちらに突きつけたかと思うと、気が付いたらイスに縛り付けられていた。

 俺を気絶させた水色のペンのようなものはスタンガンと言われる武器で、先端から数万ボルトの電撃を発し触れたものに肉体的なダメージを与える。長く浴びせられれば間違いなく動けなくなるし、俺のように意識を失うことも珍しくない。それから、俺を縛り付けているのはお馴染みのガムテープである。こんなちんけなものがこうも効果的だとは。どこにどう力を込めようと、全身を包囲したテープはそれを絡めとり、全体で消化する。結果、俺は完全に自由を奪われてしまっていた。

 その女が最初にやったのは、まあ、殴る蹴るの暴行という奴である。

 全国に吐いて棄てる程いるいじめられっ子というのが皆そうであるように、俺はある程度暴力に馴れてしまっていた。そもそも連中に殴られることの何が辛いのかと言えば、それは体に太い杭を打ち込まれるような痛み、ではなく、奴らの愉快そうな顔を見ることと、抵抗できない自分がなさけないことだ。だがその女の暴力は、俺の高いばかりの自尊心など二秒で吹き飛ばしてしまう程のものだった。

 どこから取り出したのかは分からない。それはコンクリートのブロックで、学校の丙なんかに使われているものの一ピースを剥ぎ取ったものだろう。女はその華奢な腕で、不安定に、実に重たそうにしながらそれを頭の上に大きく掲げて、それを俺に向かって振り下ろした。

 頭だったら確実に死んでいた。

 胸のあたりを打ち据えられ、空気を大量に吐き出しながら俺はイスごとガラスの海に転がった。口の中に広がったのは血の混ざった吐瀉物で、体を駆け巡る激痛は肉を骨を蹂躙し内側から俺を破壊するようだった。

 その一撃で俺は完全に屈服していた。それは殊更、俺が軟弱だからではない。何せこの状況。俺は受身さえ取れない。縛られているのだから逃げ出す方法なんてない。女は扱いの難しい(どんなアクシデントが起こるか分からない)強力な武器を構えており、その目は、表情は、行動は、一切の容赦やら抵抗やら罪悪感やら、機械的な義務感さえ感じさせない。

 「あれぇ? 死んじゃわないでくださいよぅ? 大宮さんに頼まれているんですから。……あぁ、でも、この人に何言ったって、しょうがないよね。何もできないもんね。ま、いいやぁ。ちょっとくらい殺しちゃったって、大宮さん、許してくれるよね」

 と、どうでもよさげに、無邪気な笑顔を添えて、女は言った。

 この頭のおかしい奴に、今の俺は生殺与奪の権を握られているらしい。

 そう認識した俺が最初にやったのはもちろん命乞いである。お願いします助けてください何でもしますから。すると女は

 「えー。もうですかぁ?」

 などと、困った風に言って

 「今から痛めつけるんだから、もうちょっと我慢してくださいよぅ。途中まで終わって終わって生きてたらその時言ってください」

 女は俺の体中のいたるところにコンクリートブロックを叩き下ろした。今にして思えば、腹やら胸やらを狙って俺に息を吐かせていたのはかなり巧みだ。えいしょ、えいしょ、などと可愛らしく喘ぎながら、砂場遊びの子供のように、俺の痛みを全て掌握する彼女は、まるで悪魔か神のようだった。

 「……もうやめてくれ」

 爪も割れ、服は点々と赤くなり、どの痛みがどの打撲傷から発せられるものかまるで検討もつかなくなった頃、それは六回目のぼやきだった。全ての発音を終えるまで十秒はかかったと思う。

 汗をかき、息を切らし、腕を痛めた風に擦っていた女は「そうですねぇ」と言って、イス後と横たわった俺を起こす。助かった、と、体中浮遊感が包み込んだところで 

「じゃーん」

 間延びした女の声。手に握られていたのは、巨大な水鉄砲だった。

 朦朧とした意識の中で、俺はあまりに場違いなそれに何の感想を抱くこともできなかった。滑稽とも思わなければ、まして恐怖の対象にもなり得ない。全てをその女に委ね切った俺は、それがどう使われるのか、興味さえ、なかったのだ。

 頭上から真下に発射されたそれが、全身をくまなく濡らして行く。その時間は偉く長く、感じられた。

 満足げに頷いて、それから女は俺の後ろに回った。

 「こちょこちょこちょこちょ」

 愉快そうに、女は言いながら、俺をくすぐった。

 何が何だか分からなかった。くすぐったさから身をよじり、体中の筋肉を躍動させる。

 「いひひ。あはは。あははは」

 空気を吐き出しながら、俺は笑い転げた。しかし体の自由は無い。ガムテープに阻まれた抵抗はむなしくて、悪戯に体力を吸うだけ。

 「あひゃ、あはははは。あはっ。あはっあはははは」

 テープでがんじがらめにされた中、限られた範囲で十の指から身をよじる。暴れても暴れても、全身を這い回る不快感がどうにかなるものではない。脊椎反射的に動いてしまう筋肉は軋んだような悲鳴をあげ、喉は焼けたように、肺には砂が埋まっていくような痛みを訴えた。

 「いひひ。いひゃひゃひゃひゃっ!」

 肺と喉に筋肉が少しずつ壊れていく。コンクリのブロックで撃たれる苦痛など比較にならなかった。最初に水をかけたことに意味があるのだろう、肉体は硬くなるばかりで、弾力の無いそれには簡単にひびが入り、欠損し、冷えた血液は少しも体を癒さなかった。柱の折れた建物のように、俺の体はたやすく決壊し、意思は徐々に霧散する。

 「あああああああああああああああああっ!」

 体力が体力が根こそぎになる。俺は生命の危機を感じた。このままでは全ての力を使い切って果ててしまう。限界が来てしまう。涙が溢れ、唾液が顔中を濡らしていた。服に染み込んだ液体が、皮膚から避けて出た自分の血であるように思えてならなかった。歪んだ視界、耳を打つのは金属が壊れる様な高い音、俺を擽るのは正真正銘の、悪魔の指。

 「もう猫をいじめませんか?」

 女は手を止めて、俺にそう聞いてきた。

 「ああ」

 その『ああ』は、まさしく声にならぬ叫びというべきものだっただろう。

 「そうですか」

 女は満足げに笑った。

 肉の中に、細い指が進入する。そして素早く不規則に、動く。

 「こちょこちょこちょ」

 「あははははは。あははは。あはっ。いひひ。いひひひひひっ。あひゃ! あはっ。いいいいいいいいいいいいいいいっああああああああ! ひひひひひひひひひひひひ」

 壊れる。俺が壊れる。体中から力が抜ける。それでも俺は暴れる。声を出す。

 死ぬ。

 俺は気を失った。


 顔に冷たいものがふりかかる感覚。目を鼻を耳を、鋭く水が突き刺さる。

 「ゲボっ」

 水を吐き出して、堰いて、堰いて、俺は覚醒した。顔に水をかけて、意識を呼び覚ましたその始終笑いっぱなしの厚顔無恥は、あの変態……

 「おきましたねぇ」

 水面に落とした絵の具が形作ったような、そんな幻覚は容易く水の中に埋没した。

 「では再会します」

 悪魔のささやき。女の指が俺の体をまさぐり始めた。


 と、いうのが何度も繰り返された。

 「良く生きてるねぇ」

 西条の感想はまったく正しい。最後の方はもう向こうが何もしなくても俺全身痙攣させてたぞ。

 「でも自業自得だろう? 結局、君が可愛い猫ちゃんを殺しまくってたのが悪いんだから。誰に話したところで、同情の予知も見付からないという判断を下すことだろう」

 言って、西条は笑う。俺は反論する気にもならなかった。何が悪いとか誰が悪いとかそんなのはもうどうでも良い。一刻も早く、あの生き地獄を忘れてしまいたい。

 まあ、無理な話だろう。せいぜい、障害が残らないことを祈るばかりだ。

 「しかし話を聞く限りでは結構喜劇だよね。重たい鈍器よりも、女の子の細指が怖いなんてさ」

 あくまでもおかしそうな西条。

 「るっせーよ」

 と、俺の口から、ようやく言葉が出た。

 「とんだ目にあった、なんてもんじゃない。これは多分、人生の最後に走馬灯のように出現するいくつかのシーンの一つに選ばれる出来事だろうぜ。或いは、このことが俺の人格を揺らがせてしまうかもしれない」

 「それは悪いことじゃないさ」

 あくまでも、他人事を嘲るように微笑み続ける西条が口を挟む。

 「君の人格がこれ以上劣化することなんて有り得るのかい? そっから言うと、動物虐殺の鬼畜生野郎には丁度良い荒療治になった」

 「……おまえこそ、いっぺん誰かから拷問を受けてみると良い」

 嘆息する元気も無く、俺はその場に転がった。体中の裂傷や打撲傷が悲鳴をあげる。

 「助けてくれたことには感謝する。ありがとう。だが、俺は今、立てないし、動けん、よって家に帰れん。もう放っておいてくれ」

 「そうはいかないよ」

 西条はそう言って、ゆっくりと立ち上がる。気雑多らしい仕草で俺に手を差し伸べた。

 「始末屋を呼んだ。例の死体はすぐに片付く。だが、そいつの姿をお前に見せるわけには行かない」

 肩を竦め、それから二階を指差す。

 「なんだって? 始末屋? それは何の比喩だ。おまえにはそんな便利なパトロンがいるっていうのか?」

 「いるんだよ。まっこと残念なことにね」

 西条は再び肩を竦めた。こいつにしては、わざとらしくない、自然な仕草である。

 「ぼくには便利な知り合いが多くいてね。電話をかければ名探偵、手紙をよこせば殺し屋が飛んで来る」

 「まさか」

 俺は鼻を鳴らした。

 「まるで頭の悪いライトノベルみたいな設定じゃねぇか」

 そう言うと、西条は皮肉っぽく両手を晒してみせる。

 「いいかい霧崎? この世界なんて、頭の悪いライトノベルみたいなもんなんだよ。何事においても、実力があるのは可愛い奴だし、何事においても、幸せなのはキャラが濃い奴さ。ただ違うのは、どんな場所であれ、まともな展開がまともに進行することはないし、結末なんて一生待っても訪れないということだろうね」

 「相変わらずの詩人気取りめ」

 俺が最大級の皮肉を込めて言った。西条は俺の言葉を甘んじて受けたように、小さく笑って、それから取り繕うように

 「詩といえば。この間、大宮港の詩集を公園で買えたんだよ」

 などと口にした。

 大宮港?

 頭の中に名前を転がしてみる。脳味噌は割合まともに動くらしく、検索し終えるのに大した時間はかからない。

 「ああ。あのナミなんとかの兄貴だな」

 公園で詩集を売っていた中学生で、俺の全身を擽りまわしやがった襲撃者。件の詩集の筆者は彼女の兄で、その名前は表紙に小さく書かれている。

 俺がこいつに話したというのに、すっかり忘れてしまっていた。

 「うん。まあ彼がどういう人物なのかは、詩集の内容を持ち出せばすぐ。なかなか良くできている。大した情緒の持ち主だ。世界のことが大好きな皮肉屋って感じだね。その割に自分のことはあまり好きそうでない」

 「そんなところだろう」

 どうしてわざわざこんな状況で、どこに住んでいるかも分からない文学少年の話をしなくちゃいけないのかと思う。こいつのマイペースをこんなに鬱陶しく感じるのも初めてだった。

 「ところで、ぼくが最も印象に残ったのは、最後の詩なのだけれど」

 「ああ。あの、ページ一杯に『大宮さん』とか書いている訳分からん奴だな」

 二階に繋いどいたあの女が妙に気に入っていた奴だな。他の詩は全部破り捨てても、あれだけはちゃんと畳みの裏に隠して大事に持っている。たまに音読までしていやがるらしい。まったく困りものである。

 「ところで、その始末屋というのはいつ来る?」

 この建物に誰かが入るのなら、あの女をどうにかしないことにはまずい。場合によっては、西条に打ち明けることも覚悟しなければ。

 「おや? もしかして、ぼくの人脈を信じる気になったのかい?」

 「ここでおまえが嘘をつくように思えん。……そうだ、名探偵とやらとコネがあるんだろう? そういう繋がりだかは知らない。例の死体、あれがどうやって殺されたのか調べてもらえないか?」

 西条は意外そうに俺を見る。

 あの日、俺と西条はいつものように、入り口の扉と鍵を閉めてから階段まで歩き、二階へ上がった。で、今度一階に降りてきてみると、階段の前には女の死体が出現している。

 「ちょっとしたミステリだよね」

 楽しそうに、西条は言った。

 「でもそれなら、我が部が誇る名探偵が既に解決してくれている」

 「もう話しているのか? 言い出しておいて難だか、それは大丈夫なんだろうな? 誰かに口外されちゃたまらん」

 「ああ。ぼくの知る限りの手がかりを小説に書いて、部のみんなに配っただけだからね。正解者は二人。その内、それが現実の出来事だと見抜いたのは一人。その名探偵も、情報売りを営んでいるような人物だから、口の堅さについては安心して良い」

 「そうか。それなら良い」

 俺は天井に吸い込まれるような躁を感じた。

 「さっさと教えろ」

 「おまえは、何も気付いていなかったのかい?」

 西条が首を傾げる。

 「あんな簡単なトリックなら、おまえほどの脳髄の持ち主に分からぬはずがないと、ぼくは踏んでいたんだが」

 ぶつぶつ言って、それから何か閃いたように拍手を打つ。それから、西条は虚無そのもののような目を少し濁らせて、それで俺を見た。

 「死体に腰抜かして、推理どころじゃなかった訳だ」

 「生憎ね。……まったくおまえは忌々しい奴だ。へらへら抜かしてないで、頼むからその名探偵とやらの推理を俺に聞かせろよ」

 「そう期待するなよ。まったくローレベルのチープトリックさ」

 西条は面倒そうに、まずそう口にした。皮肉だろう。自分の言いたいこと以外を言う時は、こいつは微かに、ほとんど誰にも分からないくらい僅かにだが、不愉快そうになる。

 「犯人は死体をこの廃墟の天井裏に捻じ込んだ。そして、老朽化した木材が徐々に軋みをあげて、ちょうどぼくらが上で楽しく談笑している時に、メキメキドグシャ。天井が割れて死体が床に落下って訳。簡単だろう?」

 「……なんじゃそりゃ」

 納得と同時に、僅かな眩暈。

 「ま。廃墟の中に殺人犯がずっと隠れていたって説のが正統派だろうけれどね。二階の天井に穴が開いていたことを考えれば、どっちもどっちってところ?」

 「……どうして、二階の天井の死体が一階に落ちて来るんだよ? だいたい一階の天井は木でできてねー」

 「おまえが今えっちぃ本を隠しているあの穴は、階段の傍にあった。妙に急なあの階段に死体を置けば、どうなる?」

 俺はいつのまにか空いていた二階の天井の穴を思い出す。西条はこんな冗談を言うが、あの天井に手を届かせるには背の高い台が必要で、ものの収納にはあそこは向いていないように思う。

 しかし、あの位置。

 「……階段に体の半分でも引っ掛かるということもありうる。そうなれば、死体は簡単に一階まで転がって落ちる」

 まったく、多少混乱していたとは言え、木の屑が妙に多く床に落ちていたことで、これくらい気付きそうなもんだが。掃除したことも忘れていたのだろうか。

 俺は溜息をつく。

 「今話したのが事実なのかは、ぼくにも分からないよ。でもまあ、これくらいチープな真相でも、納得することくらいはできるんじゃないか?」

 「……かもね」

 「そういう訳だ。疑問は解決、さあ。始末屋が来るのは今日の夕方だ。さっさと動けるようになれよ、そうじゃなきゃくすぐりまわしちゃうぞ」

 「ふざけんなよ……」

 俺は眉間に繭を寄せる。明確な怒りが現れた俺の表情を見て、西条は驚いたように

 「おやおや」

 そう言って、くっくと喉を鳴らした。

 「自分の意思を笑い飛ばして殴り飛ばしてきちんと処理するのが、おまえと言う人間の在り方じゃなかったかな?」

 くっくと、

 西条は笑う。

 「この人間失格!」

 床を強く踏みつける。ガラスの破片が飛び散った。

 「かははははははは」

 楽しそうだった。

 楽しそうに、西条は手を打ち鳴らした。建物中に響き渡る拍手の音。

 ぱち。ぱち。ぱち。ぱち。

 正確なリズム。秩序と安定。固定された何がしかが、そうでないものを思うその表情。

 「やめろ」

 それは俺が一番嫌いなものだ。

 「げらげら」

 拍手がやんだ。

 だが、西条は笑うのをやめない。

 「げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら」

 見たことが無い。こいつが、本当に楽しそうに笑うところなんて。

 その笑顔を見ていると

 気が狂いそうな、そんな気持ちになる。

 「ぎゃはは」

 腹が立った。それでも俺は、同時に愉快でもあった。

 西条は、当たり前のことと見向きもしない。

 なので、俺はそのまま笑い続けた。

 「ひ。ひ。ひぃ」

 腹が痛い。

 さっき、あの女にずっと笑わされっぱなしだったから。

 「ひ。ひ。ひひひひひ」

 苦しい。まるで地獄の痛みだ。

 「げらげらげらげらげら」

 ただ楽しそうに、ひたすら笑い続ける西条が羨ましくてならない。

 こいつは何をおもしろがって

 何を憎んで

 何を愛しているのだろう。

 まったく分からない。分からないから、ずっと、殺すことしか思いつかなかった。

 「げらげらげらげらげら」

 こいつだけだ。

 俺が、殺意を向ける気にもならなかった奴は。

 でも今は、西条も、他の連中も、アメリカの総理大臣も、歴史の教科書に載っているひげのおっさんも、猫も、ゴキブリも、床に散らばる塵芥も、この俺も、まるで同列の存在のように、そう思った。

 「ひ。ひ。ぎゃははぎゃはははぎゃあぁーっ!」

 俺は吼えた。

 何に吼えているのかは、どうでも良かった。

 「ふざけんふざけふざけ乗れが俺がオrgレアさあ子支援しえ終え殺してやる!」

 腹筋が壊れた。

 その場で立ち上がる。両足は意外な程、良く機能した。

 腕を振り上げる。

 西条の左手の拳が、俺の顔面を突いた。

 「きゃははははは!」

 後ろに吹っ飛ぶ俺に、西条は愉快そうに一歩近付いた。

 「げらげらげらげらげら」

 踏む。踏む。踏む。踏む。

 コンクリートブロックに比べると遥に稚拙な暴力だった。

 「げらげらげらげらげら」

 俺は床に散らばるガラス片を掴み取り、握りつぶす。手から血が出る。知ったことじゃない。俺はそいつを、西条の顔面に向かって、思う様投げつけた。

 「……っ! きゃはは!」

 西条は必要もないのに一歩引いて、それから腕でガラス片を防御する。その隙、俺は西条の脚にしがみ付いていた。

 次の瞬間、腹に衝撃が到来する。

 殴る、蹴る。あまりに単調で、容赦の無いその攻撃。俺は屈辱も、恐怖も、苦痛も、何も感じず、ただそれがそこで起こっていることを認識していた。

 「なぁ。霧崎」

 電源を切ったように、そこで西条は笑うのをやめた。

 「おまえは、心の底から、幸せになりたいと思うか?」

 床に転がった俺を見下ろし、そんな質問をする。

 「質問の意味が分からないな」

 俺が言うと、西条は首を振って

 「一番聞きたくない言葉だったよ」

 肩を竦める。

 「でも、絶対にそう答えると、思っていた」

 「……じゃあ何で訊いた?」

 絞り出した声。

 「質問の意味が分からない」

 「そうかい」

 俺は笑う。

 「今日は、本当に良く笑う日だった」

 「知っているかい霧崎。自尊心がなきゃ人は少しも笑えないんだ」

 「へぇ」

 「猿は敵を威嚇するのに歯を見せるだろう? でも、虫歯の猿はそれができないから、喧嘩になったらただ逃げる。そんな欠陥品がどうなるかって、とどのつまり、淘汰さ。大自然に駆逐される」

 心底忌々しいと言った風に、西条はそれだけ言った。

 「お望みどおり、放っておいてあげることにする。それじゃあね」

 「そうかい。ところで、おまえ。指輪は置いていかないのか?」

 西条は薄く笑う。

 顔を歪めた、と、そう表現した方が的確だったかもしれない。

 「何のことかな?」

 いつもどおりの、明るく飄々とした声だった。

 「そうかい。じゃあな変態」

 「達者でね。さようなら、霧崎」

 扉に向かう足取りは、それはまるで何者かに操られているようで、

 多分あいつの場合、その操り主と言うのは、自分自身なのだろう。

 理解不能な、変態野郎だった。

 「さて」

 俺は残りかすの気力体力で無理矢理立ち上がる。

 「残り二つ。さっさと清算してやる」

 読了ありがとうございます。

 安定しない投稿ペースとなっておりますが、これからもお付き合いくださると幸いです。

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